かじやんのヒット曲&チャートレビュー

ヒット曲を聴き続けて40数年! かじやんがお送りする、「今」のヒット曲&ヒットチャートから、「あのころ」のヒット曲&ヒットチャートまで、ヒット曲について幅広くご紹介するブログ。 自主チャートサイト"THE HITCHART NOW AND THEN"の支店ページという位置づけにいたします。

松本隆

大村雅朗25th Memorial Super Live 2日目(9/24)

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大村雅朗25th Memorial Super Live 1日目(9/23) からの続き


東日本では台風15号崩れの大雨で、静岡を中心に大きな被害があったとニュースでは伝えている。
たしかに前日、福岡に来る時の新幹線、静岡〜名古屋にかけて、真っ黒な雲が空一面を覆いどしゃ降りだった。 ただ幸いにワタシが通過した時間は、まだ新幹線には影響がなく定刻通り博多に着くことができたんだけども。 
ワタシが乗ってきた「のぞみ」は、博多到着後、そのまま東京に折り返しだったんだけども、影響あっただろうなぁ・・・・。

おーっと、話題がずれた。。。   

兎も角・・・ 9/24(土)   福岡はいい天気。 さてライブが始まる夕方まで何をしよう。。。所在に困る。  そのまま夕方までホテルでボーッとしててもいい・・・。 いや、そんな気分にもなれず。

初めは、鹿児島まで行って桜島でも見るかとか、糸島に足を延ばして黄昏るか・・とか考えたんだけどもいずれも、そうする気にもなれず、 とりあえず、大宰府天満宮にお参りして、福岡市内を散策するか・・と外出。

結局、大宰府の後、大濠公園周辺を散策し、大濠公園の池周辺のベンチで黄昏て、夕方まで時間をつぶす。

それでもまだ時間があるので、 地下鉄の中州川端駅からキャナルシティまで川端通商店街を散策。 はじめて福岡の「庶民的」な暮らしを垣間見たような気がする。 こういう所を歩くと、本当の町の良さが分かりますね。 

大都会であるのに、東京のようなとげとげした緊張感がなく、街中の雰囲気が初めてきたのに妙に落ち着く。
さっきまでいた大濠公園もそうだけども、本当の福岡を見たようで・・・。芯から福岡が好きになりそうだ。


キャナルシティ劇場に着く。 席は昨日と同じ。1階B列24番。
ステージが目の前のあの席だ。 昨日1度経験しているホールということもあり、昨日よりは気分的に落ち着いており、周りを見渡す余裕もあった。

周りを見渡せば、ほとんど、昨日とお客さんのメンツが変わらない。やはり周りは2日通し券方々ばかりのようだ。
わたしの隣の席も、昨日と同じお姉さんで軽く会釈。 

昨日は気が付かなかったんだけども、レコード会社の福岡支社の方々、ラジオなどのメディア関係者など、お客さんには業界関係者が多かったようだ。
この日のトークで分かったことだけども、 大村雅朗氏の実家のお兄さんや、 ソニーエンターテイメント元取締役の白川隆三氏も、お客さんとして来ていたようだ。

その他NHK福岡放送局も取材に入っていたし。。。
ワタシの周りも、業界の方と思しき方々が多数。 隣の席のお姉さんもそのようだ。

そういえば、前日のライブ終了後、階段の踊り場で、渡辺美里さんがインタビューを受けていたところを目撃したしね。

やはり、少なくとも福岡の業界回りでは注目されたライブだったようだ。


そんな中、昨日より1時間早く、17時丁度 ステージスタート。
17時きっかりにステージがスタートしたのは、今日はネット配信が入っていたということもあったんだろう。

オープニングは、昨日同様、砂原"まりん"良徳氏による 大村雅朗氏アレンジ曲"Mash Up" (メドレー)。

使用曲は
・天使のウインク(松田聖子)
・Be my J-Girl (吉川晃司)
・水のルージュ  (小泉今日子)
・メインテーマ (薬師丸ひろ子)
・みずいろの雨 (八神純子)
・君はクロール (渡辺美里)
・My Revolution (渡辺美里) 

昨日のオープニングは、硬派な曲のメドレーであったが、今日は一転してソフトな曲でまとめたイメージ。

そして昨日同様、司会役の佐橋佳幸氏、亀田誠治氏が上手、下手からの登場。
MC内容も昨日とほぼ同じ。 うん、漫才師みたいだね・・・ということで。。。。

まずは、大沢誉志幸氏が登場。
いきなり、氏の代名詞ともいえる「そして僕は途方に暮れる」。

昨日の八神純子さん同様、オープニングからいきなりの代表曲ということで、いやがおうにも会場のボルテージが上がる。

・e-Escape  
・晴れのちBLUE BOY (沢田研二カバー)
・ラ・ヴィアンローズ (吉川晃司カバー)
・CONFUSION  

と立て続けに4曲。
「晴れのちBLUE BOY」「ラ・ヴィアンローズ」とカバー曲が含まれていたのと、絶対にやると思った「その気×××」が回避されたのには、すこし拍子抜けの感も無きにしも非ず。
それでも、ジュリーよりも、ブラックで強烈なビートの「晴れのちBLUE BOY」は圧巻でしたわ。
さすがは、「晴れのちBLUE BOY」の作曲者。

ここで、ジュリーを初め、大沢誉志幸氏、 槇原敬之氏、 はたまた、現在に続く、トライセラトップス、BUMP OF CHICKENを世に出し続けてきた、名プロデューサー、木崎賢治氏が登場。

木崎賢治、大澤誉志幸、佐橋佳幸、亀田誠治 4氏による大村雅朗氏についてのトークを展開。
・・・そこに 木崎氏繋がりということで、槇原敬之氏が、パイプ椅子をひきづって「乱入」(!?)      5氏による大村雅朗氏にまつわるトーク。

大澤誉志幸氏と大村雅朗氏といったら、やはり「そして僕は途方に暮れる」。
この曲も、昨日書いた「櫻の園」同様、元々は別の方に書いた曲だったけども、採用されずにお蔵入りになっていた曲という事。
で、大澤誉志幸氏のアルバム曲が1曲足りないんで、なんかいい曲ない? ってことで、この曲を引っ張り出してきたとの事。
ただ、 元々は、タイトルも歌詞もアレンジも、全然違ったようですね。もっとフォーキーな曲だったとの事。
 それでは、大澤のイメージに合わないんで、歌詞を銀色夏生さんに改めて依頼。アレンジも、大村雅朗氏に改めて依頼したところ、現在の、ニューウェイヴな「そして僕は途方に暮れる」が誕生したようだ。
この曲、世間一般では、ポリスの「見つめていたい」を下敷きにしたアレンジということになっているけど、それは間違い。 本当はトンプソン・ツインズの「Hold Me Now」が正解・・と、木崎氏、大澤誉志幸氏、お二人の弁。

ちなみに、ジュリーの「晴れのちBLUE BOY」は、初め、ジュリーからこのメロディは歌えない、とクレームがあったとの事。
そいで、徹夜してメロディを変えたら、 このメロディはヤダ・・・と文句を言われたとのことで。。。
時間がないんでしょうがないんで、しぶしぶ元のメロディで歌ってもらったのが、今の「晴れのちBLUE BOY」になったようですね。

やはり、昭和のスーパースター、ジュリー。 当時まだ駆け出しだった大澤氏は、大分、気を使ったようですね。

ただ、「おまえにチェックイン」のイントロの♪ チュルル 〜 ♪っていうコーラス
あれは、大澤氏本人 伊藤銀二氏 佐野元春氏、沢田研二氏本人でやったらしいんだけども、はるか向こうにいたはずのジュリーの声が一番デカかった・・・と、さすがのジュリーの声量には脱帽でしたわ。
佐野元春氏が、あのコーラスに加わっていたのか・・というのは、ちょっと驚きだったけども。。。。
(・・・と思ったらWikipediaにも出てましたね。。。。)

続いて、 マッキーだけ居残り、 砂原まりん氏(マニピュレーター)、佐橋佳幸氏(G)  山本拓夫氏(Sax)による 大村雅朗氏アレンジ曲セッション

・モニカ(吉川晃司カバー)
・Rain  (大江千里カバー)
・Lovin' you  (渡辺美里カバー)

まあ、正直、マッキーによる「吉川晃司」は、アレ・・・・でしたけど   それでも、バックは、オリジナルそのままに再現してくれたんで、気分は、オリジナルの「モニカ」を味わせてくれましたわ。

いやいや、考えようによっては、マッキー、もう二度とライブで「モニカ」歌わないだろうから、それを見られただけでも貴重な体験だったかもな。。

蛇足だけども、ワシの真正面に、まりん氏、その間にマッキーを挟んで一直線上になったんだけども、なんだ、この昭和44年生まれラインは・・・と思ったのは、ワタシだけ・・・だよな。


「Rain」「Lovin' you」は、昨日、渡辺美里さんもカバーしたし、「Lovin' you」は美里さん本人の歌唱が聴けだけども、 マッキーが大好きな曲ということで敢えてカバー。

渡辺美里さんもカバーしたように大江千里さんの「Rain」と大村様朗氏という組み合わせは、現役のミュージシャンにとっても忘れられない1曲になっているようですね。
秦基博を初め多くのミュージシャンに未だにカバーされているのも頷けますわ。

美里さんとは、別アレンジで、マッキー本人がアレンジし、アルバム「Listen To The Music」に収録した「Rain」だったようで、「モニカ」とは異なり、マッキーらしさを感じた1曲となりましたわ。
(うーむ、この部分は、大村雅朗氏からは離れていたんだが・・・・)

こう見ると、大江千里さんも、大村雅朗'Sチルドレンとして、このライブに参加できればねえ・・と思ってしまったりしましたが。。。。


続いて ゲストの川崎鷹也氏登場。 
正直、現在27才の川崎鷹也氏は、大村雅朗氏世代ではない。 ただ、やはり親が大村世代として、八神純子さんや佐野元春さんを聴いており、そういう影響はあるということで、いわば「ジュニア時代」の代表として選ばれたようだ。

フルバンドを従え、

・SOMEDAY (佐野元春カバー)
・パープルタウン〜You Oughta Know By Now〜 (八神純子カバー)

2曲を熱唱。
個人的には、マッキーの「モニカ」同様、 やはり「持ち歌」ではないということもあり、歌いきれてないところがあり、正直アレ・・・でしたが 、周りの方々には評判が良かったようですね。

