かじやんのヒット曲&チャートレビュー

ヒット曲を聴き続けて40数年! かじやんがお送りする、「今」のヒット曲&ヒットチャートから、「あのころ」のヒット曲&ヒットチャートまで、ヒット曲について幅広くご紹介するブログ。 自主チャートサイト"THE HITCHART NOW AND THEN"の支店ページという位置づけにいたします。

1982年

言葉にできない / オフコース

1982_02_言葉にできない_オフコース



今回の1曲セレクトは、「言葉にできない」オフコースです。

まずはデータです。

・タイトル    言葉にできない
・アーティスト  オフコース
・作詞      小田和正
・作曲      小田和正
・編曲      オフコース
・リリース日   1982年2月1日
・発売元     東芝EMI
・オリコン最高位 37位
・売上げ枚数   3.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 33位

BSフジで放送された「輝き続けるオフコース」を見た。

1982年に開催された、武道館10daysライブの時の映像をふんだんに使用した、番組内容は、なかなか面白かったですね。

でもさ、ここでは、これまでも何回か書いたと思うんだけども、オフコースが全盛期だった1980年前後、個人的には、どうも、今一つ刺さらなかったんですよ、オフコースって。

生理的に合わなかったわけではない・・とは思うんだよね。いつも、どこかで気にはなっていた。

あれから40年以上たった今でもそうなのよ。 気になる気になると思いながらも、今一つ刺さり切れない。

何でなんだろうね。。。 その理由が知ることができるかもしれない・・

この番組を見た最大の理由はそこだったわけなんだけども。。。。



オフコースに刺さり切れなかった理由の一つとして、テレビに一切出なかった・・・・ということは、まあ、大きいだろうな。

あの頃、個人的にヒット曲の情報源としてはテレビがすべてだったからさ。 そそそ「ザ・ベストテン」ですね。

オフコースは当時「ベストテン」だけではなくテレビには一切出なかったんでね。曲を聴きたい、知りたいと思っても知りようがなかったわけで。。。。

でも、オフコースに刺さらなかったのは、テレビに出なかったという理由だけじゃなかったことは、ラジオというメディアを聴きだしてわかるんだよね。

初めてラジオというメディアに興味を持ち始めたのが、1981年の年末だったと思うな。
新聞のラ・テ欄を見てたら、TBSラジオの21時〜21時40分「ザ・ヒットパレード・毎日がベストテン」という文字が目に入っちゃってさ。聴きだしたら、これが面白い。

それからほどなくして、この「言葉にできない」がランクインしてきたのを覚えてるな。
月曜日の「ニューミュージックベストテン」だったと思う。

でも、刺さらなかったのよ。。 ・・というか、この曲の世界には入り込めなかったんだよ。


なんで、この曲の世界に入り込めなかったのか?

今回の「輝き続けるオフコース」で、盟友・財津和夫氏が語っていたコメントに、ハッとさせられたな。

「普通、僕らは、具体的な映像が浮かぶような詞を書きたがるんだけども、小田君の詞は抽象的なんだよね・・・」

そうだ、これなんだ。。。

オフコース、うんにゃ小田和正っていう人が作る詞の世界って、はっきりとした風景が見えない。温度感も感じない。 まるで抽象画的な感覚なんだよね。

片や曲想ははっきりしているのよ。コード進行にしても実に計算されているんだよね、論理的というか左脳的というか・・・。

すくなくとも、感情のままに綴られた右脳的なメロディではないと思う。

あたかも、コードという設計図の上に論理的に建築されたようなち密な音楽・・・という印象が強いのよ。無駄というか、遊びの部分を一切感じない。

wikipediaを読むと、小田和正っていう人は、オーバープロデュースが嫌いだったようだ。

余計な言葉、 余計な音はいらない。

言ってみれば隙間が多いサウンドということなんだろうけど、そういうった隙間⇒行間は、聴く人各々の感性で好きなように埋めて(感じて)もらえばいい。

この「言葉にできない」って曲は、その典型のような曲だと思うのよ。

必要最低限の音しか入っていない。 サウンドも歌詞も無駄が一切ない。 まさに極限までそぎ落とされたような曲。

それだけに、音と音の隙間、行間が多い。リスナー側にいろいろと考えさせるような音楽。

さすがは、早大大学院の建築科を出ている小田氏。音楽に対してもスマートなんだろうね。

偏差値が高い音楽というか。。。

そういう音楽が好きだっていう方には、オフコース・・・いやいや小田和正氏の曲は刺さったんじゃないのかなぁ。
とりわけ当時、オフコースのファンに外観からも知的とわかる女性ファンが多かったのは、そういう所もあったんだろうな。
女性は、こういう知的な音楽が好きな人が多いですから。1980年前後、当時はそういう傾向が今よりも強かったんじゃないかなぁ。

当時のオフコースのサウンドが洋楽っぽかったのも、行間が多い音楽だったっていうところが強かったんだろう。


逆に個人的に刺さらなかったのは、そこなんだろうな。

未だにそうなんだけども、もっと:下世話で頭悪そうな猥雑な音楽が好きだからさ。 サザンが好きなのも多分にそういう理由が大きいんだろうな。

何より、あの頃は「行間の隙間を埋める」ような音楽が好きだったから。

そそそ、この「言葉にできない」とは逆のような曲。

筒美京平氏が言われていたような、メロディとメロディの間の隙間を面白い、キャッチーなフレーズで埋めるような曲。

まあ、あの頃のアイドルの曲が主なんだけども、ニューミュージックにしても、ヒット曲は、そういう曲が多かったですからね。

こういう、行間を感じる曲っていうのは、あの頃は、個人的に理解できなかったんだよね。






なんか、大分固く、まじめに書いた割には、実際、この曲のチャート成績を見ると、「なんでぇ、こんなもんなんかい?」と思われるかもしれないな。

オリコン最高位 37位 売上げ枚数 3.6万枚

この間の「輝き続けるオフコース」でも言われていたことだけども、この「言葉にできない」は、前年12月にリリースされたアルバム「over」からのシングルカットされた曲ですわ。
シングル盤の方の売り上げが↑の程度に甘んじたのは、その影響なんだよね。
ちなみにこの曲が収録されている、アルバム「over」は、アルバムチャートで1位 売上げ41.4万枚(LP)の大ヒット。 

ほとんどの方はアルバムで買ってる・・ということで、シングルは伸びなかったわけですわ。

その前の「We are」もアルバムチャートで1位 売り上げ46.2万枚。 

アルバム20万枚セールスで大ヒットと呼ばれた時代。これだけを見ても、当時のオフコースの人気がいかにすごかったのか、人気絶頂だったのか・・というのとともに、いかにアルバムアーティストだったのかというのが分かりますな。

「We are」に続いてのアルバムが「over」。 つづけると 「We are over」   となり、これはオフコース解散を指しているんではないかと騒がれ始めていた頃。

「言葉にできない」というシングルリリースがその疑惑をより大きくさせ、にわかに真実味が出てきたように思えたのが、ちょうど41年前の今頃だった・・・ような気がするな。

実際は、オリジナルメンバーである鈴木康博氏の脱退が、このころすでに決まっており、それが、このタイトルにつながったようではあるんだけどね。



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涙をふいて / 三好鉄生

1982_09_涙をふいて_三好鉄生



今回の1曲セレクトは、「涙をふいて」三好鉄生です。

まずはデータでーす。

・タイトル    涙をふいて
・アーティスト  三好鉄生
・作詞      康珍化
・作曲      鈴木キサブロー
・編曲      鈴木キサブロー Jバクスター
・リリース日   1982年8月5日
・発売元     アルファ
・オリコン最高位 17位
・売上げ枚数   11.9万枚
・タイアップ:中外製薬「新グロモント」CM曲
・THE HITCHART HOT30最高位 18位

前回書いた、まっちの「Baby Rose」は、mixi時代を含めて、まだ書いてなかった曲ということだったんだけども、今回引っ張ってきた曲は、mixiで1度書いてんだよね。
2006年だから、今から16年前に。。。 

でも、ここのブログにはないから、この曲も移植し忘れたんだろうなぁ。。。。

それか、後々のためにとってあったか? 。。。

三好鉄生さんの「涙をふいて」

この曲、覚えてますか?

