かじやんのヒット曲&チャートレビュー

ヒット曲を聴き続けて40数年! かじやんがお送りする、「今」のヒット曲&ヒットチャートから、「あのころ」のヒット曲&ヒットチャートまで、ヒット曲について幅広くご紹介するブログ。 自主チャートサイト"THE HITCHART NOW AND THEN"の支店ページという位置づけにいたします。

日本歌謡大賞

太陽がいっぱい / 光GENJI

1989_08_太陽がいっぱい_光GENJI


今回の1曲セレクトは、「太陽がいっぱい」光GENJIです。

まずはデータだよん。

・タイトル     太陽がいっぱい
・アーティスト   光GENJI
・作詞       大江千里
・作曲       大江千里
・編曲       中村哲
・リリース日    1989年7月20日
・発売元      ポニーキャニオン
・オリコン最高位  1位
・売上げ枚数    69.3万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 1位
・ベストテンランクイン期間:1989年7月31日〜10月9日付

ここ2回ばかり、すでに1曲セレクトに書いていておかしくないのに、まだ書いてなかった曲・・ということで、曲をひっぱってきているけど、そういういみでは、今回ひっぱってきた曲もそういう曲になるのかなぁ。

光GENJI   「 太陽がいっぱい」

バブル絶頂期の1989年夏。計5週にわたりオリコンシングルチャート1位を獲得し、89年の年間チャートでも4位に輝いたこの曲を、よもや、まだ書いてなかったとは。。。。

・・・・なんてね。

でも、この曲は書いてなかった・・んぢゃなくて、書けなかったのね、今まで。

この曲、たしかに当時よく聴いた・・・いやいや、厳密に言えば、「テレビサイズ」ではよく聴いた記憶がある。 

ウラの「とんねるずのみなさんのおかげです」の急成長で、視聴率がだだ下がり、この曲の時点では、「打ち切り」が決まっていた「ザ・ベストテン」。

当時「とんねるず」が嫌いだった私は、それでも「ベストテン」は見続けていたからさ。
視聴率が下がろうが、光GENJIは毎週ベストテンには出てたから、毎週のようにこの曲は耳にしていたわけだ。 だから・と言うわけでもないけど、テレビバージョンでは耳に染みついているんだけどさ。

ただ、シングルバージョンとしてのフル尺でのこの曲の印象がまるでない。

どうなんだろうなぁ・・・。 たしかに80年代初め、あれだけあったラジオのベストテン番組も、80年代も終わりが近づいたこの頃は大分淘汰されて来て、大分少なくなってきていたこともある。

それ以前に、浪人2年目の「夏」を迎え再度、尻に火が付き始めてたワタシは、ヒット曲どこではなくなっていたこともある。 

そんないくつかの理由が重なって、ラジオのベストテン番組は、このころあんまり聴いてなかったんだよな。だから、この曲、フル尺での記憶がほとんどないんだ。

だから、今まで書けなかった・・と言うのはあるな。

ただ、もっと大きな理由としては、 この曲、未だによくわかんないんですよ。 いいのか悪いのか。
確かに、この曲を聴くと1989年夏の記憶がフラッシュバックするんだけども、それだけなんだよね。 
あの時をイメージは出来るんだけども、曲としての印象が、今一つ薄い。

今考えると、光GENJIの曲ってそんな曲が多いような気がする。 曲を聴くと、当時の記憶がフラッシュバックはするんだけども、曲内容についての細かい印象は今一つ薄いんだよね。

まあ、この曲がヒットのピークを迎えていた頃、20才となったワタシは、もうジャニーズっていう年ぢゃねーだろ・・・と意識的に離れようとしていたところはある。
だから、曲自体、突っ込んでは聴いてなかったところはある。表面的にしか聴いてなかったんで、今となっては印象に薄くなっているところはあるな。 これが当時、小学生とか中学生だったら、もっと印象は違うんだろうけどね。


それとは、丁度この曲がヒットしていた頃、当時フジテレビの、月曜深夜に放送していた「マーケティング天国」っていう番組を見始めたんだよね。
この番組、CDセールス、映画興行ランキング、テレビ視聴率、本売上げ、など、いろいろなエンターテイメントのランキングの紹介と、マーケティング的な分析を行う番組。

この頃、オリコンウイークリーでも、毎週のランキングのチャートアクションについてマーケティング的な分析を行ったページがあったんだよね。

当時、音楽だけでなく、いろいろなエンターテイメントのマーケティングについて興味があったワタシは、「マーケティング天国」は毎週VTRに録画して食い入るように見てたなぁ。

今回引っ張ってきた「太陽がいっぱい」は、↑で書いたようにオリコンでは5週1位を獲得。
これは、光GENJIとしては、「ガラスの十代」「パラダイス銀河」に並ぶ1位獲得週数となる。
(もっとも「ガラスの十代」は1週年末年始の合算ランクとなるが)

あの当時、「勢い」いうことでは、どの曲も1位を獲得していた光GENJIは飛ぶ鳥も落とす勢い・・・のように映るけど、実際のところ「パラダイス銀河」以降は、やや勢いは落ちて来ていたんだよね。
前作の「地球をさがして」では、累積50万を割ってきていたし。

そこに来て、この「太陽はいっぱい」で、ふたたびの5週1位獲得と、累積枚数70万枚近くの持ち直し。

初めは、やっぱり素直なメロディラインなのが良かったのかなぁ・・・とか思ってたんだけどけどさ。
「マーケティング天国」を見るようになって、このカラクリが分かっちゃったのよ。

