1985_01_涙のtake a chance_風見慎吾






今日の1曲セレクトは、「涙のtake a chance」風見慎吾です。

まずはデータでーす

・タイトル    涙のtake a chance
・アーティスト  風見慎吾
・作詞      荒木とよひさ
・作曲      福島邦子
・編曲      小泉まさみ
・リリース日   1984年12月21日
・発売元     フォーライフ
・オリコン最高位 10位
・売上げ枚数   22.5万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 7位
・ベストテンランクイン期間:1985年1月28日〜3月11日付

 さてさて、今日の1曲セレクトは、「風見慎吾」氏の登場でーす。
 風見慎吾氏なんて、改まって書いちゃいましたけど、最近では、そんな感じだよねー。すっかりレポーターとなってしまって、30年前、「ダンスパフォーマー」としてのアイドルだったとは、思えないもんね。

 へへへへ、わざわざ、ダンスパフォーマーとか、「ふり」を入れちゃいましたが、この曲っていったら、どうしても、アレですよね。アレ。。。えーと・・・「ブレイクダンス」

 これ、流行ったよねぇ・・・当時。あの、頭でクルクルまわるやつですよ・・・。
 え? もうしらないヒトの方が多い? うーん?

 でもまあ、84年〜85年にかけて大ブレイクだったもんなぁ。みんな、よく、マネしてたよねぇ。マネして、首おかしくしちゃったりして。。。
 ワタシは、生まれつきの「運動ウンチ」なんで、やんなかったですけどねぇ。。

 ダンスパフォーマーって、あの当時の一種の流行だったわけだけど、けっこう、いろんな形態があったよねぇ。
 まずは、ジャイケルマクソン・・・うんにゃ、マイケルジャクソンでしょ。当時は「スリラー」が超大ヒットだったもんね。
 日本では、一世風靡セピアとか。 で、まあ、あとは、ブレイクダンスだわね。
 なんか、いろんなヒトがやってた気がするけど、曲の中にタイレクトに取り込んじゃったってことで、どうしても風見慎吾のこの曲っていうイメージが強いよね。
 あれ? ワタシだけかなぁ??

 しかしね、そう書くと、どうしても、この曲って言ったら、パフォーマンスの部分だけかと思われがちだけど、サウンドの部分でも、この当時としては、新しかったな。
 少なくとも1984年っていうイメージは全くなかったな。その時点では、未経験の音っていうかね、新たに「1985年」っていうイメージを植えつけた曲だったな。まあ、私にとってはですけどね。

 サウンド的に軽いんだよね。これは、悪い意味ではなくて、身軽っていうかね、いかにもダンスパフォーマンスするぞっていういきこみが感じる曲っつうの? 
 なんか、変な表現だけど・・・。

 で、サウンドは、そういう感じなんだけど、風見慎吾が歌うと急に「歌謡曲」になるっていうかね〜。
 この辺の、バランスの按配が、なんか変なんだけど、心地いいんだよね。 うーん、うまく表現できんね。。

 まあ、もともと、アイドルといっても、歌うと「歌謡曲」になっちゃうタイプのヒトだったからね。

 それと、作詞の荒木とよひさ氏って言ったら、どうしても「歌謡曲」っていうイメージのヒトだったからかもしれん。
 こういうアップテンポの曲書くのなんて、そんなになかったもんね。

 サビの部分

♪ 涙のtake a chance take a chance〜 ♪

なんて、「横文字」つかった、詞なんて、まーったくイメージなかったもんなぁ。

 そういう部分もあったかもしれないなぁ。

 件の風見慎吾氏。この頃は、例のTBS系「週刊欽曜日」にレギュラーだったわけだけども、この曲も毎週、歌ってたなぁ。
週刊欽曜日」で。ワタシは、そのイメージがどうしても強い。

 で、そのあと、もう一発、「BEAT ON PANIC」っつう、さらにダンサブルな曲を出した後、「泣き虫チャチャの物語」って曲を出したんだよね。
 これが、ダンサブルとは、かなり「無縁」なダサダサ青春歌謡で、ワタシは、どっちかといえば、「BEAT ON PANIC」よりは好きだったんだけども、この曲をもって、以後、まーったく曲を出さなくなっちゃったんだよね。

 ちなみに、この「泣き虫チャチャ〜」も最高位は15位。だから、オチメってわけでもなかったんですよ。
 そのあと曲出しても、ある程度はまだ、行けたとは思うんだけどね。

 これは如何に?? 実は、これが謎でねぇ、「オリコンチャート研究会」からの「課題」の一つですねぇ。

 いずれにしろ、風見慎吾って、レコードに関しては、「オチメ」を知らず、今日までやってきたっていう、珍しいパターンのタレントさんですね。
 普通は、レコードで落ち目になったんで、タレントに移行するってのが、圧倒的なんだけど・・・。




※2006年1月に書いたものを再掲載しました。