そうです、「ガンバリマース」の雄たけびが入る、「新グロモント」のCMで流れてた曲ですよ。
 ・・・って書いて、分かる人は、けっこう同年代以上だよね




1982年。丁度40年前の今頃ですよ、CMが流れ、曲もヒットしていたのは。


歌ってた三好鉄生さん。あの「ガンバリマース」の張本人ですね。
当時30歳。 で、この曲がデビュー2作目という当時のバリバリの新人だったんですよ。
 
そう、花の82年組・・・・シブがき隊、中森明菜、小泉今日子、堀ちえみ、早見優、石川秀美・・・などと、デビューは同期になるわけです。。

これ当時でもかなりの異色だったなぁ。

それにしては30歳にしてのデビューは、超遅咲きでしたわね。

 北海道出身で、それまでは炭鉱夫として働いていたというから、デビューも遅くなってしまったようでけどね。

当時はそういうパターンもあったんだよね。

「おやじの海」の村木賢吉氏も同じパターンでしたしね。まあ、三好鉄生氏の場合は、もっと若い段階でデビューでしたが・・。

 
 この「涙をふいて」って曲。
 日本の曲としては珍しいくらい、カントリーっちくな曲。
うんにゃ、普通、カントリーっていったら、バンジョー、ペケペケって感じで、明るい曲が多いけど、この曲は、ブルースっぽい、モロ黒いんだよね。間奏では、ゴスペルも感じる。
 夕陽に向かって歌ったら最高やね。いずれにしても、雰囲気的にはテキサスあたりの(アメリカ)南部のイメージですわ。

これ最初に書いた時には、全く意識してなかったんだけどもカントリーブルース。 モロですね。

その後のヒット曲には、この手のカントリーブルースを彷彿させるような曲もあることはあるんだけども、あの当時では・・・・うーん、どうなんだろう、少なくとも「ヒット曲」には少なかったと思う。

とはいうものの、当時聴いたときも、それほど強烈に新鮮さは感じなかった。。。
・・・ということは、あの当時から、この手のカントリーブルースっぽい曲は他に聴いてたんだろうな、どっかで。

まあ、このヒト自体、垢抜けないっていう雰囲気があったからですかねぇ、いや、イメージ的には、これほどピッタリなヒトはなかなかいないと思いますよ。

それに、けっこう巨漢なコノヒトの歌いっぷりはダイナミックだったしね。

 サビの ♪ 涙をふいて 抱きしめあえたら 〜 ♪は、やっぱり、インパクトは充分だったしね。

 でも・・・かなしいかな、やっぱりそれでも、あの「ガンバリマース」が先行して売れてたっていうところは拭いきれなかったわけで・・・、ヒットチャート的にはこの曲だけでしたね。

 この曲のジャケ写みても「濃い」もんね。やはり、あまり「濃い」のも・・ってところかなぁ。
 丁度時代はシティポップスっていう薄味の時代になりつつあったからね。


  

だけども、いま改めて発売元を確認すると、この曲「アルファ」からのリリースだったんですねぇ。
それこそ、ユーミン、ハイファイセットなど、シティポップスを多く輩出した、「オシャレ」なレーベルですわ。

それを考えると、シティポップスとは真逆な、カントリーブルースなこの曲が、アルファからリリースされていたっていうことも、異色だったような気がするな。

この曲から5年後、やはりCM曲だった「すごい男の歌」(サントリー生ビール)が、ロングヒットになった。
この曲はクラウンからリリースされたけど、どちらかといえば、そういうイメージだったんですけどね。 

ちなみに70才を越えた今でも、現役のシンガーです。



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夢芝居 / 梅沢富美男

1984_02_夢芝居_梅沢冨美男



今回の1曲セレクトは、「夢芝居」梅沢富美男です。

まずはデータです。

・タイトル    夢芝居
・アーティスト  梅沢富美男
・作詞      小椋佳
・作曲      小椋佳
・編曲      桜庭伸幸
・リリース日   1982年11月21日
・発売元     キング
・オリコン最高位 8位  
・売上げ枚数   48.2万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 15位
・オリコンベストテンランクイン期間:1984年1月16日〜1月23日付

少し前までヒットチャートは初登場週が最高位になり、あっという間にチャートから消えるという、いわいる「猫の目」的なチャートアクションが主流な時代が久しく続いた。
けど、ここ数年は、そんなチャートアクションはすっかり影を潜め、ロングヒット主流の時代が続いている。
CDからネット配信へ音楽マーケットの主流が交代し、それがロングヒットを生み出す一番の要因になっていたりするんだけどね。

不肖ながら、昨年、ワタシのランキングで年間1位になった優里の「ドライフラワー」は、1年以上もベストテン内にとどまっていたり、未だにロングヒット傾向は続いているわけで。

もっとも、ロングヒットの時代は昔もあった。ただ、違うのはヒットのスパンが、昔とは比べ物にならないくらい長くなっているんだよね。
昔は1年以上もベストテン内にとどまっていた曲なんてなかったわけで。。。そのロングヒット期間には本当に舌を巻くわけよ。

楽曲ジャンルとしても、今はロックやJ-POPでも超ロングヒットになる事が珍しくない。これも昔にはなかった傾向ですわ。

昔は、ロングヒットといったら、演歌・歌謡曲の専売特許のところがあったから。

・・・って、昨年、小林幸子さんの「おもいで酒」の時も、全く同じことを書いたような気がするけど。。。。

はい、今回もロングヒットな1曲です。

梅沢富美男「夢芝居」。

この曲リリースは1982年11月なんだけども、オリコンで最高位8位まで上がったのが1984年1月。 その長いスパンの間、、じわじわ じわじわ売れ続けた訳で、 果たして、いつ書こうか・・・というのを、ずっと迷ってたんだよね。

でも、まずは、最高位を記録したころに書こうか・・と待ってたんだけどさ。

だから、本当は1月頃書けばよかったんだけども、先月は頭回るくらいの忙しさだったんで、少し遅れちゃったんだけども。。。。


梅沢富美男氏、いまや、口やかましいコメントをかますオッサン。 レモンサワーのCMではレモンになりきってる、バラエティの大御所の一人ですわ。

最近のバラエティぶりを考えると、昔、下町の「玉三郎」、大衆演劇界のプリンスとして、おばちゃんたちをブイブイ言わせ、おひねりが乱れ飛んでたなんて、全く信じられないですけどね。

なにせ、女形をやらせたら、このヒトの右に出るヒトは居ませんでしたからねぇ。

そんな大衆演劇、下町の玉三郎に脚光を浴びたのが1982年頃だったと思う。

1982年6月から放送された、西田敏行氏主演、TBSの金曜ドラマ「淋しいのはお前だけじゃない」。
このドラマに梅沢氏も旅芸人役で出演し、大衆演劇の女形「下町の玉三郎」に一躍脚光を浴びたと記憶してますね。

そんな余波をかってこの年の11月にリリースされたのが、今回引っ張ってきた「夢芝居」ですわな。

ただ、一躍脚光を浴びたといっても、まだまだホンモノの全国区という所までは人気が浸透していたわけではなく、リリース当初は、レコードの売り上げは芳しくなかったわけよ。

当時ラジオ小僧だったワタシは、リリース時から、よく聴いてけどなぁ、この曲。

まあ、AM局ではよくかかってたからさあ。 この曲とか、同時期にリリースされた金沢明子さんの「イエローサブマリン音頭」とかさ 

あの頃、「夢芝居」を含め、どこか企画色の強い「演歌・歌謡曲」って結構あったんだよね。

大ブレイクしたヒロシ&キーボーの「3年目の浮気」なんかも、似たような匂いを感じてたし、森進一氏の「冬のリビエラ」なんかも、毛色は違うけど、企画的だったような気がする。

あの頃、主流は聖子さんやたのきんなんかのアイドルだったけど、一方で演歌・歌謡曲も奮闘していた時期で、ヒットチャートは、結構いろんなジャンルの曲が群雄割拠してたんだよね。


当時、中1だったワタシだけど、そんな状況の中、演歌、歌謡曲も含め、普通に聴いてたなぁ。

なんせ好奇心旺盛な時期だったからさ。ラジオから流れてきた曲は、ヒットしてるしてない、関係なしに何でもかんでも吸収してた頃だからさあ。

そんな中、この「夢芝居」。レコード売り上げは芳しくなかったけど、ラジオを中心に少しずつ支持され、ラジオからまず飛び火したのが、有線だったような気がする。

その証拠にワタシのランキングでは、1983年1月に一度ランクインしてるんだよね。 私のランキングの各要素別のランキング表が残っていないんで推定なんだけど、まずは有線で30位以内まで上昇。

その後もジワリと支持が広がり、1983年5月5日放送分のザ・ベストテンの「スポットライト」に登場する。

ただ、「ベストテン」に出演した時にはオリコンでは100位以内に入っていない。 オリコンで100位圏外だったのに、ベストテンのスポットライトに出演したわけだから、このころメディア的には注目されていたっていうのは分かりますね。

で、ベストテンのスポットライト出演後、1983年5月23日付オリコンで76位初登場。
うーん、これを見る限り、当時はやっぱ「ベストテン」の影響力って大きかったんですかね〜。
いずれにしても、この時点で、リリースから半年が過ぎてたりする。それでも76位よ。

ここからが、また長いのよね。 83年の間、ジワジワジワと少しずつオリコンの順位を上げ続けたにもかかわらず、なかなかベストテンまで到達できず。

やっとオリコンのベストテンに到達したのが1984年1月16日付。 オリコン初登場から35週目。(年末年始2週集計含む)
1983年紅白出場っていう、「紅白効果」なところも大きかったんだろうけど、レコードリリース から1年2か月でのベストテン到達は、かなり苦労の末のベストテン到達でしたわね。

まあ、当時としてもオリコン記録という所までではなかったですけどね。初登場から35週目でのベストテン到達というのは。。。。
当時のオリコン記録としては、千昌夫氏の「北国の春」の初登場以来77週目でベストテン入りというのがありましたからねぇ。

ただ、あの頃は、佳山明夫氏の「氷雨」がリリースから5年かけてベストテン入り、同じく欧陽菲菲の「ラヴ・イズ・オーヴァー」が初めてのレコード化から4年でオリコン 首位とか、いろいろな形でロングヒット、時間をかけてのヒットっていう曲が相次いで出ていた時代だからさ。

この「夢芝居」なんかも、ロングヒット・・・ならぬ時間をかけてのヒットの1曲っていう認識が強いんだよね。

まあ、今となってはリリースから1年2か月かけてのベストテン入りといっても、そんなに時間を要しているようには感じないんだけども、リリース当時、中学1年だったのに、ベストテン入りしたころは、中学3年の目前だった、あの頃は、とてつもなく長い時間に感じたのもあるんだろうなぁ。