個人的には、バックバンドの演奏がよかったですね。
「SOMEDAY」のドラム、レコードアレンジと全く同じオカズ(フィルイン)、叩き方だったんで、オリジナルの佐野元春氏も山木さんのドラムだったっけね・・と勘違いしたくらい。
(オリジナルは、島村英二氏だったようですが。。。)

これは、前日の渡辺美里さんの「My Revolution」でも同じような錯覚を感じたなぁ。
今剛氏のギターのフレーズ、レコードと全く同じだったんで、オリジナルも今剛氏だったんだ・・・とその場では思っちゃったんだけども、実際は松原正樹氏だったようですね。

そのくらい、今回バックバンドの皆さんは、忠実にオリジナルアレンジを再現していたんだということが分かったりして。。。。さすがは超一流ミュージシャンの皆さんだ・・・と再認識させられましたわ。。。


引き続いて、南佳孝氏登場。
軽く、大村雅朗氏へのはなむけの言葉を交わし、「スタンダード・ナンバー」。
言わずと知れた、薬師丸ひろ子さん「メイン・テーマ」の同曲別バージョンですわ。
ちなみに、アレンジはいずれも、大村雅朗氏によるもの。
件の「風の譜」〜福岡が生んだ伝説の編曲家 大村雅朗〜では、アーティストによって、それぞれのアーティストに合わせたアレンジということで、使用されたこの曲だけども。

ホンネのところはどうなんだろう?  同じ薬師丸ひろ子さんでは、件の「セーラー服と機関銃」の時に、作曲者の来生たかお氏が「夢の途中」という同曲、異タイトルを大ヒットさせていた・・という前例もあるわけで。。
「メインテーマ」も同じ路線を狙ったんじゃないか・・・とも思えたりするワタシだったりするんだけども。。。

ただ、図らずも、前日の、八神純子さんや ばんばひろふみさん同様、 これまでテレビの画面越しに、長年見てきたアーティストの曲を、生で、しかも目の前で聴けるというのは、感慨ひとしおですわ。

南佳孝氏は もう1曲 「ストライプの雨の彼方」という、映画「メインテーマ」で薬師丸ひろ子さんの相手役に抜擢された、野村宏伸氏主演のアニメ「ボビーに首ったけ」の挿入曲「ボビーにRock'n Rol」のB面だった曲を披露。

めっちゃマイナーな曲や・・・。

ワタシも知らなかった曲だけども、考えてみれば、南佳孝氏と大村雅朗氏って、接点がありそうで、実際はそれほど接点があったわけではないんだよね。

なので、こういう選曲になったんだろう。

南佳孝氏の場合は、むしろ、この日もゲストに出演された、松本隆氏との繋がりが大きいということで。。。

この後、 松本隆氏が再登場。 南佳孝氏、 佐橋佳幸、亀田誠治 4氏による 大村雅朗氏にまつわるトーク。
ここに、またまた、マッキーが乱入(!?)  どうも、松本隆氏の京都の住まいの近所にマッキーが引っ越したらしく、ご近所付き合いの仲になっているらしい。

なるほど、今回ライブにマッキーがブッキングされた意味が、分かりましたよ。
件の川崎鷹也氏も、おそらくは、昨年の松本隆トリビュートからの繋がりが強いようだし、どうも、今回のライブ、大村雅朗氏のメモリアルという名目ではあるけども、大村雅朗氏と松本隆氏を中心としたライブという意味合いの方が強かったようですね。

トークの後、またまた、マッキーは居残り。

マッキーの大好きな1曲といい、自らリアレンジバージョンを手掛けた松田聖子さんの「櫻の園」を熱唱。

なるほど、昨日、松田聖子さんの一連の曲をカバーした中川翔子さんが、この曲を回避した意味が分かりましたわ。

オーラスは、「SWEET MEMORIRS」。

うーむ、なんで、この曲は誰が歌っても、こう、トリ肌が立つんだろうねぇ。 もちろん、オリジナルの松田聖子さんに歌ってほしかったのはやまやまなんだけども・・・。
マッキーの歌唱も良かったですよ。




以上を持って 「大村雅朗25th Memorial Super Live」は無事終了。
2日間にわたり、大村雅朗氏にまつわる数々アーティストの熱唱、バッグバンドの一流の演奏を堪能。
さらには、松本隆氏、木崎賢治氏によるトークを直に聞くことができ、素晴らしいライブだったと思いますわ。

なにより大村雅朗氏ならではの一流のアレンジ、サウンドですね。

トークにも、何度か出てきたけど、大村氏は、常に「今」を求めていたという事。
「(その音は)「今」じゃないんだよね〜」というのが口癖だったという事。

このコトバを聴いてハッとしましたわ。

そうだ、最近の音楽に欠けているのは、コレなんだ・・ということ。
2022年ならば、2022年の「音」を求めている音楽関係者が、少ないんじゃないか・・ということ。

だから、大村氏のアレンジした曲を聴くと、1984年ならば1984年。 1986年ならば1986年の時代を感じられるんだ。

どうして、昭和ばかり振り返るんだろう? ・・・という、最近、個人的に感じてる不満の糸口を感じたような気がする。

70年代から90年代にかけて、確かにあの時代日本には勢いがあった。だから過去を振り返る必要もなかった。
確かにそうだ。 けど、あの時代、大村氏のような「今」の音を求めている音楽人がいたからこそ、過去を振り返る必要もなかったし、あの頃の音楽って進化し続けられた・・・・そんな気がするんだよね。

いまの音楽界に必要なのは、大村氏のような「今」のサウンド、音楽を追い求めるヒトなんじゃないのか・・・と。

それに改めて気づかせてくれただけでも、 今回のライブに参加した意義があった。


もし、大村氏がまだ存命だったら、その後の日本の音楽界はどうなっていただろう?
少なくとも、今と同じになっていたとは思えない。

トークでも話が出たけど、、もし、宇多田ヒカルを大村氏がプロデュースしていたら、どうなっていただろう?  絶対にもっと違ったアプローチになっていたはずですわ。 

大村氏をアニキと慕っていた、小室哲哉氏はどうなっていただろう?  もしかすると、あんなに急激に時代に取り残されなかったかもしれない。

それは、「現在」の音楽にしても同じことで、少なくとも日本の音楽がここまで「小さく」なることは無かったんじゃないかと思うんだよね。もっと「韓国」の音楽と対等に渡り合えたかもしれない。

それを思うと、つくづく惜しい方が早逝されてしまった。日本の音楽業界には大きな損失だったということを、改めて感じさせてくれましたわ。


最後に、締めのあいさつで司会役の佐橋佳幸氏、亀田誠治氏から、東京、大阪ではやらないんですか・・というお叱りを受けた・・ということをカミングアウト。
ただ、恐らく・・というか今のところは予定はないです・・というコメント。
でも、もし、やったらスミマセン・・・とのこと。 

でも、個人的にはやって欲しくないなぁ。
このイベントは、大村氏の生まれ故郷、福岡でやるからこそ意義があると思うし。。。
それに、東京、大阪に、キャナルシティのように、少し格式が高くて、しかも中規模な適当なホールも、あまりないような気もするし。。。

・・とはいうものの、今回、参加できなかった大江千里氏の大村作品も本人の歌唱で見たいし、松田聖子さんの大村作品も本人の歌唱で聴きたいし・・・。
なにより、今回、聴けなかった他のアーティストの作品も聴いてみたい・・という希望はあったりするんだけどね。

30th Memorial Live ・・・企画してくれないですかねぇ。。。。 





大村雅朗25th Memorial Super Live  2日目(9/24)セットリスト

・オープニング
▼砂原"まりん"
良徳DJ
大村雅朗アレンジ曲mash up(メドレー)
1  天使のウインク(松田聖子    1985年 20thシングル)
2. Be my J-Girl (吉川晃司   1984年 1stアルバム「パラシュートが落ちた夏」より )
3. 水のルージュ  (小泉今日子 1987年 22ndシングル)
4. メインテーマ (薬師丸ひろ子   1984年 3rdシングル)
5. みずいろの雨 (八神純子  1978年 5thシングル)
6. 君はクロール (渡辺美里  1986年 2ndアルバム「Lovin' you」より)
7. My Revolution (渡辺美里   1986年 4thシングル TBS系ドラマ「セーラー服通り」主題歌)


▼大澤誉志幸
8.   そして僕は途方に暮れる(1984年 5thシングル  日清カップヌードルCM曲)
9.   e-Escape (1983年 2ndシングル)
10.   晴れのちBLUE BOY  (沢田研二カバー 1983年 39thシングル)
11. ラ・ヴィアンローズ (吉川晃司カバー 1984年 3rdシングル)
12. CONFUSION   (1984年 3rdアルバム「CONFUSION」より)

▼槇原敬之
13.  モニカ (吉川晃司カバー 1984年 1stシングル)
14.   Rain     (大江千里カバー 1988年 7thアルバム「1234」より
      ※槇原敬之自身カバーアルバム 1998年「Listen To The Music」より)
15.  Lovin' you  (渡辺美里カバー 1986年 2ndアルバム「Lovin' you」より)

▼川崎鷹也
16 SOMEDAY  (佐野元春カバー 1981年 4thシングル)
17.   パーブルタウン
〜You Oughta Know By Now〜 (八神純子カバー  1980年 9thシングル)

▼南佳孝
18.   スタンダード・ナンバー(1984年 17thシングル  全日空「'84 青春ブランド沖縄」CM曲 )
19.   ストライプの雨の彼方(野村宏伸カバー 1985年 シングル「ボビーにRock'n Rol」B面)

▼槇原敬之
20,   櫻の園 (松田聖子カバー 1999年 32ndアルバム「永遠の少女」より)
21,   SWEET MEMORIES  (松田聖子カバー 1983年  14thシングル サントリー缶ビールCM曲)




J-ROCK永遠のバイブル「風街ろまん」リリース50周年

うっ、しまった。。すっかり忘れていたけど、J-ROCK永遠のバイブルである、はっぴいえんど2ndアルバム「風街ろまん」リリースから、昨日11/20で50周年だった。。

1971_11_風街ろまん_はっぱいえんど

・タイトル   風街ろまん
・アーティスト ぱっぴいえんど
・リリース日  1971年11月20日
・発売元    URC
・オリコン最高位 -位
・売上げ枚数   -万枚