当時からマーケティング的なところが興味があった方はご存じだと思うけど、「7週連続して週替わりのジャケ写リリース」ですわな。 

↓ コレ

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しかも、週替わりのジャケットにはメンバー1人ずつのメッセージ付のワンショットカードが封入してあり、7枚すべて購入すると光GENJI7人全員のカードが揃うっていう仕掛けですわ。

熱心な光GENJIファンであれば、7枚すべてのジャケ写を集めようとするわけで、その結果、オリコンで5週1位を獲得できたというわけですわ。

ちなみに、初登場からすべてのジャケ写が出そろった、リリース7週目までの週間売り上げ枚数は、

13.5万枚⇒10.2万枚⇒8.1万枚⇒6.8万枚⇒5.2万枚⇒5.0万枚⇒5.3万枚

初動週から週ごとに売り上げが落ちるのは、今も昔も変わらない現象。コアなファンもライトなファンもリリース直後に飛びつきますからね、普通。

でも、この曲がちょっと違うのは、2週目以降の落ち込みが極端に少ない事。

そりゃそうだよなぁ。毎週ジャケ写をとっかえひっかえしてリリースしていれば、毎週のように飛びつくファンもいるわけでさ、売り上げも落ちない訳よ。

ここから見ると、この曲あたりでは「熱心」な光GENJIファンは、おおざっぱな見て5万人くらいは居たんではないかな。 この数字が多いか少ないか。。。 どうなんだろう? でも、かなり減ってきていたんじゃないかと思う。

まあ、この辺のカラクリも「マーケティング天国」では、当時ちゃんと分析してたんだよね。

オリコンランキングを表から見ているだけでは見えない「ウラ」の部分っていうのが、面白く思えて来たのがこの頃ですね。

ちなみに、リリースから7週目の売り上げが、少し上がっているのは、この週にリリースされたジャケ写に封入されていたワンショットカードが「諸星」だったから。

やっぱり、なんだかんだ言っても「カーくん」が一番人気だったわけです。

でも、冷静に見るとこの売り方は、あくまでも「おまけ」の力が強いわけで、「曲の力」でここまで売り上げを伸ばしたとは言い難いんだよな。これを考えると、少し寂しくなったりしてね。

こんな「おまけ」商法は、この後、いろいろなアーティストに受け継がれ、結果的に後年のAKBグループの「握手券」に到達するわけで。。。。

そもそも、初動の売り上げを見ると、 前々作「剣の舞」が24.3万枚、前作「地球をさがして」が17.6万枚。 そしてこの曲が13.5万枚。 ・・・と初動は徐々に鈍くなってきており、その動きはこの曲でも止められていなかったわけでさ。アーティストパワー縮小の動きは明らかになってきていたんだよね。

そして、こんな危惧は、この曲の次の「荒野のメガロポリス」で、累積売り上げが26.4万枚への急落と言う結果になってあらわれる。

もっとも、この間に「ザ・ベストテン」は終了。「歌のトップテン」も間際に終了と、テレビの一時代を築いたベストテン番組の相次ぐ終了という、テレビの歌番組の縮小というのも大きかったんだけども。

今もってそうだと思うんだけども、 ジャニーズ勢はテレビの露出があってこそ「ナンボ」なんだよね。 その割をくった最初の人たちが「光GENJI」なんじゃないかな。

この曲での「おまけ」戦略は、テレビの歌番組の縮小と言う「危機」をいち早く悟っての戦略であったのか?
・・・それは、よくわかんないけども、結果的には、そんなテレビの歌番組での露出の縮小の割を食う前、最後の「光」を放ったのが、この「太陽がいっぱい」だったんじゃないかな。 
なんて、個人的には感じたりしてますね。



第20回日本歌謡大賞受賞時の「夜ヒット」ですね。
この時の夜ヒットは見てた記憶があるな。 この頃、ベストテン終了して、見る歌番組がなくなって、一時的に「夜ヒット」に鞍替えしてたような気がする。 


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瀬戸の花嫁 / 小柳ルミ子

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今回の1曲セレクトは、「瀬戸の花嫁」小柳ルミ子です。

まずはデータです。

・タイトル     瀬戸の花嫁
・アーティスト   小柳ルミ子
・作詞       山上路夫
・作曲       平尾昌晃
・編曲       森岡賢一郎
・リリース日    1972年4月10日
・発売元      ワーナーパイオニア
・オリコン最高位  1位
・売上げ枚数    74.1万枚
・ベストテンランクイン期間:1972年4月24日〜7月24日付

この1曲セレクトは、私の独断と偏見で書く曲をセレクトしているわけで、基本的にはリクエストされた曲を書いてはいないんだけども、今回引っ張ってきた曲は、じつは、ちょっと前にFacebookで、高校時代の友達からリクエストされてた曲なんだよね。

うーむ、リクエストにこたえる形で、引っ張ってきた曲は、昔、mixi時代に元同僚からのリクエストで書いた、風見慎吾の「僕笑っちゃいます」以来かもしれん

両者とも「女性」からリクエストなんだけどさ、 女性にはすこぶる優しい・・・・うーんにゃ「弱い」ワタシデス。

だからねぇ、今後も、もしかすると女性からのリクエストには応えちゃうかもなぁ〜。
野郎からのリクエストは・・・勘弁だけど。。。。


その曲は 小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」。

1972年4月10日リリース。デビュー4作目のシングルは、デビュー曲「わたしの城下町」以来のオリコン1位獲得。売り上げ74.1万枚は「わたしの城下町」に次ぐ売り上げ枚数と、誰でも認める、小柳ルミ子さんの代表曲ですわ。

兎も角、70年代、この曲歌ってる、おじさん、おばさんって多かったよなぁ。
特に地方に行くほど、この曲ってよく聴いたような印象が強いなぁ。

ウチは、母方のおじいさんが、福島・鏡石町の地主農家の出で、子供の頃は良く遊びに行ってたんだけどさ、宴会が始まると、きまって、この曲を歌う、おじさん、おばさんがいたんだよねぇ。