この綺麗なお姉さんが、今や全身黄色に塗りたくって「レモン」のかぶりもんしてるオッサンと同一人物とは到底思えないですよね。 

まあ、当時もこの綺麗なお女形と、「夢芝居」のシブい声の持ち主が同一人物とは、思えなかったけど。。。。


梅沢氏今のCMは、「レモンサワー」だけど、この「夢芝居」を聴くと、「たこハイ」が飲みたくなる私だったりします。
 いつかも書いたけど、1983〜84年当時は、チューハイブームやったやん。 田中裕子さんの「たこはい」のCMが流行ってた頃。

そんなこともあるのか、この曲と「たこはい」がリンクするるんだよなぁ、ワタシ。

当時、ワタシもたしなんでいたのよ、「たこはい」。 中2だったけど。。。。

37年前・・・・時効ということで。。。 

でも、あのころから酒なんか飲んでるから、30才くらいで痛風なんかになるのよ。。。。自業自得ですわ。。。。



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$百萬BABY / Johnny

1982_07_$百萬BABY_Johnny


今回の1曲セレクトは、「$百萬BABY」Johnnyです。

まずはデータです。

・タイトル    $百萬BABY
・アーティスト  Johnny
・作詞                松本隆
・作曲      Johnny
・編曲      Johnny
・リリース日   1982年6月23日
・発売元     キング
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   33.8万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 4位
・ベストテンランクイン期間:1982年7月26日〜8月16日付

既に1曲セレクトに書いてて当然・・・と思うんだけどまだ書いてなかった曲。
以前も、こんなシチュエーションで引っ張ってきた曲って、何曲かあったと思うんだけども、今回引っ張ってきた曲は、まさにそんな曲ですね。

Johnny  「$百萬BABY」。

1982年夏。オリコン1位を獲得したこの曲をよもや、まだ書いてなかったとは。。。。

もしかすると以前書こうと思ってたけども、You tubeに動画が落ちてなくて、保留にしたまま忘れてたのかも。。。。

いずれにしても、うーむ、不覚。。。。


この曲、個人的には思い入れがあるんだよなぁ。 思い入れというか、この曲を聴くと、はっきりとあの当時の風景がフラッシュバックするんだよね。

この曲がヒットしてた時って、丁度、福島の「いわき」から千葉に引っ越してきたときでさあ。
引っ越し前日、当時住んでた、いわき の家の庭で、当時の友達みんなでお別れバーベキューをやったんだよ。当初は有志だけでやる予定だったんだけど、気が付いたら、同級生ほとんどみんな集まっちゃって、凄いことになったのを覚えてるな。

その夜、先に大方の家財道具を送っちゃって、ガランとした家の「居間」に家族3人川の字に布団を敷いた傍らに、当時使っていたSonyのラジカセを置き、裸電球1つの薄暗い部屋でTBSラジオの「ザ・ヒットパレード毎日がベストテン」を聴いた。

たしか1982年7月5日月曜日、「ニューミュージックベストテン」の日だった。 
そして流れてきた、Johnny「$百萬BABY」

初めてこの曲を聴いたのも「ザ・ヒットパレード毎日がベストテン」だったと思う。
いい曲かどうかは、よく分かんなかったけども、なんか刺さったのを覚えてる。 
当時の不安な心境と、どことなく哀愁を感じるこの曲の曲想がシンクロしたんだと思う。

「いわき」という土地柄、TBSという東京からの電波に、いつもは雑音越しで聴いてたこの番組が、あの時は、やけにクリアな音で聴けたのが印象的だったな。

この曲を聴くと、決まってフラッシュバックするのは、あの引っ越し前日の夜の光景だ。

夕方、みんなでやったバーベキューの時は、ワイワイ楽しかったけど、ガランと何もない部屋で家族3人だけになると、急に不安になったのを覚えてるな。

父親の仕事の関係とはいえ、かなり急に決まった引っ越しだったし。千葉なんて、全然知らない土地だったし。 これからどうなるんだろう? っていう不安のほうが大きかったんだよね。

実際、不安が的中というか、千葉での生活は暫く馴染めなくてさ、友達も出来ないし、ずっと いわきに帰りたいと思ってた。 そんな悶々とした生活をしばらく送ることになるんだけども。

千葉に越して来てすぐに始まった夏休み。友達もなく、悶々とした生活の中で、毎日、兎に角ラジオばっかり聴いてたのよ。朝のワイド番組から、夜、寝るまでずっとかけっぱなしだったような気がする。

ラジオから流れてくる音楽が唯一の友達だったな。 アイドル、ニューミュージック、演歌、洋楽・・・とにかく何でも聴いてたと思う。

いずれにしろ、1982年という、あの不安で孤独な夏の体験が、今の「ベース」になっていることは間違いないんだよね。 あのころ聴いてた音楽の曲数に比べると、最近聴いてる曲数なんて「屁」みたいなもんだもの。

あれから39年。 
いわきに住んでた年数よりも千葉に住んでる年数が、ついに3倍になってしまいましたわ。。。
あの時の不安は、時が経つにつれていつの間にか忘れちゃったけど、夏の暑さと湿度の不快さは、あの時のまんまですね。 特にこのジトーっとした湿度は何年たっても慣れない。
「いわき」は東からの海風が入るので、夏でもこんな不快な湿度の日はそれほどない。 夜は雨戸閉めないと寒いくらいだったし。当然クーラーを使ったこともない。
まあ、当時より確実に気温が上がった今では、分からないけど。。。



うーむ、また話が脱線してきたぞ。。。。

この曲のリリースは1982年6月23日
当時の定期のリリーススケジュールでは、20日前後のリリースは、21日リリースというのが通例()だったことを考えると中途半端で変なリリース日設定になっているけど、これは、まあ、いわいる「オリコン対策」ですね。

当時、リリース直後の初動の動きが大きくなりつつあり、オリコン初登場でいきなり最高位という曲が増えてきていたんだよね。
それと共に「オリコン初登場1位狙い」の曲も増えつつあってさ。 当時の、まっち先生やトシちゃんのジャニーズ勢はそうでしたね。 
オリコンの集計期間に合わせたリリース日設定。だから、まっち先生もトシちゃんも通常の定期リリース日ではなく、臨発的な変なリリース日が多いんだよね。

そんな流れに銀蠅一家も便乗した() かどうかはさだかではないけど、銀蠅一家関係のリリース日も、オリコン対策を行ってきていたのか、臨発的なリリース設定のシングルが多い。

そんなオリコン対策がぴったりと嵌ったのか、前曲「ジェームスディーンのように」で最高位3に甘んじたけど、この曲は、見事オリコン1位を獲得する。

まあ、運も良かったんだけどもね。
前週まで4週連続で首位を守ってきていた、岩崎宏美「聖母たちのララバイ」の売り上げが下がりつつあったのと、まっち先生の「ハイティーン・ブギ」が初登場する「間隙」のタイミングというのもあった。

まさか、そこまでチャートアクションを読んでのリリースだとしたら、銀蠅一家はかなりしたたかな計算をしていたな・・とも思ったりするんだけども。。。さすがにそれはないか。。。。

この曲のオリコン1位獲得に続いて、8月には弟分の嶋大輔「暗闇をぶっとばせ」もオリコン1位を獲得と銀蠅一家ブームは、この頃がピークでしたね。

ただ、このピークを境に急激に「ブーム」は終焉に向かったわけで・・・。 いや、今思えば、あの落ち方は、少なくとも1982年の今頃には、全く予想もしてなかったですけどね。。。。

時代の流れは速いのよ。やはり、「つっぱり」というコンセプトだけでは、きつかったんだよね。

飛びつくのが早いけど、見捨てるのも早い。 

この時の「落ち方」を見ると、日本人特有の「性」を感じてしまいますわ。

それ以前に、銀蠅一家の宿願だった、オリコンシングル1位獲得を達成して、目標を失ったっていうのもあったのかもな。
本来だったら、Johnnyというソロプロジェクトや、嶋大輔という弟分ではなく、銀蠅本体で達成する大前提があったと思うんだけども。。。




ところで、この曲、作詞が「松本隆」氏なんだよね。

でも、この間の「トリビュートアルバム」には、この曲入ってませんでしたね〜。 オリコン1位獲得曲なのに
松本隆氏も忘れてましたかねぇ〜  それとも今では無かったことになってますかねぇ

個人的には、それこそ、宮本浩次氏とか、銀杏BOYZの峯田和伸あたりに歌ってもらったら面白かったかも・・なんて思うんだけとな。


まあ松本隆氏が、どういういきさつで、銀蠅一家と繋がったのか・・・というのは、よくわかんないけど、いきなり、この曲の作詞・・・というのは、当時でも結構意外な感じがしたな。

この頃になると、さすがに作詞、作曲者について興味を持つようになってたんでね。松本隆氏が、まっち先生の一連のシングルを書いてること、この曲の前年の「ルビーの指環」を書いてること、松田聖子さんの一連のシングルを書いてること・・くらいは気が付いてたしね。

まだ、その昔の「はっぴえんど」のドラマーだったことなど歴史的なところは知らなかったけど。。。

いわいる「はやり歌」としての当時の一番手の作詞家であることは、気が付いてましたね。

そういういわいる「はやり歌」系の人が、なぜに「自作自演」のニューミュージック系である銀蠅一家に曲を書くっていうのが、不思議だった。

たしかに、前年、南佳孝氏の「スローなブギにしてくれ」であったり、大滝詠一氏の「ロング・バケイション」の一連の曲を作詞していたことから、「自作自演系」に詩を提供していた実績がある事には気が付いていたけど、どうも、銀蠅一家とは結び付かなかったんだよなぁ。

