かじやんのヒット曲&チャートレビュー

ヒット曲を聴き続けて40数年! かじやんがお送りする、「今」のヒット曲&ヒットチャートから、「あのころ」のヒット曲&ヒットチャートまで、ヒット曲について幅広くご紹介するブログ。 自主チャートサイト"THE HITCHART NOW AND THEN"の支店ページという位置づけにいたします。

1位

おもいで酒 / 小林幸子

1979_08_おもいで酒_小林幸子


今回の1曲セレクトは、「おもいで酒」小林幸子です。

まずはデータですら。

・タイトル      おもいで酒
・アーティスト    小林幸子
・作詞        高田直和
・作曲        梅谷忠洋
・編曲        薗広昭
・リリース日     1979年1月25日
・発売元       ワーナーパイオニア
・オリコン最高位   1位
・売上げ枚数     138.3万枚
・ベストテンランクイン期間:1979年6月18日〜1980年1月21日付

久々の「演歌」です。 どうもね、ここを読んでくださる方には演歌を敬遠される方が多いようで、演歌系を書くと、今一つアクセス数が伸びないんだよね。 だから140万枚近いセールスをたたき出し、ミリオンセラーの大ヒットだったこの曲も、ずっと保留のままにしてたんですけどね。

まだ書いていない曲を考えると、そろそろ贅沢も言ってられない・・ということで、「満を持して」()引っ張ってきました。

アクセス数は、年代にとらわれずアクティブな方が多いアイドルポップス系ファンには、どうしてもかなわない。なので、アクセス数を稼ぎたいときはどうしてもアイドル系の曲に頼りがちになっちゃうんだけどね。

でも、こと、レコード売り上げ枚数となると、全くパターンが逆になる。

まあ、演歌系の場合は、一度火が付くと、なかなか火が消えない超ロングヒットになる傾向が強いですからね。
昨今では「新曲」の演歌系と言うと、すっかり「下火」になってしまっているわけで、、昔は超ロングセラーになる傾向が「強かった」と言った方がいいんですかね。


・・・ということで、今回の1曲セレクトは、そんな超ロングヒットとなった、

小林幸子さんの「おもいで酒」なぞを一つ。

小林幸子さんにとって、この曲はデビュー以来28枚目のシングル。 苦節15年にしてようやっとつかみ取った大ヒット曲となる。

演歌系には「苦節何十年」という浪花節がよく合う・・・なんてね。

28枚目のシングルとはいえ、オリコンでのベスト100入りは、ワーナーパイオニアに移籍して以来、この曲が3枚目。
今から思うと、ワーナーへ移籍したことが一つの転機になったとも言えますね。


それにつけても、この「おもいで酒」は、ご多分に漏れず超ロングヒットだったもんなぁ。

1979年1月の冬の日にリリースされたこの曲。オリコンでは半年かけて6月18日付でベストテン内に到達。
ここから、翌1980年1月21日付まで32週間、ベストテン内をキープすることになる。(うち1週は年末年始の2週間集計)

連続ベストテンキープではないけど、SMAPの「世界で一つだけの花」は32週以上オリコンでベストテン入りをしている。
いや、考えてみれば、これ以前にも連続ではなく、ベストテン入り記録では都はるみさんの「北の宿から」が35週入りしているので、 単純にベストテン入りという意味ではオリコン記録ではない。

でも、30年前の1991年に刊行された「オリコンデータ私書箱」によると、1991年当時では、最長「連続」ベストテン入り記録は、この曲だったんですよね。

いや、「シングルチャート」に限定したうえで言えば、「連続ベストテン入り」という記録では、未だに破られていないかも。。。

まあ、最近のオリコンチャートには疎いんで、もし違ってたらメンゴ。

ちなみに、「ザ・ベストテン」では、オリコンに遅れること1か月後の 1979年7月19日にベストテン初登場。 9月20日まで10週間ベストテン内をキープしたけど、9月27日に息切れダウン。ここで終わりかと思いきや、翌10月4日に、ベストテン返り咲き。再び4週ベストテンをキープしたのち、再度ベストテン圏外。 ここで終わりかと思いきや、11月8日に再度返り咲き・・・と計15週ベストテン内をキープしている。

レコード売り上げと、演歌系の得意要素である有線では強かったけど、ラジオ総合とハガキリクエストでは伸びを欠いた、総合ランクであったベストテンではやや苦戦だったわけなんだよね。

しかしさ、ニューミュージック系全盛に加え、ジュディ・オング「魅せられて」旋風の真っ只中にあった1979年夏のヒットチャートシーン。
そのなかで、週間売り上げ4万2千枚で首位と言う比較的低レベルの、ランキングの「谷間」週であったとはいえ、あの時代、演歌系でオリコン1位獲得というのは、立派だったと思いますよ。


ところでさ、最初に書いたように、ここのブログでもそうだけど、どうも演歌系と言うと敬遠される方が多いんだけど、なんでなんでしょうね。

やっぱ、演歌と言うと、ジジくさい、ババくさいっていうイメージなんでしょうかねぇ。
・・・と言うワタシも、最近の演歌は、全く触手が伸びませんが。。。。

でもさ、この曲がヒットしていた79年頃って、演歌だろうが、ムード歌謡だろうが、ヒット曲はヒット曲として、ポップス、ニューミュージック系と同一線上に感じたし、抵抗感もなく普通に聴いてたんだよね。

だから、この「おもいで酒」も「ザ・ベストテン」でも、まったく違和感も抵抗感もなく、普通に聴いてたよなぁ。

この曲のすぐ後に、「ザ・ベストテン」にベストテン入りした、森進一の「新宿みなと町」にしたって、この年の年末に大ヒットした敏いとうとパッピー&ブルーの「よせばいいのに」にしたって、全く抵抗感がなかった。

なんでなんだろうねぇ。 

まあ、それだけなんのキライも、しがらみもなく、素直にヒット曲を聴いていたっていうのが、一番の理由なんだろうけどね。

ただ、本当にそれだけなのかなぁ・・とも思ったりして。。

考えてみれば、あの頃、特に1979年頃のヒット曲って「テレビの歌番組」で歌うことを前提にした曲作りだったような気がするんだよね。

アイドルポップス系や演歌系は言うに及ばず、逆にニューミュージック系でもそういう傾向が強かったと思う。

いつだったか、ゴダイゴの「銀河鉄道999」を書いた時、テレビバージョンのアレンジがめっちゃかっちょよかったと書いたと思う。この曲だけでなく、ツイストの「燃えろいい女」だって、テレビバージョンの方がめちやくちゃかっこよかったし。 サザンの「気分しだいで責めないで」もそうだったな。

兎も角、あの当時、ニューミュージック系の人たちも「テレビ」で歌うことに抵抗感どころか、むしろかなり力を入れていたような印象が強いんだよね。

そういう意味では、ニューミュージック系も、アイドルポップスも、演歌も テレビの歌番組では、ヒット曲という所で、完全に同一線上に感じたんだろうなぁ 特に「ザ・ベストテン」ではそうだったなぁ。
最近はさ、何かというと曲のジャンルで区別する傾向があるじゃん。 あの時代、そういう傾向は少なかったと思うんだよね。

まあ、ベストテン入りしている曲は、ほとんどの曲はクオリティが高かったんだよね。曲がよかった上、テレビで歌うことに力を入れていたわけだから、そりゃ、見てるほうとしては、ジャンル別に区別する必要もなかったわけでさ。

