かじやんのヒット曲&チャートレビュー

ヒット曲を聴き続けて40数年! かじやんがお送りする、「今」のヒット曲&ヒットチャートから、「あのころ」のヒット曲&ヒットチャートまで、ヒット曲について幅広くご紹介するブログ。 自主チャートサイト"THE HITCHART NOW AND THEN"の支店ページという位置づけにいたします。

沢田研二

魅せられた夜-Mais Dans La Lumiere- / 沢田研二

1973_12_魅せられた夜_沢田研二


今回の1曲セレクトは、「魅せられた夜」沢田研二です。

まずはデータでーす。

・タイトル   魅せられた夜-Mais Dans La Lumiere-
・アーティスト 沢田研二
・作詞     Jean Renard
・作曲      
Jean Renard
・編曲     東海林修
・訳詞     安井かずみ
・リリース日  1973年11月21日
・発売元    ポリドール
・オリコン最高位 3位
・売上げ枚数  34.5万枚
・ベストテンランクイン期間:1973年12月3日〜1974年1月28日付

今回は、「まくら」なしでダイレクトに行きますぞ。

今回引っ張ってきた曲は、ジュリーの「
魅せられた夜」。
1973年11月 ソロ8枚目のシングルとリリースされたこの曲ですが、どうなんだろ?
どの位の方が覚えているんだろう? っていうのは、少し不安。

リリース当時、オリコン最高3位 売り上げ約35万枚・・・と、当時のヒット指標から考えると、充分大ヒットの域に達していた曲なんだけども。。。。
ワシらの世代から見ると、ジュリーといったら、どうしても77年の「勝手にしやがれ」以降の第2期黄金期から。 一歩下がっても、75年の「時の過ゆくままに」あたりからっていう意識があるんでさ。
70年代前半、「危険なふたり」を中心とした、第1期黄金期。 いわいる「フレンチポップス」な頃のジュリーってほとんど知らないんだよね。少なくともリアルタイムではない。

あ、いや、もちろん、すでに生まれてましたよ。 1973年といったら、ワタシゃ 4歳。
幼稚園の年少組の頃だよなぁ。 

なので、物心は付き始めていた頃だけども、50年前でしょ・・・、いかんせん記憶がほとんど残ってない。

「マジンガーZ」と「仮面ライダーV3」 が心のヒーローだった頃・・・っていうのは覚えてるけど。。。 

いや、それでも、ちょうどこの「魅せられた夜」がヒットしていたのと、同じ時に大ヒットしていたフィンガー5の「恋のダイヤル6700」とか、小坂明子の「あなた」は、リアルタイムで聴いた記憶があるな。

以前、何回か書いたと思うんだけども、フィンガー5の「恋のダイヤル6700」は、個人的に初めて「買ってもらった」シングル盤だったと思うしなぁ。

ぢゃ、なんで、これらの曲を知ってたかというと、やっぱりテレビなんだよね。 

当時、朝、日テレで毎日放送していた「おはよう!子供ショー」で、のど自慢のコーナーがあったじゃん「おはようのど自慢」だっけ?

あのコーナーで、よく歌われてたような記憶があるんだよね。 
小坂明子の「あなた」と、ちょっと後の伊藤咲子の「ひまわり娘」なんかは、「おはようのど自慢」から知ったと思う。そそそ本人の歌唱というよりさ。。。
それくらい、当時はよく歌われてたような記憶があるなぁ。。。

ただ、さすがに、この「魅せられた夜」なんかは、あんま歌われてなかったんだろうなぁ。

いやいや、もしかすると歌われてたのかもしれないけど、個人的に引っかかってなかっただけなのかもしれない。

やっぱ、タイトルからして「大人」向けの曲だしね。 おこちゃまが歌う「魅せられた夜」っていうのも、ちょっとコワイ。。。
ま、たしかに、いつの時代も「ませた子供」(ませがき)は居るからさあ、ゼロとは言い切れないけど。。。

個人的にこの曲を意識して聴いたのも、ずっと後ですね。

これもいつか書いたと思うんだけども、1983年のちょうど今頃だわ。ジュリーの「大全集」っていう、いかにもっちゅう、カセットのみのベスト盤を買ってもらった中に収録されてたのを聴いてからだわ。

だから、個人的には、この曲を聴くと、1973年の匂いよりも、 1983年の今頃の匂いを先に感じてしまう。 ちょっと厄介な曲ですね。
まあ、まったく1973年という時代を感じないかといえば、さにあらず。なんだけども。。。

音質、音の広がり 奥行・・・などのサウンドは、少なくとも70年代後半以降のそれではない、ましてや80年代の音でもないことはレコードの音から分かるしね。


でも、初めてこの曲を聴いたときは、違和感いっぱいだったよなぁ。 はじめはアルバムの曲かと思ったくらい。

↑で書いたように、なんせワタシらの世代といったら、ジュリー⇒勝手にしやがれ⇒キザ なイメージがこびりついてるからさあ。

こういう、フレンチポップなジュリーのイメージはなかったですからね。

そのあと、少しずつオリコンなどからの情報を得て、第1次黄金期といえるフレンチポップの時代を経て、第2次黄金期の派手、気障なジュリーに変化するということが分かったんだけどね。

自分らがリアルで聴いてたのは、第2次黄金期以降の曲に過ぎない・・っていうのが分かって、ちょっとショックだったのと同時に、ヒット曲の時代の流れの奥深さも感じたというかさ。。。

まあ「キザ」な言い方をすればよ。。。

そんな自分では知らなかったヒットの流れの情報と、実際の音源が、自分の中で結びいていくっていうのを初めて体験したのは、もしかすると、この「魅せられた夜」も収録されていた、あの「大全集」っていうカセットだったかもしれない。



ところで、この「魅せられた夜」って曲、カバー曲というのは以前から知ってたんだけども、オリジナルはどういう曲だったのかは、よくわからなかったのよ。

これを機に聴いてみた。

↓ コレ




Mike Brant 「Mais Dans La Lumiere」(1970年)

うわっ、重っ! 

フレンチポップスと言うと、どうしても、ミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」とか、シルヴィ・バルタンの「あなたにとりこ」なんかの、おしゃれでポップなイメージがまず出てきちゃうんだけども。。。。

どっちかといえば、イタリアンなカンツォーネ的な、いわいる「歌い上げ」系の曲ですわな。
ポップスというよりも、シャンソンと言った方がいいか。。。

マイナーでしっとりしたメロディラインから、サビで一気に情熱的なメジャー系のメロディに変貌する、ドラマティックな展開。 いわいるショービス系というやつですね。

あの当時(1970年代前半)の日本では布施明氏が得意としていたような・・・。

ジュリーの、この「魅せられた夜」でも、しっとりしたマイナー系なAメロから、サビで一気に情熱的なメジャー系に展開するという原曲の良さを残しつつも、あそこまで重くない。
もっと、ポップで聴きやすいサウンドにアレンジされていますね。

個人的には原曲の重さと情熱的なサウンドは好きだけども、さすがに、原曲のままでは日本ではヒットしずらいと読んだろうな。

個人的には、ジュリーのメロディラインに対旋律的に絡んでくる、ブラスが好きなんだよね。

いや、このころのジュリーでは、同じようにブラスの絡みが印象的なジュリーの曲は多い。
以前書いた、「あなたへの愛」(1973年1月)、「追憶」(1974年7月)なんかもそうですね。

あの頃、いわいるブラスロックの影響なのか、ブラスを多用した歌謡ポップスが増えてきていたけども、使い方がダサい曲が多かったのも事実でさ。。。
この「魅せられた夜」では、トロンボーンは原曲に近いのに対して、トランペットはたしかに盛ってるんだけどね。でも、ダサい一歩手前で抑えているのがいい。

この曲を初めて聴いた1983年の今頃は、ワタシは中1。吹奏楽部でトロンボーンをやってた頃で、ブラスの面白さが分かりかけていた頃っていうのもあったんだろうな。 そそそ、ヒット曲においてもブラスについつい耳が行ってしまい始めていた頃ですわ。