もっとも、銀蠅の弟分である紅麗威甦の「ぶりっ子ロックンロール」のアレンジに若草恵氏を起用したり、妹分の岩井小百合にも馬飼野康二氏を起用したり、「歌謡界」ともつながりを持っていた銀蠅一家だったわけで、もしかすると、ここに松本隆が出て来ても不思議ではなかったのかもしれないし、それだけ、この曲に賭けてたということなのかもしれないな。
そそそ、それだけ、本気でオリコン1位獲りに来たってこと。
で、結果的にオリコン1位獲れたしね。


蛇足だけど、、月刊・明星の歌本「YOUNG SONG」、1982年8月号の「新曲激評」でのこの曲の評として、近田春夫氏は、「ぜ」の使い方が上手いねと褒めてましたね。

へぇ、近田氏が褒めるなんて珍しいね・・・と思ったけど、この号の前月号で、ほとんどの曲をケチョンケチョンに酷評したんで、その反動だったかもしれないけど。。。




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月曜日はシックシック / 三井比佐子

1982_06_月曜日はシックシック_三井比佐子


今回の1曲セレクトは、「月曜日はシックシック」三井比佐子です。

まずはデータです。

・タイトル     月曜日はシックシック
・アーティスト   三井比佐子
・作詞       高平哲郎
・作曲       筒美京平
・編曲       船山基紀
・リリース日    1982年6月1日
・発売元      バップ
・オリコン最高位  93位
・売上げ枚数    1.2万枚

もしかしたら、こちらのブログには出してなかったかもしれないけど、少し前に、いわいる82年デビュー組は、デビュー日によって、第1グループ(3月21日デビュー)、第2グループ(4月21日 5月1日デビュー)に分けられるってことで、トピックスをfacebookには上げたんですよね。

で、その際に 第2グループとして、「三井比佐子(5月1日デビュー)」って書いちゃったんだけども、これ、間違ってましたね。。。

正しくは、「6月1日デビュー」だったわけで。。。。

どうも、同じ「パンジー」の真鍋ちえみさんとデビュー日を取り違えてたようで。。。。


ちなみに、6月1日周辺デビューには、他に水谷絵津子(5月21日デビュー)、水野きみこ(5月25日デビュー)、本田恭章(5月25日デビュー)  などが居たりしますが、さしずめここが「第3グループ」とでも言いますかね。

まあ、このグループに関しては、今や知る人しか、知らないって感じの「B級アイドル」しかいなかったりするんで、名前出されても、「だれ?」って思う方もいらっしゃるかもしれないですが。。。


でも、丁度書き始めてしまったんで、 今回の1曲セレクトはそんな82年組第3グループデビュー、三井比佐子さんの「月曜日はシックシック」でも持ってきますか。


・・・といっても、すみません。 きっと、今となっては知ってる人しか知らないとも思うんで。こんな曲もあったということで、聞いてください。


うんにゃ、このトピックスを読んでくださった方は、この曲を知ってるよ〜って方かもしれないな。。。。

個人的に、アイドルは通常、A級か、B級のいわいるベストテン級の曲しか聴かないんで、 オリコン最高93位のこの曲なんては、本来ならば耳にしてないはずなんだけども。

でも知ってたりするんですよね。

まあ、月刊・明星の歌本「ヤンソン」にリリース前から「新人」デビューということで、「楽譜」入りで掲載されていたりしたし、 それ以前に、北原佐和子、真鍋ちえみ との3人グループだった、「パンジー」については、「明星」本誌に登場してきていたんで、当時から存在自体は知ってたんだけどね。

ただし、曲自体を聴いたのは、いつだったんだろう?  よく覚えてないんですよね。

曲内容をはっきり意識するようになったのは、95年に刊行された「歌謡曲完全攻略ガイド」に紹介されてからだと思う。

で、後年、Youtubeで聴いてみたんだけども。 その時、「これ、聴いたことある」って思ったんで、多分、82年当時、なんかの番組ですでに聴いたんだと思う。


ともかく、この曲っていったら、なんて言ってもチャコ(三井比佐子さんの愛称)の歌唱力だよね

まあ、俗にいう「オンチ」なのよ。  なんか間違ってる・・・としか思えないくらい、強烈な。

↓ を聴けば一目瞭然だけど。。。。




う〜ん、音痴というよりも、ピッチ(音程)が全く合ってない・・・っていうのが、正解なのかなぁ。 
とりあえず、メロディラインはなぞれてるんで。。。 

でも、なんせ、あのビートたけしさんもネタにするくらいだったりするんで。。。

それまでも、いろいろウタがヘタな方はテレビで聴いてきたけど、このヒトくらい強烈だった方も、なかなかいませんでしたよね。

まあ、考えようによっては、それも芸の一つとも言えなくもないけど。。。。


82年当時に聴いた、テレビで見た記憶があるわけども、その時、うちのオヤジの反応はどうだったんだろう?  
なんせ、音痴には厳しい人だったんでね。 うたがヘタな人が出てくると、すぐ「へたくそ」って叫ぶのよ。テレビに向かって。

当時は、そんな反応がヤで、オヤジと歌番組見るのがヤだったんだけども、この曲はどうだったんだろう? うーん、やっぱり記憶にないな。

ちなみに、そんなオヤジが嫌いだったワタシではあるけど、大人になってウタがヘタな人で出てくると、やっぱり「へたくそ」って思うようになったわけだから、やっぱ血は争えないってところですかね。 もっともワタシャ、テレビに向かって叫んだりはしないけど。。。



で、この曲を書くにあたって、先ほど、改めてYoutubeで、この曲を聴いてみた。

でもさ、昔聴いたほど「歌ヘタ」っていう違和感、嫌悪感は感じなくなってますねぇ。

いやいや、たしかに「ヘタ」なんですよ。でも、拒否感なく普通に聴けますねぇ。 まあ、聴いたあとで笑ってしまいますが。。。

このヒトの後にも、 西村知美、華原朋美、鈴木亜美・・・・etc、 オンチ・・・うんにゃピッチが合わない人たちは、いろいろ出てきたんで、あの当時に比べると、大分、音痴に対しての免疫が付いたんだろうな、きっと。

でもね、この曲、ボーカルテイクを割り引いて、キチンと聴いてみると、いかにも82年当時のアイドルポップスだな・・とは思えますね。

まあ、歌唱力がないんで、作曲の筒美京平さんは困ったんだろうな・・・っていう印象はメロディラインからうけますね。 でも、そんな筒美氏の困った部分を、アレンジの船山基紀氏が、うまくカバーしているように感じられるなぁ。

とくにイントロなんて、当時の他のアイドルポップスに比べてもかっこいいもの。

「ニッポンの編曲家」での船山氏曰く、「筒美先生は、船山君は僕が恥ずかしくて出来ないようなところを全部やってくれる・・と」述べられているけど、この曲なんて、まさにそんな感じなんじゃないのかなぁ。

「歌謡曲完全攻略」では、そんなところがオーバープロデュースに感じられたようで、2曲目の「デンジャラスゾーン」は、チャコの声質を生かせていると思うけど、この曲はオーバープロデュースって書かれてますね。

まあ、もっとも、サビの件の ♪ 月曜日は シックシック〜 ♪ でいきなりチアリーディング風になるのは、たしかにオーバープロデュースっぽく感じたりしちゃいますが。。。

それらを含めて、全体的に感じるのは、曲の雰囲気は86年頃のおニャン子関係など、アイドルの曲にも似てるなぁ・・と思ったりして。
Bメロ当たりのコーラスの使い方とかさあ。 ゆうゆの「-3℃」()とか思っちゃりしたもの。

かといって、70年代アイドルからの流れも感じるし。。。 まあ、大きく見ると時代をつなぐような1曲ともいえるのかもな。。。 

うん、大きく言えばですが。。。。。

それ以前に如何せん、売れなかったからなぁ、この曲。 

まあ、この曲の1か月前に「同僚」である真鍋ちえみさんがソロデビューしてるけど、そのデビュー曲「ねらわれた少女」もオリコン最高91位だったりするしな。

おどおどろしい雰囲気のこの曲も、最近では注目されるようになったけど、当時は全然だったんだよね。 まあ考えてみれば、この曲こそオーバープロデュースって感じがするし、だからさ、当時の感覚では、オーバープロデュース過ぎてもダメだったんだよね。

結局「パンジー」の中では、一番オーソドックスなデビュー曲だった、北原佐和子さんの「マイ・ボーイフレンド」が一番売れたしな。

この時の差が、結局は、その後の芸能界への生き残りに響いたって感じで、パンジーのなかで今でも生き残ってるのは、北原佐和子さんだけだもんね。

ちなみに、パンジーの3人は、「オスカープロモーション」出身っていうのは、意外と知られてないのかなぁ。
現在こそ、美少女の巣窟として飛ぶ鳥の勢いであるオスカープロモーションも82年当時は、今ほどビッグな存在ではなかったですからね。

まあ、今くらいの存在であれば、デビュー曲で少なくともオリコン最高位90位台ってことは無かったろうけど。。。。

そんな、まだまだネームバリューの小さかったプロダクションで、チャコのデビュー曲が、作曲・筒美京平 編曲・船山基紀、 真鍋ちえみさんのデビュー曲が、作詞・阿久悠  作曲・細野晴臣 なんていうビッグネームを使ってきたのは、ちょっと驚きではあるんですけど。。。