だからか、どうも、この曲と言うと、田舎のおじさん、おばさんの曲っていう印象が強い。

最近、またシティポップスが流行ってきているけど、それらの曲に対しての完全なアンチテーゼに位置する曲っていうのかなぁ。
地方の大人のための曲と言うイメージがあったんだよね、悪く言えば。

いやだからこそ、日本の広く息づいている、心の中の1曲ということも出来るのだが。。。

でもさ、当時、子供の頃は、特にオヤジは向こうの曲の方が好きだったから、車の中でかかっている曲といえばいつも向こうの曲だったし、 だから、ワタシも「日本の心」的な歌謡曲よりは、外国の匂いのする曲の方が好きだった。

むしろ、田舎の匂いの強いこの曲のような歌謡曲は拒絶していたところがあったかもしれないな。

だから、長年この曲との接点はなかったんだよね。

たださあ、この曲オリコンで1位を取っていたということが分かってからは、ちょっと不思議な感覚があったけどさ。

80年代にオリコンに触れた当時は、オリコン1位って絶対的な曲っていうイメージがあったんだよね。寺尾聡氏の「ルビーの指環」とかさ。 
当時は、この「瀬戸の花嫁」って曲は、田舎臭いかっこ悪い曲っていう頭があったからさ、不思議だったね。 
「えーこの曲が1位だったの?」ってさ。 全く実感がわかなかったよなぁ。

でも、大人になって冷静に考えたら、やっぱ「日本人の心の唄」のような曲に勝る曲っていうのはないんだよな。

特に、70年代前半って、そういう日本人の心に刺さるような歌謡曲が多かったわけだし。 そういう歌謡曲がまだまだ強い時代だったんだよね。

昔、ソース顔、 ショーユ顔っていうのが流行ったけど、まさに、まだまだ「醤油」風味の曲の方が強かったのよ。

向こうの匂いが強いっていう筒美京平氏だって、70年代前半は、まだまだ醤油風味の歌謡曲的な曲が多かったですしね。 前回書いた、いしだあゆみさんの「あなたならどうする」とか、朝丘雪路さんの「雨がやんだら」なんてのは、もろそうだったわけだし。

特に平尾昌晃氏のメロディラインっていうのは、和テイストが強かったんだよね。70年代、平尾氏の曲が時代を席巻していたのも、当時の日本人の心をつかむような歌謡曲だったからなんだろうなぁ。

もっとも、この曲は森岡賢一郎氏の和の匂いが強いアレンジの効果も多分にあったわけなんだけどさ。

それにしても、クラシックの家系に生まれ、若い時にはロカビリー三人男という、向こうの曲かぶれな平尾氏が、和テイストな歌謡曲で時代を築いたというのも、面白い話ではあるんだけども。。。

たださ、「和テイスト」といっても、リズム体を聴くとマンボのリズムのコンガの音色、 いやいや、それ以上にスチールギターが入っていたりして、全く予備知識もなく聴いていると、一体どこの国の曲なの? なんて思ったりも出来たりしてね。

歌謡曲ってさ、日本的なメロディラインをベースに、向こうの曲のいいところを自由に取り入れるところがいいところではあるんだよね。
良く言えば無国籍料理みたいなもの。 その節操の無さが実に日本ぽいのだけれど。。。





これは、1972年、第3回日本歌謡大賞にて この「瀬戸の花嫁」で大賞を獲った時のVTRですね。

そそそ、この曲で小柳ルミ子さんは「日本歌謡大賞」を獲ってるんですよ。

♪瀬戸ワンタン 日暮れ天丼〜♪ なんて気安く歌えないんだよね、本来ならば

このVTRには映ってないけど、1988年の「歌謡大賞特別企画」で放送されたときの話では、大賞を発表される数秒前にバックバンドの「ダン池田」と目が合った時、ダン池田氏が指で「〇」という合図を送って来て「もしかして」と思っていたそうだ。

まあ、デビュー2年目での大賞受賞という快挙ではあったけど、この曲の次の「京のにわか雨」でも連続オリコン1位という時代に乗っていたとしでもあり、大賞受賞も頷けるところか。

ちなみに、第1回の歌謡大賞の藤圭子さん(ヒッキーママ)も、デビュー2年目での大賞受賞ということで、レコード大賞と違って歌謡大賞は比較的デビューからの年数が浅くても、年齢が若くても大賞受賞もありえたんですよね。
それいえ、レコード大賞よりも「権威」と言う点では、若干下だったかもしれないけど。

1983年にトシちゃんが大賞を取ってしまったことで、それが余計あらわになってしまいましたが。。。。。


曲をキチンと聴きたいという方は ↓の動画にて




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酒場でDABADA / 沢田研二

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今回の1曲セレクトは、「酒場でDABADA」沢田研二です。

まずはデータです。

・タイトル     酒場でDABADA
・アーティスト   沢田研二
・作詞       阿久悠
・作曲       鈴木キサブロー
・編曲       沢健一
・リリース日    1980年9月21日
・発売元      ポリドール
・オリコン最高位 14位
・売上げ枚数   14.4万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 10位
・ベストテンランクイン期間:1980年11月3日付

一気に寒くなりましたね。
寒くなって来ると、「あー、年末も近くなってきたよなぁ」・・・なんてシミジミと感じてしまうワタシだったりしますが。。。
 でもねぇ、ここ何年も、この時期なると「音楽祭」だよなぁ・・・っていう感覚はすっかり無くなりましたねぇ。
昔はさあ、11月ともなると、各局こぞって「音楽祭」を開催してたじゃん。大晦日の「レコード大賞」を筆頭に、「歌謡大賞」だぁ、「FNS音楽祭」だぁ、「有線放送大賞」だぁ、なんだぁ、かんだぁ・・・とさ、各テレビ局とタイアップして。
だからさ、この時期ともなると、毎週、どこかしらの局で「音楽祭」の特番をやってしましたよね。