ワタシャ、当時10才のガキだったけど、子供でもそういう所って感じ取れるもんなんだよなぁ。 
いや、ガキだったからこそ、大人よりも敏感に感じ取れたのかもしれないな。





1979年8月6日放送分の「夜ヒット」みたいですね。
毎度毎度のことだけさあ、夜ヒットってバックの演奏が、どうもお粗末なんだよなぁ。。。
なので、本当は「ベストテン」の方が良かったんだけども、どうもなさそうなのでしょうがなく。

あ、そうそう、当時の小林幸子さんって、マイクの持ち方が人差し指を立てて独特なんだよね。
これ、当時も、変わった持ち方だなぁ・・なんて子供ながらに思ったなぁ。

ところで、この曲を作曲した、梅谷忠洋氏って本業はクラシック畑の人で、フルート奏者らしいですね。当時27歳でこの曲を書いたようです。
そんな若い方がこの曲かいてたんだ・・・。というのはちょっとビックリ。もっと大御所のセンセイが書いてたんだと思ってましたわ。 
でも、考えてみれば、若い方が書いてたからこそ、曲の感覚が、より若者に向けたところがあったのかもしれない。だから演歌と言っても、我々でも抵抗感がなく、素直に聴けたのかもしれないし、大ヒットしたのかもな。

上で書いたように、ニューミュージック全盛の中、オリコン1位獲得は立派なことだけど、1位を取るためには、より幅広い世代に支持される必要があったわけでさ。そのためには、より若者世代の支持というのが必要になってきますからね。

これを考えると、今、演歌の復権するには、このことを踏まえて、大御所の先生ではなく、若い方が演歌を書くっていうのもいいのかも。
同じ曲調でも若者世代と、大御所先生とでは、微妙にニュアンスが違ってくると思うし。

いずれにしても、クラシックの人が演歌を書くのはかなり珍しいということで、当時は、話題になったようですが・・・。 ワタシゃ、今知りましたわ 


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$百萬BABY / Johnny

1982_07_$百萬BABY_Johnny


今回の1曲セレクトは、「$百萬BABY」Johnnyです。

まずはデータです。

・タイトル    $百萬BABY
・アーティスト  Johnny
・作詞                松本隆
・作曲      Johnny
・編曲      Johnny
・リリース日   1982年6月23日
・発売元     キング
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   33.8万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 4位
・ベストテンランクイン期間:1982年7月26日〜8月16日付

既に1曲セレクトに書いてて当然・・・と思うんだけどまだ書いてなかった曲。
以前も、こんなシチュエーションで引っ張ってきた曲って、何曲かあったと思うんだけども、今回引っ張ってきた曲は、まさにそんな曲ですね。

Johnny  「$百萬BABY」。

1982年夏。オリコン1位を獲得したこの曲をよもや、まだ書いてなかったとは。。。。

もしかすると以前書こうと思ってたけども、You tubeに動画が落ちてなくて、保留にしたまま忘れてたのかも。。。。

いずれにしても、うーむ、不覚。。。。


この曲、個人的には思い入れがあるんだよなぁ。 思い入れというか、この曲を聴くと、はっきりとあの当時の風景がフラッシュバックするんだよね。

この曲がヒットしてた時って、丁度、福島の「いわき」から千葉に引っ越してきたときでさあ。
引っ越し前日、当時住んでた、いわき の家の庭で、当時の友達みんなでお別れバーベキューをやったんだよ。当初は有志だけでやる予定だったんだけど、気が付いたら、同級生ほとんどみんな集まっちゃって、凄いことになったのを覚えてるな。

その夜、先に大方の家財道具を送っちゃって、ガランとした家の「居間」に家族3人川の字に布団を敷いた傍らに、当時使っていたSonyのラジカセを置き、裸電球1つの薄暗い部屋でTBSラジオの「ザ・ヒットパレード毎日がベストテン」を聴いた。

たしか1982年7月5日月曜日、「ニューミュージックベストテン」の日だった。 
そして流れてきた、Johnny「$百萬BABY」

初めてこの曲を聴いたのも「ザ・ヒットパレード毎日がベストテン」だったと思う。
いい曲かどうかは、よく分かんなかったけども、なんか刺さったのを覚えてる。 
当時の不安な心境と、どことなく哀愁を感じるこの曲の曲想がシンクロしたんだと思う。

「いわき」という土地柄、TBSという東京からの電波に、いつもは雑音越しで聴いてたこの番組が、あの時は、やけにクリアな音で聴けたのが印象的だったな。

この曲を聴くと、決まってフラッシュバックするのは、あの引っ越し前日の夜の光景だ。

夕方、みんなでやったバーベキューの時は、ワイワイ楽しかったけど、ガランと何もない部屋で家族3人だけになると、急に不安になったのを覚えてるな。

父親の仕事の関係とはいえ、かなり急に決まった引っ越しだったし。千葉なんて、全然知らない土地だったし。 これからどうなるんだろう? っていう不安のほうが大きかったんだよね。

実際、不安が的中というか、千葉での生活は暫く馴染めなくてさ、友達も出来ないし、ずっと いわきに帰りたいと思ってた。 そんな悶々とした生活をしばらく送ることになるんだけども。

千葉に越して来てすぐに始まった夏休み。友達もなく、悶々とした生活の中で、毎日、兎に角ラジオばっかり聴いてたのよ。朝のワイド番組から、夜、寝るまでずっとかけっぱなしだったような気がする。

ラジオから流れてくる音楽が唯一の友達だったな。 アイドル、ニューミュージック、演歌、洋楽・・・とにかく何でも聴いてたと思う。

いずれにしろ、1982年という、あの不安で孤独な夏の体験が、今の「ベース」になっていることは間違いないんだよね。 あのころ聴いてた音楽の曲数に比べると、最近聴いてる曲数なんて「屁」みたいなもんだもの。

あれから39年。 
いわきに住んでた年数よりも千葉に住んでる年数が、ついに3倍になってしまいましたわ。。。
あの時の不安は、時が経つにつれていつの間にか忘れちゃったけど、夏の暑さと湿度の不快さは、あの時のまんまですね。 特にこのジトーっとした湿度は何年たっても慣れない。
「いわき」は東からの海風が入るので、夏でもこんな不快な湿度の日はそれほどない。 夜は雨戸閉めないと寒いくらいだったし。当然クーラーを使ったこともない。
まあ、当時より確実に気温が上がった今では、分からないけど。。。



うーむ、また話が脱線してきたぞ。。。。

この曲のリリースは1982年6月23日
当時の定期のリリーススケジュールでは、20日前後のリリースは、21日リリースというのが通例()だったことを考えると中途半端で変なリリース日設定になっているけど、これは、まあ、いわいる「オリコン対策」ですね。

当時、リリース直後の初動の動きが大きくなりつつあり、オリコン初登場でいきなり最高位という曲が増えてきていたんだよね。
それと共に「オリコン初登場1位狙い」の曲も増えつつあってさ。 当時の、まっち先生やトシちゃんのジャニーズ勢はそうでしたね。 
オリコンの集計期間に合わせたリリース日設定。だから、まっち先生もトシちゃんも通常の定期リリース日ではなく、臨発的な変なリリース日が多いんだよね。

