今回の1曲セレクトは、「ハーフムーン・セレナーデ」河合奈保子です。
まずはデータです。
・タイトル ハーフムーン・セレナーデ
・アーティスト 河合奈保子
・作詞 吉元由美
・作曲 河合奈保子
・編曲 瀬尾一三
・リリース日 1986年11月26日
・発売元 コロムビア
・オリコン最高位 6位
・売上げ枚数 8.4万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 14位
時代と折り合う。ヒット曲がヒット曲として、大きなムーヴメントとなるかならないかというところでは、重要なファクターなのよ。
不思議なもので、年が変われば、ヒット曲の色合いって毎年変わってくるんだよね。
以前、別のトピックスで、時代とヒット曲の傾向は、螺旋階段のようにぐるぐる回っているって書いたことがある。 たしかにそうなんだけども、傾向的には似ていても、全く同じ色合いになるってことは絶対にないといっていいのよ。。必ずどこかしら違ってくるし。
まあ、それがヒット曲の進化というものなんだろうけどね。
今回引っ張ってきた曲。 いい曲なんですよ。 名バラードといっても過言ではない。
ただ、時代と折り合っていたかといえば、必ずしもそうじゃなかったんじゃないか・・と思う曲を一つ。
河合奈保子さんの「ハーフムーン・セレナーデ」。
この曲は、1986年11月、27枚目のシングルとしてリリースされた曲ですね。
もともとは、アルバム「スカーレット」のラストを飾っていた曲だけど、ここからシングルカットという形で、アルバムリリースから1か月後にシングルリリースされている。
当時23歳になっていた奈保子さん。 アイドルから大人のアーティストへの脱皮を図る。
そのためには、歌詞の内容が深く、スケールな大きなバラードである、この曲は最適だったんだろうね。
アイドルから大人のアーティストの脱皮を図る。 長い事第一線のアイドルを張ってきた方たちには、必ず通る、「通過事例」なわけだけど、あの時、果たして本当に大人への脱皮は必要だったのか?
最近は、30になっても40になってもアイドルにこだわる方も少なく無いんで、今となってはそう思ってしまったりするんだけども。。。
まあ、それは、それぞれのヒトたちの考え方もあるだろうし、事務所の戦略もあるんだろうから、一概には言えないですけどね。
ただ、1986年当時、初めてこの曲を聴いたとき、個人的には何とも言えない複雑な気分になったのは、正直なところですね。
いい曲だったんですよ。 それは、喜ばしい事だったんだけども、この曲を河合奈保子さんが歌うっていう所に複雑な感情があったんだよね。
やっぱり、あの時点では、個人的な頭の中の河合奈保子さんは、「スマイルフォーミー」の頃のナハハ笑いの奈保子さんっていうイメージが強かったからさあ。
まあ、そんな「頭」だったんで、この曲がシングルとしてリリースされた時は、やっぱりショックだったんだですよ。
たしかに、同じ奈保子さんではある。けど、80年代初頭のあの奈保子さんではなくなっちゃったな・・と思えるとともに、少し存在が遠くなってしまったようにも思えたりしてさ。
まあ、それで曲が大ヒットともなったなら、諦めもついたんだろうけども、必ずしもそうとも言えなかったんでねぇ。
オリコン的に見れば、 オリコン最高位6位、売上げ8.4万枚というのは、前年秋にリリースされた「ラヴェンダーリップス」以来の好成績となる。
あの当時、CDの台頭でシングルが売れなくなってきていたことを考えれば、数字以上の健闘だったかもしれないな。
ただ、この曲以降、先が続かなかった。 楽曲の良さと、イメージチェンジということでの一時的なカンフル剤にはなったけど、持続的なものにはならなったってことですね。
紅白はこの年1986年の出場が最後となり、 「ザ・ベストテン」のベストテン内ランクインもこの曲が最後となる。(オリコンでは、翌年7月の「十六夜物語」の最高10位が最後)
結局さ、そこが時代との折り合いなんだろうな。
80年代って「軽薄短小」な時代と言われている。 まあ、本来は電化製品が軽くて薄く、短くて小さいものに「進化」していくってことに使われるコトバなんだけどさ。
ただ、これとは別に「薄っぺらくて中身が無い」という表現にも使われていたわけよ。
実際、80年代ってそういう時代だったんだよね。 今振り返えると、あんまり中身が無い文化も多かったな・・・とも思ったりもするのね。
そのピークが1986年前後だったんじゃないかなぁ・・と。
そもそもおニャン子勢にオリコンチャートを占拠され、アイドルの粗製乱造が本格化し、歌が上手い、「ホンモノ」のアーティストよりも、シロートの方が受けた1986年。
あの年からして、「軽薄短小」にぴったりな年だったわけじゃん。
そこに来て、この「ハーフムーン・セレナーデ 」は、スケールの大きな本格的なバラードだったわけだから。 どうしても時代のカラーとは違うなぁ・・と思えたんだよね。
これが1年早かったり、逆に1年遅かったら、少し感じ方が違っていたかもしれない。
1年前1985年の秋から冬にかけては、小林明子の「恋におちて」の大ヒットでピアノの弾き語りというのも注目されていたし。 逆に1年後の1987年の秋から冬にかけて、中森明菜の「難破船」という名バラードの大ヒットもあり、スケールの大きなバラードに注目が集まってきていたところもある。
87年8月に、おニャン子の解散ということもあり、87年秋ごろになると、86年当時の「軽薄短小」なバカ騒ぎも大分沈静化して、徐々に「聴かせる」ような本格的エンターティメントな曲が受け始めて来てましたからね。
ピアノの弾き語りでのスケールの大きなバラード。
いずれも、この「ハーフムーン・セレナーデ」が持っていた要素ですわ。 そこから見ると、、タイミング的には、一番リリースしてはいけない時期に、この曲はリリースされてしまったんじゃないかと思えて仕方ないんだよね。
↑で、いろいろ書いちゃったけど、、今、改めて曲を聴いてて、どうして、この曲の後、ヒットが続かなかったのか・・・。
結局さ、この曲でイメージチェンジを図ったあとの明確な方向性が定まり切れてなかったんじゃないか・・なんて思えたり。。。
基本的には、自作自演のアーティスト方向に舵を切ったんだろうけど、この後、ヒットを続けて行くだけのキャパが、まだまだ足りてなかったのかもな。
個人的には、自分で曲を作りながらも、他のアーティストからの楽曲提供を受けながら、もっといろいろなことを吸収していった方が良かったんじゃないかと思ったりもするんだよね。
もっとも、この後ヒットチャート的なヒットは、もうご自身では望んでいなかったのかもしれないですが。。。
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