かじやんのヒット曲&チャートレビュー

ヒット曲を聴き続けて40数年! かじやんがお送りする、「今」のヒット曲&ヒットチャートから、「あのころ」のヒット曲&ヒットチャートまで、ヒット曲について幅広くご紹介するブログ。 自主チャートサイト"THE HITCHART NOW AND THEN"の支店ページという位置づけにいたします。

Johnny

$百萬BABY / Johnny

1982_07_$百萬BABY_Johnny


今回の1曲セレクトは、「$百萬BABY」Johnnyです。

まずはデータです。

・タイトル    $百萬BABY
・アーティスト  Johnny
・作詞                松本隆
・作曲      Johnny
・編曲      Johnny
・リリース日   1982年6月23日
・発売元     キング
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   33.8万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 4位
・ベストテンランクイン期間:1982年7月26日〜8月16日付

既に1曲セレクトに書いてて当然・・・と思うんだけどまだ書いてなかった曲。
以前も、こんなシチュエーションで引っ張ってきた曲って、何曲かあったと思うんだけども、今回引っ張ってきた曲は、まさにそんな曲ですね。

Johnny  「$百萬BABY」。

1982年夏。オリコン1位を獲得したこの曲をよもや、まだ書いてなかったとは。。。。

もしかすると以前書こうと思ってたけども、You tubeに動画が落ちてなくて、保留にしたまま忘れてたのかも。。。。

いずれにしても、うーむ、不覚。。。。


この曲、個人的には思い入れがあるんだよなぁ。 思い入れというか、この曲を聴くと、はっきりとあの当時の風景がフラッシュバックするんだよね。

この曲がヒットしてた時って、丁度、福島の「いわき」から千葉に引っ越してきたときでさあ。
引っ越し前日、当時住んでた、いわき の家の庭で、当時の友達みんなでお別れバーベキューをやったんだよ。当初は有志だけでやる予定だったんだけど、気が付いたら、同級生ほとんどみんな集まっちゃって、凄いことになったのを覚えてるな。

その夜、先に大方の家財道具を送っちゃって、ガランとした家の「居間」に家族3人川の字に布団を敷いた傍らに、当時使っていたSonyのラジカセを置き、裸電球1つの薄暗い部屋でTBSラジオの「ザ・ヒットパレード毎日がベストテン」を聴いた。

たしか1982年7月5日月曜日、「ニューミュージックベストテン」の日だった。 
そして流れてきた、Johnny「$百萬BABY」

初めてこの曲を聴いたのも「ザ・ヒットパレード毎日がベストテン」だったと思う。
いい曲かどうかは、よく分かんなかったけども、なんか刺さったのを覚えてる。 
当時の不安な心境と、どことなく哀愁を感じるこの曲の曲想がシンクロしたんだと思う。

「いわき」という土地柄、TBSという東京からの電波に、いつもは雑音越しで聴いてたこの番組が、あの時は、やけにクリアな音で聴けたのが印象的だったな。

この曲を聴くと、決まってフラッシュバックするのは、あの引っ越し前日の夜の光景だ。

夕方、みんなでやったバーベキューの時は、ワイワイ楽しかったけど、ガランと何もない部屋で家族3人だけになると、急に不安になったのを覚えてるな。

父親の仕事の関係とはいえ、かなり急に決まった引っ越しだったし。千葉なんて、全然知らない土地だったし。 これからどうなるんだろう? っていう不安のほうが大きかったんだよね。

実際、不安が的中というか、千葉での生活は暫く馴染めなくてさ、友達も出来ないし、ずっと いわきに帰りたいと思ってた。 そんな悶々とした生活をしばらく送ることになるんだけども。

千葉に越して来てすぐに始まった夏休み。友達もなく、悶々とした生活の中で、毎日、兎に角ラジオばっかり聴いてたのよ。朝のワイド番組から、夜、寝るまでずっとかけっぱなしだったような気がする。

ラジオから流れてくる音楽が唯一の友達だったな。 アイドル、ニューミュージック、演歌、洋楽・・・とにかく何でも聴いてたと思う。

いずれにしろ、1982年という、あの不安で孤独な夏の体験が、今の「ベース」になっていることは間違いないんだよね。 あのころ聴いてた音楽の曲数に比べると、最近聴いてる曲数なんて「屁」みたいなもんだもの。