特に、筒美京平さんなんて、依頼しても半分以上は断られるというのに、このデビュー曲を書いたっていうのは、どういう経緯があったんだろうなぁ。ちょっと興味がありますね。

よく筒美京平さんは、歌がうますぎるヒト(アイドル)には書かない、とか、変わった声質の人が好きとは言われる。
チャコの場合、「歌がうまくない」のは当てはまるけど、変わった声質でもないんだけどね。



それにしても、あーあ、土日が終わってく〜。 サンデーシンドロームやね。
まさに「月曜日はシックシック」な気分ですわ、今。



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♡じかけのオレンジ / 大滝詠一

1982_03_ハートじかけのオレンジ_大滝詠一


今回の1曲セレクトは、「♡じかけのオレンジ 」大滝詠一です。

まずはデータなのだ。

・タイトル    ♡じかけのオレンジ
・アーティスト  大滝詠一
・作詞      松本隆
・作曲      大瀧詠一
・編曲      CHELSEA
・リリース日   1982年3月21日
・発売元     CBSソニー
・オリコン最高位 70位
・売上げ枚数   1.8万枚

ここの所、ショートトピックスばかりアップしていたので、久々の1曲セレクト。

故・大滝詠一氏の不朽の名作「A Long Vacation」リリースから、今日2021年3月21日で丸40年ということで、ネット上やラジオをはじめとしたマスコミ各局では「ロンバケ」づいておりますなぁ。

一番の目玉は、やはり大滝詠一氏の曲の「サブスク」解禁ってやつでしょうか。なんか、これで、一段と火が付いたような様相があるような気もしますが。。。

たださ、もし大滝氏が生きていたら・・・、とにかく音質に煩かった大滝氏が、CDよりも音質が一段も二段も劣るサブスクリプションを許諾したかというと、ちょっと疑問ですわな。

山下達郎氏が頑なにサブスクリプションを許諾しない一番のネックはそこですから。師匠筋の大滝氏が許諾したかどうかというのは疑問だよね。

確かにサブスクリプションな世の中、恰も「ロンバケ」リリース40周年という話題に引っ掛ければ、ビジネス的な話題作りにはこれ以上にない目玉コンテンツであることは間違いないところだろうけど。。。。

ところで、ワタシが「A Long Vacation」と出会ったのは。。。 今でもよく覚えてますよ。
実は、リリースされた1981年じゃないんだよね。1981年当時、大滝詠一氏はまだ聴いてなかった。
出会ったのは、リリースから2年後、1983年の確か暮れだったと思う。

ワタシは当時14才 中2.

あのころ、クラス対抗の合唱コンクールがあって、その練習用にと、誰が持ってきたのか、教室にラジカセがあったのよ。アイワ製の真っ赤なWカセット。
で、本来は合唱コンクール用のカセットを聴くためにあったんだけども、実質は自分たちがダビングしたカセットを持ってきては、休み時間に流してたりしたわけよ。

そんなカセットの中に、この「A Long Vacation」があったんだよな。

持ってきたのは、当時、親友だった「お寺」の息子でさ 坊主頭の。。 
お寺の息子が大滝詠一氏・・・・。そのミスマッチングさによく覚えているのよ。

でも、実際聴いてみたら・・・・。 もうね、いっぺんで気に入っちゃった

一番の発見は、「カナリア諸島にて」でしたね。 この曲、リリースされた81年頃に、たしか紅茶のCMで使われていてさ。一発で気に入っちゃったんだ。

♪ 薄く切ったオレンジをアイスティーに浮かべて 海に向いたテラスで ペンだけ滑らす〜 ♪

絵が浮かぶじゃん。 いいなぁ、こういう体験したいなぁ・・・と。

でもさ、それまで誰の曲だか分かんなくて、ずっと探していたんだよね。 そしたらロンバケのこの曲だったんじゃん。

衝撃的だったよなぁ。

で、一もにもなく、その「お寺の息子」の家に遊びに行って、カセットをダビングさせてもらって、まあ、何度も何度も聴きましたね、「A Long Vacation」。

ウォール・オブ・サウンド という音楽にじかに触れたのもこの時が初めてだったんだけど、意外にも死んだオヤジが引っかかっちゃたんだよ、この大滝サウンドに。

オヤジ曰く、なつかしい、未だにこんな音楽やってるやつがいたんだ・・・ってことで。

意外にも古い向こうの音楽が好きで、50'S、60'Sオールディーズをタイムリーに経験していたオヤジにとっては、この60'sぽい、ウォール・オブ・サウンドは、自分の青春時代の音だったらしい。

なるほど、だからなのか、ワタシが初めて聴くのにどこか懐かしいと感じるのは・・・、なんて合点がいってしまったり。。。血は争えないんだよな。 
兎も角、それ以降、オヤジの車のカーステの必須アイテムになったことは言うまでもないわけで。。

もし、あの時、お寺の息子が、「A Long Vacation」のカセット持ってこなかったら、大滝氏本人の曲との出会いもずっと後になっていただろうな、きっと。


いや、逆を返せば、それまではそのくらい、大滝氏本人の曲って聴いてなかったのよ。

たしかに、「A Long Vacation」を聴く少し前に、 薬師丸ひろ子さんの「探偵物語」を聴いていたわけだし、それ以前に松田聖子さんの「風立ちぬ」で大滝氏の音楽には接していたはずなのに、どうも、大滝氏本人の曲には触手が動かなかった。 
アーティストというよりは、プロデューサー。 そんなイメージが強かったのかもしれないな。

だからね、今回、引っ張ってきた「♡じかけのオレンジ」っていう曲も、当時は全く聴いたことなかった。

ぢゃ、曲の存在を知らなかったのか・・・。 というとさにあらず、じつは、曲の存在自体は知ってたんだよね。

1982年の「ナイアガラトライアングルVol.2」。言わずと知れた、大瀧詠一、佐野元春、杉真理 3氏によるスペシャルユニット。 
この「♡じかけのオレンジ」は、このアルバム「ナイアガラトライアングルVol.2」の1曲として収録。アルバムがリリースされた同日、1982年3月21日にシングルカットと言う形でリリースされた曲ですわ。

ちなみに、シングルとしてのこの「♡じかけのオレンジ 」はオリコン最高70位 売り上げ1.8万枚しかなかったけど、、アルバム「ナイアガラトライアングルVol.2」としては、 オリコンLPチャート 最高位2位 売り上げ枚数31.4万枚を記録。
当時のアルバム売上水準を考えると、十分大ヒットの部類だ、

まあ、これじゃシングルは売れなくても当然。 ただ、逆に言えば当時、7インチシングル買ってた方は貴重かもなぁ。今となっては。


1982年当時、音楽情報誌といっても、月刊・明星くらいしか読んでなかったワタシだけど、「明星」の付録の歌本「Young Song」にも、「ナイアガラトライアングルVol.2」特集として、楽譜入りでこの「♡じかけのオレンジ」も掲載されていたからさ。

だから、楽曲の存在だけはリリース当時から知っていたんだよね。

でも、丁度小学校を卒業したばかりの「おこちゃま」には、まだ触手が伸びなかったんだよな。


♪ テキーラの夢のあと〜 ♪ っていう歌詞には、どことなく興味が行ったんだけどね。 うん「テキーラ」っていうアイテムに引っかかったんだよな。 

テキーラって、中南米の度が強いお酒っていうのは、どことなく当時から知ってたみたいなんだよね、ワシ。

だから、この曲、そういう中南米のラテン系の曲を、想像していたところはあったな。

で、実際聴いたのは、いつだったんだろ・・・・。 大分後、 大人になってからでしたね。

それまで想像していた曲調と全く違うんで、かなり拍子抜けしたのだけは覚えてる。

ただ、すでに「ロンバケ」とか「Each Time」で、大滝氏の曲を充分理解したうえで聴いたんで、実際聴いたときは何の抵抗もなかった。

なるほどね大滝さんらしい曲だな。 と思いましたね。

・・とともに、「あ、この曲・・・どっかで聴いてたぞ」 と言う感覚もあったんだよな。

1982年春 まだ千葉に引っ越してくる前、福島のいわきに居たころだ。

家から車で20分くらいったところにあったゴルフ練習場の喫茶コーナー。 あそこでレモネード飲んだ時の情景だ。

恐らく日曜日だったと思う。 天気がいい、レモン色の日光が振りそそいだ日曜日の午前中。 

・・と一瞬にしてイメージがフラッシュバック。

そうだ、特別に意識はしてなかったんだけど、あの時、有線のBGMで、この曲が流れてたんだ。

だからなのか、この曲タイトルには「オレンジ」と入ってるけど、ワタシの中のイメージは「うすいレモン色」だったりするんだよね。

この後、突然、千葉に引っ越すことになるとは全く思って見ず、 引っ越して来てからの大変な半年が待っていようとは 想像も出来なかった、幸せな日曜日の午前中のひとときだったんだよ。