まあ、そんなこともあって、先週、東京FMの「THE TRAD」で、はっぴいえんどのリードギタリストだった鈴木茂氏の特集なんぞ組んでいたようだけども。。。
「風待ろまん」といったら、どうしてもCMにも使われたりして知名度が高い「風をあつめて」なんだろうけど、「THE TRAD」でかかった「はいからはくち」。 




ラジオを通りして改めて聞くと、いいなぁ。鈴木氏のギターソロに、今じゃ聴けない松本隆氏のドラムソロ。日本のロックはここから始まったというのも頷ける。
「はいからはくち」のイントロ、落語の出囃子から始まるけど、大瀧氏の遊び心よ。

いや、でも、のアルバムバージョンよりも、シングルバージョンのほうが、もっとストレートでロックしてるな



アルバムバージョンとシングルバージョンがこんなに違う曲も珍しい。。。
めっちゃストレートなロックンロールですね。

ワタシは、この時2才・・・なので、もちろんタイムリーで聴けるわけもなく、後付けで聴いたくち。

今では、J-ROCKの「祖」といわれている はっぱいえんどであり、、永遠のバイブルと言われているアルバム「風街ろまん」。
たしかに日本のロックは、はっぴいえんどではなく、カップスあたりのG.Sからという方もおられるけど
これを聴いちゃうと、やっぱり、はっぱいえんどが日本のロックの原点という気分になってしまいますね。

個人的には大瀧詠一氏ボーカルの「颱風」



とか

鈴木茂氏ボーカルの「花いちもんめ」が好きだなぁ。



やっぱり、鈴木茂氏は、日本のジョージ・ハリスンだぁ。 そう思わずにはいられないこの曲ですね。

ちなみに、大瀧詠一氏って一般的にはどうしても「ロンバケ」のイメージが強いけど、遊び心いっぱいのこのころの曲もよいのよね。
「颱風」のようなダークでハード、それでいて「颱風、来るよ。また来るよ。。。そーらきたぁ」のような遊びごごろは、「ロンバケ」の頃にはもう聴けなかったしなぁ。

ああ、でも「ロンバケ」の「FAN×4」は、遊びごごろがあったか。。。



$百萬BABY / Johnny

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今回の1曲セレクトは、「$百萬BABY」Johnnyです。

まずはデータです。

・タイトル    $百萬BABY
・アーティスト  Johnny
・作詞                松本隆
・作曲      Johnny
・編曲      Johnny
・リリース日   1982年6月23日
・発売元     キング
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   33.8万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 4位
・ベストテンランクイン期間:1982年7月26日〜8月16日付

既に1曲セレクトに書いてて当然・・・と思うんだけどまだ書いてなかった曲。
以前も、こんなシチュエーションで引っ張ってきた曲って、何曲かあったと思うんだけども、今回引っ張ってきた曲は、まさにそんな曲ですね。

Johnny  「$百萬BABY」。

1982年夏。オリコン1位を獲得したこの曲をよもや、まだ書いてなかったとは。。。。

もしかすると以前書こうと思ってたけども、You tubeに動画が落ちてなくて、保留にしたまま忘れてたのかも。。。。

いずれにしても、うーむ、不覚。。。。


この曲、個人的には思い入れがあるんだよなぁ。 思い入れというか、この曲を聴くと、はっきりとあの当時の風景がフラッシュバックするんだよね。

この曲がヒットしてた時って、丁度、福島の「いわき」から千葉に引っ越してきたときでさあ。
引っ越し前日、当時住んでた、いわき の家の庭で、当時の友達みんなでお別れバーベキューをやったんだよ。当初は有志だけでやる予定だったんだけど、気が付いたら、同級生ほとんどみんな集まっちゃって、凄いことになったのを覚えてるな。

その夜、先に大方の家財道具を送っちゃって、ガランとした家の「居間」に家族3人川の字に布団を敷いた傍らに、当時使っていたSonyのラジカセを置き、裸電球1つの薄暗い部屋でTBSラジオの「ザ・ヒットパレード毎日がベストテン」を聴いた。

たしか1982年7月5日月曜日、「ニューミュージックベストテン」の日だった。 
そして流れてきた、Johnny「$百萬BABY」

初めてこの曲を聴いたのも「ザ・ヒットパレード毎日がベストテン」だったと思う。
いい曲かどうかは、よく分かんなかったけども、なんか刺さったのを覚えてる。 
当時の不安な心境と、どことなく哀愁を感じるこの曲の曲想がシンクロしたんだと思う。

「いわき」という土地柄、TBSという東京からの電波に、いつもは雑音越しで聴いてたこの番組が、あの時は、やけにクリアな音で聴けたのが印象的だったな。

この曲を聴くと、決まってフラッシュバックするのは、あの引っ越し前日の夜の光景だ。

夕方、みんなでやったバーベキューの時は、ワイワイ楽しかったけど、ガランと何もない部屋で家族3人だけになると、急に不安になったのを覚えてるな。

父親の仕事の関係とはいえ、かなり急に決まった引っ越しだったし。千葉なんて、全然知らない土地だったし。 これからどうなるんだろう? っていう不安のほうが大きかったんだよね。

実際、不安が的中というか、千葉での生活は暫く馴染めなくてさ、友達も出来ないし、ずっと いわきに帰りたいと思ってた。 そんな悶々とした生活をしばらく送ることになるんだけども。

千葉に越して来てすぐに始まった夏休み。友達もなく、悶々とした生活の中で、毎日、兎に角ラジオばっかり聴いてたのよ。朝のワイド番組から、夜、寝るまでずっとかけっぱなしだったような気がする。

ラジオから流れてくる音楽が唯一の友達だったな。 アイドル、ニューミュージック、演歌、洋楽・・・とにかく何でも聴いてたと思う。

いずれにしろ、1982年という、あの不安で孤独な夏の体験が、今の「ベース」になっていることは間違いないんだよね。 あのころ聴いてた音楽の曲数に比べると、最近聴いてる曲数なんて「屁」みたいなもんだもの。

あれから39年。 
いわきに住んでた年数よりも千葉に住んでる年数が、ついに3倍になってしまいましたわ。。。
あの時の不安は、時が経つにつれていつの間にか忘れちゃったけど、夏の暑さと湿度の不快さは、あの時のまんまですね。 特にこのジトーっとした湿度は何年たっても慣れない。
「いわき」は東からの海風が入るので、夏でもこんな不快な湿度の日はそれほどない。 夜は雨戸閉めないと寒いくらいだったし。当然クーラーを使ったこともない。
まあ、当時より確実に気温が上がった今では、分からないけど。。。



うーむ、また話が脱線してきたぞ。。。。

この曲のリリースは1982年6月23日
当時の定期のリリーススケジュールでは、20日前後のリリースは、21日リリースというのが通例()だったことを考えると中途半端で変なリリース日設定になっているけど、これは、まあ、いわいる「オリコン対策」ですね。

当時、リリース直後の初動の動きが大きくなりつつあり、オリコン初登場でいきなり最高位という曲が増えてきていたんだよね。
それと共に「オリコン初登場1位狙い」の曲も増えつつあってさ。 当時の、まっち先生やトシちゃんのジャニーズ勢はそうでしたね。 
オリコンの集計期間に合わせたリリース日設定。だから、まっち先生もトシちゃんも通常の定期リリース日ではなく、臨発的な変なリリース日が多いんだよね。

そんな流れに銀蠅一家も便乗した() かどうかはさだかではないけど、銀蠅一家関係のリリース日も、オリコン対策を行ってきていたのか、臨発的なリリース設定のシングルが多い。

そんなオリコン対策がぴったりと嵌ったのか、前曲「ジェームスディーンのように」で最高位3に甘んじたけど、この曲は、見事オリコン1位を獲得する。

まあ、運も良かったんだけどもね。
前週まで4週連続で首位を守ってきていた、岩崎宏美「聖母たちのララバイ」の売り上げが下がりつつあったのと、まっち先生の「ハイティーン・ブギ」が初登場する「間隙」のタイミングというのもあった。

まさか、そこまでチャートアクションを読んでのリリースだとしたら、銀蠅一家はかなりしたたかな計算をしていたな・・とも思ったりするんだけども。。。さすがにそれはないか。。。。

この曲のオリコン1位獲得に続いて、8月には弟分の嶋大輔「暗闇をぶっとばせ」もオリコン1位を獲得と銀蠅一家ブームは、この頃がピークでしたね。

ただ、このピークを境に急激に「ブーム」は終焉に向かったわけで・・・。 いや、今思えば、あの落ち方は、少なくとも1982年の今頃には、全く予想もしてなかったですけどね。。。。

時代の流れは速いのよ。やはり、「つっぱり」というコンセプトだけでは、きつかったんだよね。

飛びつくのが早いけど、見捨てるのも早い。 

この時の「落ち方」を見ると、日本人特有の「性」を感じてしまいますわ。

それ以前に、銀蠅一家の宿願だった、オリコンシングル1位獲得を達成して、目標を失ったっていうのもあったのかもな。
本来だったら、Johnnyというソロプロジェクトや、嶋大輔という弟分ではなく、銀蠅本体で達成する大前提があったと思うんだけども。。。




ところで、この曲、作詞が「松本隆」氏なんだよね。

でも、この間の「トリビュートアルバム」には、この曲入ってませんでしたね〜。 オリコン1位獲得曲なのに
松本隆氏も忘れてましたかねぇ〜  それとも今では無かったことになってますかねぇ

個人的には、それこそ、宮本浩次氏とか、銀杏BOYZの峯田和伸あたりに歌ってもらったら面白かったかも・・なんて思うんだけとな。


まあ松本隆氏が、どういういきさつで、銀蠅一家と繋がったのか・・・というのは、よくわかんないけど、いきなり、この曲の作詞・・・というのは、当時でも結構意外な感じがしたな。

この頃になると、さすがに作詞、作曲者について興味を持つようになってたんでね。松本隆氏が、まっち先生の一連のシングルを書いてること、この曲の前年の「ルビーの指環」を書いてること、松田聖子さんの一連のシングルを書いてること・・くらいは気が付いてたしね。

まだ、その昔の「はっぴえんど」のドラマーだったことなど歴史的なところは知らなかったけど。。。

いわいる「はやり歌」としての当時の一番手の作詞家であることは、気が付いてましたね。

そういういわいる「はやり歌」系の人が、なぜに「自作自演」のニューミュージック系である銀蠅一家に曲を書くっていうのが、不思議だった。

たしかに、前年、南佳孝氏の「スローなブギにしてくれ」であったり、大滝詠一氏の「ロング・バケイション」の一連の曲を作詞していたことから、「自作自演系」に詩を提供していた実績がある事には気が付いていたけど、どうも、銀蠅一家とは結び付かなかったんだよなぁ。