あれから39年。 
いわきに住んでた年数よりも千葉に住んでる年数が、ついに3倍になってしまいましたわ。。。
あの時の不安は、時が経つにつれていつの間にか忘れちゃったけど、夏の暑さと湿度の不快さは、あの時のまんまですね。 特にこのジトーっとした湿度は何年たっても慣れない。
「いわき」は東からの海風が入るので、夏でもこんな不快な湿度の日はそれほどない。 夜は雨戸閉めないと寒いくらいだったし。当然クーラーを使ったこともない。
まあ、当時より確実に気温が上がった今では、分からないけど。。。



うーむ、また話が脱線してきたぞ。。。。

この曲のリリースは1982年6月23日
当時の定期のリリーススケジュールでは、20日前後のリリースは、21日リリースというのが通例()だったことを考えると中途半端で変なリリース日設定になっているけど、これは、まあ、いわいる「オリコン対策」ですね。

当時、リリース直後の初動の動きが大きくなりつつあり、オリコン初登場でいきなり最高位という曲が増えてきていたんだよね。
それと共に「オリコン初登場1位狙い」の曲も増えつつあってさ。 当時の、まっち先生やトシちゃんのジャニーズ勢はそうでしたね。 
オリコンの集計期間に合わせたリリース日設定。だから、まっち先生もトシちゃんも通常の定期リリース日ではなく、臨発的な変なリリース日が多いんだよね。

そんな流れに銀蠅一家も便乗した() かどうかはさだかではないけど、銀蠅一家関係のリリース日も、オリコン対策を行ってきていたのか、臨発的なリリース設定のシングルが多い。

そんなオリコン対策がぴったりと嵌ったのか、前曲「ジェームスディーンのように」で最高位3に甘んじたけど、この曲は、見事オリコン1位を獲得する。

まあ、運も良かったんだけどもね。
前週まで4週連続で首位を守ってきていた、岩崎宏美「聖母たちのララバイ」の売り上げが下がりつつあったのと、まっち先生の「ハイティーン・ブギ」が初登場する「間隙」のタイミングというのもあった。

まさか、そこまでチャートアクションを読んでのリリースだとしたら、銀蠅一家はかなりしたたかな計算をしていたな・・とも思ったりするんだけども。。。さすがにそれはないか。。。。

この曲のオリコン1位獲得に続いて、8月には弟分の嶋大輔「暗闇をぶっとばせ」もオリコン1位を獲得と銀蠅一家ブームは、この頃がピークでしたね。

ただ、このピークを境に急激に「ブーム」は終焉に向かったわけで・・・。 いや、今思えば、あの落ち方は、少なくとも1982年の今頃には、全く予想もしてなかったですけどね。。。。

時代の流れは速いのよ。やはり、「つっぱり」というコンセプトだけでは、きつかったんだよね。

飛びつくのが早いけど、見捨てるのも早い。 

この時の「落ち方」を見ると、日本人特有の「性」を感じてしまいますわ。

それ以前に、銀蠅一家の宿願だった、オリコンシングル1位獲得を達成して、目標を失ったっていうのもあったのかもな。
本来だったら、Johnnyというソロプロジェクトや、嶋大輔という弟分ではなく、銀蠅本体で達成する大前提があったと思うんだけども。。。




ところで、この曲、作詞が「松本隆」氏なんだよね。

でも、この間の「トリビュートアルバム」には、この曲入ってませんでしたね〜。 オリコン1位獲得曲なのに
松本隆氏も忘れてましたかねぇ〜  それとも今では無かったことになってますかねぇ

個人的には、それこそ、宮本浩次氏とか、銀杏BOYZの峯田和伸あたりに歌ってもらったら面白かったかも・・なんて思うんだけとな。


まあ松本隆氏が、どういういきさつで、銀蠅一家と繋がったのか・・・というのは、よくわかんないけど、いきなり、この曲の作詞・・・というのは、当時でも結構意外な感じがしたな。

この頃になると、さすがに作詞、作曲者について興味を持つようになってたんでね。松本隆氏が、まっち先生の一連のシングルを書いてること、この曲の前年の「ルビーの指環」を書いてること、松田聖子さんの一連のシングルを書いてること・・くらいは気が付いてたしね。