ヒット当時は意識してなくても、後年きちんと聴いてみると、情景がフラッシュバックしてくる。
ここが音楽のいいところだし、素敵なところなんだよね。

まあ、他にもこういう曲がたまにあったりするんだけどさ、この曲は、そういう曲の中でも特に、はっきり情景がフラッシュバックしてきたんだよなぁ。

・・・ということで、個人的には、なんか忘れられない1曲だったりするんだよね。




Youtubeに動画が落ちてなかったんで、 久々にニコ動にリンク。
いつ消されるかわかんないけど、どうぞ。

ちなみに音が小さいので、ボリュームを上げてどうぞ。




ぶりっ子Rock'n Roll /紅麗威甦

1982_02_ぶりっ子ロックンロール_紅麗威甦


今回の1曲セレクトは、「ぶりっ子Rock'n Roll」紅麗威甦です。

まずはデータでするぅ〜。

・タイトル   ぶりっ子Rock'n Roll
・アーティスト    紅麗威甦
・作詞     翔
・作曲     翔
・編曲     T.C.R.横浜銀蠅.R.S      若草恵
・リリース日  1982年1月20日
・発売元    コロムビア
・オリコン最高位 6位
・売上げ枚数  16.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 9位
・ベストテンランクイン期間:1982年2月22日〜3月1日付

Adoの「うっせぇわ」。ワタシのランクでも1位を取っちゃったりして、ヒット曲と言う意味ではホントにホンモノになっちゃったなあ。
この曲は、表向きの顔と、ウラの顔と二面性について歌われているわけじゃん。 よく言えば「ホンネ」と「タテマエ」というかさ。
まあ、だれでも持ち合わせてるといえば、そうなんだろうね。だから、これだけ広く共感を持たれて刺さった方が多いんだろうなぁ。

でもさ、今からしてみれば80年代に見られた「ぶりっ子」っていうのも、もしかすると、そんなホンネとタテマエとしての表現の一つだったんだろうね・・・とトートツに書いちゃったりして。。。

・・・なんて今回引っ張ってきた曲の「前フリ」だったりして。。。

はい、今回引っ張ってきた曲は、紅麗威甦「ぶりっ子Rock'n Roll」。

紅麗威甦としてのデビュー曲ですね。

その前に紅麗威甦  だれじゃい、一体・・・。

なんて方は、ここ読みに来てる方には、・・・居ないですかね〜。

1980年代前半 時代を味方に一世を風靡した「横浜銀蝿」の弟分としてデビューした「バンド」ですね。
今や、性格俳優としてNHKの大河ドラマにまで出演してしまうような大物になった、杉本哲太氏がボーカル、ギターだったあのバンドですわね。

横浜銀蝿の弟分ということで、当たり前のように「ツッパリリーゼント」に黒の革ジャンという、いでたち。しかも全員、当時高校生・・・だったのかな? 杉本氏の最終学歴は中退になっているけど、この当時は・・・。

同じく横浜銀蝿の弟分として、このすぐ後に、嶋大輔氏がソロデビューをすることになるわけだけど、同期のような存在でしたよね。

あの頃、リーゼントに、ドカンに、短ラン、長ランの、トッポそうな、見た目にツッパリの方ですよね・・・と分かるお兄さん、お姉さん、いっぱいいたよなぁ。

いや、正確には、この曲がリリースされた頃は、個人的には、まだ福島にいたんで、身近にはこのような「いでたち」の方たちは居なかった。 なんせ、中学生は男子は強制的に全員「坊主」だったんで、リーゼントなんて考えられなかったから。。

でもさ、すぐ後に千葉に引っ越して来たら、強制「坊主」ではなかったんで、居ましたねぇ、うちらの中学校にもツッパリファッションの方々が。。
特に、うちらの中学校と、俳優・石丸幹二氏が卒業した隣の中学校は、共にマンモス校で荒れてましたからねぇ。 まるで金八先生第2シリーズの「荒屋二中」みたいな感じで、しょっちゅうガラスが割られたり、トイレの個室に仕切りが無かったり、警察が介入してきたり・・・という感じで。。。

いずれにしても、そういう中学校だったんで、見た目この「紅麗威甦」のようなチリチリリーゼントのお兄さんや、長ーいスカートひきずったお姉さんがいっぱいいたわけよ。

ワタシゃ、平和だった福島からそういう環境にいきなり放り込まれたんで、ある意味カルチャーショックだったよなぁ。。。


あー、話がすれてきた。

そんな「紅麗威甦」のメンバーのなかでも、個人的には杉本哲太氏って怖かったんだよなぁ。
このヒト、当時は目が笑ってなかったからさ。
例えば嶋大輔氏なんかは、確かに喧嘩させたら強そうだよなぁとは感じたけど、意外と優しい目をしてたりするんだよ。

ツッパリのファンシイ化。 「歌謡界 一発屋伝説」で著者の宝泉薫氏は、当時のツッパリのフッション化をそう例えているけど、嶋大輔氏なんかは、まさにそんな感じだったんだよね。

でもさ、杉本哲太氏はちょっと違ったような印象があったんだよなぁ。このヒト、怒らせたらマジでヤバイ様な雰囲気があったのよ。
下手するとマッポ(警察)の「お世話」になってもおかしくなかったような。。。

だから、40年後の今、「相棒」シリーズで警察官僚役をやってる杉本氏を見てると、隔世を感じるよなぁ。

でもまあ、中学校の時ことを振り返ると、そんなツッパリファッションのお兄さん、お姉さんたちって、実際接してみると、見た目に反していいやつが多かったんだよ。
まあ、ワタシの周りでは偶然にもそうだったのかもしれないけど、でも、当時、めっちゃ強面でヤンチャしてた方で、今やいいオッちゃんやオバチャンになってる人って、結構多いじゃん。

それを考えると、杉本哲太氏も、同じなのかもなぁ。。。 若気の至りってやつでさ。



だけんどさあ、この曲にしたって若気の至り感、満載だよなぁ。
なんすか ♪ブリブリ ブリッ子ROCK'N ROLL〜 ♪っていう出だしは・・・
今となっては、ほとんどギャグでしかないような曲だったりもするんだけども。。。 

いやいや、個人的には当時からして、ほとんどギャグにしか思えなかったんだけども。。。

・・というか、少し前の銀蠅の「ツッパリHigh School Rock'n Roll(試験編)からして、ギャグだったりしたからなぁ。 この曲はその延長のように感じたし。

それ以上に「歌謡曲」だよね、この曲は。たしかに表面的な形式はロックンロールではあるけども。

若草恵氏という歌謡ポップスの王道のアレンジャーが絡んできていたわけで、そうなるのも必然なんだろうけどね。

若草恵と銀蠅というと、前年、西城秀樹氏に贈った「セクシーガール」のアレンジが若草氏だった関係もあり、そこからの流れなんだろうけど、なぜこの曲で若草氏だったのかと言うのは、ちょっと理解が難しいんだよな。

銀蠅ってストレートな3コードのロックンロールがバイクでぶっ飛ばしているような疾走感があってサイコーっていうところから、族の連中を中心に、ツッパリの方々とかに受けて出てきた人たちじゃん。

それから見ると81年の「羯徒毘薫'狼琉」なんてのは、サイコーな1曲だと思うんだけどさ。

でも、そういうストレートな3コードのロックンロール一本やりでは、この後きつくなるのはわかり切っていたわけでさ。
それとツッパリお兄さん、お姉さんたちだけではなく、一般のお客さんを取り込むには、ある程度の歌謡曲化もやむなしと考えていたのかもしれないけど。。。。

ただ、杉本氏なんて、当時はこの曲どう思って歌ってんだろ?  ・・・・なんて、思えてしょうがないんだよな。
「やってらんねぇよ」とは思わなかったのかねぇ・・とかさ。 まあ、それ以上に銀蠅の嵐さんや、事務所社長の大坂氏がおっかない存在だったんだろうけどね。

それにしても、それまで、ツッパリって硬派だと思ってたところがあるのよ、個人的には。
族って組織的なタテ社会なところから硬派っていうイメージが強かったし。でも、「ツッパリHigh School Rock'n Roll(試験編)」につづく、この曲をみると、どうしてもナンパなイメージしか出て来なかったんだよな。
まあ、この曲あたりの時点では、まだ銀蠅一家のツッパリイメージに嘘臭さまでは感じてなかったけどさ。
でも、この年1982年の年末ごろになってくると、だんだん嘘臭さを感じたりしてね。 それとともに銀蠅一家の人気も急激に衰えていくんだけど。。。


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ねじれたハートで / 桃井かおり 来生たかお

1982_09_ねじれたハートで_桃井かおり 来生たかお


今回の1曲セレクトは、「ねじれたハートで」桃井かおり 来生たかおです。

まずはデータです。

・タイトル    ねじれたハートで
・アーティスト  桃井かおり 来生たかお
・作詞      来生えつこ
・作曲      来生たかお
・編曲      星勝
・リリース日   1982年7月21日
・発売元     CBSソニー
・オリコン最高位 13位
・売上げ枚数   16.7万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 13位

いやいや、久々の「1曲セレクトですわ」。書き方忘れてしまっていそうですねぇ。
ここの所、リアル仕事が詰まっていて、週末も「自主的」に仕事しててなかなか1曲セレクトを書く時間がなかったわけなんですが。 たまたま今週末は時間が空いたんで、久々にPCに向かってたりします。

食べ物でもそうなんだけど、子供の頃は嫌いだったけども、大人になるとおいしく感じる食べ物ってありますよね。
音楽も同じなんだよなぁ。
子供の頃嫌いだった曲でも、大人になるとなぜか受け入れられる曲ってありますよね。 まあ、演歌の世界なんてのはそういう曲が多いかな。
この世に生を受けてから数十年。紆余曲折しているうちに、好みの音楽も変わってくるってやつですかねぇ。