そんな流れに銀蠅一家も便乗した() かどうかはさだかではないけど、銀蠅一家関係のリリース日も、オリコン対策を行ってきていたのか、臨発的なリリース設定のシングルが多い。

そんなオリコン対策がぴったりと嵌ったのか、前曲「ジェームスディーンのように」で最高位3に甘んじたけど、この曲は、見事オリコン1位を獲得する。

まあ、運も良かったんだけどもね。
前週まで4週連続で首位を守ってきていた、岩崎宏美「聖母たちのララバイ」の売り上げが下がりつつあったのと、まっち先生の「ハイティーン・ブギ」が初登場する「間隙」のタイミングというのもあった。

まさか、そこまでチャートアクションを読んでのリリースだとしたら、銀蠅一家はかなりしたたかな計算をしていたな・・とも思ったりするんだけども。。。さすがにそれはないか。。。。

この曲のオリコン1位獲得に続いて、8月には弟分の嶋大輔「暗闇をぶっとばせ」もオリコン1位を獲得と銀蠅一家ブームは、この頃がピークでしたね。

ただ、このピークを境に急激に「ブーム」は終焉に向かったわけで・・・。 いや、今思えば、あの落ち方は、少なくとも1982年の今頃には、全く予想もしてなかったですけどね。。。。

時代の流れは速いのよ。やはり、「つっぱり」というコンセプトだけでは、きつかったんだよね。

飛びつくのが早いけど、見捨てるのも早い。 

この時の「落ち方」を見ると、日本人特有の「性」を感じてしまいますわ。

それ以前に、銀蠅一家の宿願だった、オリコンシングル1位獲得を達成して、目標を失ったっていうのもあったのかもな。
本来だったら、Johnnyというソロプロジェクトや、嶋大輔という弟分ではなく、銀蠅本体で達成する大前提があったと思うんだけども。。。




ところで、この曲、作詞が「松本隆」氏なんだよね。

でも、この間の「トリビュートアルバム」には、この曲入ってませんでしたね〜。 オリコン1位獲得曲なのに
松本隆氏も忘れてましたかねぇ〜  それとも今では無かったことになってますかねぇ

個人的には、それこそ、宮本浩次氏とか、銀杏BOYZの峯田和伸あたりに歌ってもらったら面白かったかも・・なんて思うんだけとな。


まあ松本隆氏が、どういういきさつで、銀蠅一家と繋がったのか・・・というのは、よくわかんないけど、いきなり、この曲の作詞・・・というのは、当時でも結構意外な感じがしたな。

この頃になると、さすがに作詞、作曲者について興味を持つようになってたんでね。松本隆氏が、まっち先生の一連のシングルを書いてること、この曲の前年の「ルビーの指環」を書いてること、松田聖子さんの一連のシングルを書いてること・・くらいは気が付いてたしね。

まだ、その昔の「はっぴえんど」のドラマーだったことなど歴史的なところは知らなかったけど。。。

いわいる「はやり歌」としての当時の一番手の作詞家であることは、気が付いてましたね。

そういういわいる「はやり歌」系の人が、なぜに「自作自演」のニューミュージック系である銀蠅一家に曲を書くっていうのが、不思議だった。

たしかに、前年、南佳孝氏の「スローなブギにしてくれ」であったり、大滝詠一氏の「ロング・バケイション」の一連の曲を作詞していたことから、「自作自演系」に詩を提供していた実績がある事には気が付いていたけど、どうも、銀蠅一家とは結び付かなかったんだよなぁ。

もっとも、銀蠅の弟分である紅麗威甦の「ぶりっ子ロックンロール」のアレンジに若草恵氏を起用したり、妹分の岩井小百合にも馬飼野康二氏を起用したり、「歌謡界」ともつながりを持っていた銀蠅一家だったわけで、もしかすると、ここに松本隆が出て来ても不思議ではなかったのかもしれないし、それだけ、この曲に賭けてたということなのかもしれないな。
そそそ、それだけ、本気でオリコン1位獲りに来たってこと。
で、結果的にオリコン1位獲れたしね。


蛇足だけど、、月刊・明星の歌本「YOUNG SONG」、1982年8月号の「新曲激評」でのこの曲の評として、近田春夫氏は、「ぜ」の使い方が上手いねと褒めてましたね。

へぇ、近田氏が褒めるなんて珍しいね・・・と思ったけど、この号の前月号で、ほとんどの曲をケチョンケチョンに酷評したんで、その反動だったかもしれないけど。。。




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我が良き友よ / かまやつひろし

1975_03_我が良き友よ_かまやつひろし


今回の1曲セレクトは、「我が良き友よ」かまやつひろしです。

まずはデータです。

・タイトル     我が良き友よ
・アーティスト   かまやつひろし
・作詞       吉田拓郎
・作曲       吉田拓郎
・編曲       瀬尾一三
・リリース日    1975年2月5日
・発売元      東芝EMI
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   70.0万枚
・ベストテンランクイン期間:1975年3月3日〜6月2日付

昭和の音楽人がまた一人旅立ってしまいましたね。
かまやつひろし氏。享年78歳

ここしばらく体調が悪いというニュースは聞いていましたが、まさか、こんなに早く逝ってしまうとは思っていませんでした。人生80年といわれ、80歳以上のかたも珍しくない昨今では、78歳で逝ってしまうとはやはり若かったと思いますね。

ワタシ的には、グループサウンズの世代ではないし、70年代からヒット曲を見続けているとは言っても、フォーク世代ど真ん中と言う訳でもない。
少し上の世代の大御所・・・そんな存在に感じていました。

ここのところ一時代を築いた音楽人が、次々に旅立ってしまっていますね。
時代は移り変わっている・・・昭和は遠くなりにけり・・・・と最近よく言われている訳で、それでも、実際に「昭和」というあの頃、時代を作った音楽人が逝かれてしまうのは、どんなに頭では分かっていると言っても淋しいものです。


・・・・ということで、今回の1曲セレクトは、やはりこの曲しかないですよね。

かまやつひろし「我が良き友よ」

かまやつ氏が亡くなってから、ここ数日、テレビ、ラジオでも頻繁に流れている、かまやつ氏の代表曲・

・・・・と言っていいのかな。

ともかく一番「売れた」曲。 

そんな曲でいいの? あんたセレクターでしょ? もっとテレビ、ラジオで流れない気が利いた曲は無いの?