もっとも、銀蠅の弟分である紅麗威甦の「ぶりっ子ロックンロール」のアレンジに若草恵氏を起用したり、妹分の岩井小百合にも馬飼野康二氏を起用したり、「歌謡界」ともつながりを持っていた銀蠅一家だったわけで、もしかすると、ここに松本隆が出て来ても不思議ではなかったのかもしれないし、それだけ、この曲に賭けてたということなのかもしれないな。
そそそ、それだけ、本気でオリコン1位獲りに来たってこと。
で、結果的にオリコン1位獲れたしね。


蛇足だけど、、月刊・明星の歌本「YOUNG SONG」、1982年8月号の「新曲激評」でのこの曲の評として、近田春夫氏は、「ぜ」の使い方が上手いねと褒めてましたね。

へぇ、近田氏が褒めるなんて珍しいね・・・と思ったけど、この号の前月号で、ほとんどの曲をケチョンケチョンに酷評したんで、その反動だったかもしれないけど。。。




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不自然な君が好き / C-C-B

1986_09_不自然な君が好き_C-C-B


今回の1曲セレクトは、「不自然な君が好き」C-C-Bです。

まずはデータなのだ

・タイトル    不自然な君が好き
・アーティスト  C-C-B
・作詞      松本隆
・作曲      関口誠人
・編曲      大谷和夫 C-C-B
・リリース日   1986年8月27日
・発売元     ポリドール
・オリコン最高位 2位
・売上げ枚数   14.5万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 5位
・ベストテンランクイン期間:1986年9月8日〜10月20日付

涼しくなってくると、脳裏をかすめる曲がある。 うん、1曲や2曲ではないですね。 各年にそんな曲があるからもう何十曲もあるわけで。 それらの曲を聴いただけで、それぞれの年の夏の終わりの風景がフラッシュバックするな。同じ夏の終わりでも、それぞれの年によって風景が変わるからねぇ。

まあ、これも年を重ねてきたせい・・・いやいや、これは年を重ねなきゃ味わえない風景ですな。

今回は、そんな夏の終わり、うん、1986年の夏の終わりを感じさせてくれる1曲を引っ張ってきますか。

C-C-B   「不自然な君が好き」。

まあ、夏の終わりを感じると言っても、当時、この曲を好んで聴いていたわけでもないんだけどね。
むしろ、あんまり聴いてなかったんじゃないのかなぁ。

あの当時、毎年今頃になると決まっておふくろがどこかからスズムシをもらってきて水槽で飼ってたんですよ。これが夜になると一斉に鳴きだしてさ。秋を感じたものですよ。

いつだったか詳しい日時は覚えてないけど、たしか「ベストテン」でこの曲が流れてた時、件のスズムシが一斉に鳴きだしてさ、一気にシミジミとした気分になったのを未だに覚えてるんだよね。

その記憶のせいなのかなぁ、この曲を聴くと夏の終わり〜秋を感じるのは。

いや、正確に言えば夏の終わりじゃないんだよね。時期的にもう少し秋が深まってたような記憶があったんだんだけどね。

逆に言えば、この曲が9月の今頃のヒットだったとは思ってなかったんだよね。10月のヒットだったような・・・って記憶してたんだけど。。。

あ、いや、でもベストテンランクイン期間をみるとあながち間違ってもいないのか。。。

C-C-Bという、一時代を築いたバンドの曲なのに、今まで1曲セレクトで残っていたのは、やっぱり、当時、個人的にあんまり引っかからなかったというのが大きいな。


この曲、ブレイク後初めて筒美京平氏から離れ、メンバーの関口氏が作曲。
だから、どうしてもメロディに戸惑うんだよね。特にAメロのメロディラインの流れは尖ってるし、それでいて無機的でね。当時は違和感いっぱいだったなぁ。

この頃になると、特にバンド系の曲ってエッジが効いた無機質なサウンドが増えたんだよね。
いわいるニューウエイブ系な音。 簡単に言えば80年代以降の洋楽、特に当時のブリティッシュ系っぽい音っていうのかなぁ。

当時、個人的にはこれが生理的にダメでね。ま、それもあって当時ヒット曲から意識的に距離を置いてたんだよね。 
ニューウェイヴ系なロックサウンドばかりじゃなく、おニャン子一辺倒な状況に加えて、急激にオタク的マニアック化したアイドル系にも辟易して、86年のちょうど今頃からヒット曲そのものに距離を置いてたわけなのよね。

もちろん、当時オリコンは定期購読してたし、ベストテンも毎週見てたんたんで、完全に距離を置いてたというわけではないけど。

まあ、オリコンもベストテンもこの頃「惰性」で見てたんだけどね。 ベストテンは毎週ランクを記録してたのもあって、やめるにやめられない状態だったし。
そそそ、歌を聴くというよりもランクを記録するのが一番の目的になってたのよ。。。  
だからね、この当時以降、ベストテンでの実際の歌の場面ってほとんど覚えてないんですよ、ワタシ。

歌の場面になると、オリコンの記事やランキング、あと、明星の歌本読んでたりして、テレビほとんど見てなかったんで。。。


 ニューウェーヴ系には引っかからなかったけど、この「不自然な君が好き」と同時期にベストテン入りしてたアルフィーの「ROCKDOM〜風に吹かれて〜」って曲には引っかかったんだよな。
曲そのものというよりも、歌詞の内容に。
いや、それ以前にこの曲で歌われていた1969年、新左翼運動、学園紛争、ロックアウトっていう、ちょうど私が生まれた当時の世相に。

恰も、当時17歳になったばかりのワタシには、私はいったい何者なのだ? っていうアイデンティティも生まれて来ていたのかもしれない。
それと、アルフィーの「ROCKDOM〜風に吹かれて〜」で歌われていた、ワタシが生まれた時代という世界観が丁度リンクして引っかかったのかもしれないけど。

丁度この年の10月からTBS系で「テレビ探偵団」が始まったりして、時代を回顧すること自体が流行りのようになってきたようなところもあった。
 そんな機運にのっかったというのもおかしいけど、いずれにしろ個人的に1960年代っていう時代に傾倒してたんだよね。

もちろんヒット曲への興味も時代をさかのぼり始めたわけで、東京・蒲田の中古専門店「えとせとらレコード」に足しげく通いだしたのもこの頃だったと思う。
そんな流れの中で音楽に関してはG.Sが見直されて来ていて、ちょっとしたブームになってたんですよこの頃。いわいる「ガレージ」なサウンドだよね。 
個人的には80年代のニューウェーブな音よりも、60年代のガレージのほうが生理的に合ったんだよなぁ。
どこか不良っぽいし、なにより夜に向かった音じゃん、ガレージなサウンドって。
この間のゴールデン・カップスでも書いたように、酒とタバコと・・・っていう夜の匂いと不良な音楽が個人的に音楽の記憶の原点だったりするんでさ。 そこにはガレージなサウンドがあったんだろうね。だからさ、初めて意識してG.Sを聴いたときは「これだ」と思ったのよ。これが私の原点だと。
生理的に嵌ったのも当然だったかもしれないな。
そんなわけで、最新ヒットについては、すっかり疎かになっていましたね、この頃。

1986年の後半、特に今頃で一番記憶にあるのはそんな時代の流れなんだよね。


あ、話がかなりずれたな。。。。メンゴ 




件の「ザ・ベストテン」。
この時も絶対に見てた(ハズ)なんだけども、↑のように理由で、今動画を見ても全く記憶になかったですわ。。。。
この曲、ベストテンでは一度「中継」で歌ったことがあったと思うんだけど、その時の記憶はあるんだけどなぁ。

たださ、当時、聴き込んでなかったこともあり、今聴くと結構新鮮だったりしますね。
例えば「Romanticが止まらない」なんてのは、「懐かし番組」ぢゃ未だに頻繁に流れるし、だから新鮮味は感じないけど、この曲なんか、いまとなっちゃまず流れないしな。その分、新鮮なんだよね。

当時、あれだけ嫌だった、ニューウェーヴ系の音も、今は全く違和感なく聴けるしね。


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リップスティック / 桜田淳子

1978_07_リップスティック_桜田淳子


今回の1曲セレクトは「リップスティック」桜田淳子です。

まずはデータでする。

・タイトル    リップスティック
・アーティスト  桜田淳子
・作詞      松本隆
・作曲      筒美京平
・編曲      筒美京平
・リリース日   1978年6月5日
・発売元     ビクター
・オリコン最高位 10位
・売上げ枚数  19.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 8位
・ベストテンランクイン期間:1978年6月19日〜7月24日付

後付けで知った曲。 こういう曲も数限りなくあるわけなんですよね。
私の場合、リアルタイムでヒット曲を聴き始めたのが、1978年9月頃だったかなぁ。 実際的には1978年11月2日に初めて「ザ・ベストテン」を見始めて以降っていうのが、より正しいんだけど。
うん、この場合、「意識して」ヒット曲を聴き始めたのっていった方が正しいかもしれん。 
もちろん、それ以前にも、なんとなく聴いてた曲もあるわけなんでね。
特にこれらの端境期にあたる1978年っていう年は、意識してヒット曲を聴き始めては無くても、なんとなく聴いてた曲も多いんだよね。
 反面後年まで全く知らなかった曲も多かったりして。。。  今回はそんな曲を一つ。

桜田淳子 「リップスティック」

いや、そう書くと結構意外がられますかね。

桜田淳子さんの1978年リリース曲の中では、代表曲と言ってもいいですし、ヒット曲評論家の間でも「受け」がいいこの曲なんでね。
でも、私は耳にしてなかったんだよなぁ。理由はよくわかんない。
まだ、積極的にヒット曲を聴いてなかった時期ではあるものの、この前曲の「追いかけてヨコハマ」は、リアルタイムで知ってたんだけどね。

もちろん、歴代の「ザ・ベストテン」のランクイン曲の一つとして知ってはいたけどさ。あくまで「知識」と知っていたまでで、曲は後年まで聴いたことなかった。。 というか、ずっと忘れてたと言った方がいいかもしれん。