まだ、その昔の「はっぴえんど」のドラマーだったことなど歴史的なところは知らなかったけど。。。

いわいる「はやり歌」としての当時の一番手の作詞家であることは、気が付いてましたね。

そういういわいる「はやり歌」系の人が、なぜに「自作自演」のニューミュージック系である銀蠅一家に曲を書くっていうのが、不思議だった。

たしかに、前年、南佳孝氏の「スローなブギにしてくれ」であったり、大滝詠一氏の「ロング・バケイション」の一連の曲を作詞していたことから、「自作自演系」に詩を提供していた実績がある事には気が付いていたけど、どうも、銀蠅一家とは結び付かなかったんだよなぁ。

もっとも、銀蠅の弟分である紅麗威甦の「ぶりっ子ロックンロール」のアレンジに若草恵氏を起用したり、妹分の岩井小百合にも馬飼野康二氏を起用したり、「歌謡界」ともつながりを持っていた銀蠅一家だったわけで、もしかすると、ここに松本隆が出て来ても不思議ではなかったのかもしれないし、それだけ、この曲に賭けてたということなのかもしれないな。
そそそ、それだけ、本気でオリコン1位獲りに来たってこと。
で、結果的にオリコン1位獲れたしね。


蛇足だけど、、月刊・明星の歌本「YOUNG SONG」、1982年8月号の「新曲激評」でのこの曲の評として、近田春夫氏は、「ぜ」の使い方が上手いねと褒めてましたね。

へぇ、近田氏が褒めるなんて珍しいね・・・と思ったけど、この号の前月号で、ほとんどの曲をケチョンケチョンに酷評したんで、その反動だったかもしれないけど。。。




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ドキドキHeartのバースディ・パーティ / 岩井小百合

  1983_03_ドキドキハートのバースディパーティ_岩井さゆり


今回の1曲セレクトは、「ドキドキHeartのバースディ・パーティ 」岩井小百合です。

まずはデータでする。。。

・タイトル     ドキドキHeartのバースディ・パーティ
・アーティスト      岩井小百合
・作詞       翔
・作曲       Johnny
・編曲       馬飼野康二
・リリース日    1983年3月9日
・発売元      キング
・オリコン最高位 20位
・売上げ枚数   6.5万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 22位


1週間ぶりのご無沙汰でした。。。 などと、まるで「ロッテ歌のアルバム」での玉置宏氏のような書き出しになってしまいましたが。。。
うむ、1曲セレクトもすっかり「週末更新」の様相になっちゃいましたねぇ。。。うーむ、平日も更新したい・・・っていう頭はあるんですけどねぇ・・・。 相変わらず腰が重いワタシだったりします。。。
 ま、世間は3連休ですからねぇ、この期間は出来るだけ、更新したい・・・と頭では思っているワタシです。。

さてさて、今回は何を書くべーな。。。
・・・などと思ってたら、今BS日テレで、1983年のベストテンなんぞやってる。。。 日テレで「ベストテン」ってコトバはねぇだろ・・・日テレっちゃ「トップテン」だろ。。。。なんて文句言いながら見てるんだけども。。。

ああ、そうだ、丁度いい ちょっと前に思いついた曲を持って来ますか。

岩井小百合「ドキドキHeartのバースディ・パーティ 」

ふむふむ、1983年の今頃のヒット曲  いつものごとく、至極発想は安易なワタシどぇす。。


・・・などと、書き始めたのは良いですが。。。  今となっては、この曲を覚えている方ってどの位いらっしゃるんでしょうかねぇ・・・。 うーむ、疑問だ。。。

・・・といっても、目ぼしい曲が減りつつある今となっては、オリコンベスト20に入ったこの曲も「貴重」な曲なので。。。

ふむ、この曲は岩井小百合さんにとって、デビュー第2弾シングル。

・・・とか書いて、もしかして岩井小百合さんも知らない方も多いかなぁ。 
最近でもたまにレポーターとして、テレビに出演してたりするんだけどさ。 1983年、昭和58年、期待の新人として、1月に「ドリーム・ドリーム・ドリーム」でデビュー。
いきなり、オリコンで最高19位。売り上げも10万枚突破と、期待の新人として、まずは成功だったわけですわな。