フレンチポップスや北欧などのいわいるヨーロッパ系の曲と、日本のJ-POPは相性がいいとは、よく言われるけども、日本人の感性とどこか共通しているところがあるんでしょうね。
それは、この曲なんかでも感じることができますね。




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恋は邪魔もの / 沢田研二

1974_04_恋は邪魔もの_沢田研二



今回の1曲セレクトは、「恋は邪魔もの」沢田研二です。

まずはデータです。 

・タイトル    恋は邪魔もの
・アーティスト  沢田研二
・作詞      安井かずみ
・作曲      加瀬邦彦
・編曲      大野克夫
・リリース日   1974年3月21日
・発売元     ポリドール
・オリコン最高位 4位
・売上げ枚数   27.4万枚
・ベストテンランクイン期間:1974年4月8日〜5月20日付

曲自体はそれほど好みではないけど妙に耳に残る曲がある。
これまで1700曲ほど書いてきた「1曲セレクト」の中で、そんな曲も大分増えてきたけど、今回引っ張ってきた曲もそんな1曲だなぁ。

ジュリーの「恋は邪魔もの」。

この曲は、1974年3月リリース。48年前の丁度今頃がヒットのピークだった1曲ですわ。

前曲「魅せられた夜」と、次のジュリーの74年の代表曲となる「追憶」っていう、両大ヒット曲に挟まれた、スマッシュヒット曲になる。

そそ、上の2曲とも30万枚オーバーであったけども、この曲は30万枚にはとどなかった・・ということで、スマッシュヒットと書いたんだけども。。

それでも、オリコンでは最高4位まで上昇している。

1974年の今頃と言えば、ワタシは4才8か月。 幼稚園年中組だった頃だ。

当然、 この曲はリアルタイムでは聴いてない。 なんせ、心は「アルプスの少女ハイジ」だった頃だし。。。

中1の時に買った、ジュリーの「大全集」っていうカセットに収録されたのを聴いたのがこの曲との出会いだったな。 だから、リリースから約10年後のことになる。

確かね、カセットの曲が、リリース順となってて、「追憶」と「魅せられた夜」の間にこの曲が収録されていたんだよ。 もちろん、「追憶」も「魅せられた夜」もリアルタイムでは聴いてないから、その時同時に初めて聴いたんだけども、両者ともいい曲だと思った。

個人的にジュリーをリアルタイムで聴いたのは、77年の「勝手にしやがれ」以降。 ジュリーの「第2次」の黄金期からで、第1次黄金期である「フレンチポップ」な時代は、全く知らなかったのよ。

で、初めてフレンチポップなジュリーを聴いてその新鮮さに一発で虜になってしまった。

まあ、もともとプレンチポップスって好きだったんだよね。ガキんちょのくせしてさ。

なんせ、物心ついて一番初めにフィットした音楽がポールモーリアだったからさ。フランス系の音楽って大好きだった。

それもあって、「追憶」なんかは、一発で気に入っちゃいましたね。 「魅せられた夜」はフレンチポップに加えてブラスの入り方が新鮮だったな。 
中学校で吹奏楽部に入って、丁度その頃ブラスの面白さに目覚めて来ていたんで、これらの曲のブラスの入り方に刺さっちゃったんだよね。

それらに比べると、この「恋は邪魔もの」って曲は、今一つピンとこなかった。

丁度この頃の曲の中では、フレンチポップスじゃなかったしさ。

もっとも、この曲のアレンジャーは、あの頃ジュリーのアレンジを手掛けていた東海林修氏ではなく、大野克夫氏だったしさ。 そこからして、他の曲とはテイストが違うというのも分かるんだけどさ。
まあ、ポップロックだよね。

ただ、そのノリが当時はどこか軽薄な感じがしてさ。 

シングルではあるけど、表題曲ではないような・・・。そそそB面の曲ような印象だったんだよね。

・・かといって、全く興味が沸かないか・・といえば、そうではなくてさ。

最初に書いたように、なんか、妙に耳に残ったりしてね。

この曲のジャケ写を見ると、バックの井上尭之バンドのメンバーの写真がちりばめられていたりするし、意識してロック色を強めたんだ・・というのは、今になってわかるけどね。

いや、それにつけても、1974年当時としてはめっちゃ「前衛」的なジャケットですねぇ。レコードジャケットというよりも、アパレルのポスターのようですね。





48年前の「中ヒット」ということで、当時の動画はほとんど存在していないというのは分かるけど、まさか「モノクロ」の動画が残っているとはね。。。

74年といえば、ほとんどのテレビはカラーに切り替わっていたと思うんだけども。。。
それともこの動画を録画したビデオが、まだモノクロ仕様だったのかなぁ。。。
まだ家庭用のビデオデッキなんてなかった頃ですからねぇ。おそらく業務用のオープンリールのビデオで録画したものだと思うけど。。。。

でも、レコード音源だけでなく、こう実際にテレビで歌っているところを見ると、かっこよく感じるなぁ。

いつだかも書いたんだけども、昔の曲、特に70年代頃のヒット曲って、レコード音源聴くよりもテレビで歌っているほうがいいんだよね。

独特のグルーヴ感があるでしょ。テレビで歌っているほうが。 よりライブ感を感じるというか。。

そそそ、昔、ツイストの「性」を書いた時にも同じようなことを書いたんだ。 この動画を見て、この曲も同じような印象を持ちましたね。

残念なのは、バックの井上尭之で、演奏しているはずの岸辺修三(一徳)氏のプレイが良く見えない事かなぁ。

今じゃ、役者としてしか見れないれけども、このヒトのベース、めっちゃ上手いんだよね。
少し前、タイガース再結成時、今でも衰えていないベーステクニックにびっくりしちゃたもの。



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ロンリー・ウルフ / 沢田研二

1979_10_ロンリーウルフ_沢田研二


今回の1曲セレクトは、「ロンリー・ウルフ」沢田研二です。

まずはデータです。

・タイトル     ロンリー・ウルフ
・アーティスト   沢田研二
・作詞       喜多条忠
・作曲       大野克夫
・編曲       後藤次利
・リリース日    1979年9月21日
・発売元      ポリドール
・オリコン最高位  18位
・売り上げ枚数   8.9万枚

もうね、いつものマクラ言葉になってますが、「久しぶり」の1曲セレクトです。
毎度毎度、間が空いてしまってあいスミマセンと頭を下げたくなってしまいます。
相変わらずリアル仕事が忙しくて、なかなか筆が上がらない状態が続いてまして。。。
暫くは長ーい目で見ていただけるとありがたいです。

さて、長い間仕事をしてくると何もかもが上手く行く事もあれば、逆に全く上手く行かない事もありますわな。
ヒット曲も同じで、どんな大物アーティストでも、いつもいつも大ヒットするわけぢゃない。

まあ、最近は楽曲内容にかかわらず、どの曲もミリオンセラーを続けている某アーティスト見たいな方たちもいるみたいですが。。。

こと、昔、楽曲志向が高かったころは、超一線級のアーティストでも楽曲によっては、コケてしまうこともあったわけです。

今回はそんな1曲を

沢田研二「ロンリー・ウルフ」

いやいや久っさびさのジュリーですな。1曲セレクトで書くのいつ以来だろう?