かく言う、ワタシも一時は、毎週毎週、ほとんど全部の音楽祭を見てた事があるなぁ。
で、そんな「熱」が上がっていたのが、1980年前後じゃ無かったかな・・・振り返ると、そう思うな。 

今思うと「アホらし・・・」とか思ったりもするんだけど、当時は、それだけ「エネルギー」があったんだよな、ワタシも。

ま、実際、1980年はいわいる「五・八戦争」とか言われて、各音楽祭で五木ひろしと八代亜紀との熾烈な大賞争いを繰り広げてたしな。加えて松田聖子、田原俊彦を筆頭に新人も勢いがあったんで、歌謡祭としての賞レースも見てて面白かったんだよね。

今回は、そんな1980年の各賞レースで歌ってた、ジュリーのこの曲をセレクト!

「酒場でDABADA」

・・・っつかさ、正直言ってこの年のジュリーの賞レースは、この曲だったのか・・・っていうのは、今思うと不思議だったんだよなぁ。
どう考えても、この年のジュリーっていったら、「TOKIO」の筈だったんだけど・・・。

まあ、この時点で最新曲だったから・・・って事なんだろうけど。。 

ただね、音楽祭向きの曲だったか・・・っちゅうと、ちょっと頭をひねりたくなるんだよな。

悪い曲ではないんだけど、ちょっと難しい・・というかひねり過ぎているっていうか・・・。 まあ、簡単に言えば、ソングフェスティバル向けの、誰が聴いても分かりやすい曲・・・では無いって感じだったんだよな。

当時、小学5年生で、何でもかんでも手当たりしだいに聴いて、聴いたそばから吸収して行ってたワタシも、この曲は、正直分かりにくかった。

ジュリーっていうと、キザ、モテ男、奇想天外(なファッション)・・・っていうところが真っ先に頭に来てた訳でさ。

この年にしても、件の「TOKIO」では、例の「電飾衣装」に落下傘背負って来てたり、この曲の前の「恋のバッド・チューニング」では、色が変わるカラーコンタクトしてきてたり、70年代にもまして奇想天外というかね奇抜なフッションを前面に、表に出て来てましたよね。

この曲では、そう言った、奇想天外なところも、エンターテイメント的なモテ男っていうのも見られなかった。

楽曲的にも、「勝手しやがれ」や「サムライ」、「LOVE(抱きしめたい)」で大ヒットを飛ばしていた頃に比べても、スケール感を感じ無くなって来ていたし・・・。

そう言うところから、なんで、この曲をわざわざ「音楽祭」に持ってきたんだろ・・・って言う疑問は、まだ11才のクソガキだったワタシも感じてたんだよね。


でもやっぱその辺りは、一般的にも感じられていたのかなぁ、オリコンではベストテン入り出来なかったし、売り上げも14万そこそこ。奇しくもこの曲のちょうど1年前にリリースされた「ロンリーウルフ」と同じように「低迷」しちゃったんだよなぁ。

ま、「ロンリ―ウルフ」とちがったのは、この曲では「ザ・ベストテン」ではベストテン入りしたし、上記のように各音楽祭で毎週のように流れていたんで、「ロンリーウルフ」よりは一般的な認知があったことだったろうね。

個人的にも「分かりにくい曲」だなぁ・・・と思いながらも、毎週のように聴いてたら流石に覚えちゃったし、80年秋のジュリーといったら、この曲って言うイメージはしっかり付いちゃったしね。




上で書いたように、前曲まで見られていた奇想天外なエンターテイメント性が無かったこの曲だったから、ついにそろそろ「ネタ」切れだったのかなぁ・・・なんても思えたりもしたんだよね。
いや、当時は、圧倒的にそう感じてた。

まあ、阿久悠氏の詞は別にしても、そもそも作曲者に鈴木キサブロー氏を持ってきたっていうのもちょっと意味が分かんなかったし。。。
ましてや、アレンジャーの沢健一氏ってダレ? って感じだったりもしたし・・・。

でね、今、これを書くに当たって、ちょっと調べてみた。 

沢健一氏、当時バックバンドの「Always」でリードギターをやられていた方だ。 そそそ、この「酒場でDABDA」のイントロでもラフで派手目なギターを披露していた方だ。 
でね、さらに辿って行くと、その昔、「4・9・1(フォーナインエース)」という「GS」のリードボーカルだったとのこと。

まあ、「4・9・1」といっても、これと言ったヒット曲も無いし、いわいるB級、C級のGSだったようだけど、沢氏の前は、ジョー山中氏がボーカルをやっていたと言う事だから、ヒットは無かったものの、いわいるクロウト受けするようなグループだったんじゃないかとは思う。

でも、それを知って、思わずなるほどぁ〜・・・なんて思えたなぁ。

 考えてみたら、この曲の後に、ジュリーも「G.S I LOVE YOU」なんてアルバムをリリースし、その先行として「おまえがパラダイス」なんて、もろ50'Sを意識した3連ロッカバラードをこの曲の次にシングルリリースしたりさ。

つねに「一等賞」狙いだったジュリーだったけど、ヒットどがえしでも、いわいる原点回帰って言う兆しがあったんだよね、この頃ジュリーには。 
まあ、これは次の年の年頭に閉鎖が決まってた、日劇での最後の「ウエスタンカーニバル」出演という布石でもあったんだけどさ。