・・・つか、「ドリーム・ドリーム・ドリーム」は昔書いてたんだけどさ
↓ コレ
http://livedoor.blogcms.jp/blog/kajiyan0777/article/edit?id=52012914

ま、このデビュー曲続く、第2弾シングルつうわけで。。。

ただ、当時シングルは、いわいる「3ヵ月ローテーション」でリリースするのが「通例」の音楽業界・・・つうか、レコード業界にあって、この曲、前曲から2カ月で、早くもリリースされたんだよね。
 しかも、次の「いちごの片想い」は、この曲の次月の4月リリース・・・と、 当時の感覚で言えば、まあ、なんて「矢継ぎばや」にリリースするんだ〜・・・って感じだったよな。それだけ期待の新人って事だったんでしょうね。

というか、リリースされた83年3月の時点では、まだ、デビュー曲の「ドリーム・ドリーム・ドリーム」の頭でいましたからねぇ、当時のラジオのチャート番組では。

だからなのか、正直、当時、この曲はあんまり真剣に聴いたような記憶が無い。

確かにラジオでは聴いてたような気がする。うん、例の「決定!全日本歌謡選抜」では、結構流れてた・・・ような記憶がある。

でも、真剣に聴いてなかった・・・っていうのは、もしかしたら「ドリーム・ドリーム・ドリーム」より、引っかからなかったのかもな、この曲。

ウラを返せば、「ドリーム・ドリーム・ドリーム」は、結構好きだったんだよね、個人的に。
なんと言っても、このヒトの声質がねぇ、当時としては新鮮な感じだったし、古臭い曲調とマッチしていたし・・・。

この「ドキドキHeartのバースディ・パーティ」はと言えば、曲調がさあ・・・・。ダサいんだよね。

いや、本来、ダサい曲、大好きなワタシなんだけども、それでもどうも引いちゃうんだよな・・・。

まあ、タイトルからして、思わず引いちゃったんだけどね。

それに加えて、銀蝿のアニキたちが、あの「ダミ声」で、 ♪サユリちゃ〜ん♪ って親衛隊よろしくコール入れちゃったりしてるじゃん。

思わず 「うわっ ダサッ」って感じだったんだよなぁ。

このダサさ、シングルのA面というよりもB面・・・って感じだったんだよね。 曲調的に「ココ」という見せ場がないし、インパクトも今一つ弱いしね。

あ、そそそ、岩井小百合さんって、「横浜銀蝿」の「マスコットガール」としてデビューしたアイドルだったんでね、当然、曲も当初は銀蝿のアニキたちがとっかえひっかえ書いてたんだよな。

まあ、どういう顔して「アイドル」だった、岩井小百合さんに「ツッパリ」銀蝿のアニキたちが曲を書いてたのか・・・って想像すると、ちょっと笑えるんだけども。。。
ただ、銀蝿解散後、Johnnyはキングレコードでアイドルの原石の発掘、TAKUも日音(音楽出版社)で同じような仕事をしていると言う事を考えると、この辺りから「その道」の勉強はしてたんだな・・・って言うのも分かったりしてね。


で、そんなインパクトの弱い、岩井小百合さんの第2弾シングルだけど、なぜか、今、手元に音源があるんだよな。
いつ買ったんだ  って感じなんだけどさ。。。

この曲ね 出だしAメロからいきなり 

♪ Shake hand  もじもじ しないで〜 ♪ っていうサビから始まるんだけどもね。

デビュー曲と同じく、舌たらずのベイビーボイスなんだけどもね、サビの ♪ Shake hand  〜 ♪ ってところの発声がところどころ「オバちゃん」っぽいんだよな

うちのオフクロも、ばあちゃんもそうだったんだけども、息を吐き終わるくらいの発声って、どこか詰まったような感じになるじゃん。 アレっぽいのよ、この♪ Shake hand  〜♪って部分。