とか言われそうだけど、良いんです、この曲で。

ここは、あくまで当時の「今」の時期ヒットした曲をターゲットにセレクトするっていうのを大前提としているわけで。。。

・・・・そうです、この「我が良き友よ」は「今の時期」のヒットしていた曲なのですね。

リリースは1975年2月5日。当時のオリコンチャートをひも解くと、それから約1か月後の1975年3月3日付でベストテン入りを果たしています。 しかも前週16位から3位と、いきなりのベスト3入り。

つまりは、42年前のまさに「今」の時期からヒット街道まっしぐらとなった訳ですね。 
最終的には3月最終週から4週連続で1位獲得。以後6月2日付まで、丸3ヵ月間、計14週間ベストテン内キープ。70万枚という大ヒット。
名実ともに、かまやつ氏の「代名詞」的な曲になった・・・・と巷では思われている訳ですが。。。

ただ、かまやつ氏本人側からとしてみれば、果たしてそうなのか・・・とも思えたりもして。

確かに「ソロ」としては、この曲は、かまつや氏にとっては、唯一のオリコン1位獲得曲であり、ゆえに「代表曲」というのは事実な訳だけども、なにより、ソロ以前に、ザ・スパイダースのギタリストであり、コンポーザーという確固たる経歴がある訳でね。
その後も40年にもわたるミュージシャン人生を見ると、この曲の大ヒットというのも、そんなミュージシャン人生の中の1ページだったのかもしれない。

そんな肩に力が入っていない飄々とした生き方。 個人的にはそう言うイメージがあるんですよね、かまやつ氏には。

「吉田拓郎氏がいいなぁと思った。自由で、自分が言いたい事を表現してる。これが本当の音楽ぢゃないか」

というかまやつ氏が語った趣旨の一節が田家秀樹氏の「読むJ-POP」にある。

スパイダース時代、G.Sの第一人者のグループということで、ヒット至上、スケジュールも管理され・・・という、管理管理の中で音楽をやっていたかまやつ氏にとっては、当時の吉田拓郎氏の自由奔放な音楽への関わり方が羨ましくもあったんでしょうね。

そんな羨望の中から、吉田拓郎氏との関わりが生まれ、自身もエレキからアコギに持ちかえ、フォークを歌っていく。 もともとジャズ一族の生まれであり、ジャズからポップス、ロックと流れて行っただけに、それまでのかまやつ氏には無かったフォークという歌への傾倒が始まる。

そんな中で、生まれたこの曲。 

だから・・・と言う訳でもないんだろうけど、作詞、作曲は、かまやつ氏本人ぢゃなく、吉田拓郎氏なんですよね。
本来、コンポーザーでもあるかまやつ氏が吉田拓郎氏の曲を歌う。
 コンポーザーであるヒトからみれば、他人の曲の歌うっていうのは勇気が居る事だろうし、場合によっては屈辱的な事でもあると思う。
本当に信頼したヒトの曲ぢゃないと出来ない。 そう言う意味では、かまやつ氏は、吉田拓郎ってヒトに心酔していたんでしょうね。

その始まりが、この曲の半年前にリリースされた「シンシア」。 当時のトップアイドル南沙織さんの事を歌った曲だけど、かまやつしが吉田拓郎と曲を歌いたくて、拓郎氏とコンタクトを取った曲と言われている。

その続きと言う位置づけであるこの曲でも、だから、コンポーザーとしてではなく、あくまで一人の「シンガー」として参加する事が出来たんじゃないかな。

そもそも、この曲自体「バンカラ」学生の歌であり、かまやつ氏のキャラではない訳でね。
自分に無いものをウタにする・・・コンポーザーにとっては難しい事ですよね。しかも、自分に無い部分が自分のベクトルがずれてればいるだけ難しさが増すわけで。。。

正直、この曲は、それまでの私生活を含め、音楽人生の中では体験した事が無いような内容だと思う、かまやつしにとって。
実際、この曲は吉田拓郎氏の大学生時代の私体験から書かれたものなんだけども。

そんなある種の異文化交流的なところ・・・というのが、大ヒットに繋がったのかもしれない。
それまでの経歴からしてみれば、限りなく洋楽的な立ち位置に居た、かまやつ氏が、日本の泥臭い文化な歌を歌っている訳だからさ。第三者からしてみれば「意外」性充分だもんね。



2006年の「吉田拓郎 in つま恋」での、かまやつ氏との共演。
そそそ1975年伝説の「つま恋」オールナイトライブから30年。ということもあり開催されたライブ。
「つま恋」が閉鎖された今日にあっては、これまた伝説的なライブですね。
うん、ワタシもこれ見に行ったんだよな。
野外ライブも数々見てきたワタシですが、自分よりも年上の、「お兄様」「お姉様」方が大半の野外ライブは、これが初めてでしたねぇ。そう意味でかなりのアウェー感を感じましたねぇ

もちろん、この場面も「生」で見てたんですが、個人的に「生」でライブを見たかまやつ氏は、結局はこの時が最初で最後になってしまいました。

改めてご冥福をお祈り申し上げます。 合掌。



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長い夜 / 松山千春

1981_06_長い夜_松山千春






今回の1曲セレクトは「長い夜」松山千春です。

 まずはデータでーす!

・タイトル     長い夜
・アーティスト   松山千春
・作詞       松山千春
・作曲       松山千春
・編曲       大塚茂人
・リリース日    1981年4月21日
・発売元      NEWS
・オリコン最高位  1位
・売上げ枚数    86.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 1位
・ベストテンランクイン期間:1981年5月18日〜9月7日付

 「長い夜」と聞いて、シカゴの「長い夜」を思い浮かべる方、70年代フリーク、きっとワタシよりは年上の方が多いかなぁ 
 反対にYUKIの「長い夢」と間違えた方(んなヒトはいねぇだろうけど。。。)、きっとお若いに違いない

 松山千春の「長い夜」を思い浮かべる方、きっと同年代でしょう

 ・・・・・となんという「ふり」で入ったんでしょうねぇ。いやいや、毎日書いてるとだんだん書き始めのネタが尽きてきてしまいまして。。。


・・・・ということで、本日は、松山千春「長い夜」です。


 この曲って言ったら、どうしても「ザ・ベストテン」を思い浮かべずにはいられないですよね。
 いや、つい、「ベストテン」を思い浮かべてしまうアナタ、世代を超えて「同類項」ですっ

 まずもって、あの寺尾聰「ルビーの指環」の13週連続1位を「阻止」した曲ですね。 1981年7月2日放送の出来事。今から34年前ですわ。

 個人的には、当時は「ルビーの指環」派でして、だから、この曲に1位の座を奪われた時はショックだったなぁ。だから、ということでもないんだけど、当時、この曲「大っキライ」だったんですわ
ま、ガキの単純な理由からなんだけどね。

 それと、この曲と「ザ・ベストテン」で忘れていけないのは、当時、TVに出ない、出ない・・・と言われてた松山千春が、この曲で「ベストテン」に出た・・・っツウことですね。
 それも、1981年7月2日放送。。。。例の有名な日比谷野音からのライブ映像ですね。

 まあ、だから、厳密に言うと出演したわけではないけどね。。。(1978年11月16日「季節の中で」は厳密な出演だけど)

 でね、ここまでは、結構有名な話なんだけど、いまネットを調べてたら、7月2日以前にもベストテンに出てたことが判明。
1981年6月11日放送(第4位)のときも、富山市公会堂でのライヴ映像を放送とでてきた。

 いや、これは、ワタシも覚えてないなぁ。。。。ネットっちゅうもんは便利なもんですわ〜。


 上で書いたように、あの時代、「大っキライ」だったこの曲だけど、もちろん年を経るごとに考えは変わってきたわけで、20歳過ぎて、カラオケブームの頃には、もうね、この曲はなくてはならない曲になってましたねぇ。

 これ歌うと、うけるんだこれが。。。

例のサビの部分をめっちゃ大げさに歌うのね。 これ、当時から千春自身もそう歌ってたんだけどさ、


♪な〜〜がーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーいーー夜を〜 ♪


♪お〜〜まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーえーーだけに〜 

この愛を 誓ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


え〜デフォルメしてかくとこんな感じにホントに歌うのよ。
そうすると、みなさん笑ってくれますよ。きっと。

えーさいごの「う」は申し訳程度に歌うのがポイントね。

 いやいや、大げさでなくて、ほんとに千春もライブではこう歌ってんだから〜。


 あ、そうだ、結婚式で新郎さん、こんな感じで歌ってみ。絶対うけるから



 でも、レコードでは、意外とツマンナイのよね。この大事なサビの部分。さらっと、

♪この愛を誓うーーーーーーーーーーーーーーーーーー♪

で終わっちゃってて。 やっぱり、これではいけません!