この曲、覚えている方どのくらいいるでしょうねぇ。 
なんせ、人気全盛の頃、突然ベストテン入りを外した曲なんでね。
しかも、臨発ならいざしらず、ローテーションの定期リリースでしたからねぇ。

時期的には、今から41年前、1979年の今頃の曲だったんですけどね。
曲順から言うと、「OH!ギャル」と「TOKIO」の間のシングルですね。

さすがにジュリー第3期のオープニンングと言うべき「TOKIO」を知らないという方は少ないでしょうけど、もしかすると「OH!ギャル」は知らない方もいるかなぁ。
まあ、死角っちゃ死角なのかもしれないけど、ジュリーが化粧した、ゲイぢゃねーのかと言われた曲で、ベストテン入りも果たし、売り上げ的にも27万枚ほど売れてましたんでね。

・・ということで、ヒット曲とヒット曲に挟まれた本当に「谷間」のシングルなんだよね、この「ロンリー・ウルフ」っていうのは。

突然ベストテン入りも果たせず、売り上げも10万枚にも届かず。。という塩梅でしたから。

・・・・なんて、さぞかし当時から知ってましたよ〜・・・風に書いてるワタシも、正直、「ザ・ベストテン」しか情報がなかった、ヒット当時は知らなかったんだけどね。。

いや、もしかするとラジオかなんかで聴いていたかもしれない。でも、記憶に残るほど聴き込んでなかったのは事実ですね。

意識して聴いたのは、83年に買った「沢田研二大全集」みたいなカセットに収録されていたのを聴いてからなんだよね。
もちろん、そのころは、「あ〜あの売れなかった曲」くらいの認識はあったんだけど。

でも、売れなかったから「駄曲」だったのか・・と言えば、さにあらず。
それまでのアウトローなジュリーを彷彿とさせるような佳曲だ。
むしろ、軽いタッチのポップスだった前曲の「OH!ギャル」よりも、ジュリーらしい曲だなと感じたな。

静寂感のある少し重め曲調は、秋というリリース時期にもマッチしていたし、そういう意味では前年の「LOVE(抱きしめたい)」に近い曲調ではある。
シングルとして「尖って」いないのかというと、これまたそうではなく、それなりの尖りがあり、シングルタイプの曲でもある。

ぢや、なんで、売れなかったのか?

同じ暗めの重いバラードではあるものの前年の「LOVE(抱きしめたい)」のような華がない。
本当に「重いだけ」のバラードなんだよ。
ジャケットのそれと同じでどこまでもモノクロのイメージ。確かにアウトローなジュリーを演出するにはこのイメージでも間違いではないのかもしれないけど、今一つ引っかかりないのは事実なんだよね。

加えて、致命的だったのは「時代の流れ」だろうなぁ。

1年前の78年までの時点では、アウトローというシチュエーションでも充分行けたんだろう。ただ、78年⇒79年の間に時代は大分動いていたんだよね。

勿論78年時点でもその流れは始まっていたけど、ヒットの主役は歌謡曲からニューミュージックへという変化。 それと79年は「JAPAN AS NO.1」と呼ばれた年。7月にSONY WALKMANが発売され、音楽も含め、世の中の意識もこの1年の間に大分変化してたんだよね。

つまりさ、アウトローっていうシチュエーションも78年は「カッコよかった」んだけども、79年ではアナクロだったわけですわ。

だからなのか、この頃のヒット曲と一緒に続けざまにこの曲を聴いてみると、この曲は明らかに浮いた感じがするんだよなぁ。
浮かんでくる絵面は79年の・・というよりも75年の・・・って感じがしてさ。

うん、この曲1曲単体で聴く分には充分かっこいいんですよ。 でも何曲かまとめて聴くとやっぱり時代錯誤的な感覚なんだよなぁ。

手元に月刊・明星付録の歌本「YOUNG SONG」1982年7月号がある。この号での連載企画「82年MUSIC PEOPLEインタビュー」にジュリーのインタビュー記事が掲載されているんだけど、そのなかに

「「TOKIO」は出すのが半年遅かった。その前に「ロンリー・ウルフ」をだして失敗するんですよ。それまでにある程度、売れるという事を経験したから、じゃあ、今度はスローな曲を歌って沢田も歌がうまいと思われたくて出したのが失敗」

と、ジュリー自ら、時代の変化に気が付き、この曲のリリースは失敗だったことを認めてたりする。

スローな曲を歌って、歌がうまいと認められたい・・というのことも、まあ、確かにわからなくもないですけどね。

ただ、じゃ、このインタビューのように「TOKIO」をもう半年早く出して、それでよかったのか・・というのも、個人的にはちょっと疑問ではあるな。

あれは、1980年1月1日リリースっていう、「軽薄短小」な80年代という時代のオープニングを飾ったからこそ、より価値が上がったような気もするし。。
79年後半とはいえ、70年代に「TOKIO」ではちょっと、時期が早かったんじゃないかと、今となっては思えたりね。

・・・ということは、あくまで「つなぎ」という意味も込めて、この「ロンリー・ウルフ」って曲のリリースも、もしかすると必然だったのかもしれないな。





うーん、確かに「モノクロ」のイメージではあるけど、今VTRを見ると男の色気が凄いね。いまは、こんな、ただ佇むだけで存在感のあるアーティストって少ないからなぁ。
バックは井上堯之バンドですね。 確かバックバンドはこの曲までで、この後「オールウェイズ」に変わったんじゃなかったっけな。
↑のように、この曲のイメージはアナクロだって感じたのは、多分に井上堯之のサウンドも関係しているんだろうね。
少し埃にまみれたような骨太でアウトローなサウンドは、紛れもなくかっこいいし、誰が何と言おうとも個人的にはジュリーには、このサウンドが一番しっくり来るんだけども。
如何せん、70年代という時代を彷彿させる音なんだよね。時代の流れには勝てなかった。
この曲をもって、ジュリーのバックバンドから引退⇒解散となるわけだけど、これはしょうがなかったんじゃないのかなぁ。


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きめてやる今夜 / 沢田研二

1983_10_きめてやる今夜_沢田研二


今回の1曲セレクトは、「きめてやる今夜」沢田研二です。

まずはデータでする。

・タイトル     きめてやる今夜
・アーティスト   沢田研二
・作詞        沢田研二
・作曲       井上大輔
・編曲       吉田健
・リリース日    1983年9月21日
・発売元      ポリドール
・オリコン最高位 14位
・売上げ枚数   13.0万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 18位

ネット上で揶揄されますなぁ〜、ジュリー。 例のライブ「ドタキャン」騒動で。
さいたまスーパーアリーナ、当初9千人の入りと言われたところ、実際は7千人しか入らなかったので開演直前になって中止になったとか・・・。
その理由が、「客の入りが少なかったから」・・・だとか

まあ・・・・叩かれますわな。 客が少ないと言っても7千人は集まっていた訳だから・・・。

その前に、果たして、今のジュリーに「さいたまスーパーアリーナ」を満杯にするだけのアーティストパワーはあるのか? っていう意見も出ている。

さいたまスーパーアリーナは、ステージの形式によって、「アリーナ」部分の客席数は変動するんで、一概に「何人」とは言えないけど、最大で約3万7千人収容と言われている。 もっとも実際はステージ設置等で、客席数はそれよりは少なくなるけど、それでも2万弱の収容人数になると思う。

そんな会場で、9千人ですか・・少なっ! なんていわれてもしょうがないわなぁ。 

そもそも、日本のみならず、世界でも超一線級のアーティストがライブ会場として使用するスーパーアリーナを、40年近くベストテンヒットから遠ざかっている、ジュリーが使用する・・・っていうのも、たしかに驚き・・というか、半分「あきれ気分」になるけど、確かに。

ちなみに、今回客が集まらなかったのは、今回のライブツアー、 ツアータイトルが「70YEARS LIVE OLD GUYS ROCK」という、いかにもジュリー70才記念で、往年のヒット曲オンパレードの内容に思えるタイトルであるのに、実際は、「今歌いたい曲しか歌わない」と、ヒット曲はほとんどやらず、誰も知らないような曲ばかりなため評判が悪く、客が遠のいているため・・・と言う事のようだ。

「今、歌いたい曲しか歌わない」っていうジュリーの姿勢・・いいなぁ、突っ張ってるなぁ、なんて、個人的には思っちゃったりもする。だけど、こういう姿勢は、こういう「大会場」の、ましてやツアー最中に見せちゃアカンわな。
うん、小規模のコンサートホールや、ライブハウスならいざ知らず、大規模会場では、必ずしも超固定ファンばかりじゃない訳なんだから。 


ところでさ、現在のジュリー程度のアーティストパワーのヒトが、なぜスーパーアリーナのような、大規模会場でやるのか・・っていうと、通常の各地の市民会館位のキャパの会場では、いわいる「親衛隊」と呼ばれる人たち・・・そそそ、いまや良い年をした「おば様たち」なんだけど・・・に占領されてしまい、他の一般の人たちがなかなか席が取れない・・っていう苦情もあるからなんだよね。