そこに持って行くための「橋渡し」だったんじゃないのかなぁ、この曲は・・・なんて思えてきたりして。。。



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さらば・・・夏 / 田原俊彦

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今回の1曲セレクトは、「さらば・・・夏」田原俊彦です。


まずはデータです。

・タイトル   さらば・・・夏
・アーティスト 田原俊彦
・作詞     岩谷時子
・作曲     PAUL ANKA    BOBBY GOLDSBORO
・編曲     飛澤宏元
・リリース日  1983年8月12日
・発売元    キャニオン
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数  31.9万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 2位
・ベストテンランクイン期間:1983年8月22日〜10月10日付

 いよいよ、今年の夏の終わりだーね。
・・・ということで、今回は、そんな「黄昏」な曲を持ってきましたあせあせ

 田原俊彦 /さらば・・・夏

まあ、ベタベタな超ストレートなセレクトなんだけど、8月の終わりにはこの曲を持ってこようと、前々から決めてたんでね。

 タイトルからして、そのまんま夏の終わり・・・というこの曲ですが、田原俊彦にとって、はじめての「エンターテイメント」を意識した曲ですね。

 なにせ、作詞 岩谷時子、作曲 ポールアンカ なんていう、とんでもなく豪華な布陣。それだけ聴いても、そのまんま50年代後半〜60年代に逆戻りしそうなイメージだもんね。

 では、そのまま、「ダイアナ」なのか、ロックンロールなのか・・・というと、さにあらず。。。

 カンツォーネ風のまっとうな曲であります。トシにとってもはじめての「大人」風の曲というわけでしたね。

 ただ、なにせ、あの「歌唱力」でしたからねぇ、かなり賛否両論あったのを覚えてるな。

 個人的には、前曲の「シャワーな気分」との落差を考えても、わりと好きなほうだったけどな。

 このヒトの場合、1曲、1曲、つねに、違った切り口の曲を持ってきていたのが、今から考えると良かったよね。
 たしかに、あの歌唱力だったけど、いつも、冒険心だけはもってたじゃん。本人もスタッフも。
 今になってみれば、そこは評価できるんじゃないかなぁ。

 賛否両論といえば、この年の第14回歌謡大賞は、この曲でトシがとったんだよね。

 これも、賛否両論だったよなぁ。かなり凄かったよね。
 結局、これが元になってか、この次の年は、トシもマッチも賞レースは辞退することになるんだよね。

 特にトシは、これに懲りてか、このあと、賞レースには出てなかったな。
 今から考えてみれば、もうこの時からジャニーズからの脱退の芽は出てたんじゃないかなぁ。。。

 なんか、穿った考えも知れないけど。。。




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勝手にしやがれ / 沢田研二

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今回の1曲セレクトは、「勝手にしやがれ」沢田研二です。

まずはデータでーす。

・タイトル      勝手にしやがれ
・アーティスト    沢田研二
・作詞        阿久悠
・作曲        大野克夫
・編曲        船山基紀
・リリース日     1977年5月21日
・発売元       ポリドール
・オリコン最高位   1位
・売上げ枚数     89.3万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 1位
・ベストテンランクイン期間:1977年6月13日〜9月19日付

 さてさて今回引っ張ってきた曲は、世にも有名な

 勝手にしやがれ  沢田研二

 いやいや、1977年の代表曲ですよ。日本歌謡大賞、日本レコード大賞とダブル受賞。

 だけど、この曲が、この「暑い」さ中にヒットのピークだったってこと意外と、知らないヒトが多いんではないかなぁ。

 と書いているワタシでさえ、この曲イコール、暑い最中の曲っちゃうイメージはあまりない。

 まあ、たしかに、まだ、ヒット曲、歌謡曲というものをちゃんと聴くほど物心は付いてなかったわけだけどもね。

 調べてみたら、1977年っちゅうのは、長雨続け期の「冷夏」の年だったそうな。うーん、そういうイメージはないんだけどね。ま、そういうこともあって。この曲イコール「夏」っていうイメージは少なかったのかもしれん。

 そういう「季節の風物詩」的な曲というよりね、やっぱし、どうしてもこの曲=沢田研二=キザ っていう方程式が浮かんじゃうんだよね。 だってさ、単純にカッコよかったしさ〜。


あの有名な「帽子投げ」のシーン。どうして、昔のアーティストは、ああいう仕草が「サマ」になっていたんだろ?
 やっぱり、「スター」なんだろうなぁ。

いまや、「スター」なんて言葉は死語だもんね、ほとんど。

 かくゆう、ワタクシももちろんマネしましたよ。小学校の帽子で、この曲歌いながら

 Bメロの
♪行ったきりなら幸せになるがいい〜 ♪ で、カッコよくなげるのがいいんだけど、これが意外とうまく行かないんだよね。

 やっぱり、ジュリーだからかっこいいんだよね。

 ・・とまあ、ジュリーにとっては、いいことずくめのこの曲だけど、この曲にたどり着くまでの約1年半は、さしものジュリーもかなり苦しんでたんだよね。ということを今や覚えている方も少ないんだろうけど。。。。

1975年8月の「時の過ぎゆくままに」の後、しばらくは大ヒットらしい大ヒットってないんですよ。もちろん、ベストテン級のヒットはだしていたものの、「これ」っていう曲がなかなか無かったんだよね。
 今にして思えば、音が大人しいんだよね、この頃の曲って。
それが裏目に出たんではないですかね。
 このヒトに限ったことではないけど、売れなかったころの曲ってどこか「音」がくすんでいるんだよね。ハリがないっていうか。