 いつか書いたことがあるんだけど、当時はレコードでの歌唱って、ライヴにくらべて、随分、さらっと歌ってたり、演奏してたりしたものがあったりして、意外とつまんないことがあるんですよ。
 それより、ライヴでの演奏では熱を込めていたんだけどね。だから、テレビの方が全然面白い演奏してたヒトもたくさんいたしね。

 この曲なんかは、その典型的な例ですね。 


 それにしても、この曲の前後は、「抒情派」フォークの松山千春にあって、アッパーな曲が続いてましたね。
 この曲の前の「人生の空から」なんて、イントロだけ聴いたら、松山千春の曲とは、到底想像が付かないし。

 あ、「人生の空から」のイントロは「クイズ ドレミファドン」の必須曲ですよ。 ↑のような理由で、意外と間違えるんだよね。



・・・というわけで、伝説の「ザ・ベストテン」1981年7月2日放送分で、「ルビーの指環」をぬいて1位を取った時、日比谷野音からの中継。
 千春、若っけえなぁ。細いし髪の毛ふさふさですわ。今は、海坊主見たいだもんね。
客席から投げ入れられたテニスボールをかかとで蹴り上げるポーズがかっちょいいんだよな。
今は禁止になってしまった、紙テープ投げ入れも、当時は良かったから、ステージ上紙テープが凄いね。
大人になってコンサート行けるようになったら、紙テープ投げ入れやりたかったんだよな、当時。
そしたら、禁止になっちゃったんだもんなぁ。



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別れの朝 /ペドロ&カプリシャス

1972_01_別れの朝_ペドロ&カプリシャス






今回の1曲セレクトは、「別れの朝」ペドロ&カプリシャスです。

 まずはデータです。

・タイトル    別れの朝
・アーティスト  ペドロ&カプリシャス
・作詞      Udo Jurgens
・作曲      Udo Jurgens
・日本語詞   なかにし礼
・編曲      前田憲男
・リリース日   1971年10月25日
・発売元     ワーナーパイオニア
・オリコン最高位 1位
・売り上げ枚数  55.7万枚
・オリコンベストテンランクイン期間:1972年1月24日〜4月10日付

 今回は、思いっきり「重たい」曲を一つ。
 ペドロ&カプリシャスの「別れの朝」

このどん曇りの「寒い朝」にこの曲のような重たい曲を聴いちゃったりしたら、1日気分も重たくなるかなぁ。。。


 この曲のヒットは、1972年・・・っつうことは、今から43年も前の曲だから、たとえ、オリコンで1位を取ってる曲でも、ま、今や知ってるヒトしか、知らないって曲になるのかなぁ。

 しかし、今では、「絶滅」したと思われるような、このずっしりと重い曲が、1位を取っているって言うことは、完全に「時代」を反映していると思いますねぇ。
 もちろん、ワタシもこの時代の空気ってよく知らないけどさ。厳密に言うと、すでに生まれていたけど、2歳半だもんなぁ・・・。さすがに、時代の空気までは、記憶にございません・・・ですわ。

 もちろん、そう書けるには、後年、フジテレビで放送してた「19×× 僕らの思い出のメロディ」に拠って、「知った」部分がかなり大きいんだけどさあ。

 この曲って言うと、バックに流れる映像が、連合赤軍の「あさま山荘」事件だったりすることが多いんだけど、これが、実に、この曲とマッチするんですよ。
 ・・・というか、「あさま山荘事件」が起きたのは、この曲がちょうど、オリコンで1位に立っていた、1972年2月のこと。
 いや、だから、時間軸的にも、リアリティそのものなんだよね。もちろん、歌われている内容的には、全く関連性はないんだけど。

 でも、時代背景的な匂いって言うところには、近いところがあるのかなぁ。

 曲の内容は、タイトルの通り、男と女の「別れ」の曲だけど、喧嘩別れ・・・というわけではなく、何か「訳あり」的な別れなんだよね。
 その「何かの訳あり」って言うのが、「時代」っていう背景があるような気がするんだよね。

 まあ、今の時代とは、かなり違う部分もあるし、今の時代しかリアルに知らない人にとっては、「クサッ」で終わっちゃうかもしれないし、理解しがたい部分もあるかもしれないけどさあ、でも、みんな、一生懸命生きてるような息遣いは感じるんだよね。

 だからねぇ、この曲を聴くと、単に「重てぇな、この曲」だけでは、済まされない、何かを感じてしまう、ワタシなんですねぇ。


 ところで、この曲は、ペドロ&カプリシャスにとって、最初のヒット曲になるんだけど、ボーカルは、初代ボーカルの前野曜子さん。
 で、73年に、現在でも活躍してる高橋真梨子さんに交代するわけなんだけど、前野さんの交代については、いろいろとあったみたいだね。
 
 ただ、まあ、この曲についても、その後、高橋真梨子さんとか、その他、いろいろな人が歌ったりしてるんだけど、個人的には、やはり、この曲は、オリジナルの前野さんのボーカルがもっとも似合ってると思うねぇ。

 うん、確かにボーカル力としては、高橋真梨子さんの方が、全然上だと思うんだけど、どことなく、たよりげな「泣き」のボーカルが、この曲には合ってるんだよね。
 
 もともとは、この曲、オーストリアのヒット曲が原曲なんだけど、日本語詞は「なかにし礼」氏が書き下ろし。
 そんななかにし氏が書く、繊細なか細い感じの女のヒト像の表現者としては、「泣き」のボーカルの前野さんのほうが、一つ上のような気がするんだよね。
 逆に、その後の「ジョニーへの伝言」のような、阿久悠氏が書いた、線がはっきりした詞については、ボーカルの線の太い、高橋真梨子さんの方があってると思うしね。

 そんな、前野さんも、すでにこの世の人ではない。うん、ワタシも知らなかったんだけど、どうもアルコール依存症で奇行が多かったヒトのようで、最後は肝臓病に罹り、1988年になくなっていたりする。

 つまり、この曲は、すでに、「オリジナル」のボーカルでは、「生」では聴けなくなっているってこと。

 歌唱力には定評があったけど、結局のところは、実物像も「繊細」なヒトだったようですね。まあ、その辺・・・普通のヒトとは違う繊細さ・・・があったからこそ、この曲のような繊細な曲が合ってたんでしょうな。


・・・どうでもいいけど、この曲のレビューを今回リメイクしようと思って、Wikipedia開いたら、この曲の参考資料が「かじやんのヒット曲&チャートレビュー」になってるwwwww

このブログじゃんか・・・・・ 

おそらく、wikipediaに書いた人は、6年前に書いた「オリジナル」のレビューを参考にしたんだろうね、きっと。。。。
 ちなみに、Wikipediaに書いたのはワタシじゃありませんwwww