再び、この曲を意識しだしたのは、1995年に刊行された「歌謡曲完全攻略ガイド」で取り上げられたのを読んでからですね。

それでも、それから実際に曲を耳にするまで、さらに何年もかかったんだけどさ

曲を実際耳にしたの、実は、いまから数年前なんですわ。。。

実際曲を聴いてみて、「歌謡曲完全攻略ガイド」で読んだ印象とは大分違ったんたんだよね。それでがっかりしたような何とも言えない気分になったりして。

「歌謡曲完全攻略ガイド」を読む限りではもっとポップでスピード感があるようなイメージを持ってたんだよな。
Aメロ前の 例の ♪フッフッ♪ っていうコーラスも「歌謡曲完全攻略ガイド」を読む限りでは、もっとスビート感があるのかと思ってたんで、実際に曲を聴いてちょっと拍子抜けだったんだよな。

ただ、一番感じたのは、それまで感じていた1978年の「初夏」っていうイメージとちょっと違うなってところかなぁ。

これまで自分で所有していた音源から感じる1978年初夏って、もっとロックなイメージが強いんだよね。といっても、汗臭いロックというよりは、ポップスよりのさわやかなロックっていうのかなぁ。
いかにも初夏を思い浮かばせる緑が、このころのイメージカラーなんだよね、個人的な中では。

でもねこの曲は、ちょっとこのイメージカラーからは離れてるかなぁ・・・っていうのが真っ先に感じたところでさ。

そうだ、この曲はポップスというよりも「ソウル」なんだよね。といっても、「ソウルドラキュラ」のような重くてジメっとしたソウルではなく、ディスコっぽいダンスナンバー寄りのソウル。
スリーディグリーズの「ソウルトレイン」とか、あの類に近いよね。
そういえば、スリーディグリーズといえば「にがい涙」とか、浅野ゆう子さんの「セクシー・バス・ストップ」って筒美氏が手掛けたわけで、この手のディスコ寄りのソウルナンバーって得意なんだよね。

で、いずれの曲も、なんていうのかなぁ、ヒューミディティ的っていうのかなぁ、どことなく、湿度を感じるサウンドだったりしてね。
っていっても、なかなか伝わらないかなぁ・・・。 そうね、昨日今日の関東地方の天気のような「蒸し暑さ」っていうのかなぁ。 そんな温度感を感じたりして。

この「リップスティック」にしてもそうだなぁ。

この湿度感は、筒美氏のアレンジ特有なサウンドなんだよなぁ。 良く筒美氏のアレンジはバタ臭いっていわれたりするけど、個人的にこの言い方はなんかちょっと違うなって思えたりしてたんだけどさ。そそそ、ヒューミディティ的なんだよね。

恐らく、筒美氏が自らのアレンジする際、 特にソウルナンバーの時のややしつこいくらいの「ストリングス」の使い方から湿度感を感じるのかなとも思ったりするんだけどさ。

ただ、同じ筒美氏でも、太田裕美さんの「九月の雨」や、ジュディ・オングさんの「魅せられて」で聴かせてくれるような、いわいるポールモーリアサウンドの場合は、ソフィケートされた清涼感のあるストリングスを聴かせてくれたり。
曲調によって、全く違うストリングの使い方を魅せるっていうのも筒美氏の特徴だし、そういう使い分けができるっていうのも筒美氏サウンド幅の広さなんだよね。

もっとも、筒美氏自らアレンジをほとんどしなくなった80年代以降は、なかなかこのサウンドを聴く機会も少なくなるんだけども。

ただ、この「リップスティック」の場合、そうは言っても、件のコーラスにしても清涼感があるし、なんと言ってもサビとは全く異なるスローなイントロは蒸し暑さどころか、秋風を感じさせたりして、夏の汗臭さを払拭させていますね。
さすがに、当時トップアイドルであった淳子さんに、そこまで汗臭さを感じる曲はマズいっていう配慮なんでしょうかね。



それにしても「ベストテン」落ちは突然にやってくるなんて言いたくなるくらい、まさか、この曲が淳子さんにとって最後のオリコンベストテン入りなんて、よもや思わなかったんじゃないのかなぁ。

たしかに、20才を迎え、当時アイドルから大人のシンガーに脱皮する途中だったんだろうっていうのは、今になってみればよく分かんだよね。
 少なくとも、この曲のちょうど1年前にリリースした「気まぐれヴィーナス」と比べても、ぐっと大人っぽい曲調だしさこの曲は。

ただ、そんなアイドルから大人への脱皮っていう変化は、このヒトの場合は受け入れられにくかったんだろうね。
それだけ、このヒトの場合は根っからの太陽のようなアイドル気質だったんだろうし、永遠のアイドルをみんな望んでたんだろうな。
そこが陰と陽といわれ「菩薩」だった山口百恵さんとは違ったというわけで。。。



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ドール / 太田裕美

1978_09_ドール_太田裕美


今回の1曲セレクトは、「ドール / 太田裕美」です。

まずはデータです。

・タイトル     ドール
・アーティスト   太田裕美
・作詞       松本隆
・作曲       筒美京平
・編曲       筒美京平
・リリース日    1978年7月1日
・発売元      CBSソニー
・オリコン最高位 22位
・売上げ枚数   9.2万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 18位

大々的にと言う訳ではないですが、太田裕美さんが「乳がん」告白と言うニュースが、先日からネットに流れてますね。
7月に手術、8月から抗がん剤治療を開始しているとのこと。
年齢的にと言う事もあるのかもしれないけど、太田裕美さんあなたもか・・って言う思いもあるなぁ。
来年春までのスケジュールが決まっているので、休養はせず歌いながら治療していくとのことで、現在のところ重度な症状ではないと思われますが、無理せずに治療して行って欲しいですね。

・・・ということで、今回の1曲セレクトも、太田裕美さんの曲で行きたい

・・と思ったものの、毎度毎度のことながら、今頃の太田さんのヒットでまだ、書いて無い曲が、あんまりないんだよな。。。。

9月なんで「九月の雨」・・・と行きたいところでもあるんだけども、何分、太田さんの代表曲の一つ。まだ書いて無いわけが無く・・・・。

うーん、 と考えた・・すえに、この曲でいいかな・・と引っ張ってきたのが、「ドール」


この曲、厳密に言えば、9月の今頃はは既にヒットのピークは過ぎてたんだよね。

リリースは1978年7月1日。 78年「夏」のヒット曲と言う事になる。 9月の今頃はヒットチャート上でも既にヒットのピークは過ぎ、オリコンでも「右ページ」(51位以下)まで下がって来ていたのが、丁度今頃の時期だ。

個人的には、既にピークは過ぎていたものの、まだオリコン30位くらいには残ってた頃かな・・・と思ってたんだけど、意外とタンパクなヒットチャートの動きだったんですよね。

まあ、最もオリコンでは最高22位 10万枚も売れなかったんでねぇ。


唐突だけど、太田さんと「ザ・ベストテン」というと、どうしても「不運」と言うコトバが付きまとってしまう。

ベストテンが後3カ月早く始まっていたら、当然、太田裕美も「ザ・ベストテン」ランクイン歌手の仲間入りだったのに。
いや、当初はそれが濃厚だったんだよね。 ・・というのも、もともと「ベストテン」は1977年10月スタートの予定だったんですよ。
でも、Wikipediaによると、ベストテンのランキング方式の意見の対立によりスタート時期がずれ込んだとある。
また、キャンディーズ解散にも密接に関係しているともある。
まあ、キャンディーズの解散コンサートの放送権はTBSが持っていた事もあり、いろいろ「大人の事情」が絡んでいたものとは思うが。。。

いずれにしろ、その事が、太田裕美には不運の一つだったんだよな。

1977年9月リリースの、件の「九月の雨」が36万枚の大ヒットとなったものの、次の「恋人たちの100の偽り」から、いきなり10万枚以下という大幅売り上げダウン。 もちろんオリコンでもベストテン入りはせず、以後、ベストテン入りには縁が無くなってしまう。

その中でも、今回引っ張ってきた「ドール」って曲は、その曲調からして、恐らくは売り上げ巻き返しの1曲だったのかもしれない。

作詞 松本隆  作曲 筒美京平

っちゅう、超ゴールデンコンビは変わりないものの、 それまでの太田さんのシングルでは見らなかったようなちょっと、とっぽい感じのアップチューンからも、起死回生を狙ったよな・・って言う意気込みは感じ取れるんだけどね。

でも・・・・、思ったほど売れなかったんだよなぁ。

賞味期限・・・と言っちゃ失礼だけど、以前も書いたように、一度売り上げが右肩下がり傾向に入ったアーティストを巻き返すっていうのは、並大抵のパワーじゃダメなんだよね。 その辺にアーティストマネイジメントの難しさがあるわけで。。

今、改めて曲を聴いても曲自体は悪くはない・・・。 というか、松本隆-筒美京平っちゅう、ヒット曲請負人の超ゴールデンコンビ、駄作な筈もない。

ただ、ひとつ、この曲の中国音階的、かつ、日本的情緒・・という、いわいる4-7抜き的なアジアンテイストな曲の味付けはどうだったんだろう? っていう疑問は残るんだよ。

個人的に、太田裕美さんと言えば、田舎の(←失礼)の素朴で、アジアンテイストというよりもヨーロッパ系が似あう、ちょっと綺麗なお姉さんって言うイメージ強い。

まあ、デビュー曲の゜雨だれ」、「最後の一葉」、「九月の雨」のようなヨーロッパ系、「木綿のハンカチーフ」「赤いハンカチーフ」のような素朴系 ・・・このイメージなんですよ。
「しあわせ未満」はカントリーががってちょっと毛色が違うけど、それでも素朴ではあった。

それら、それ以前のヒット曲からみても、この曲はちょっとテイストが違うんだよね。

そもそも、ヨコハマっていう土地柄や、中国音階っぽい味付けが太田裕美さんのキャラクターにあっていたんだろうか・・・っていうと、個人的にはちょっとしっくりこないところがあるんだよね。

この曲のすぐ後に、ゴダイゴの「ガンターラ」を初めとした、「西遊記」による一連のヒットから、アジアンテイストを持ってきた方向性が間違ってたとは思わないんだけど、あくまで太田さんにその方向性の曲があっていたかと言うところだよね。

まあ、これも後の結果から感じ事かもしれない訳で、それなりにベストテン入りほどのヒットらなっていたら、そうは感じなかったのかもしれないけどさ。

ちょっと肩に力が入り過ぎたのかな・・・っていうキライはあるな。 オーバープロデュースっていうかさ。 今は、そんな風に感じられるんだよね、この曲からは。




ちなみに、個人的に、この後、太田裕美さんの曲でしっくりきた・・というか、引っかかったのは80年の「南風」でしたね。
↑で書いたようにヨーロッパ系テイストの他、ウエストコースト風な「からっ」とした空気もあってるんだ・・っていうの発見だったな。