そう言うこともあって、こういう大規模会場でもやらざるを得ないところもあったのかも。。。 
まあ、スーパーアリーナが、そう言う状況を払拭するだけの適当な会場であったのか・・と言うのは別だけど。。

でも、熱狂的な固定ファンじゃなく、そういう一般の人たちがどういう曲を聴きたいか・・・っていうと、やっぱり、往年のヒット曲な訳だからさ、 やっぱり、そう言うヒトたち向けに、例えばスーパーアリーナのような超大規模会場だけでも、ヒット曲のオンパレードにセットリストを変えるとかはやって欲しいわな。

もしよ、例えば、ジュリーが「今歌いたい曲しか歌わない」・・・とかツッパッたことを言わないで、往年のヒット曲中心のライブツアーであれば、スーパーアリーナでも充分行けたんじゃないかな。



おーっと、前置きがめちゃんこ長くなっちまった。

・・ということで、今回の1曲セレクトも当然ジュリーの曲を持って来たい・・というわけで、

「きめてやる今夜」

・・・へへん、ネット上で他の人が取り上げてるような曲は持って来ないよーだ

・・というか、他の人が取り上げてるような曲は、もう既に書いちゃったんで・・・

この曲は83年の今頃のヒットですね。

83年は、ジュリーにとっては「分岐点」となった1年ですわ。 ソロデビュー以来でも10数年、ずーっとベストテンをキープし、オリコンで初の売り上げ1000万枚突破を記録した、文字通りのスーパースターだったジュリーが、一度もベストテン入り出来なかった年。

それが1983年ですわな。 つまりは、人気の下降線があらわになった年・・とでも言いましょうかねぇ。

それは突然やってきた・・・って感じだったな。 前年82年9月にリリースした「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」なんて、「ザ・ベストテン」では最高3位まで行ってた訳だから、 まさか、次の「背中まで45分」がベストテン入りしない・・なんてことは思ってもいなかった訳だし・・・。

まあ、結局は、難解、かつ新たな試みとして「ニューウェーブ系」な曲にシフトしたことが大きかったんだろうな。

今回引っ張ってきた「きめてやる今夜」の前曲の「晴れのちBLUE BOY」なんて、当時のヒット曲レベルから考えれば、まず、ベストテン入りは難しいだろうな・・と思える曲調、リズムだったし。 

 ジャングルビートと呼ばれた、あんな殆どリズム体だけの曲がベストテン入りしてたら、日本のヒット曲レベルは飛躍的に進化してただろうな・・・とも思えるけど、実際83年当時のレベルでは、それもちょっと難しかった。

たしかに、実験的だったんだよね。82年までの何が何でもベストテン入り、一時期のジュリーの代名詞にもなっていた何が何でも「1等賞」を目指すんであれば、もっと保守的な曲でも良かったのかもしれない。

そこから一歩進みたいって言うジュリーの姿勢は、保守化が進んでいた当時のヒット曲界からみるとアッパレだったのかもしれなかったけど、ヒット曲と言うところから見ると、実際的には、それに足元をすくわれた・・というかね。

それらの83年のシングルから見ると、今回引っ張ってきた「きめてやる今夜」は、シンプルだったなぁ。
ポップだしね。 簡単に言えば「分かりやすい」1曲。ポップという傾向としては、前年の「おまえにチェックイン」の方向に近い。

そんな1曲だったからさ、この曲では「ベストテン入り復帰」も可能なんじゃないかなぁ・・・

・・とは当時感じてましたね。

でも、実際的には、売り上げ的には、「背中まで45分」、「晴れのちBLUEBOY」と2曲連続で10万枚切れを起こしたのが、この曲では10万枚オーバーと上向き傾向も見られたんだけど、ベストテン入り復帰はしなかった訳で・・・。

売り上げが回復したのは前2曲よりも「分かりやすい」ってところが大きかったんだろうね。 やっぱり、ヒット曲の世界では「分かりやすい」って言うのは、大きな要素なんだな・・っていうのは、この傾向から分かったりしてね。

それでも、一度下降傾向が進むと、それを回復させるのは並大抵のパワーでは難しいんだな。

・・・そんな事を痛感した1曲ではありましたねぇ。 ワタシ個人でもそうだったけど、もしかしたら、それを一番痛感していたのはジュリー本人だったりしてね。。

いずれにしても、この後、ベストテン入りに返り咲くこと無く、いわいるヒット曲の世界からは下降線が進んでいくことになるわけですわ。



分かりやすいとは言っても、この曲も基本はニューウェーブ系ではあるんだよね。 
だから、本来ではあれば・・いや、前回の吉川晃司の「ラ・ヴィアンローズ」で書いた内容であれば、個人的には、この曲も苦手であるはずなんだけど、でも、実際はこの曲は好きだったなぁ。

83年の10月っていうと、自分の頭の中では、かなりの割合でこの曲がヘビーローテーションだった覚えがあるしさ。だから、83年の10月っていうと、この曲から感じたカラーが浮かんでくるし・・・。

サウンド的にはニューウェーブ系だったけど、ポップで聴きやすいっていうのが、大きかったんだろうな。
その辺は、作曲が井上大輔氏っていうのも大きかったんだろうな。完全な洋楽志向ではなく、あくまで「和」のテイストを織り込んだ分かりやすいメロディと言うところがさ。



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魅せられた夜 / 沢田研二

1973_12_魅せられた夜_沢田研二


今回の1曲セレクトは、「魅せられた夜」沢田研二です。

まずはデータです。

・タイトル    魅せられた夜
・アーティスト  沢田研二
・作詞      JEAN RENARD  
・作曲      JEAN RENARD 
・編曲      東海林修
・日本語詞   安井かずみ
・リリース日   1973年11月21日
・発売元     ポリドール
・オリコン最高位 3位
・売上げ枚数  34.5万枚
・ベストテンランクイン期間:1973年12月9日〜1974年1月28日付

前回は少年隊の「バラードのように眠れ」ということで、ユーロビートを取り上げたんだけど、これは80年代の「ブーム」だったわけなんだよね。
じゃ、日本に於いて、それ以前にヨーロッパ系は流行らなかったのか? というとさにあらず。 60年代、70年代を通してもヨーロッパ系の曲って、日本のヒットチャートを賑わしていましたからねぇ。

逆に言えば、アメリカンな曲よりも、ヨーロッパ系の曲の方が、日本で於いてのヒット曲と言う意味では歴史は古いかもしれない。イタリア、フランスの曲なんかはそうだよね。

特に、フランスのフレンチポップスね。これは、その後の日本のヒット曲の「基礎」ともなっている部分が強いのよ。 フレンチポップスってメロディが濡れてるし、抒情的な曲って多いからさ、日本人の感情とフィットする部分が強いんだよね。

よく生命体の起源として「母なる海」って感じで、海の匂いを嗅ぐとどこか懐かしさを感じるって事があるけど、音楽で例えれば、フレンチポップスがまさにそんな感じなんだよな、知らない曲でもどこか懐かしさを感じる。

そこが日本人にフィットする所以なのかもしれない。まあ最近フランスで、日本のアニソンが流行っているって言うのは、その裏返しって言う部分もあるんじゃないかなぁ。 つまりは、日本のヒット曲の根っこの部分にはフレンチポップスがある訳でさ、フランス人に受け入れられるっていうのも、ある意味必然的な事なのかもしれないんだよね。言ってみればフレンチポップスの「逆輸入」って言う感じで。 もちろん、日本独自の感性って言うフィルターをかけてるんで、元のフレンチポップスと見た目上は変わってるけど・・・。