めちゃくちゃ、音悪いなこの動画。。でも、オリジナルはこの動画しか落ちてなかったんで、しょうがなく。。。


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CRAZY GONNA CRAZY / trf

1995_01_CRAZY GONNA CRAZY_trf



今回の1曲セレクトは、「CRAZY GONNA CRAZY」trfです。

 まずはデータです。

・タイトル    CRAZY GONNA CRAZY
・アーティスト  trf
・作詞      小室哲哉
・作曲      小室哲哉
・編曲      小室哲哉
・リリース日   1995年1月1日
・発売元     エイベックストラックス
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   158.7万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 1位
・ベストテンランクイン期間:1995年1月16日〜2月27日付
・タイアップ:フジテレビ系ドラマ「我慢できない」主題歌

昨日、昼間1995年のヒットを聴いてたんだけど、で、聴いてるうちに、なぜか、trfの「CRAZY GONNA CRAZY」を引っ張ってきたくなって、引っ張ってきちゃいました。。。(これも大人気ないねあせあせ

 ここのところ、1月1日リリース曲を何曲か引っ張ってきてたでしょ。
でも、なにも1月1日リリース曲は、80年代までではないわけで、90年代、いや、今でも続いているわけだからね。

 そういう、trfの「CRAZY GONNA CRAZY」も95年の1月1日リリースだったわけだ。

 このころのtrfの「勢い」はすごかったからなぁ。もしかすると、同じエイベックスでも、そのあとの安室、globe、浜崎・・・よりも、一時的な勢いはあったかもしれないな、今考えると。

 そのピークは、ちょうど、この曲リリースの頃かな。前日の12月31日、第36回日本レコード大賞優秀賞受賞、同日、第45回紅白歌合戦初出場・・・で、盛り上がってたところに、新曲リリースだったかんねぇ。

 このころ、ウチラ「オリコンチャート研究会」のメンバーは、大晦日にワタシのうちに来て、レコード大賞〜紅白を見ながら、一晩中ワイワイやるのが恒例になっていて、もちろん、この年もやってたな。

 で、朝方、ちょっと仮眠して、元日の昼頃から、ボーリング⇒カラオケという、ちょっと強行スケジュールが恒例になってまして・・・。

 そういえば、1995年元日ボーリング場で、もうこの曲がかかってたんだ。

 だからか、どうも、個人的には、この曲⇒1995年元日のボーリング場っていうイメージがこびり付いて離れないなふらふら


 さてさて、曲は・・・というと、正直言って、trfの中でも一番「歌謡曲」に近いと思う。一言で言えば、一番分りやすい。

 うーん、なんていうのかな、尖ってないんだよね。まるいというかマイルドというか、小室哲哉の曲の中でも、聴きやすい部類の曲だとおもう。

 ただ、そんな分りやすい曲でも、音色は輝いている。うーん、なんていうのかな、寒空の中で輝いている白色&青色LED電飾のような、クールな輝きっていうのかな、そうそう、ちょうどクリスマスのLED電飾のような輝きを感じさせるような曲なんだ。

 白熱電球ではなく、あくまでLED電球。つまり「眩しい輝き」は感じるんだけど「暖かみ」は感じない輝きを放っているような曲っていうのかな。

 個人的には、そんな感じを受けるな。


 まあ、曲はどうであれ、この曲がtrfの中では、一番「売れた」曲っていうのも、やっぱり、このころのtrf人気を象徴していますわね。


 ただ、その伝説もこの曲をもって早くも崩れる。この曲から3ヶ月連続リリースをかけたんだけど、あっという間に売上げが落ちてったもんねぇ。

 結局は、連続して「出しすぎ」が原因でしょう。人気が最高潮、熱狂的な人気のときに短時間で矢継ぎばやにリリースすると、あっという間に「飽きられる」っていう典型的なパターン。

 結局さ、旨いもんを連続して食うと、すぐ飽きるのと同じなんだよね、生理的に言って。

 旨いもんはたまに食うから、旨いんであってさ。そりゃ、毎日食ってたら飽きるでしょ。

 それと同じ原理だと思うのよ。





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大都会 / クリスタルキング

1980_01_大都会_クリスタルキング






今回の1曲セレクトは、「大都会」クリスタルキングです。

 まずはデータです。

・タイトル    大都会
・アーティスト  クリスタルキング
・作詞      田中昌之 山下三智夫 友永ゆかり
・作曲      山下三智夫
・編曲      船山基紀
・リリース日   1979年11月21日
・発売元     キャニオン
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   118.1万枚
・THE HITCHART HOT30最高位:1位
・ベストテンランクイン期間:1980年1月7日〜4月7日付

 いやいや、ポプコン発の大ヒット曲で、まだ書いてなかった曲が残ってたんだねぇ。これは、かなり迂闊だったな。

 大都会 /クリスタルキング

 この曲は、1979年10月に行われた、第18回ヤマハポピュラーミュージックコンテスト、うんポプコンね・・・のグランプリ、さらに第10回世界歌謡祭、グランプリ獲得で、鳴り物入りで、翌11月21日にデビューした曲だ。

 まあ、ポプコングランプリから、世界歌謡祭グランプリっていう流れは、まあ、アーティストの「格付け」みたいなもんで、それまでも中島みゆき、ツイスト、円広志・・・と同じ流れで来てたからね。

 で、みなさん、同じ「キャニオン」からデビューしてたりする。

 うん、ポプコングランプリ⇒世界歌謡祭グランプリ⇒キャニオンからデビュー っていう流れは、一つのブランド的な流れになってたんだよね。このころ。

 ただ、デビューしたものの、1曲目は、「ポプコンブランド」で大ヒットする確率は高かったものの、なかなか2曲目以降ヒット定着っていう確率は低かったんだけどさ。

 だから、自ずから1発屋になる確率も高かったわけで・・・。「世界」をとりながら一発屋とは、いったいどういうこと?
 ・・・っていうのは、一時期笑い話だったこともあったりしてね。


 幸い、クリスタルキングの場合は、「一発屋」で終わることなかったんだけど・・・。

 さすがに、このヒトたちのボーカルの迫力を一度聴けば、あまりのインパクトの強さにびっくりするよなぁ。

 なにより、田中昌之のチリチリ頭に頭のてっぺんから出ているようなハイトーンボイス。
 プラスして、アイパーにグラサンっちゅういかにも「やっちゃん」のような、低音ボイスのムッシュ吉崎っていう、このコンピは、声質的にも、ビジュアル的にも、衝撃的なインパクトがあったもんですよ。

 わたしゃ、初めて、ベストテンの「スポットライト」に出演したとき、予想だにもしなかったボーカルにびっくりこいたもんなぁ。

 あ、ついでに言うと、うちのオフクロもびっくりこいてたのを思い出す。

 絶対に大ヒットすると思ったもの、この曲は。

 まあ、曲的には、今から考えると、客観的にクサイんだけどさ、あのころは、このクサさがカッコよかったんですよ。

 兎に角、ニューミュージック界の成熟期をガキながら感じ取っていたのは事実。

 もうずっと、このままニューミュージック全盛期が続くと思ってたもの、このころは。で、そうであってほしいとも思ってたのもこのころかなぁ。一番、「音楽」に対して多感だったかもしれない、個人的には。
 ヒットしてくる曲が、どれも「スゴイ」と思ってたのもこのころですね。事実、一番楽曲がいい、実験的で面白かったのも、このころの曲かもしれない。30年ヒット曲を聴いてきて。
 楽曲の「成熟期」だったのもかも知れないなぁ