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MOMOKO / 近藤真彦

1982_07_ハイティーンブギ_近藤真彦


今回の1曲セレクトは、「MOMOKO」近藤真彦です。

まずはデータです。

・タイトル      MOMOKO
・アーティスト    近藤真彦
・作詞        松本隆
・作曲        山下達郎
・編曲        山下達郎
・リリース日    1982年6月30日
・発売元      RVC
・オリコン最高位 −位
・売り上げ枚数  −位
・THE HITCHART HOT30最高位 −位
・タイアップ:映画「ハイティーン・ブギ」挿入曲
※シングル「ハイティーン・ブギ」片面

今週はジャニーズ事務所「総帥」のジャニー喜多川氏の死去と言うニュースが、各ワイドショーのみならず一般のニュースにも広く報道された1週間でしたわな。
年齢的にもそうだし、先月くも膜下出血で倒れたという報道からも、もしかしたら・・・と言う予感が高まっていた訳ではあるんだけども、いざ来てみると、その存在の巨大さに改めて気づかされた1週間でもあったな。
改めて、ご冥福をお祈りいたします。

そういうこともあり、今回の1曲セレクトもジャニーズの曲を外すけにゃ行けないだろ・・と言う思いがあり、真っさいに浮かんだ曲がこの曲だったんだな。

まっち先生の「MOMOKO」

この曲覚えてる方ってどのくらいいるだろ? 昔、まっち先生のファンだった方は当然知ってるかな?

そう、シングル「ハイティーン・ブギ」の片面だった曲ですね。 当時まっち先生が主演した、たのきん映画第4弾「ハイティーン・ブギ」の挿入曲。 まっち先生演じる主人公「翔」の相手役 「桃子」を歌った曲ですわ。

なぜ、この曲が真っ先に浮かんだのか

もちろん、タイトル曲の「ハイティーン・ブギ」が丁度今頃のヒットだった事も大きい。
けど、それ以上に大きいのは、今年のこの夏の天候不順なんだよな。 

これは昔、「表題曲」の「ハイティーン・ブギ」書いた時にも触れた事なんだけども、この曲がリリースされた1982年夏ってさあ、今年同様、天候不順な夏で、気温が低く、雨の日が多かったんだよ。
典型的な「冷夏」な夏だった訳で。

あの時と同じような天気が続く、ここ暫くの天気。 今日も同じような天気か続いている訳で。。
今頃の雨の日の日曜日というと、どうしてもあの1982年の夏とオーバーラップしてしまう。
その時決まって耳の奥から聴こえてくるのは、この「MOMOKO」だったするんだよ。

そんな天候不順だった1982年夏を彷彿させるこの曲は、文字通り「珠玉のバラード」と言ってもおかしくないような、名曲なんだよね。
山下達郎氏が紡ぎたす、名バラードが、決してウマくない、まっち先生の歌唱を包み込むって言いましょうかねぇ。

今聴いても、到底、当時のアイドルの曲の範疇を超えてるような本格的なバラードだもんね。

http://yamashitatatsuro.blog78.fc2.com/blog-entry-218.html?sp

によると、演奏メンバーは

・G. 山下達郎
・B. 伊藤広規
・Dr . 青山純
・Key. 難波弘之

とある。

もろ当時の「達郎バンド」のメンバーやん。。。 そりゃ、アイドル曲の範疇を超えてるクオリティだよな。。
いや、82年当時の水準で言えば・・・の話だけど。
これが80年代も中盤を過ぎると、これが「デフォルト」になる。 例えば86年の中森明菜の「DESIRE」なんかもこの系統人脈のレコーディングだったはずだ。

イントロの優しい、フェンダーローズの音色からして、これはちょっと違うと思わせてくれる。 当時アイドルの曲で、これだけフェンダーローズが前面に出てる曲ってあんまりなかったし。
どちらかというと、70年代と言う時代を彷彿させる様なニューミュージック系アーティストの必須アイテムだった。

つまり、匂いは完全にニューミュージックなんだよね。  そもそもテンション系コードをふんだんに使ったコード進行からして、アイドル曲というよりニューミュージックそのものなんだけどさ
テンションコードに 前年の寺尾聰氏のミリオンセラーアルバム「Refrections」で多用され、耳の奥に刻む込まれていた世界が、この曲でも展開されてるんだよな。

それにも増して耳が行ってしまうのは、間奏部の達郎氏直々の、泣きのギターソロ。
これがめっちゃブルージーなのよ。

正直、今聴くと「すげぇ」って驚嘆するようなプレイでは決してない。(もしかして本人が一番分かってたりして。。)
今剛氏や、矢島賢氏の方が、もっと確実性のあるギターソロだったかもしれない。
現に、表題曲の「ハイティーン・ブギ」のギターソロは、矢島賢氏がプレイしてたりする。
でも、味があるんだよな。少なくとも、ワタシにはあの時の沈んだ心模様にはマッチする。

そう、1982年夏っていうのは、個人的にもさらに特殊な環境の夏で。 つまりは1982年の7月の頭に福島から千葉に越してきたっていう、大きな環境変化があった夏でもあったんだよね。

今だからカミングアウト出来る事だけど、あの年は本当に辛かったんだよ。 友達も全然いないし、自分をアピールしようと思っても全然理解してもらえず友達も出来ない。所詮はよそ者扱いに過ぎなかったんだよ。
孤独だった。ずっと福島に帰りたいってばかり思ってた夏だった。

そんな個人的に辛い時期だっただけに、この曲の達郎氏の泣きのギターソロには、ひときわグッとこみ上げるものがあったし、それは今でも変わらない。


それ以前に、そもそもこの曲を知ったきっかけは、月刊明星付録の「ヤンソン」に楽譜付きで載ったからなんだよな。
「ハイティーン・ブギ」の「片面」ということは通常B面なわけで、あまり世間一般には表に出てこない。
ただ、この曲は「両A面」扱いだったんだよね。 
まあ、「ハイブギ」人気と相まって、ヤンソン側も譜面付きで載せたんだろうけど、そうじゃなきゃ今頃完全に死角に入っちゃってただろうな。 今となっては感謝ですね。


 


ところで、当時、「たのきん映画」って好きでさ、第3弾の「グッドラックLOVE」まで、全部映画館で見たんだけど、この「ハイブギ」から見なくなっちゃったんだよな。
 この作品については、もう見なくてもどうでもいいとは思わなかったけど、やっぱ引っ越したばっかってことが大きかったんだよな。 千葉の事、全然分かんなかったし。

今になって、当時の配給収入を調べたりすると、この「ハイティーン・ブギ」、1982年度の邦画配給収入は18億で、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」について2位だったんだねぇ。

http://www.eiren.org/toukei/1982.html

どうやら一連の「たのきん」映画の中では一番ヒットした作品だったらしいんだよね。


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スニーカーぶる〜す(別テイク) / 近藤真彦

1982_04_ふられてBANZAI_近藤真彦


今回の1曲セレクトは、「スニーカーぶる〜す」近藤真彦です。

まずはデータです。

・タイトル     スニーカーぶる〜す
・アーティスト   近藤真彦
・作詞       松本隆
・作曲       筒美京平
・編曲       戸塚修
・リリース日   1982年3月31日
・発売元      RVC
・オリコン最高位 -  位
・売上げ枚数     - 万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 - 位

・・・と書いて、ちょっと待て〜〜  って普通思いますよね。 少なくとも80年代を知ってる方なら。

そもそも、まっち先生の「スニーカーぶる〜す」のリリースは「1980年12月12日」であり、↑のリリース日も違ってるじゃん。
それ以前に、なに? オリコン最高位も売り上げ枚数も 「−」になっているのは

もっと、細かい所を指摘するなら、アレンジャーが「馬飼野康二」氏ぢゃないじゃん。。。

・・・なんて、あたりがクレームが来そうな所かなぁ。。

But But 、間違ってないですから。

うん、当時の事をちょっと知ってる方なら、このタネあかしは、知ってますよね。

これは、まっち先生のデビューシングルとして、公式にリリースされたテイクとは別テイクの「スニーカーぶる〜す」のことを指している訳です。
そそそ、シングル「ふられてBANZAI」のB面に収録されているバージョンの「スニーカーぶる〜す」。

いや、正式に言えば、元々・・・というか、最初に出来あがったテイクの「スニーカーぶる〜す」は、こちらの戸塚修氏がアレンジしたテイクであり、世に出ている「スニーカーぶる〜す」は、このテイクからさらに手を加えた「後発」テイクということになる。

ちなみに、このバージョンを「スニーカーぶる〜す Part2」って言ってるヒトもいるけど、これは間違い。
「スニーカーぶる〜す」の大ヒットからの続編作って訳じゃないんだよね。

たしかにこのテイクは、歌詞も違えば、もちろんアレンジも違う。メロディはほぼ同じではあるけどメロディ進行も違うし、尺も違う。
まあ、続編⇒Part2と勘違いするしてもおかしくは無いけど・・・。

こちらのテイクの方が、尺が長い。歌詞も ♪ Buzのレコード聴いてた寒い夜明けが懐かしい〜 ♪ とか、大人っぽいし、これ生かすようなドライブがかかったアレンジは、ほとんどニューミュージックなんだよね。
少なくともアイドルのデビュー曲とは到底思えないような・・・。

ただし、音楽的にはほとんど完成された仕上がりにはなっている。 うん、まっち先生のボーカルも、「通常」の「スニーカーぶる〜す」よりも数段上手いしさ。


こんな音楽的に見てほぼ完成されたテイクを、当時のまっち先生のプロデューサーだった、小杉理宇造氏は切ったわけだ。

で、今、普通に聴かれるテイクの「スニーカーぶる〜す」に作り替えた。

今普通に聴かれる「スニーカーぶる〜す」は、当初のテイクから比べると、正直言ってダサい。 まっち先生のボーカルもシロウトっぽい。

ただ、初めのテイクに比べ、余計なフレーズが削られメロディ進行もシンプル。

当初のテイクと詞、メロディとも全く同じなのはCメロの ♪ 街角は雨 ぶるーすのようさ・・・♪ の部分のみだ。


ぢゃ、なぜ当初の音楽的に完成されたテイクを切って、「ダサい」テイクに作り替えたのか?