いや、それに気がついたのは、最近なんだよね、うん、ここ数年前。

それがなんかねぇ、妙に引っかかったんだよな。 それで、この曲の音源買っちゃった・・・ような気がする。。曲自体がいいとか悪いって言う感じではなくて。。。

こう文章に書いてみると、我ながら無駄にお金使ってるかなぁ・・とも思えたりもするんだけどさ。。。。




こうしてみると、今もコノテのアイドルって、よく見かけるような気がするなぁ。
これ34年も前なんだけど、そうしてみるとアイドルって30年来、変わってないんだよな。



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暗闇をぶっとばせ / 嶋大輔

1982_09_暗闇をぶっとばせ_嶋大輔






今回の1曲セレクトは、「暗闇をぶっとばせ」嶋大輔です。

 まずはデータです。

・タイトル    暗闇をぶっとばせ
・アーティスト  嶋大輔
・作詞      嵐ヨシユキ
・作曲      Johnny
・編曲      横浜銀蝿
・リリース日   1982年8月11日
・発売元     キング
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   28.0万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 7位
・ベストテンランクイン期間:1982年9月6日〜9月20日付

 今回の1曲セレクトは、「オリコン1位」獲得曲です。 

 暗闇をぶっとばせ /嶋大輔

・・・・え? 超メジャーじゃないって? 知らないって? こんな曲。 って言う方、意外と多いんじゃないかなぁ。今となっては。

 うーん、そうかもなぁ・・・・。 なにせ、オリコン1位をとりながら、なかなかCD化されなかったのが、この曲と、近藤真彦の「泣いてみりゃいいじゃん」って言う時期があったからね。

 まあ、なんかの都合も合ったんだろうけど、すでに忘れ去られていた可能性もないわけではない。まあ、断言は出来ないけど。
 なにせ、オリコン1位を獲得しながら、累積枚数が30万枚に届かなかった曲は、この曲以前には、1972年のニューシーカーズ「愛するハーモニー」の28.1万枚以外、1曲もない。
 
 つまり、この曲が1位を獲得した時点では、オリコン史上、「最低売上げ」の1位獲得曲だったわけだ。

 オリコンの1位を獲得すれば、少なく見積もっても30万枚以上は必ず「約束される」。それが1982年当時の当然の見方だったんだよね。言ってみれば「大ヒット」を約束される特別な位置だったわけだ。

 しかしながら、この曲を皮切りに、その見方が崩れはじれる。。。・・・っていう時代に突入したきっかけの曲って言っても良いんじゃないかなぁ。

 よく、「オリコン1位がヒット曲じゃなくなる日」とかの、論評では、「おニャン子クラブ」がいつも題材に上がるんだけど、そういう形でみると、必ずしもそうとも言い切れないんだよね。

 銀蝿一家って、横浜銀蝿を筆頭にして、目標は「武道館満杯」と「オリコン1位獲得」っていうことをよく口にしてたんだけど、「武道館満杯」って言う目標は、すでに達成してたわけで、後は、オリコン1位って言うところだったんだよね。

 それも、この曲の少し前に、Johnnyの「$百萬BABY」で達成される。

 そのノウハウを生かして、リリースされたのが、この曲っていえるんじゃないかなぁ。

 まあ、たしかに、銀蝿の人気も成熟してたところがあったし、嶋大輔も前曲の「男の勲章」で一躍メジャーになってたところもあった。

 タイミング的にはいい時期だったんだよね。

 でもさ、銀蝿一家って、口先だけかと思われがちだけど、意外と緻密な計算の上で、リリース日設定をしてたんだよね。

 まず、オリコンの集計期間を初動からいっぱいに使える日にちをリリース日にする。

 まあ、これは、今では当たり前のやり方なわけだけど。つまり、通常水曜リリースってやつですね。

 この曲は、当時から水曜リリース・・・ってやつをやっていた。

 ここでも何べんも書いてるけど、当時は、まだ発売日はオリコンの集計期間など考えないのが一般的だった。大体、毎月五十日か、21日リリースって言うのが一般的だったんだよね。

 当時、オリコンの集計期間を利用してリリース日を設定していたのは、ジャニーズぐらいじゃなかったかな。他には。
(ただし、レコード会社側からしてみれば通常リリース設定日ではないため、「臨発」扱いになっていたことが多かったが)