 そのあたりは、この「勝手にしやがれ」の1つ前の「さよならをいう気もない」なんかを聴くと違いがよくわかりますねぇ。

 たぶんね、ジュリー本人が一番よくわかってたんではないかなぁ。この「勝手にしやがれ」はそのあたりのもやもやを一蹴するような半分やぶれかぶれな気分っていうところもあったんぢゃないですかねぇ。 まあ、だから「勝手にしやがれ」とね。

 なにせ、この曲から「音」が全く変わったんですよ。やぶれかぶれな火事場のバカ力でないけど、音がどこまでも前向きなんだよね。元気がある。
 もちろん、地味なところは全く持ってなしの派手さだし。

 どんな曲でもそうだけど、音が元気だとヒトを振り向かせるだけの力が出てくるよねぇ。

ま、いずれにしても、この曲からジュリー黄金時代の第2幕が開幕したって感じですよね。





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雨の慕情 / 八代亜紀

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今回の1曲セレクトは、「雨の慕情」八代亜紀です。

 まずはデータです。

・タイトル    雨の慕情
・アーティスト  八代亜紀
・作詞      阿久悠
・作曲      浜圭介
・編曲      竜崎孝路
・リリース日   1980年4月25日
・発売元     テイチク
・オリコン最高位 9位
・売上げ枚数   56.9万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 
・ベストテンランクイン期間:1980年6月9日〜7月14日 8月11日〜9月1日付


  やっぱり、梅雨ですから、「雨の曲」が季節的には似合ってくるもんですわな。
 このあいだ、FACE BOOKで参加している「昭和時代」っていうグループで「雨の唄というば?」って言うトピックスが立ってまして、そこでもこの曲を上げられてましたけどね。

 八代亜紀 「雨の慕情」

 しかし、以前、ネット上のアンケートでも、同じようなアンケートがやってた事があって、並み居る「ポップス系」アーティストを抑えて、この曲が1位を取ってた事があったなぁ。この曲の印象っていうのが、かなり強いんだねぇ・・・なんて思ったな。

 ・・・・というワタシも、「雨」とつく曲は? なんて聞かれたら、やっぱ、八代亜紀のこの曲を投じちゃいそうだな。。ふらふら

 いや、なんか、それだけ、結構、強烈な印象があるのよ、この曲。

 オリコンでは9位までしか上がらなかったこの曲だけど、うーん、やっぱ、ベストテンでのきれいな「雨のセット」の印象と、それよりなにより、この年1980年の年末の賞レースでの、会場が一体になっての

 ♪ あめあめ ふれふれ もっとふれ〜 ♪

の大合唱が印象に残ってるんですかねぇ。

 うむ、もちろん、大合唱といっても、あの年はさあ、いわいる「80年代アイドル」の最初の当たり年だったわけで、会場のお客の大半が、各アイドルの「親衛隊」だったわけじゃん。
そんな各親衛隊連中がひしめく中で、各親衛隊の「垣根」を越えての大合唱だったわけだからさあ。一種、「異様」の光景っちゃ失礼だけど、かなり壮観な光景でしたよね。ま、それだけ、「世代」を超えて支持された曲だったんだよね。
 特に、この年の「日本歌謡大賞」での、「雨 雨 降れ 降れ もっと降れ」コールは凄かったからなぁ。

 まず、今じゃ信じられないもんね。演歌にワカモノが応援コール送るのって。
AKB とか EXILE とか、嵐 のファンが水森かおりに向かって、応援コールを送ってるようなもんだから。
そんなの考えられないじゃん、今では。

 だからこそ、この年の賞レースは、「五八戦争」なんていわれた、五木ひろしと八代亜紀の熾烈な大賞争いを演じたわけだけど、レコード大賞も歌謡大賞も、最終的にはこの曲が受賞したんでしょう。
五木ひろしが、この年「大賞」取れなかったのは、「若者」の支持があったかなかったかの差・・・だよね、きっと。
 特に歌謡大賞は、如何に幅広く「大衆支持」されているかってところが強かったから、あの頃は。
 あの「雨 雨〜」の大コールがあって、この曲、大賞とらなかったら、それこそ、ブーイングの嵐だったろうしなぁ。。。
そう言う意味では、あの頃は、大方のヒトが見ても、まだ「納得」がいく、賞レースだったんだよね。

で、もって、この曲が当時の若者に支持があったっていうのは、あの頃の歌番組の影響が絶大だったよね。
「夜ヒット」しかり、「ザ・ベストテン」しかり。
 特にベストテンでの、綺麗なセットをバックにした演出効果は大きかったと思うなぁ。
あのころ演歌で、セットをつけた演出なんてベストテンくらいしかありませんでしたからねぇ。しかも、唄を引き出すをライティング効果も考えた、綺麗な演出効果とかさぁ。
 
それに加えて、サビの「雨 雨〜」のところの振りでしょ。
 ま、今見たら、なんてことない振りなんだけど、それらの演出が当時の若者の心を取られるには充分だったんだよね。

そんな「若者」側にいたワタシとかさあ、、当時は、演歌とか普通に聴いたもんね、当時は。
今みたいに特定のジャンルとかアーティストの曲しか聴かないではなくて、「ベストテン」なら「ベストテン」っていう番組自体を楽しみにしてたからさあ。
 だから、当時は演歌だから、イヤ・・とかいう発想はなかったし、同世代でも、みんな普通に知ってましたよね、この頃のヒット演歌は。

 当たり前だけど、賞レースだけで、あれだけのコールをもらえたわけではないわけで、それまでに若者の心をとらえるサムシングがあったわけなんだよね。





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また逢う日まで / 尾崎紀世彦

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今回の1曲セレクトは、「また逢う日まで」尾崎紀世彦です。