あー、またまた、「マクラ」が長くなっちまった。。。。

今回は、70年代前半にヒットしたフレンチポップスな1曲を持って来ましたわ。

沢田研二「魅せられた夜」。

うーむ、ジュリーは何曲か前に書いたばっかなんだけど、まあ、お許しあれね。

ま、兎も角も、古くからのジュリーファンにはお馴染みの曲とおもうけど、ワタシと同年代の方には、ちょっと馴染みが薄いかもしれない。

どうしてもさ、ワタシらの年代のジュリー像っていうと「勝手にしやがれ」であり、「TOKIO」ってあり・・・ビジュアル的なジュリーって言うイメージが強いからなぁ。

70年代前半のジュリーって必ずしもビジュアル重視って言う訳ではなかったでさ。件の阿久悠、大野克夫コンビになる前はヨーロッパ系な傾向は強かったんだよね。
例えば72年の2ndシングルである「許されない愛」なんかは、ロック系ではあるけど、音的にはアメリカンロックのように乾いた音ではなく濡れてたしね。で、その後フレンチポップスに傾倒するようになる訳ですわ。

その走りともなった曲が、今回引っ張って来た「魅せられた夜」じゃないかなぁ。

ま、この曲は、フレンチポップスのような・・・というか、本物のフレンチポップスなんですけどね。

つまりさ、フレンチポップスのカバーなんだよね

↓ コレ



・・・っつか、コレ書いてるワタシも今知ったんだけどさ  

なるほどぉ〜、そうだったのかなぁ。。。どおりでめちゃくちゃ「おフランス」的な曲だと思ったわぁ・・・

・・・なんて感心してるばやいか。。。

個人的に、この曲を初めて聴いたのは、忘れもしない1983年。ワタシが中一の終わりの春休みだったなぁ。

いつかも書いたような気がするんだけど、福島から千葉に越して初めて、船橋の「ららぽーと」に行ってさあ。そこのレコード屋さんで、ジュリーの「全曲集」のカセットを買ったんだよな。それに、この曲が収録されていたですよ。

めちゃくちゃ新鮮だった。 ↑で書いたように、ワタシらの世代というと、キザ路線からのジュリーからしか知らなかったからさあ。 こういう曲を歌っていたって言うのは全然知らなかったからなぁ。

新鮮だったとともに、どこか懐かしかったんだよね。それまで全く聴いた事が無かったのに不思議なんだけどね。

たしかに「ヒット」としての70年代のフレンチポップスって、能動的には聴いてなかった訳だけど、知らず知らずのうちに耳にしてたからさ。 言ってみれば、個人的な音楽の原点に近いんだよね。このテのフレンチポップスって。

 しかも、ワタシ、ヒット曲に足を踏み入れる前は、ポールモーリア・フリークだったからさあ。 まさにフレンチ・イージーリスニング界の大御所だったわけじゃん、ポール・モーリアって。だからね、知らず知らずのうちにフランス系の音って、刷り込まれていたんだよね。

A-B-A って言うメロディーの流れは、決して複雑な曲形式ぢゃないんだけど、メロディが染みるんだよね。
ちょっと前にもかいたげと、70年代前半の歌謡ポップスって、それまでの4-7抜きのメロディラインが抜けきっていない頃で、どこか垢抜けないものが多かったんだよね。なんて言うのかなぁ、ちょっとのっぺらぼうのような感じがして。

その点この曲は、もともと向こうの、本場もんのフレンチポップスだしさ、メロディラインの起伏もある。けっしてのっぺらぼうなメロディラインぢゃない。 まあサビで、転調してグワッと盛り上がるのは、ちょっと大げさかなとも思うけど、当時としてはこんな風に大げさに盛り上げる曲調がイマイかったんだよね。 そそそいわいるショービス系な曲としてさ。

この「魅せられた夜」の場合は、それに加えて、プラスのオブリガードも新鮮だったんだよなぁ。
それまでヒット曲のブラスのフレーズってダサいもんだと思ってたんだよね。なんか邪魔なところも感じたしさ。
でも、この曲のブラスがカッコ良かったんだよなぁ。

まあ、それは、当時実際ブラスをやってたって事もあるかもしれない。 丁度ブラスを始めて1年が経って、周りが見れるようになって来た頃だったからさ、ヒット曲でも意識的にブラスのフレーズが耳に入るようになってきてたんだよね。だからさ、あの時ブラスをやって無かったら、それ以前同様にダサく感じたかもしれない。 

でも、この曲と、次の年の「追憶」の哀愁漂うプラスのフレーズがさぁ、何とも良かったんだよね。

その後、高校終わりまでブラスを続ける訳だけど、本気でプラスを続けようとおもっさたのは、もしかするとこの曲のプラスのオブリガードに触発されて・・・って言うところは多分にあるかもしれないな。
うん、間違いなくきっかけにはなったと思うんだよね。

いずれにしても、この曲が35万枚近くの大ヒットになった事で、フレンチポップスへの手ごたえも感じでしょうね。次の1974年は本格的にフレンチポップスへ傾倒していくことになるんだよね、ジュリーも。





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酒場でDABADA / 沢田研二

1980_11_酒場でDABADA_沢田研二

今回の1曲セレクトは、「酒場でDABADA」沢田研二です。

まずはデータです。

・タイトル     酒場でDABADA
・アーティスト   沢田研二
・作詞       阿久悠
・作曲       鈴木キサブロー
・編曲       沢健一
・リリース日    1980年9月21日
・発売元      ポリドール
・オリコン最高位 14位
・売上げ枚数   14.4万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 10位
・ベストテンランクイン期間:1980年11月3日付

一気に寒くなりましたね。
寒くなって来ると、「あー、年末も近くなってきたよなぁ」・・・なんてシミジミと感じてしまうワタシだったりしますが。。。
 でもねぇ、ここ何年も、この時期なると「音楽祭」だよなぁ・・・っていう感覚はすっかり無くなりましたねぇ。
昔はさあ、11月ともなると、各局こぞって「音楽祭」を開催してたじゃん。大晦日の「レコード大賞」を筆頭に、「歌謡大賞」だぁ、「FNS音楽祭」だぁ、「有線放送大賞」だぁ、なんだぁ、かんだぁ・・・とさ、各テレビ局とタイアップして。
だからさ、この時期ともなると、毎週、どこかしらの局で「音楽祭」の特番をやってしましたよね。

かく言う、ワタシも一時は、毎週毎週、ほとんど全部の音楽祭を見てた事があるなぁ。
で、そんな「熱」が上がっていたのが、1980年前後じゃ無かったかな・・・振り返ると、そう思うな。 

今思うと「アホらし・・・」とか思ったりもするんだけど、当時は、それだけ「エネルギー」があったんだよな、ワタシも。

ま、実際、1980年はいわいる「五・八戦争」とか言われて、各音楽祭で五木ひろしと八代亜紀との熾烈な大賞争いを繰り広げてたしな。加えて松田聖子、田原俊彦を筆頭に新人も勢いがあったんで、歌謡祭としての賞レースも見てて面白かったんだよね。

今回は、そんな1980年の各賞レースで歌ってた、ジュリーのこの曲をセレクト!

「酒場でDABADA」

・・・っつかさ、正直言ってこの年のジュリーの賞レースは、この曲だったのか・・・っていうのは、今思うと不思議だったんだよなぁ。
どう考えても、この年のジュリーっていったら、「TOKIO」の筈だったんだけど・・・。

まあ、この時点で最新曲だったから・・・って事なんだろうけど。。 

ただね、音楽祭向きの曲だったか・・・っちゅうと、ちょっと頭をひねりたくなるんだよな。

悪い曲ではないんだけど、ちょっと難しい・・というかひねり過ぎているっていうか・・・。 まあ、簡単に言えば、ソングフェスティバル向けの、誰が聴いても分かりやすい曲・・・では無いって感じだったんだよな。

当時、小学5年生で、何でもかんでも手当たりしだいに聴いて、聴いたそばから吸収して行ってたワタシも、この曲は、正直分かりにくかった。

ジュリーっていうと、キザ、モテ男、奇想天外(なファッション)・・・っていうところが真っ先に頭に来てた訳でさ。

この年にしても、件の「TOKIO」では、例の「電飾衣装」に落下傘背負って来てたり、この曲の前の「恋のバッド・チューニング」では、色が変わるカラーコンタクトしてきてたり、70年代にもまして奇想天外というかね奇抜なフッションを前面に、表に出て来てましたよね。