 それと、8月11日っていうリリース日設定ね。

 この前の週には、田原俊彦の「NINJIN娘」がリリースされている。
 その前には、松田聖子の「小麦色のマーメード」がリリース。

 つまり、当時、強力人気アイドルだった彼らの、売上げが落ちてきそうなところを狙って、リリースしたってところ。

 まあ、これが、結果的には功を奏して初登場1位を獲得する訳だけど・・・。

 ただし、1週ずれてたら、あみんの「待つわ」が急激な売上げアップになってたんで、ちょっと危なかったんだけど・・。

 タイミングが良かったわけだ。。


 ただし、戦略的な1位狙いな曲は、概して短命に終わるような流れになる。
 結局さ、初動でファンはほとんど買っちゃうから、後が続かないんだよね。
 これは、今でも全く変わらない。

 ただ、当時は今ほど初動集中傾向はなかったから、それでも、ベストテン内を6週キープしている。
 ただし、その後は転がるようにランクは転落してったけどね。


 曲の方はなんていったら良いのかなぁ。なんかさ、このころになると、詩の内容が道徳的になってくるんだよね。
 単なるツッパリでぢゃなくて・・・。「人のみち」を解いてるような・・・・。

 ♪ 男の勝負はいつでもマジだぜ Do Your Best ファイナルカウントまで〜 ♪

 とかさ。

 なんか、当初の銀蝿の傾向とはちょっとずつズレてきてたような・・・・。

 まあ、その辺は、当初からのファンも気付いていたんだろうね。嶋大輔もこの曲を頂点に、次の曲では、いきなり売上げがダウンしたのよ。

 この落差は、結構凄かったけどね。

 83年に入ると、早くも「ツッパリ」っていうコンセプトも「ダサい」モノになってたんだよね。


でもさ、1位を獲得しながら、「短命」に終わった曲は、何年かたつと忘れら去られちゃうもんなんですよね。この曲がいい見本じゃん。
 それを考えたら、現在の曲は、あと10年も経たないうちに、忘れられちゃう曲ばっかなんだろうな。

 これ、作り手はどう思ってるんだろうね。それでも「今」売れればいいんでしょうかね。



どうも、本人が歌っている動画が無かったんで、レコード音源のモノを。。


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ジェームスディーンのように / Johnny

1981_11_ジェームスディーンのように_Johnny







今日の1曲セレクトは、「ジェームスディーンのように」Johnnyです。

まずは、データでーす。

・タイトル    ジェームスディーンのように
・アーティスト  Johnny
・作詞      Johnny
・作曲      Johnny
・編曲      T.C.R.横浜銀蠅.R.S
・リリース日   1981年11月18日
・発売元     キング
・オリコン最高位 3位
・売上げ枚数   50.2万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 2位
・ベストテンランクイン期間:1981年12月7日〜1982年2月8日付
・タイアップ   TBS系ドラマ「茜さんのお弁当」主題歌


 さて、久しぶりに1981年の曲を引っ張って来ました。
 これまで、あんまり、引っ張っては来なかったけど、81年っていったら、「ツッパリ」ブームだったんですよねぇ。
 前、夏に「なめんなよ」を紹介した時も書いたけど、「ツッパリ」って言うのは、「ブーム」を通り越して、「ファンシー」にもなってたんだよね。
 それだけ、既に一般にも入り込んでいたって言うかね。
時に、全国的な校内暴力が荒れてたわけで、まあ、みんな欲求不満が溜まってたんでしょうねぇ。
 同世代・・・正確には、若干、ワタシらよりは、年上の世代なんだけど、まあ、ヒトの事は言えない世代ですわね。ワタシらも。

 その中心グループだったのが、横浜銀蝿ですわね。この年の1月にリリースした、「ツッパリHigh School Rock'n Roll(登校編)が大ヒット。一躍、ツッパリブームが広まったわけですわ。
 曲は、今聴くと、どうってことない、3コードの単純なロックンロールなんですよね。
 でも、たしかに、シンプルでスピード感はあるんですよ。バイクで飛ばしているあの感覚っていうのかな?
 車でも同じですね。この曲聴きながら、車運転してると、ついつい飛ばしたくなっちゃうもんねぇ。

で、その横浜銀蝿のリードギターが、このJohnnyだったんですよね。
 グラサンしてるから、よくはわからないけど、甘いようなマスクは女性人気が高かったですよねぇ。
 で、どういう経緯で、ソロに踏み切ったのは、よく分からないけど、この「ジェームスディーンのように」のリリースとなったわけです。
 