まずはデータでーす。

・タイトル     また逢う日まで
・アーティスト   尾崎紀世彦
・作詞       阿久悠
・作曲       筒美京平
・編曲       筒美京平
・リリース日    1971年3月5日
・発売元      フィリップス
・オリコン最高位  1位
・売上げ枚数    95.6万枚
・オリコンベストテンランクイン期間:1971年5月3日〜8月9日付

 10年くらい前に、PE'Zっていうグループがカバーアルバムをリリースする際に、カバー曲の選曲を担当したことがあるんですよね。
 ま、リアルな仕事の知り合いを通して、依頼があったものなんだけど。。。その時に100曲ぐらいの候補曲を出したんですが、打ち合わせの際に、先方のプロダクションの社長さんと意気投合したのが、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」と八神純子の「みずいろの雨」だったなぁ。
 結果的に、2曲とも採用されて、実際カバーアルバムにも収録されまして。。
 一応、「Special Thanks」ということで、ワタクシの名前もクレジットしていただだいたんだよなぁ。
あれから10年ですか。早いもんだよなぁ。
 ちなみに、そのPE'Zバージョンの「また逢う日まで」ですが、現在、ニッポン放送の日曜日12:00〜14:00で放送されている、「土田晃之 日曜のへそ」って番組のエンディングに使われていて、この番組を聞くたびに、なぜかくすぐったい気分になるワタシだったりするんですよね。。(ワタシがプロデュースした訳じゃないんだけどさ。。。

・・ということで、今回の1曲セレクトは、尾崎紀世彦「また逢う日まで」です。

 ・・とは言うモノの、まあ、ヒットチャートの1位。この年、第13回レコード大賞、第2回日本歌謡大賞受賞・・・・っていう、1971年の年度代表曲でもあり、文字通りの「大衆曲」っていえる曲を、恥じらいもなく選曲するのは、数多くいる選曲屋の中でも、私くらいなもんだよね、きっと
 
 普通、選曲屋っていったら、誰も知らないような重箱のすみのすみをつついて、ひっぱり出して来ることにエクスタシーを感じるところってあるじゃないですか。ワタシ、みんなが知らないと落ち着かないんですよね〜。大衆的というか。。そういう意味では変わった選曲屋ですよ。


でもさ、なんで選んだって言うのは別として、それまでの「演歌・歌謡曲」っていう純日本風音楽とはまったく違った角度の音楽、いわいる「ポップス」でここまで大衆性があった曲っていうのは、この曲が最初なんじゃないかとも思うんですよね。

 まあさ、たしかに、この曲以前に、ピーナッツの宮川泰氏とか、坂本九の中村八大氏などなど、それまでもポップス系で大衆性を発揮した曲を作った方って既にいたんだけど、それは、いろいろな曲を通してのポップス性で、「1曲にかける」っていう意味では、この曲が最初だったんではないかなぁと思うんだよね。

 ま、この曲の場合、上記で書いた曲よりも、たしかにそれだけのセールスはあげているんですけどね。何分、ミリオンセラー近くまで行っている訳だし。

 あ、この時代の状況を知らない方も多いと思うので、ちょっと書いときますが、このころはまだまだミリオンセラーっていうのは、年に1枚出るか・・という時代だったんですよね。
 ミリオンセラーっていうのは別次元のもの。いまだったらダブルミリオンくらいの「インパクト」はあったんだよね。

 ちなみに、オリコンの年間チャートでは、この年1971年のミリオンセラーは、小柳ルミ子の「わたしの城下町」と、加藤登紀子の「知床旅情」の2枚のみ。(アルバムはミリオンセラーなぞ夢のまた夢の時代)
 この「また逢う日まで」は年間3位でした。

 だけど、チャート的な面を除いても、やっぱり、この曲のインパクトはでかいんだよねぇ。

 まあ、尾崎紀世彦の日本人離れな超ワイルド、かつダイナミックな歌唱力もさることながら、やっぱり曲そのものだよね。

 それまでのポップスって、ポップスでありながらどっか日本人的なんだよねぇ。
 どちらかというと「演歌」から派生してきたようなポップスというか。 まあ、それを俗に「歌謡曲」っても言うんだけどさ。
 
 この曲には、その要素っていうのが、ほとんど見られないんですよね。どちらかというと洋楽的っていうかね。
 少なくとも1970年にはなかったような曲であることは確かだとおもいますよ。

 うん、なんていうかね〜、たしかにリズム体はゆったりとしていながらもシェイクっぽいノリなのも新しかったし。
 サウンドがややジャズっぽく聴こえるのは、プレイに参加しているミュージシャンがベースの江藤勲氏を始め、もともとジャズプレイヤーだったからでしょうね。

 そこに、和製トムジョーンズ(見た目はエルヴィス)っていわれる尾崎紀世彦がからむわけだから、これは、「和風」の要素は入り込む余地はないんだよね。きっと。

 でも、こういう曲⇒洋楽的要素が全面的に出てきた曲 がヒットするようになった1971年っていうのは、やっぱし日本音楽史の中でもターニングポイントの年だよなぁ。

 ここを境にして、より洋楽的でポップな曲が常にヒット曲の先端を行って、ま、これは、今でも変わんないですよねぇ。

 逆に、より「和風」な曲はどんどん時代に取り残されていく
っていう感じで・・・。
 その「逆転現象」がはっきり目に見えたのが、この1971年なんでしょうね。

 だけど、最近、こういうね天文学的というか、無限にスケールがでかい「エンターテイメント」性が強い曲ってないなぁ。
 
 まあ、ここまで「スケールがでかい」曲を歌いこなすだけの「正攻法でパンチのある歌唱力」をもったアーティストもいないってところが大きいですけどね。

 また、出てきて欲しいなあ、そういうアーティスト。そして、また、こういう曲を歌って欲しいですよ〜。




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YOUNG MAN(Y.M.C.A) / 西城秀樹

1979_04_YOUNG MAN_西城秀樹






今回の1曲セレクトは、「YOUNG MAN(Y.M.C.A)」西城秀樹です。

 まずはデータです。

・タイトル     YOUNG MAN(Y.M.C.A)
・アーティスト   西城秀樹
・作詞       JACQUES MORALI JACQUES
・作曲       HENRI BELOLO 
・日本語詞    あまがいりゅうじ
・編曲       大谷和夫
・リリース日    1979年2月21日
・発売元      RVC
・オリコン最高位  1位
・売上げ枚数    80.8万枚
・ザ・ベストテン最高位 1位
・ベストテンランクイン期間:1979年3月8日〜6月7日放送分