この曲では、そう言った、奇想天外なところも、エンターテイメント的なモテ男っていうのも見られなかった。

楽曲的にも、「勝手しやがれ」や「サムライ」、「LOVE(抱きしめたい)」で大ヒットを飛ばしていた頃に比べても、スケール感を感じ無くなって来ていたし・・・。

そう言うところから、なんで、この曲をわざわざ「音楽祭」に持ってきたんだろ・・・って言う疑問は、まだ11才のクソガキだったワタシも感じてたんだよね。


でもやっぱその辺りは、一般的にも感じられていたのかなぁ、オリコンではベストテン入り出来なかったし、売り上げも14万そこそこ。奇しくもこの曲のちょうど1年前にリリースされた「ロンリーウルフ」と同じように「低迷」しちゃったんだよなぁ。

ま、「ロンリ―ウルフ」とちがったのは、この曲では「ザ・ベストテン」ではベストテン入りしたし、上記のように各音楽祭で毎週のように流れていたんで、「ロンリーウルフ」よりは一般的な認知があったことだったろうね。

個人的にも「分かりにくい曲」だなぁ・・・と思いながらも、毎週のように聴いてたら流石に覚えちゃったし、80年秋のジュリーといったら、この曲って言うイメージはしっかり付いちゃったしね。




上で書いたように、前曲まで見られていた奇想天外なエンターテイメント性が無かったこの曲だったから、ついにそろそろ「ネタ」切れだったのかなぁ・・・なんても思えたりもしたんだよね。
いや、当時は、圧倒的にそう感じてた。

まあ、阿久悠氏の詞は別にしても、そもそも作曲者に鈴木キサブロー氏を持ってきたっていうのもちょっと意味が分かんなかったし。。。
ましてや、アレンジャーの沢健一氏ってダレ? って感じだったりもしたし・・・。

でね、今、これを書くに当たって、ちょっと調べてみた。 

沢健一氏、当時バックバンドの「Always」でリードギターをやられていた方だ。 そそそ、この「酒場でDABDA」のイントロでもラフで派手目なギターを披露していた方だ。 
でね、さらに辿って行くと、その昔、「4・9・1(フォーナインエース)」という「GS」のリードボーカルだったとのこと。

まあ、「4・9・1」といっても、これと言ったヒット曲も無いし、いわいるB級、C級のGSだったようだけど、沢氏の前は、ジョー山中氏がボーカルをやっていたと言う事だから、ヒットは無かったものの、いわいるクロウト受けするようなグループだったんじゃないかとは思う。

でも、それを知って、思わずなるほどぁ〜・・・なんて思えたなぁ。

 考えてみたら、この曲の後に、ジュリーも「G.S I LOVE YOU」なんてアルバムをリリースし、その先行として「おまえがパラダイス」なんて、もろ50'Sを意識した3連ロッカバラードをこの曲の次にシングルリリースしたりさ。

つねに「一等賞」狙いだったジュリーだったけど、ヒットどがえしでも、いわいる原点回帰って言う兆しがあったんだよね、この頃ジュリーには。 
まあ、これは次の年の年頭に閉鎖が決まってた、日劇での最後の「ウエスタンカーニバル」出演という布石でもあったんだけどさ。

そこに持って行くための「橋渡し」だったんじゃないのかなぁ、この曲は・・・なんて思えてきたりして。。。



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背中まで45分 / 沢田研二

1983_01_背中まで45分_沢田研二   


今回の1曲セレクトは、「背中まで45分」沢田研二です。

まずはデータです。

・タイトル    背中まで45分
・アーティスト  沢田研二
・作詞      井上陽水
・作曲      井上陽水
・編曲      白井良明
・リリース日   1983年1月1日
・発売元     ポリドール
・オリコン最高位 20位
・売上げ枚数 8.7万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 18位

明けましておめでとうございます。 ことしもよろしくお願いします。
目ぼしい曲もだいぶ少なくなってきちゃいましたが、今年も行けるところまで行ってしまおうと思いまする。
今年も一つお付き合いいただけると幸いです。

さて、毎年新年の1発目は、「1月1日」リリースの曲を書き続けてきたんだよね。
そんな事を何年やってきたのかなぁ、「1月1日」リリースのヒット曲ってのも、大分書いて来ちゃったんだよなぁ。だから、めぼしい曲が・・・・・。

・・・と困ってしまうんだけども。。。

でも、前々から気にはしてたんだけども、ずっと書いて来なかった「1月1日」リリースの曲があるんだよな。

今回は、その曲をセレクト。

沢田研二 「背中まで45分」

この曲は1983年1月1日リリース。 時代的に言えばこの曲の前が「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」。
そそそ、 ♪ 毎日ボク 眠れない やるせない Ha Ha Ha〜 ♪ とデビットボウイよろしく、右手を突き上げてたあの曲ですわ。

 この「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」は覚えてらっしゃる方も多いですよね。もちろんオリコンでもベストテン入りし、26万近くうれましたしね。「ザ・ベストテン」では3位まで行ったしね。

でも、さすがにこの「背中まで45分」を覚えてる方は、少ないんじゃないかなぁ。 なんせオリコンで20位までしか行かなかったし、売り上げも、いきなり8万枚強に急降下しちゃったからなぁ。

当時の感覚から言って、まあ、初めから、これは売れないだろうな・・・とは思った。 ただね、いくら売れないと思っても、ベストテン入り出来ないほどの急降下になるとは、正直思わなかったんだけどね、個人的には。
 ジュリーほどのスーパースターともなれば、楽曲パワーが弱くても、それまでの実績・・・余熱でベストテン位はキープ出来るはず・・・・っていうのは、当時13歳のクソガキだったワタシでも生理的に分かってたんだよね。

生理的っていうのはおかしいか。。。 人気の尺度っていうのかなぁ。

でも、実際は、予想をはるかに下回る結果だったからさあ、正直ちょっと焦ったな。

ま、結局さ、それくらいパワーが弱い曲だったんだよね。 うーん、これも表現がよろしくないかなぁ。
パワーが弱い・・・というか、「大衆」的に求心力が弱いんだよね、楽曲的に。

うん、簡単に言えば「難解」過ぎるんですわ。

曲は、作詞、作曲共に井上陽水氏。 正直、これにも面を食らったんだけどもね。

井上陽水氏の曲は、70年代の当初から、正直、凡人のワタシニャ、よく理解できない世界の歌詞だったわけじゃん。でも、曲が素晴らしかったこともあり、理解が難しい詞の世界でも、なぜか自分の中に入ってくる。
うん、引っかかる・・・という生易しいものではなく、入って来るんだよね、まるで心霊現象のように。

80年代に入ると、さらにエスカレートしたというかねぇ、81年の「ジェラシー」は、まだいいとしても、82年夏の「リバーサイド・ホテル」はさあ、これは難解の局地だったもんな。
 いや、13歳のクソガキには、全く理解できない世界だった。すくなくとも身近には存在しえないような別の世界の物語のような・・・。 それに、それまではメロディ自体は理解しえたけど、「リバーサイド・ホテル」っていうのは、メロディでさえも、理解できなかったしなぁ。
いや、理解できなかったっていうのは、メロディを楽譜に置き換えた時、理解できないような譜面の羅列が想像できたからかもしれない。
言ってみれば、曲を左脳で理論的に聴いた場合、理解できないって事だったんだろうな。

それが、そのまんま、ジュリーのこの「背中まで45分」でも感じたんだよなぁ、きっと。

例えば、クラシックでジュゼッペ・タルティーニの「悪魔のトリル」っていう、超絶難関の曲があったりするでしょ。
でも超絶難関に思えるのは、おそらく、理論的な部分で左脳で考えてしまった場合に起こり得るんじゃないか・・・なんて思うんだよね。

ま、個人的にこの曲を弾いたことないから、あくまでも「想像」でしかないんだけどさ、例えとしてね。

でも、「悪魔」と言う部分では、共通してたかなぁ。陽水氏自信の「リバーサイド・ホテル」もそうだったけど、共通して、悪夢の世界というかねぇ、悪魔的なイメージがあったんだよね。
少なくとも、色鮮やかな世界の曲ではないじゃん。かといって暗黒の世界でもない。そうだね、暗いセピア色の世界と言うか。