この辺は、ネット上で他の方も大分書かれてるけど、1981年11月号の月刊「明星」の歌本「Yong Song」の「'81 MUSIC PEOPLEインタビュー」と言う連載企画での小杉氏へのインタビューによると、

「アイドルにとって、最初からクオリティが高すぎるのは危険だから」と言ってる。

つまりさ、デビュー曲であまりにクオリティが高い所まで持って行ってしまうと、2作目以降の行き場が無くなるってことなんだよね。
駄作でいいと言う訳ではないんだけど、デビュー曲は音楽的にはある程度のところでよく、2作目以降徐々にクオリティを上げて行けばいい。

そういう考えのもと、敢えてダサいテイクに変えたって言う訳だ。



ただ、「スニーカーぶる〜す」の場合は、他にもしがらみがあった。ジャニーズ側からのとんでもなく高いハードル要請だ。

「オリコン初登場1位。 売り上げ枚数ミリオンセラー」

これが、小杉氏に求められた絶対条件だったと言う。

オリコン初登場1位。 たしかにハードルが高い条件であったものの、当時のまっち先生の人気の超沸騰度から考えれば、楽曲のクオリティどがえしでも、これはある程度は予測できたかもしれない。
その保険のために、オリコン集計期間とレコード店頭販売時期を考慮して、店着日とオリコン集計期間を最大限生かしきるために12月12日なんていう、当時の通常のリリース日ローテーションから外し、敢えて「臨発」扱いにした訳で。

しかしながら、 売り上げ枚数ミリオンセラー、 この条件は当時の「アイドル」のレコード売り上げ傾向から見ると、めっちゃ高いハードルだったわけだ。

いつかも書いたけど、1980年当時、レコードは今に比べると高価なものだったんだよね。 シングル1枚、700円。 今のCDシングルよりも安いじゃんと思われがちだけど、相対的な物価が約40年前とは違う訳で・・・。

1980年の大卒初任給の平均は11万5千円。 ここから現在の価値に変換すると、シングルレコード1枚、1250円程度となる。

しかも、当時のアイドル・・・特にまっち先生のファン層の中心は、当時の小〜中学生(つまりは我々の世代ですわな)。 小学生、中学生が、例え1250円でもシングルレコードを買うっていうのは、それ相応の「覚悟」が必要だったんだよね。

そのため、当時のレコードの購買中心層は大学生から上の世代。 

それいえに、当時、オリコンでのミリオンセラーは演歌、ニューミュージックで占められてあり、アイドルでそれまでミリオンセラーを記録していたのは、ピンク・レディーだけだ。

当時すでに伝説的なアイドルであった、山口百恵、西城秀樹、沢田研二、岩崎宏美、太田裕美・・・だれもミリオンセラーを達成していない。

つまり、アイドルでミリオンセラーを記録するのは、超至難の業。しかも、それをデビュー曲で達成させるなど、一見すると無謀なハードルだったんだよ。まさに「鬼」のジャニーズと思える条件。

ただ、ジャニーズとしては、絶対にクリアできないハードルとは思っていなかったらしい。 
・・というのも、トシちゃんのデビュー曲「哀愁でいと」の売り上げが70万枚を記録。
で、当時、まっち先生のファンレターは、トシちゃんの1.5倍はあったとのこと。 
それから考えれば、まっち先生のデビュー曲でミリオンセラーは可能であるんじゃないか。そう言う考えだったようだ。実際、70万の1.5倍って言ったら105万になるから・・・。

うむ、確かに机上の数字ではそうだ・・・。
でも、実際はそんな単純なもんじゃない。

そこで引き下がらなかったのが、小杉氏が根っからのプロデューサーだったところなんだよな。

デビューを12月にしたのも一つの作戦であったと思う。
お年玉狙いって訳ですわ。 いつものお小遣いではなく、正月、お年玉使えば700円のシングルも買いやすくなるって言う狙い。

もう一つは、楽曲を分かりやすく、より多くのヒトに刺さりやすくするっていう狙い。 これが↑で書いた最初のテイクを切ったという所につながる。

この当時、より売れる楽曲にするためには、より大衆的な音楽にするのが一番の命題だったんだよね。
「音楽的にクオリティが高い」っていうのは、2の次だったんですよ。

以前NHKで放送された、「名盤ドキュメント、井上陽水「氷の世界」」で、70年代陽水氏のプロデューサーであった多賀英典氏も、「心もよう」と「帰れない二人」、どちらをシングルのタイトル曲に切るか・・・という問題で、音楽的完成度が高い「帰りない二人」ではなく、寄り大衆的な「心もよう」をタイトルシングルに切ったと言う話をされている。

つまりは、「大衆性」というのが一番だったわけだ。

結果、それらの狙いが全て嵌まり、「スニーカーぶる〜す」は、ミリオンセラーを達成する。

奇しくも、売り上げ104.8万枚っていうのは、ジャニーズが当初考えていた、トシちやんのデビュー曲「哀愁でいと」の約1.5倍だったっていうのは、事後の結果から見ると偶然であったのか目論見通りだったのか・・・・

いずれにしろ、ジャニーズのそういうところがコワイところなんだろうし、だれも文句が言えないところなんだろうな。

逆に言えば、最初のテイクでリリースされていたら・・・・、複雑な曲進行、アイドルとしては長い曲調と言うところがネックとなり、果たしてどれだけ大衆的に刺さったのか・・というのはギモンなところだ。当然、ミリオンセラーまでは行かなかっただろう。



プロデューサー感覚。 一時流行ったコトバではあるが、今プロデューサーと呼ばれる方で、本来の意味でのプロデューサーと言える方はどのくらいいいるのだろう?
確かにセルフプロデュース的なヒトは、今や業界人に限らず一般のヒトにもたくさんいる。 プロデューサーは、1から100を生み出すヒトではある。
ただ、ビジネスにおいての真のプロデューサーはヒット作を生み出し、それによって「会社」や依頼主への利益を生み出すヒトでもあるんだよね。ココが一番難しいところなんだよ。
自分へのプロデュースは出来ても、第三者をプロデュースするってことは並大抵では出来ない。

第三者へのヒット作品を生み出すにはどうするべきなのか? 
・・と言われた時、ココまで書いたように大衆的感覚が大事な訳なんだけど、ヒット作を生み出せないプロデューサーはこの感覚が欠けてるんだと思うな。独りよがりというか・・
たしかに拘りというのは大事だけど、それがどの程度大衆的なのかというところを客観視するのも大事なんだよね。


時に、ワタシも一時、某着メロサイトでプロデューサーの真似事をしてた時期があったけど、やっぱり一番心がけてたのは、「大衆的感覚」だったな。
・・・というか、実は、今回の「スニーカーぶる〜す」の小杉氏の精神っていうのが根底にあったんだよね。

当初、業界経験者がゼロ、しかも、業界でも後発のサイトでもあったため、会員数100万人突破なんて、到底夢物語といわれた某着メロサイトが、最終的に数百万人の会員数を集められた事・・・まあ、ワタシだけの力ではなく、多くのヒトの力の結集によってなんだけど・・・・なぜ達成できたのか・・・といえば、ココを最も大事にした事に尽きる・・・と今でも思ってるなぁ。
当時、第三者からは「奇跡」とか言われてたけど、当時者としては奇跡ではなかったと思っています。





ちなみに、通常版の「スニーカーぶる〜す」は↓ コチラ
http://kajiyan-net2.blog.jp/archives/52049707.html



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三枚の写真 / 三木聖子

1977_02_三枚の写真_三木聖子


今回の1曲セレクトは、「三枚の写真」三木聖子です。

まずはデータでやんす。

・タイトル     三枚の写真
・アーティスト   三木聖子
・作詞       松本隆
・作曲       大野克夫
・編曲       船山基紀
・リリース日   1977年1月25日
・発売元     キャニオン
・オリコン最高位  ランクインせず
・THE HITCHART HOT30  ランクインせず


えー、2カ月ぶりの「1曲セレクト」でやんす。
前々から、毎週のように「書きたくないよー」病が勃発・・とか書いてたけど、こうなったら書きたくなるまで書くのやめようか・・・っちゅうことで、お休みしてました。
まあ、リアル仕事が1月超繁忙期だったことと、ココんところ週末、毎週のようにライブとかトークライブに行ったりして、PCに向かう時間が取れなかったっていうのが、実際のところであり、まあ、いいわけの「口実」だったりするんだけどね。。

でも、ここに来て、やっとリアル仕事も区切りがつき、久々に持ち帰りの仕事も無いんで、久々にPCに向かっております。

でねぇ、「復帰」の第1弾は、この曲を書こう・・・と思ってた曲があるんだよね。 
ま、今日、再び1曲セレクトを書いてるのは、それの時期を待ってたってのもあるんだけどさ。

三木聖子さんの「三枚の写真」。

この曲、前々から引っ張ってこようと思ってたんんだよね。 ただ、リリース時期をずっと間違えてたんだよなぁ。

秋リリースだと、ずっと思ってたんだよね。

石川ひとみさんが、この曲カバーしてたじゃん。 そのカバーバージョンのリリースが10月だったんだけど、オリジナルの三木聖子さんも、同じ頃の時期リリース・・・って思ってたんだよなぁ。

でも、調べてみたら、実際は1月リリースってことで、ずっと待ってた訳ですわ。


なんて、書いたりして・・・、気がつく方は気がつくんだけど・・・ 石川ひとみさんと三木聖子さんっていったら、「まちぶせ」が超有名なんだけど・・・。

そそそ、オリジナルが三木聖子さんで、カバーが石川ひとみさんっていう曲としてね。 

でもさ、石川ひとみさんの「まちぶせ」の次のシングルも、やっぱり、三木聖子さんの、この「三枚の写真」のカバーだったんですよね。

・・・っつか、これは全く知られていない事ではなく、70年代、80年代フリークの方にとっては「常識」的な出来事なんだけどね。

石川ひとみさん側としては、「まちぶせ」の大ヒットで色気づいたんでしょうかねぇ。全く同じ戦法って行った訳なんだけども、結果は・・・・。

歴史が物語っていますわな。 世の中、そんな甘いもんじゃありません・・・っつう訳ですわ。
オリコン最高位37位。売り上げ6万枚。 「まちぶせ」が約40万枚の売り上げだったから、1/6程度のセールスヒットだったんだよね。