 まさか、このあと4ヵ月後に「80年代アイドル」の芽がでてくるとは、全く考えもしてなかったな、このころは。
 

まあ、それもヒット曲クロニクル上の事実なんだけどもさ。


結局さ、日本のヒット曲の構成上、ロック・ニューミュージックがヒットの「長期主導権」は取れないような構造になっているんだよね。

 ロック・ニューミュージックが強い時期の後には、かならずポップスが主導権をとるようになっているんですよ。

 まあ、業界用語的に書くと、音制連<音事協 っていう力学的な構造ですね。

 これは、戦後日本の音楽業界的クロニクルから言っても、歴史上の事実なんだよね。

 個人的には、どっちかといえば「音制連」支持的なところがあると、自分では思っているんだけどさ。





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冬の色 / 山口百恵

1974_01_冬の色_山口百恵






今回の1曲セレクトは、「冬の色」山口百恵です。
 
 まずはデータです。

・タイトル    冬の色
・アーティスト  山口百恵
・作詞      千家和也
・作曲      都倉俊一
・編曲      馬飼野康二
・リリース日   1974年12月10日
・発売元     CBSソニー
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   52.9万枚
・オリコンベストテン期間:1974年12月23日〜1975年2月24日付

 今、元CBSソニープロデューサーの酒井政利氏の著書「プロデューサー」っていう本を読んでいるのね。
 これが結構、参考になるんですわ。一応、業界人の「端くれ」を自負しているものにとっては。

 曲の創り方、プロデュースの仕方は、それぞれのプロデューサーやアーティストによって考え方がいろいろあるわけで、必ずしも答えは一つではないんだけども、ワタシ的には、やっぱりリリースするんなら、「売れる」ことが一番だと思うわけなんだよね。

 「おしりかじり虫」の歌詞の文句ぢゃないけど、「売れてナンボの商売」だと思うわけなんですよ。

 もちろん、売れなくてもいい曲はいっぱいあるし、CD売れなくてもいいライヴができればそれでいい、っていう考え方もあるんだけども、個人的には、基本、やっぱりCDをリリースする限りは、売れなきゃダメっていう考え方なんだよね。

 売れることで、聴き手も幸せになるし、出しても幸せになるわけで、それこそwin to winの関係になると思うんですよ。


 その点、酒井政利氏は、これまで、南沙織を始め、郷ひろみ、山口百恵、キャンディーズ・・・等々、70年代〜80年代のレコード売上げシェアの5%を一人で売上げてきたスゴイヒトだから、「売れる曲」のノウハウって人一倍持っている方なんだよね。

 だから、読んでいて売れる曲のプロデュースの仕方、考え方っていうノウハウは勉強になるんだよねぇ。。。

 もちろん、最近よくある「強引」な売り方は「×」ですよ。A氏率いる某グループとは言わないけどさ
あくまでも、楽曲のよさ、実験性、アーティストの特性を充分考えた上での売り方のノウハウですね。


 ・・・ということで、前置きが無くなっちゃったけど、その酒井政利氏がプロデュースした、山口百恵の「冬の色」を持ってきました。

・・・っていうのはいいんだけど、この曲、山口百恵としては、かなり初期の曲なんだよね。果たして、これ読んでくれている方のどのくらいの方が、曲を知っておられるか、ちょっと不安なんだけど・・・。

 でも、この曲で、山口百恵ってオリコンで初めて1位を獲得してるんですよ。
 初期で有名な曲っていったら、74年の「ひと夏の経験」だと思うんだけど、(♪あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ〜♪っていうあれね)、でもオリコンで1位は取ってない。最高3位だからね。

 で、1曲挟んで、この曲で初めて1位を獲得するわけです。

 ちなみに、昭和40年代最後の1位獲得、昭和50年代最初の1位獲得曲でもあるんだけど、最近は、平成10年代とか、言わなくなったよなぁ。
 今年は平成20年だから、そろそろ平成20年代最初の1位〜とか、いってもいいような気もするんだけど・・・あせあせ

 なんて、話がずれだけど、この曲のどこが、そんなに良かったんだろ?

 っていっても、正直、ワタシもよく分らないんだよね。インパクトの点からすると、どうしても「ひと夏の経験」の方が上だし・・・。

 何分 ♪ あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ〜♪

 だものね。
 前回のバービーボーイズの「目を閉じておいでよ」ではないけど、やっぱし「きわどい」ところがインパクトになっているわけです。

 うん歌謡曲の基本ですなこれは。。。

 そこからみると、この「冬の色」は歌詞の点でのインパクトは、いまひとつはっきりしないし。。。

 そう考えると、メロディライン、サウンドなのかなぁ。

 確かに、出だしの

 ♪あなたから許された口紅の色は からたちの花よりも薄い匂いです〜♪

 のAメロの部分は、どことなく、ラテン色があるような「ムード歌謡」っぽい流れが独特だしね。
 これは、ちょっと、固定ファン以外も狙ってるぞ・・・っていう匂いはする出だしの流れですわね。

 ただ、サビの

♪恋する気持ちに疑いなんて入れる隙間はありません〜 ♪

のメロディラインは、いかにも「70年代歌謡」っていう王道を行くような、ちょっと大げさな流れで、今からすると、ちょっとダサイんだけどさ。

 でも、当時からすると、これが定番っちゃ定番な流れだったんだろうね。

 うん、いかにも馬飼野康二氏が好んでアレンジするような・・・。

 そういういみでは、Aメロは、それまでにない山口百恵 プラス、定番のサビっていう流れで、一見新しそうに見えて、実は定番なんですよ〜っちゅう、斬新性と定番性を組み合わせた曲って感じが、一見新しく見える(←この表現、ヘンだね)、そういう曲なんだよね。

 ちなみに、この曲はオリコンで初登場18位。登場2週目で1位獲得・・・なんちゅう、当時としては、かなーり、すごいチャートアクションを展開しております。(1位は5週連続)

 うん、この時点では、オリコン史上では「初登場1位」という曲は、まだ存在してませんでしたから・・・。

 売上げ52.9万枚っていうのも、「横須賀ストーリー」の66万枚、「いい日旅立ち」の53.5万枚に次ぐヒットであったりします。

 山口百恵の場合は、大体、年に1曲が「勝負曲」となっていたわけだけども、次の勝負曲は、76年の「横須賀ストーリー」になるわけです。その間の1年半は、そこそこって感じで、あんまり有名な曲がない、ちょっと空白の時期だったんだよね。
 

 山口百恵とて、全ての曲が「勝負曲」ではなかったわけです。

 個人的には、リアルタイムで経験した78年以降は、すべて「勝負曲」のようにも思えるんだけども、必ずしもそうではないんだよね。




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恋=DO! / 田原俊彦

1981_01_恋はDo!_田原俊彦







今回の1曲セレクトは、「恋=DO!」田原俊彦です。

まずはデータです。

・タイトル    恋=DO!
・アーティスト  田原俊彦
・作詞      小林和子
・作曲      小田裕一郎
・編曲      大谷和夫
・リリース日   1981年1月12日
・発売元     キャニオン
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   59.8万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 1位
・ベストテンランクイン期間:1981年1月26日〜3月16日付