実際に、当時の月刊・明星の付録の「ヤンソン」で、この曲の楽譜が掲載されてたけど、中1の自分からみても、正直、難解な譜面だったんだよね。で、譜面から感じる世界も、どこかモノクロや、ダークなセピア色の世界だったんだよな。

おそらく、そこから始まっているんじゃないかなと思うんだよな、この曲との付き合い方として。
やっぱり、そんなダーク世界の曲は積極的に聴きたいとはあんまり思わないからさ。 だから、ずっと、この曲を封印してきてたんですよ。 今の今まで。。。。


でも、これを書くにあたって、ひっさびさに聴いてみた。

うん、音源は持ってるんだよね、この曲の。。。 ま、ジュリーのベスト盤持ってるからさ。 でも、ずっと聴いて来なかったの。

でも、おや、当時感じた印象とは全く違うな。 そもそもイントロ最初のシンセの音からして、こんなに軽かったか
ま、たしかに、メロディライン自体は、変わらず難解だけど、でも、当時感じた悪魔的なセピアな世界は感じない。
うん、当時感じたダークな世界ではないな、今聴くと。 軽いんだよね、イメージが。

でも、どっかで聴いたようなイメージはある。 そうだ、ヒッキーの「Beautiful World」に似たイメージなんだ。
モノクロなんだけども、薄い靄がかかったような湿った感覚。

そうだ、その感覚から言うと、 当時のUKロックなんだよなこの曲は。 例えばイントロのシンセの音色なんてカルチャークラブっぽいし。。

そうだとすると、この曲も前曲の「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」の延長線上にあったと言えなくもないのかもな。前曲はデビットボウイだったわけじゃん。ただ、前曲がグラムロックだとしたら、この曲は、もっと軽い小悪魔的軽いロックのイメージだったのかねしれない。
ただ、その根っこには、「UK」っていうのがあったわけで。

世界的な音楽の流れで言えば、ちょうど、この頃からアメリカ発よりもイギリス発のUKポップスやロックが、アメリカンポップスやロックを凌駕し始めていた頃だ。

だから、当時のジュリーは、そんな世界的な音楽の流れに乗っかってたとも言える。

でもね、当時は、まだ、そこまで日本のオーディエンスは、ついて行けるような状況ではなかったんだよね。
あまりにも先を行き過ぎていたんですよ。 

時代よりも半歩進んだ感じ。 ヒットの条件としては、これが大事だと言われるんだよね。
時代よりも「1歩」進んでも、1歩遅れてもダメ。 時代の潮流に乗り遅れるヒトのためにも「半歩って言うのが大事なんですよ。

それからいうと、この曲は時代よりも1歩も2歩も進んじゃっていたのかもしれないな。




当時の画像がなくてスンません。 まあね、34年前でベストテン入りしていない曲だからねぇ。


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OH!ギャル / 沢田研二

1979_07_OH!ギャル_沢田研二


今回の1曲セレクトは、「OH!ギャル」沢田研二です。

まずはデータです。

・タイトル    OH!ギャル
・アーティスト  沢田研二
・作詞      阿久悠
・作曲      大野克夫
・編曲      船山基紀
・リリース日   1979年5月31日
・発売元     ポリドール
・オリコン最高位 5位
・売上げ枚数 27.1万枚
・ベストテンランクイン期間:1979年6月11日〜7月23日付

えー、前回は山口百恵さんの「横須賀ストーリー」をセレクトしてきましたが、70年代、百恵と並ぶスーパースターといったら、やっぱ、ジュリーですよね。
・・・ということで、今回はジュリーの曲に決まり!

・・といってもね、ジュリーもここまで大分書いてきたからなぁ、今回は少し変化球で行きますかね。

「OH!ギャル」

「勝手にしやがれ」にはじまったジュリーにとっての「第2期」黄金期の最後に当たる、この曲だけど、「最後」と書いたようにそれまでの大ヒット曲に比べると、やや売り上げもダウン。少し忘れられた、ジミな存在の曲・・・って言う感じなのかなぁ、今となっては。

うん、第2期黄金期、ずっとジュリーを支えてきた、阿久悠、大野克夫と言うコンビでの最後のシングルでもあり、やはり「勝手にしやがれ」などの大ヒット曲でアレンジを担当してきた船山基紀氏も、この曲がジュリーのシングルのアレンジャーとしては最後の曲でしたね。

79年と言う時代の分かれ目と言う事もあってか、ジュリーにとってもターニングポイントだったんだろうけど、そんな「最後」づくしの曲としては、ちょっとジミ目な曲だった・・・っていうのも否めないかもなぁ。
 「勝手にしやがれ」以来、新曲をリリースするたびに、「次は何をやる?」みたいな話題を常に提供してきたし、曲にしても、毎回、新しさとインパクトを出し続けてきたジュリーだけど、この曲は曲自体ちょっとインパクトに薄い曲だよなぁ・・・っていうのは、否めなかったしな。

そもそも、「OH!ギャル」っていうタイトル自体、あの当時としてもアナロク的だったしなぁ。 それまでの曲のタイトルは斬新さがあったんだけどもさ。

ま、今となっては「ギャル」なんてコトバ自体、完全に「死語」だしさあ、今の若いコにとっちゃ、なんのこっちゃ だよね、きっと。 うん、「ワカイ女の子」の事ですね。

そそそ、79年⇒時代の分かれ目・・という点では、この曲と、ピンク・レディーの「波乗りパイレーツ」が、なんかリンクしてるように感じるんだよな・・・
・・というか、当時もそんな感じがあったな。

沢田研二と、ピンクレディーといえば、前年の1978年、レコード大賞を争った同士ですわ。

その2組、それから半年余り経っただけなのに、それぞれ元気が無かったでしょ。

当時、小学4年のクソガキだったワタシでも、そんな状況から時代の転換点・・・っていうような変化は感じてよなぁ。

でもね、個人的に言えば、この曲決してキライじゃなかったんだよな。むしろ、それまでのジュリーの曲に比べると「手垢」が少ない分、好感度があったような気がするんだよね。

恐らくそれは、本格的にヒット曲の世界に足を突っ込んで、本気でヒット曲を聴き始めた頃と重なっていたからなのかもなぁ。

まあ、そんなこともあってか、この曲を聴くと1979年の今頃の風景がはっきりと脳裏に浮かんでくるんだよね、今でも。

そそそそ、この曲がヒットした、ほんの少しあと、この年の夏休みに初めて「ブルートレイン」に乗って博多まで行ったんだよな。 その時、頭ん中でヘビーローテーションでながれてたのが、この曲だったんですよ、それも良く覚えてる。
 
だからね、この曲を聴くと、あん時の初めて乗ったブルートレインとか、博多の中州のネオンサインの光景とか思い出すんですわ。

そんなことも個人的に、好感度がある1曲なのかもしれないな。

ただ、この曲に関して、それまでの曲のような話題性が無かったか・・・というと、そんなことなかったよね。
そそそ、この曲で初めて、「化粧」したんだよなジュリー。 今見ると、最近のビジュアル系ほどの化粧ではないけど、当時は、かなり話題になりましたよね。 男が化粧とは、何事  みたいな

まあ、向こうでは既に、デビットボウイが化粧してたりしてたわけで、ま、言ってみればジュリーもそれを取り入れただけに過ぎなかった訳なんだけども、まだ保守的・・・というか、伝統的な日本文化な思想が残ってた70年代でしたからねぇ、それでも話題になってしまう訳だったんですよね。


ちなみに、ジュリー自身は・・・というと、どうも、この曲は気に入ってなかったようで、あるツアーで、この曲を歌った後、「この曲大嫌いなんや」なんて暴露してた様ですね
当時は、そんな感じしなかったんだけどねぇ。。。



うーん、タバコを持ちながら曲を歌う・・・っていうのも当時としては斬新だったかなぁ。
この後、、これマネして、タバコ持ちながら歌うヒトは、ちょくちょく出てきたけどさ。