まあ、、オリジナルの三木聖子さんも、 それほど売れた訳ではなかったんだけども。それでも100位には入ってたよな・・・と思いきや。。。

あらららら、うっちょ 100位に入ってな〜い

うーん、そうだったかなぁ。 その割には、これまで何度も聴いてきたなぁ・・。 そもそも、この曲リリースされた頃、ワタシ、まだ小学1年生で、当然ヒット曲の世界には足を踏み入れていなかったんだけども・・・。

それでも知ってた訳だから・・・。

ま、確かに、個人的に、最初にこの曲を聴いたのは、石川ひとみさんバージョンだったけど・・。 
確か「8時だヨ 全員集合」だったと思う。

「まちぶせ」のような、小悪魔的なインパクトは無かったんだけども、 純真かつ素朴な世界に、なんか引っかかったのを覚えてる。

特に♪ 16の頃〜 あなたは18〜 ♪ っていう出だしの歌詞だよなぁ。 ワタシに対して、2歳年上の彼氏と言う設定で物語が進んでいく。 2番が ♪ 18の頃 あなたは20〜  3番が ♪ 20の私 あなたは22〜 ♪
・・と自ずから、ワタシと2歳上の彼と言う流れで話が進んでいく。

そんな状況というか場面設定っていうのかなぁ・・・そこが面白かったし、引っかかったんだろうな。

こういう時間軸の流れのなかでの物語の場面設定は、流石は松本隆氏だよな・・・って言うところなんだけどさ。

そそそ、太田裕美さんの大ヒット「木綿のハンカチーフ」とか「赤いハイヒール」と物語の流れは似てるところがありますよね。

その辺り、やっぱ、太田裕美さんと三木聖子さん、同じナペプロってことで、スタッフ側がらのリクエストがあったんでしょうかねぇ・・・。 まあ、その辺はを良く分かんないけども・・・。

ちなみに、石川ひとみさんもナベプロだったわけで、一連のカバー劇も、結局は「内輪」の話な訳ですわな。

ただ、この「三枚の写真」については、どう転んでも、オリジナルの三木聖子さんバージョンに軍配を上げたくなる。そんな印象が強いんだよな、個人的には。

アイドル色が、より強い石川ひとみバージョンに対して、どことなくフォーキーな匂いがする三木聖子さんバージョン。 より大人の香りがするんだよね、三木聖子さんのバージョンは。

歌いだしが「16と18」っていうティーンの頃を歌って入るけども、最終的には「20と22」って言う「大人」の恋にまで昇華するこの曲は、やっぱり、より大人っぽい方がしっくり来る。

その違いなんじゃないかな。

ちなみに、作曲は大野克夫氏で、 三木聖子さんバージョンのアレンジは船山基紀氏。

時代的に船山氏も、まだアレンジャーとしては駆け出しの頃で、中島みゆきさんの後の仕事だと思うし、だから、こういうどこかフォークの匂いがするアレンジだったのかもなぁ。

で、気がつくヒトは気がつくだろうけど、大野克夫氏と、船山基紀氏といえば、この曲のすぐ後に、件のジュリーで、「勝手にしやがれ」を初めとする大ヒット曲群を手掛ける事になる。

この曲は、そのきっかけともなっているんですよね。 まあ、やっぱりナベプロつながりではあるんだけど・・・。



動画・・・ さすがにオリコン100位にも入ってない曲がある訳ないか・・・と思ったら、あったんです。



ぷぷぷ・・・・ようつべ以外からはブロックされてる・・・。
見たい方は、ようつべに飛んで見てくださいね。

動画は、母親が本人には内緒でスタジオに現れ、涙で歌えなくなった「夜ヒット」のシーンなんだけど・・・。

三木聖子さんって、この「三枚の写真」の後、程なくして電撃的にゲーノー界から姿を消したんだけども、この時の夜ヒットに母親を呼んだ事が、そのきっかけだったとも言われてますね。

いずれにしても1975年のデビューから約2年間の芸能活動、そのうち歌手としての活動が10カ月。シングル3枚。アルバム1枚 のみのリリース。
「幻のアイドル」と呼ばれるのも分かります。





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ハロー・レディ / 島田奈美

1987_11_ハローレディ_島田奈美

今回の1曲セレクトは、「ハロー・レディ」島田奈美です。

まずはデータです。

・タイトル     ハロー・レディ
・アーティスト   島田奈美
・作詞       松本隆
・作曲       財津和夫
・編曲       西平彰
・リリース日    1987年11月11日
・発売元      コロムビア
・オリコン最高位 10位
・売上げ枚数  3.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 21位
・タイアップ:TBS系アニメ「レディレディ!!」挿入曲

12月です。速いもんですねぇ。今年も後1カ月弱ですわ。今年は一体何やってきたんだろ? 
・・・なーんもやんないまま、1年が過ぎたような気がするなぁ、あーあ。
なんて、ブルーな気分が仕切り。。。

さてさて、気を取り戻し・・・。

ここのところ、直球気味のセレクトが多かったような気もするんで、今回はちょっと変化球気味の1曲セレクトにしましょうかねぇ。

島田奈美さんの「ハロー・レディ」。

どうなんだろう? この曲、覚えてらっしゃる方ってどの位居るんだろ? ちょっと自信ない。
曲云々の前に、島田奈美さんを覚えてらっしゃる方がどのくらいいるんだろ? っていうのも不安だったりして。。

前年86年デビュー組の、80年代アイドルの一人だった訳だけどさ、86年デビュー組のアイドルって、アイドルとしては粒が小さいんだよな、全体として。

まあ、少年隊が86年組デビュー組ではあるけど、少年隊だけがずば抜けてて、あとはその他大勢・・・って感じだったしな。。。  
いや、それ以前に、少年隊が86年組っていうイメージも少なかったんだけどさぁ。レコードデヒューする5年も前からテレビのレギュラー持ってたし。

それに86年って言うと、どうしても、おニャン子抜きにゃ成り立ってなかったしねぇ、アイドル界も。

よく80年代アイドルについては、おニャン子以前、おニャン子以後・・・って言う言い方をするけど、それは、おニャン子以後のアイドルは、個々として粒が小さく、それぞれが霞んで見える・・・って言うイメージが強いからなんだよね。それがあたかも地盤沈下を起こしたように、ワタシ的には思えたりしてさ。 

そんな中の一人が島田奈美さん・・って訳で。 ワタシも正直、ずーっと眼中の外だったんだよね。

確かにベストテンギリギリって言うラインで「ザ・ベストテン」にも何曲かランクインした。 その点は、86年の中でも上位人気だった・・・って事なんだろうけど、それで如何せん、ベストテン入りも1週が良いところであっという間にランクから消えちゃうようなチャートアクションを繰り返してた訳で、だから、曲を覚える暇もなかったんだよな。

ま、そう言う事で良いも悪いも、全然分かんなかったっていうのが、本音のところなんだよね。

今回引っ張ってきた、「ハロー・レディ」って曲は、デビュー2年目の 87年11月にリリースとれた曲ですわ。

この曲も1週だけだけど、「ザ・ベストテン」にランクされた。それで辛うじてタイトルは覚えてたんだけどさ、全体的な曲もよく覚えてなかったんだよな、30年近くずーっと。

恐らく、何もなかったら、このままずーっと記憶の外のままだったんだろうなぁ・・と思うんだけどさ。

今年の頭、この1曲セレクトを書くのに、たまたまYOU TUBE見てたら、島田奈美さんの「Free Ballon」が出て来て、冷やかし半分見てたら、これが結構、引っかかっちゃたんだよな。。。

30年前は、ほとんど引っかからなかったのなぁ。 人間の心境の変化は何が起こるか分かんない。

まあ、確かに30年前、「Free Ballon」がリリースされた17才の頃は、全然曲の聴き方も浅かったしな・・ってのもある。

とりあえず、ルックスは可愛いけど、ウタはヘタだよな・・・ってくらいの聴き方だったしさ、だから、肝心の曲まで耳に行ってなかったのはある。

でも、ちゃんと聴くと、結構、引っかかりがあるんだよな、メロディラインが。 それで、今年に入って、超遅ればせながら、改めて掘り返りしてたり、ワタシなんですわ。

今回の「ハロー・レディ」っていう曲、作家陣として、作曲者は「Free Ballon」が林哲司氏だったのに対して、この曲は財津和夫氏・・・っていていう違いはあるものの、全体的な曲調のイメージは、大きく変わっていない。

なんていうのかなぁ、当時のアイドルでも希薄になりつつあった「清楚」っていうイメージかなぁ。

おニャン子以後のアイドルって、より「隣の席の○○さん」って言うイメージに加速がついた、つまりは、より親近感があるような存在だったじゃん。 まあ、それがスター性を失わせ粒が小さく見える最大の要因だったんだけども。 で、となりの○○さんって言うイメージは、同時に神秘性も失わせていったわけで、「清楚なお嬢様」って言うところも無くなってきてたんだよね。

この島田奈美さんも、たしかに隣の「○○さん」って言うところはあるんだけども、たた、ちょっと違ったのは、当時に清楚なお嬢さんって言うイメージも、この頃の曲にはあった。

おそらくは、最近改めて聴いて、その辺を感じちゃったんじゃないかなぁ、ワタシ。

つまりは、80年代アイドルでも、曲のイメージは、おニャン子以前・・・って感じの曲なんだよね。具体的に言えば82〜83年っていうイメージなのかなぁ。

でも、そこがプロデュースしていた松本隆氏の狙いだったのかもしれないし、だから、作曲者も、この曲のように財津和夫氏であり、林哲司氏だったのかもしれない。

具体的に言えば、松田聖子さんフォロワーっていうのを狙っていなのかもなぁ、松本隆氏は。 そんな感じも今となっては受けるな。

でも、松田聖子さんフォロワーはなれなかった・・・っていうのは歴史がモノがったっている訳で・・・。
それ以前に、この「ハローレディ」以後は徐々に尻つぼみになって行く。

以前はね、↑で書いたように、単純に、ウタが下手だったから伸びなかった・・・って言う印象があったんだけども、でも、同じ86年組で、同じくウタが下手だった、西村知美さんは、未だにゲ―ノー界に残ってたりするからねぇ。
その辺も時代のアヤというか、摩訶不思議なとこではあるんだけども。。。。

一見、島田さんの方が芯が強い・・というか我が強そうな印象はあるんだけども、実際はトローンとしてイメージの西村知美さんの方が我が強かった・・・って事なんだろうなぁ。





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