今回引っ張ってきた曲も、そんな1曲ですね。

桃井かおり 来生たかお 「ねじれたハートで」

この曲、子供の頃(と言ってもヒット当時、すでに中学1年になっていましたが)、どうもキライだったのね。キライというか、生理的に受け付けたくなかった・・というか。

今考えると、どうしてだったんだろう? なんて首をひねりたくなったりもするんだけど。。。

あの頃、大人の世界に反感があったんですよ。 まあ、反抗期ってやつですね。
小学生の低学年の頃、あんなに早く大人になりたいなんて大人の世界に憧れがあったのがウソみたいに嫌だったんだよな、あの頃。

1982年夏。 ここでは、もう何度も書いてるけど、それまで住んでいた福島から千葉に越してきたという大きな環境変化があったころですわ。
親父が勤めていた会社の寮暮らしという、急に周りが大人ばかりの環境に放り込まれたというのが大きかったのかもしれない。

兎に角、一時、大人の世界が煙たくてしょうがなかった時期があった。

転校生という事ですぐには友達も出来ず、千葉の生活にもなじめず、水も合わずずっとおなかの調子も悪い・・1982年の夏。

そんなイライラもたまっていたのもあるんだろうな。兎に角、このころ、大人の世界が煙たくてしょうがなかったんだよな。

そんな中、流れてきた、4ビートのジャジーな調べが、この「ねじれたハートで」だった。
4ビートのジャジーな曲は、詞の内容からして大人の世界そのものだった。

鬱陶しかったかったんだよな。 この曲が醸し出す大人の世界観が。

そんな個人的感情とはウラハラに、この曲はヒットし、ラジオのヒットチャートを含め頻繁にかかるようになったのが、38年前の丁度今頃だったと思う。

来生たかおさんがキライだったわけじゃないんだよね。この年の年頭に大ヒットした「夢の途中」なんて大好きだったし。 
デュエット相手の桃井かおりさんは、大人の女の色気ムンムンで、当時13歳の私にはちょっと近寄り難い雰囲気ではあったけど。

でもまあ、アダルトと言っても、今の私の年齢から見ると、当時の2人は全然年下なんですけどね。

ちなみに、当時、来生たかお氏 桃井かおりさん 共に31歳。
いやー、あの時の私からは、もっともっとアダルトに見えましたけどねぇ。。。。。

プロデュースは、CBSソニーの酒井政利氏。
 
たださ、キライキライというても、今から思うと本心からではなかったんだと思う。 
うん、どっか引っかかってはいたんだよね。

結局さ、今から思うと大人の世界を拒否したかっただけなんだよ。曲に罪はなかったんだよ。

これは、ちょうど同じ時期に同じようにヒットしていた、五木ひろし氏の「契り」にも同じような感情を覚えてたなんだよね。やっぱり、アダルトな路線を拒否したかったという一時の感情だったんだと思う。


それにしても、来生たかお氏の実姉の来生えつこさんの詞っていうのは、ホント性的だよね。
この曲のちょっと前に大ヒットした大橋純子さんの「シルエットロマンス」の「モロ」性行為ってところから見ると、この曲はまだマシではあるけど。
男と女の色恋物語であることは違いないわけで。。

まあ、当時13歳だったワタシは、まだ「性」に目覚め切っていなかったころだったけど、もう少し後に、この曲なんてヒットしてたら、この曲だけでご飯2杯くらい食えたかもなぁ 

え? エロ話のことですよ。。。。

いまは、こういう性的な色気があるヒット曲って、ホント少なくなっちゃったですからね。
最近のヒット曲に魅力が少なくなったと感じるのは、やっぱりこの部分−エロエロ−を感じる曲が少なくなったからなんだろうな。


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アンサーソングは哀愁 / 早見優

1982_11_アンサーソングは哀愁_早見優


今回の1曲セレクトは、「アンサーソングは哀愁」早見優です。

まずはデータでする。

・タイトル      アンサーソングは哀愁
・アーティスト    早見優
・作詞        阿久悠
・作曲        馬飼野康二
・編曲        萩田光雄
・リリース日     1982年10月19日
・発売元       トーラス
・オリコン最高位  29位
・売上げ枚数   4.8万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 34位


あー、今回セレクトしてきた曲は、どう捉えたらいいんだろう? って言う曲なんですよね。
どうも、出だしのマクラがなかなか思いつかない。
そのくらいヒット当時、関わり合いが薄い曲だったんだよね。 ・・・うーん、関わり合いっていうのも変な表現だな。。。
単純に、あんまり聴いて無かったと言った方がいいのかな。

早見優さんの「アンサーソングは哀愁」。

花の82年組の1人っていうのは、ここ読んでくださってる殆どの方は周知の通りだと思うけど、そんな82年組の早見さんのデビュー第3弾がこの曲ですね。

「花の82年組」ということで、たくさんのアイドルが華々しくデビューを飾った訳だけど、第3弾シングルともなると、順調に伸びトップアイドル街道をまっしぐらのグループと、すでにネタ切れ・・・というか息切れ気味のグループと大きく分かれて来てたような印象があるな。

その中で、早見さんはというと、・・・・ 正直、82年組のトップグループの中でも、とりわけ存在感が薄いな・・・82年の秋も深まる今頃は、そう言う感じに今頃はなって来ていたような印象が強い。

それもこれも、第3弾シングルであるこの曲がジミ過ぎたっていうのが大きかったよなぁ。

確かに、同期の同い年くらいの他のアイドルよりも、見た目年上、やや大人っぽくは見えた。 
だから、少し子供っぽさが残るデビュー曲、「急いで初恋」はちょっとイメージと違うな・・って言う印象はあった。でも、第2弾の「Love Light」は、その辺りを修正してきたように思えたし、だから、個人的には「Love Light」って曲は好きだったんだよね。

そして第3弾のこの曲ですよ。たしかにミディアムの落ち着いた佇まいの曲調は、さらに大人っぽさを前面に出したような曲調ではあるけど、これはちょっと背伸びが過ぎるんじゃないか。

当時13歳のワタシでも、そう感じたな。

まあ、実際は、そんなオヤジっぽいストレートな批評感はさすがになかったけど、、なんか違うなって言う違和感は大きく感じてたんだよね。

曲だけ見るとこれがデビュー第3弾の曲とは思えない、デビュー5年目くらい、すでに20歳を過ぎた女性歌手が歌うような落ち着きがあるんだよな。

・・・なんか回りくどい書き方になっちゃったけど、簡単に言えば、ポップじゃないのよ、この曲。

同期の82年組の、少なくともトップグループの人たちは、みんなポップだっじゃん、曲調が。 
それなのに、この落ち着きだからさ。 まるで、早くもアイドル路線を諦めて歌謡曲路線の路線変更したかのような・・・。

あ〜、アイドル路線から脱落したか、残念だけど・・・

率直なところ、そう感じた部分が大きかったんだよ、個人的には。


それ以上に、この曲自体の問題ですよね。

今、手元に月刊明星付録の歌本「Young Song」の1982年12月号がある。

この「アンサーソングは哀愁」が新曲として掲載された号ですね。 

当然、お決まりの近田春夫氏の「新曲激評」の対象曲となっていたんだけど、こんときの近田氏のコメント


「あ、モロ「カサブランカ」と同じメロ。堂々としてるなァ。そもそも「アンサーソングは哀愁」ってタイトル、悪ふざけじゃん。これは日本歌謡界への皮肉だよね。こういう作家としてのメッセージがハッキリ出た曲を歌うのって、早見さんしんどいだろうねぇ」 (原文ママ)


そうなんだよね、 この曲、ジミとかポップではなく歌謡曲っぽい・・・と言う前に、Bertie Higginsの「Cassablanca」、まんまなのよ、曲調が。

あ、「Cassablanca」で分かんなかったら、郷ひろみ氏の「哀愁のカサブランカ」

近田氏が「アンサーソングは哀愁」ってタイトル、悪ふざけじゃんって言っているのは、曲調が似てる上に郷ひろみ氏の「哀愁のカサブランカ」をもじったようなタイトルだったからなんだけどさ。

いや、はっきり言ってワタシもこの近田氏のコメント通りと思ってたのよ。 これは、ちょっと悪ふざけじゃんっていう・・・。

ただ、当時・・・いや、最近まで意味が分かんなかったのは、「これは日本歌謡界への皮肉だよね。こういう作家としてのメッセージがハッキリ出た曲」っいう後半の部分。

これってどういう意味だったんだろう?   っていうのがずーっと引っかかってたのよ。
まあ、深い意味はないのかもしれないけど・・・。


でさ、この機会に、再度、自分なりにちょっと考えてみた。

で、浮かんできたのが・・・。

もしかしてさ、Bertie Higginsの「Cassablanca」って、郷ひろみ氏のカバーが決まる前に、早見さんサイドがカバーするつもりでいたんじゃないか・・・ってこと。

そう考えれば、1曲前の「Love Light」が外人の作曲だった意味も分かる。つまりさアイドルの王道路線ではなく、より洋楽ポップに向かうって言うベクトルだよね。

そう言う路線を画策していた時に、郷ひろみ氏のカバーが決まってしまった。
(ちなみに、郷氏のカバーは、当時ニッポン放送のアナウンサーだった、はたえ金次郎氏が郷氏サイドに売り込んで決まったとなっている)

相手はアイドルの大先輩でありアイドル界のスーパースター。こちらは一介の新人。
当然だけどダイレクトに抗議も出来ない。

そんな事があったがための抗議と言う意味をこめての「アンサーソングは哀愁」って曲でありーの、近田氏のコメント。

もちろん、これは、ワタシの妄想でアリ、事実であるかどうかは全く分からないんだけどさ。

でも、こう考えれば、 

・タイトルからして悪ふざけな事 
・メロディがモロ、「カサブランカ」な事
・近田氏が「日本歌謡界への皮肉だよね」と言ってる意味 
・そういう皮肉を込めた曲を派手にする訳にも行かず、ジミな曲にするしかなかった事