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さよならをいう気もない / 沢田研二

1977_02_さよならをいう気もない_沢田研二








今回の1曲セレクトは、「さよならをいう気もない」沢田研二です。

まずはデータです。

・タイトル     さよならをいう気もない
・アーティスト   沢田研二
・作詞       阿久悠
・作曲       大野克夫
・編曲       船山基紀
・リリース日   1977年2月1日
・発売元     ポリドール
・オリコン最高位 8位
・売上げ枚数  21.5万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 7位
・ベストテンランクイン期間:1977年2月28日〜3月7日付

えー、以前書いた、西城秀樹の「ラストシーン」の時も同じようなことを書いた気がするんだけど、トータル的な売り上げ枚数や、チャートアクションでは派手な動きをしなかったものの、ことコアなファンには、めっちゃ人気な曲っていうのが、時々あるんだよね。
 今回も、また、そんなファンには人気があるけど、一般的にはあまり知られていない曲を引っ張って来ましたぞ。

沢田研二「さよならをいう気もない」

うーん、どうですかねぇ、タイトルをあげて、「あー、あの曲ね」って浮かんできた方は、昔からのジュリーファンか、通なヒット曲ファンだと思いますねぇ。
大体の方は、「え? いつの曲?」って感じじゃないのかなぁ。

リリースタイミングでいえば、前曲が「コバルトの季節の中で」、で、1曲後が、あの超大ヒット曲「勝手にしやがれ」なんだよね。大ヒットと大ヒットの間に挟まれた、なんとやら・・・っていうところですかね。

 今は、素晴らしい曲だろうが、イモな曲だろうが、大体、同じような売り上げ傾向を示すでしょ? 同じようなヒトしかCD買わないから。

でも、昔は、長くヒット曲を出し続けているジュリーのような「一流」のアーティストでも、その全てが同じように大ヒットしてたわけじゃないんだよね。
 つまり、「勝負曲」と「つなぎ曲」ってのがあってさ。年に1枚か2枚が「勝負曲」で、後の1枚、無いし2枚は「つなぎ曲」って事が多かったですよね。

まあ、パターンはアーティストによってまちまちだったけどさ。

で、「つなぎ」曲の場合、本当にリリースする気があったのかどうか・・・って感じの本当の意味での「つなぎ」曲の場合もあれば、少なくともファンには受けたいという思いの曲の場合もありましたよね。

この曲の場合は、完全に後者なんだろうな。

ただ、意図的に計算してそうなったのか、それとも、たまたまファンには熱狂的に支持されたのかどうかは良く分かんないんだけどさ。


 そもそも、ワタシがこの曲を知ったのは、たまたま購入した「沢田研二ベスト」の「カセット」にこの曲が入ってたから・・・なんだよね。

「ベスト」って言うくらいだから、きら星のごとく・・・っていう大ヒット曲が収録されていたんだけど、その中にこの曲がちょこんとあったんだよね
全く知らなかったのよ、この曲については。 最初は なんだ? この曲は? って感じだったな。

ただ、考えてみると、そんな大ヒット曲群の中に収録されたってことは、それだけこの曲を支持してたヒトが当時から多かった事なんだろうな。うむ、レコードはそれほど売れなかったけど。

実際、この曲を聴いてみると、たしかに一般受けはしないだろうなって感じの「地味」な曲なんですよ。
とても、次の「勝手にしやがれ」と全く同じ作家陣が作ったとは、全然思えない。

なんて言うのかな、シングルのB面の・・・って感じなんだよね。

でもねぇ、何回も聴いてると味が出てくるんだよな、これが。 ワタシもいつの間にか、この曲のファンになってたもんね。

こういう、ジミな感じの曲になったのは、やっぱ季節的なところもあったんでしょうかねぇ。
奇しくも同じくファンには熱狂的なに支持されていたけど、一般的にはあまり受けなかった西城秀樹の「ラストシーン」も、この曲とほぼ同じ頃のヒットだったんだよな。
 1977年の2月っていうのは、そう言う時期だったのかなぁ。。。
まあ、個人的には、当時7歳ということで、まだリアルタイムでヒット曲を聴いてなかったんで、リアルな時代背景っていうのは、良く分かんないんだけどさ。

 そういえば、死んだオヤジもこの曲、気に入っててねぇ。カラオケで歌いたいから教えてくれ・・・なんて言ってたこともあったなぁ。





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麗人 / 沢田研二

1982_01_麗人_沢田研二








今回の1曲セレクトは、「麗人」沢田研二です。

まずはデータでする。

・タイトル    麗人
・アーティスト  沢田研二
・作詞      阿久悠
・作曲      沢田研二
・編曲      後藤次利
・リリース日   1982年1月10日
・発売元     ポリドール
・オリコン最高位 10位
・売上げ枚数  22.0万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 7位
・ベストテンランクイン期間:1982年2月1日〜3月15日付

 えー、1曲セレクトを長く書いていると、どーしても書きやすい曲とか、大ヒットでみんな知ってる曲から書いていくんで、後々には、取っつきにくい曲が残ってしまったりするんだよね。

 今回もそんな曲の1曲だっりして。。。

沢田研二 「麗人」

ジュリーの曲も、これまで随分書いてきた・・・つもりなんだけとさ、この曲はどうしても書けなかったんだよな。
年代的には、一番「ヒット曲」を聴いてた頃の曲なんだけどな。

 そそそ、ここでも以前言及した事があったけど、ちょうどこの頃、82年の年明けから、当時TBSラジオの夜9時から毎日放送してた、「ザ・ヒットパレード毎日がベストテン」を聴き始めた頃ですわ。
 ちなみに、今回セレクトした「麗人」も、初めて聴いたのは「ザ・ヒットパレード」だった・・・と思う。

 あれ? 文化放送の「全日本歌謡選抜」だったかな?   ま、どっちかですね。

最初の印象・・・・なんかよく分かんない曲・・・だったなぁ。 これまで文章として書きにくかったってところに結びつくんだけど、兎に角取っつきにくかったんだよなぁ、当時は。

この曲の前の「ス・ト・リ・ッ・パー」がああいう、バリバリの「インパクト」の塊のような曲だったんじゃん。それに比べると、なんか今一つ、引っかかるところも少ない様な感じだったし。。。

・・・っていうのは言い訳かなぁ。 今聴くと、かなりインパクトは強い曲なんだけどね。

そもそも「麗人」っていう意味も、当時はよく分かんなかったしさ。

ただ、ひとつ、♪ 恋は もともとそういうもの〜 ♪ っていうサビのメロディは、引っかかったな。 それまでのジュリーにはなかったサムシングを感じたんだよね。

「ス・ト・リ・ッ・パー」がストレイキッツばりの、ロカビリーロック(っていういい方があるかは不明)だったのに対して、この曲あたりから俄然、ニューウェイヴ色が強くなったわけで、その変化について行けなかったのかもなぁ、当時は。
 個人的に、当時は、どうもニューウェイブ系の曲が今一つ取っつきにくかったんだよね。 なんせ、ダサイ曲が好きなもんださ。 結局、この曲が取っつきにくかったのは、そこのところが一番大きかったのかもなぁ。 


ジャケ写。なんか凄いよね。っつか、さっき初めて見たんだけど、この曲のジャケ写って。
当時、レコード屋に通ってたんだけど、どうもこの曲のジャケ写って記憶に無かったんだよなぁ。
まさに大正ロマンそのものっつうか、初期の横尾忠則っつうか。曲のイメージとはまるで違いますよね。


動画・・・あ、これいいな・・・と思った動画が、直リンクじゃなきゃ、弾かれちゃう設定になってたんで、
ようつべに直リンク

https://www.youtube.com/watch?v=tImje11mSMA

ま、なんだかんだ言うても、今聴くと、いいんだな、これが。  最近、こういうアクの強い曲って少ないからさ。
いやいや、その前にかっこいいよね、ジュリー。
この動画は94年のものだけど、雰囲気は、82年のヒット当時、そのままだな。
バックでドラム叩いてるのは、村上ポンタ氏で、ベースは、確か後藤次利氏。
やっぱり、一流ミュージシャンが脇を固めると、曲が締まりますね。



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