 この曲、銀蝿関係としては珍しく、ドラマの主題歌なんだよね。TBS系の「茜さんのお弁当」。
 ワタシも実際、あんまり見たことないんだけど、たしか、このドラマで銀蝿一家の嶋大輔とか、杉本哲太がデビューしたんだよね。
 まあ、両者とも地のままのツッパリ役だったけどさ。
 でも、後年っていうか、今、嶋大輔がリバイバルになったり、杉本哲太なんて、大河ドラマにも出演するくらいの大物役者だもえねぇ。 
 変われば変わるもんだよなぁ。あの時分、こんなになるとは思ってもなかったし・・。ウタだめになったら、ただのチンピラにしかなれないと思ってましたよ。

・・・と前置きはこのくらいにして、「ジェームスディーンのように」ですが、確かに、基本はロックンロールの流れを汲んでるんだけど、もっとロックというか、大衆性に富んでるんですよね。
 銀蝿は、いかなる場合でも3コードのロックンロールを貫いていたけど、この曲は、そのようなこだわりは一切なし。
 シンプルなんだけど、キャッチーなメロディラインが印象的だったんだよね。

しかも、サビから始まる構成も、結構斬新だったしね。

♪ おいで     Come On Come On Come On
暗い目をして  Come On Come On Come On
  すねていないで Come On Come On Come On
  走り出そうぜ  Come On Come On Come On  ♪

ってところが核でしたよね。
 最後の ♪Come On  Come On  Come On ♪のところのハーモニーが個人的には一番、好きなところだな。
 こう、文字でかいても、構成的には、すごくシンプルなんですよね。
言って見れば、子供でもかけそうな詞なんだけど、でも、実際やるところが銀蝿らしいんだけどね。  

 こう書くと、いかにもシンプルなロックンロールしか書いていないかっていうと、そうでもないんだよね。
 例えば、この年1981年の7月にリリースされた、西城秀樹の「セクシーガール」なんてのは、横浜銀蝿の作詞、作曲だしね。ああいう、歌謡曲っぽいメロディも書けるんだよね。
 このヒトたち。

 うーん、どちらかというと、この「ジェームスディーンのように」もあのメロディラインにちかいかもなぁ。
 それだけ、ロックでありながら、歌謡曲よりのキャッチー路線だったって言うわけです。


 ああ、そうそう、個人的に、この曲で思い出すことが一つあるんだよねぇ。
 丁度、同じ時期に、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」がバーッと大ヒットしてきたんですよ。
 例の「ザ・ベストテン」では、この曲と、「セーラー服と機関銃」の1位争いだったんだよね。

 今でも覚えてる1982年1月14日放送。
1位 セーラー服と機関銃     9156点
2位 ジェームスディーンのように 9019点

その差がわずかだったんですよ。。
 で、当時の友だちと「賭け」をしたんですねぇ。次の週、どっちが1位取るか、当たったほうが500円出す・・ってねえ。
 当時、私ゃ小学6年で、500円っていうのは、結構な大金だったのよ。まあ、時代が時代で、今だったら、1000円以上だよね。

 ワタシは、粘りの様相を見せてた「ジェームズディーンのように」を推したんだよね。
 だから、友だちは、「セーラー服と機関銃」だよね。

 結果は・・・・

1982年1月21日放送

1位 セーラー服と機関銃     8876点
2位 ジェームスディーンのように 8649点

にゃんと、逆に、「セーラー服と機関銃」が粘っちゃったのよ。。

 もちろん、私ゃ500円払いましたよ。。。

 でも、これが、親にバレてこっぴどく怒られたなぁ。 子供のくせして「賭け事」なんて・・ってねぇ。

 でも、私ゃ、そんなことより、自分の予想が外れたことがショックだったなぁ。
 あれ以来、ヒットチャートの動きをもっとよく見るようになったんだよね。
 今の、仕事は、あの時のショックの延長線上にあるような気がするんだよねぇ。

 まあ、何の因果か・・という感じもするけど、ガキの頃のちょっとした出来事が、いまに繋がっているような気がするなぁ

なんかね、「ジェームスディーンのように」を聴くと、いつもあの時のことを思い出すんだよねぇ。

 反面、だからといってはなんですが、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」は未だにキライです。。。。
 
 ウソのようでホントの話。





※2005年11月に書いたものの再掲載です。
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