・・・など全ての流れの辻褄が合うような気がするんだよなぁ。


ただ、タイトルとしては、近田氏が言うように「悪ふざけじゃん」ってダイレクトに分かるんだけど、歌詞内容は正直良く分かんない。

大御所・阿久悠氏の作詞だけど、正直、最近まで阿久悠氏が作ったとは思わなかったもの。

♪ 奪われる 奪えない 奪うもの 奪え〜 ♪とかさ、国語文法の五段活用か  なんて思える、なんじゃこりゃ・・って言う歌詞だったりするし。。。

この曲を「リリース」する事が前提で、歌詞の内容はさほど重要じゃない・・・って言っているようにも思えたりしてさ。

尤も、阿久氏は、フィンガー5の「恋のダイヤル6700」の♪ リンリンリリン〜♪ などのように「擬音」を歌詞に多用したりするところもあったりするんで、五段活用的な歌詞も、ある意味阿久氏らしさと言えるのかもしれないけど。。。



この曲のような地味な展開もあり、一時はアイドルとして死んだ・・・と思えた早見さんだっただけに、次の年の「夏色のナンシー」は、アイドルとして起死回生、一発逆転ホームラン的なインパクトがありましたね。

洋楽路線とはならなかったものの、そんな早見サイドの方向性を感じ取り、第2の南沙織にしようとした、筒美京平ってヒトは、やっぱり天才なんだな・・・と思わずには居られなかったよな。


ちなみに、当時は、ジミーで触手が伸びなかった、この「アンサーソングは哀愁」も、今はいいんだよね。
ワタシもそれだけオヤジになり、ポップな曲よりもシブい曲の方が安心できるようになったって事なのか。。

いや、その前に、今となっては完全に忘れ去られている、この曲は手垢が少ないってことで、それだけ、未だに新鮮に聴けるって事が大きいんだろうな。
早見さんって言ったら、みーんな判を押したように「夏色のナンシー」とか「誘惑光線クラッ!」などばっかなんだもん。 今となっては、この曲なんかセレクトするヒトってほとんど居ないから。。。。


あ、それから、どーでもいい事なんだけど、↑で引き合いに出した、「Young Song」1982年12月号の新曲激評には、同じく当時新人だった原田知世さんの「ときめきのアクシデント」の近田氏の評があるんだけど、この時の評が「ひでぇ下手な歌だな。これじゃ作家のヒト怒るぜ。」とバッサリ。
今だったらネットで炎上ざたのようなコメントだけど、当時は、これはこれで見方の一つとして「アリ」だったんだよね。


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MOMOKO / 近藤真彦

1982_07_ハイティーンブギ_近藤真彦


今回の1曲セレクトは、「MOMOKO」近藤真彦です。

まずはデータです。

・タイトル      MOMOKO
・アーティスト    近藤真彦
・作詞        松本隆
・作曲        山下達郎
・編曲        山下達郎
・リリース日    1982年6月30日
・発売元      RVC
・オリコン最高位 −位
・売り上げ枚数  −位
・THE HITCHART HOT30最高位 −位
・タイアップ:映画「ハイティーン・ブギ」挿入曲
※シングル「ハイティーン・ブギ」片面

今週はジャニーズ事務所「総帥」のジャニー喜多川氏の死去と言うニュースが、各ワイドショーのみならず一般のニュースにも広く報道された1週間でしたわな。
年齢的にもそうだし、先月くも膜下出血で倒れたという報道からも、もしかしたら・・・と言う予感が高まっていた訳ではあるんだけども、いざ来てみると、その存在の巨大さに改めて気づかされた1週間でもあったな。
改めて、ご冥福をお祈りいたします。

そういうこともあり、今回の1曲セレクトもジャニーズの曲を外すけにゃ行けないだろ・・と言う思いがあり、真っさいに浮かんだ曲がこの曲だったんだな。

まっち先生の「MOMOKO」

この曲覚えてる方ってどのくらいいるだろ? 昔、まっち先生のファンだった方は当然知ってるかな?

そう、シングル「ハイティーン・ブギ」の片面だった曲ですね。 当時まっち先生が主演した、たのきん映画第4弾「ハイティーン・ブギ」の挿入曲。 まっち先生演じる主人公「翔」の相手役 「桃子」を歌った曲ですわ。

なぜ、この曲が真っ先に浮かんだのか

もちろん、タイトル曲の「ハイティーン・ブギ」が丁度今頃のヒットだった事も大きい。
けど、それ以上に大きいのは、今年のこの夏の天候不順なんだよな。 

これは昔、「表題曲」の「ハイティーン・ブギ」書いた時にも触れた事なんだけども、この曲がリリースされた1982年夏ってさあ、今年同様、天候不順な夏で、気温が低く、雨の日が多かったんだよ。
典型的な「冷夏」な夏だった訳で。

あの時と同じような天気が続く、ここ暫くの天気。 今日も同じような天気か続いている訳で。。
今頃の雨の日の日曜日というと、どうしてもあの1982年の夏とオーバーラップしてしまう。
その時決まって耳の奥から聴こえてくるのは、この「MOMOKO」だったするんだよ。

そんな天候不順だった1982年夏を彷彿させるこの曲は、文字通り「珠玉のバラード」と言ってもおかしくないような、名曲なんだよね。
山下達郎氏が紡ぎたす、名バラードが、決してウマくない、まっち先生の歌唱を包み込むって言いましょうかねぇ。

今聴いても、到底、当時のアイドルの曲の範疇を超えてるような本格的なバラードだもんね。

http://yamashitatatsuro.blog78.fc2.com/blog-entry-218.html?sp

によると、演奏メンバーは

・G. 山下達郎
・B. 伊藤広規
・Dr . 青山純
・Key. 難波弘之

とある。

もろ当時の「達郎バンド」のメンバーやん。。。 そりゃ、アイドル曲の範疇を超えてるクオリティだよな。。
いや、82年当時の水準で言えば・・・の話だけど。
これが80年代も中盤を過ぎると、これが「デフォルト」になる。 例えば86年の中森明菜の「DESIRE」なんかもこの系統人脈のレコーディングだったはずだ。

イントロの優しい、フェンダーローズの音色からして、これはちょっと違うと思わせてくれる。 当時アイドルの曲で、これだけフェンダーローズが前面に出てる曲ってあんまりなかったし。
どちらかというと、70年代と言う時代を彷彿させる様なニューミュージック系アーティストの必須アイテムだった。

つまり、匂いは完全にニューミュージックなんだよね。  そもそもテンション系コードをふんだんに使ったコード進行からして、アイドル曲というよりニューミュージックそのものなんだけどさ
テンションコードに 前年の寺尾聰氏のミリオンセラーアルバム「Refrections」で多用され、耳の奥に刻む込まれていた世界が、この曲でも展開されてるんだよな。

それにも増して耳が行ってしまうのは、間奏部の達郎氏直々の、泣きのギターソロ。
これがめっちゃブルージーなのよ。

正直、今聴くと「すげぇ」って驚嘆するようなプレイでは決してない。(もしかして本人が一番分かってたりして。。)
今剛氏や、矢島賢氏の方が、もっと確実性のあるギターソロだったかもしれない。
現に、表題曲の「ハイティーン・ブギ」のギターソロは、矢島賢氏がプレイしてたりする。
でも、味があるんだよな。少なくとも、ワタシにはあの時の沈んだ心模様にはマッチする。

そう、1982年夏っていうのは、個人的にもさらに特殊な環境の夏で。 つまりは1982年の7月の頭に福島から千葉に越してきたっていう、大きな環境変化があった夏でもあったんだよね。

今だからカミングアウト出来る事だけど、あの年は本当に辛かったんだよ。 友達も全然いないし、自分をアピールしようと思っても全然理解してもらえず友達も出来ない。所詮はよそ者扱いに過ぎなかったんだよ。
孤独だった。ずっと福島に帰りたいってばかり思ってた夏だった。

そんな個人的に辛い時期だっただけに、この曲の達郎氏の泣きのギターソロには、ひときわグッとこみ上げるものがあったし、それは今でも変わらない。


それ以前に、そもそもこの曲を知ったきっかけは、月刊明星付録の「ヤンソン」に楽譜付きで載ったからなんだよな。
「ハイティーン・ブギ」の「片面」ということは通常B面なわけで、あまり世間一般には表に出てこない。
ただ、この曲は「両A面」扱いだったんだよね。 
まあ、「ハイブギ」人気と相まって、ヤンソン側も譜面付きで載せたんだろうけど、そうじゃなきゃ今頃完全に死角に入っちゃってただろうな。 今となっては感謝ですね。


 


ところで、当時、「たのきん映画」って好きでさ、第3弾の「グッドラックLOVE」まで、全部映画館で見たんだけど、この「ハイブギ」から見なくなっちゃったんだよな。
 この作品については、もう見なくてもどうでもいいとは思わなかったけど、やっぱ引っ越したばっかってことが大きかったんだよな。 千葉の事、全然分かんなかったし。

今になって、当時の配給収入を調べたりすると、この「ハイティーン・ブギ」、1982年度の邦画配給収入は18億で、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」について2位だったんだねぇ。

http://www.eiren.org/toukei/1982.html

どうやら一連の「たのきん」映画の中では一番ヒットした作品だったらしいんだよね。


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