 さてさて、今日の1曲セレクトは何すべーな・・・と思いつつ、おもむろにカレンダーを見る。。。

(静寂 2秒あまり)

4月12日、4月12日、4月12日、4月12日・・・・・

(考えること 2秒あまり)

ぬお〜〜〜〜〜〜


あるじゃん! 歴史的な日ぢゃん!


 そう、忘れもしない・・・

YOUNGMAN(Y.M.C.A) /西城秀樹



ザ・ベストテン



9999点(満点)



1位を取った日じゃん!!

 うんー、いや、実はね、9999点(満点)の1位を取ったのは、実際は、1979年4月5日と4月12日放送分の2週にわたってなんだけど、ついつい、4月5日は忘れてたのねん・・ということで、2週目の本日で勘弁ね。

 あ、蛇足だけど、28年前の1979年4月も、今年と同じく、4月5日、12日が「木曜日」だったんだね〜。。


 今さらながら、ベストテンの得点のつけ方・・というか集計方法・・・・レコード売上げ、有線放送リクエスト、ラジオ総合、ハガキリクエストの4要素からなっているわけですが、更に詳細を見てみると


レコード売上げは、当時存在してた、商用レコード売上げチャート⇒オリコン、ミュージックリサーチ、ミュージックラボ
の3社

有線放送リクエスト⇒CAN SYSTEMリクエストチャート

ラジオ総合 ⇒JNN系列ラジオ局、各局のリクエストチャート総合

ハガキリクエスト⇒番組へのハガキリクエスト

これら、すべてで1位を獲得しないと、はじき出されない得点な訳で・・・、当時のこの曲のパワーを改めて思い知らされますねぇ。

 36年前の今ごろってさあ、ほんと完全にこの曲一色に染まってたもんなぁ・・・ってそんな気がしません?

 ・・・なんて、当時を知らない方も数多くいらっしゃるので、「気がしません?」なんて問いかける書き方もおかしいんだけど、兎に角、毎日、テレビから流れてた・・・って言うようなイメージが未だにあるんだよねぇ。

 チャンネルひねれば西城秀樹が星条旗柄の服着て、この曲歌ってたような・・。

 まあ、そのくらい、当時のフィーバーぶりはすごかったよなぁ。
 もちろん、ワタシもやってましたよ。

 ♪ Y M C A〜 ♪ は

 これ知らなかったら、モグリ(→死語!)だったもんねぇ当時は・・・。

 いや、知らないヒトなんていなかったんぢゃねーの?

 ほんと2歳くらいのガキンチョから、おじいさん、おばあさんまで、みんな♪ Y M C A〜 ♪ やってたもんね。

 まあ、好みが細分化された今では、まず、こういう光景は不可能だろうな・・。
 っていうのが、一番先に頭に浮かんだりして・・・。


 兎に角、元気の出る曲だったわな。今考えると、ことに79年の春頃の曲って、春らしい希望的な元気が出る曲が多かったよなぁ・・・っいうのがイメージにありますね。

 当時主流だったニューミュージックにしても、アイドルにしても・・・。

 さすがに演歌は「希望的な演歌」っちゅうのはなかなかないけど・・・。

 曲のイメージもそうだったけど、曲に重みがあったんだよね。上で書いたようにヒット曲は、みんなの共有財産・・・みたいなところが一番確立されていた頃だと思うし・・・。

 うん、個人的には理想な年代なんだなぁ、これが。

 そんな時代の、大ヒットだったわけだから、まあ、どれだけフィーバー(→死語!)してたか、当時を知らないヒトにもわかってもらえるかなぁ?

 この曲は、もともと向こうの曲な訳だけど、オリジナルはヴィレッジピープルが歌い、ビルボード最高2位っていう大ヒット曲のカバーですわね。

 オリジナルのヴィレッジピープルの方は、いわいるゲイのあっちの方の歌って言われてるけど、正体はレイザーラモンHGのような存在だったらしいですね。

 まあ、それを知ってか、知らずか・・・、日本での西城秀樹バージョンの方は、「青春ポップス」として、「超さわやか」な曲として大ヒットしちゃったって訳ですわね。

 まあ、当時は、そんな事情は知らなかったわけなんだけどさ、改めて当時の外国事情の情報の遅さに感謝!

 ・・・って感じですかねぇ。もし、オリジナルは「ゲイ」の歌よ・・・なんて、知られてたら、ここまで大ヒットしたかねぇ・・。

 ちなみに、この年は日本ではヴィレッジピープルの当たり年で、「イン ザ ネイビー」もピンクレディーが「ピンクタイフーン」でカバーして大ヒットだったもんね。


 なんて、散々持ち上げた割には・・・・

正直言って、個人的には、この曲あんまり好きぢゃなかったりして・・

 いやいや、手垢がいっぱいついてるからさぁ・・・。
個人的には、この次の「ホップステップジャンプ」の方が・・・マル





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