 いつぞや、ネット上にジャケ写が落ちてなくて書くのを断念した・・・って書いたことがあったんですけど、実は、この曲だったんですよね。
 先ほど、探しに探してようやく見つけてまいりました。 まあ、34年前の曲だからなぁ。。いや、その前に「J's」って言うのもあるか

 いや、そのくらい、この曲は書いておきたかったの。

 ま、もう何曲もトシちゃんの曲は書いてきたんで、ずっとここを読んでいる方はお気づきの方もしらっしゃると思うんだけど、今にして思うとトシちゃんの曲って実にバラエティーに、そしてエンターテイメントに富んでるんだよね。ある意味実験的でありもでさ。

 かたや、ライバルのマッチの曲って、そういう意味での振幅が少ない。まあ、その分、主張性には長けていたわけだけど・・・。

 でさ、当時・・・というか、タイムリーな時間のなかにいるときって、主張性に富んでたマッチの曲のほうが硬派に感じ、トシちゃんのそれはどうしても軟派に感じてたんだよね。

 あと何年後には、こういう見方の違いが分かる日がきっと来る・・・って当時、どのくらいのヒトが感じてたかなぁ。

 やっぱし、どうしても、人間、その場の表面的なところばかりに目が行くからさあ。

 あ、何がいいたいかというと、当時、トシちゃんの曲って、今からしてみれば、過小評価だったんじゃないかなぁ・・・って今になって思えば感じるんですよね。

 この曲なんかもそうじゃないかなぁ。今から思えば、完全なミュージカル仕立てのすごい曲ですよ。

 1曲前の「ハッとして!Good」ではタップダンス、そしてこの曲ではミュージカル・・・と、徹底的にエンターテイメント路線だったんだよね。

 それを当時は、単純に「軟派」って感じてたんだよなぁ。

 まあ、これも時代の流れなんだろうね。

 しかし、この曲は難しいよ。譜割が細かくてさ。当時、売れまくってた小田裕一郎氏、渾身の作ぢゃないかなぁ。
 よく、こんな曲が歌えたよね、いや、この曲の1年後の「君に薔薇薔薇・・・という感じ」もそうだけど、細かい譜割の曲がトシちゃんの場合、意外と多いのよね。ほんとリズムが取りにくい。

 今でも、難しい曲だと思ってますよ、この曲は。譜割が細かいだけでなく、メロディの上下動も激しくてさ、まあ、振られる振られる。目が廻っちゃいそうですよ。

いや、今の曲と比べても、この曲のレベルは高いと思ってますよ。

 そんな曲に完璧な踊りをつけて魅せていたわけだから、本来なら、マッチよりも評価は高くてよかったはずなんだよねぇ。

 まあ、如何せん、当時の「歌唱力」がねぇ・・・・どうしてもネックになっちゃうんだろうなぁ。


 あ、そうそう、この曲では、当時バックで踊ってたジャパニーズのノオチン(乃生佳之)が、ワンピース着てお面被って踊ってましたよね。チャチャ人形っちゅうの。

 そそそ、歌詞にでてくる

♪ 星空にチャチャ、浮かんでチャチャ ♪

ってところに引っ掛けたんだろうね。最初は、なんでお面被ってるのかよくわかんなかったんだけどさ。

 ほんと、楽しい1曲でしたよ。

 あ、この辺は昨日書いた「楽園のDoor」と対象的かなぁ。


 それと、この曲の累積セールスは「597,970枚」。

 実を言うと、この枚数は、この年の6月12日にリリースされた近藤真彦の「ブルージーンズメモリー」と全く同じ累積枚数なんだよね。

 ・・・ということで、1981年年間チャートでは、同じジャニーズ事務所同士、11位同順位分けというかなり珍しい現象が起こりましたよね。



奇跡的に動画が落ちてましたが、何分「J's」管理曲なんで、いつ削除されてもおかしくないと思います。。
見れた方、ラッキー・・・・かもね


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楽園のDoor / 南野陽子

1987_01_楽園のDoor_南野陽子







今回の1曲セレクトは、「楽園のDoor」南野陽子です。

まずはデータです。

・タイトル      楽園のDoor
・アーティスト    南野陽子
・作詞        小倉めぐみ
・作曲        来生たかお
・編曲        萩田光雄
・リリース日     1987年1月10日
・発売元       CBSソニー
・オリコン最高位   1位
・売上げ枚数     26.1万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 4位
・ベストテンランクイン期間:1987年1月26日〜3月16日付
・タイアップ:映画「スケバン刑事」主題歌

 うーん、1月ごろの曲ってどうして、こういう「淋しい」曲が多いんでしょ?
 やっぱり、「冬」って言う季節柄なんでしょうかねぇ?

・・・とまたまた、唐突な「主語」が無い、書き出してスイマセン。

 でも、本当に淋しい曲なんですよね、この曲。 淋しいというか、「冷たい」って言った方が言いのかなぁ。
 どうも、この曲、全体を通して「ウォーマー」な温度感が感じられないんだよなぁ。
 うーん、そう感じるのはワタシだけかしら?

 イントロのシンセの音色からして、「氷」のような冷たい表情しか見られないんだよね。
 その温度なんで、曲全体が包み込まれていくって感じで・・・。

 そそそ、同じ「氷」の世界を連想させる、大滝詠一の「さらばシベリア鉄道」と違うのは、アチラは「雪原」っていう壮大な「寒さ」、こちらは、まるで「氷」なんだよね。どんより曇った、薄暗い「氷」の世界。

・・・・どうもね、そんなイメージがあるの。この曲には。

「楽園のDoor」って言うくらいだから、どんなに「楽園」なイメージなのかなぁ・・と密かに期待していたもんよ。
 そしたら、イメージとは大分、かけ離れてんだもんなぁ。
かなり「ギョッ」としましたよ。

 でも、それだけに逆にインパクトは感じたんですよね。今から思うと、1987年の冬の時期は、この曲がずっと、頭にこびりついてたもん。
 だから、イメージとしてくらーい、冷たい年っていう感じなんだよね。1987年の冬って。まあ、年齢的にセブンティーンという情緒不安定な時期だったこともあるけど。。。

 この曲は、映画の「スケバン刑事」の主題歌。もちろん、主役は南野陽子ですよ。
 だからなのかな、この曲のイメージって。
 
 うーん、それ、前にも書いたけど、ワタシ、来生たかお氏のメロディラインって、イマイチ、生理的に合わないってのもあるんだよね、きっと。

 それでも、ナンノさんにとっては、この曲が初の1位獲得。26万枚の売上げもそれまでの倍と一気に、名実ともにトップアイドルの仲間入りした曲でもあるんだよね。

 えー、そう書いても、個人的には、次の「話しかけたかった」の方がよかったなぁ。何分、この曲のイメージがあまりにも「冷たい」んで、「話しかけたかった」を聴いた時は随分「ホッ」とした。
 ナンノさんのイメージ的にも「メジャー」系の曲のほうが、本来のナンノさんを見ているようでさ、良かったと思うんだよねぇ。


しかし、この曲のジャケ写は何気にゴージャスだよねん。曲のイメージとは随分違うような。。。



どうも、この曲の動画はすぐ消されるようで、もしかしたら、これもすぐに消されちゃうかもしれません。。



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