1980_05_ビューティフルエネルギー_甲斐バンド


今回の1曲セレクトは、「ビューティフルエネルギー」甲斐バンドです。

まずはデータです。

・タイトル    ビューティフルエネルギー
・アーティスト  甲斐バンド
・作詞      甲斐よしひろ
・作曲      松藤英男
・編曲      甲斐バンド 椎名和夫
・リリース日   1980年3月20日
・発売元     東芝EMI
・オリコン最高位 9位
・売上げ枚数   25.3万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 9位
・ベストテンランクイン期間:1980年5月19日付
・タイアップ:カネボウ化粧品 '80夏のキャンペーンソング

年代の分かれ目を境に時代の空気が変わるというのは昔からよくある話。

1959年→1960年
1969年→1970年
1979年→1980年

単なる数字上の話にも見えるけど、これらを境に時代の空気はガラッと変わったという印象が強い。
もっとも、1959年→1960年には、ワタシゃまだ生まれていないんで、あくまでも「現代史」的教科書上で知っている範囲内の事でしかないけども。。。

1959年、1969年については、「安保闘争」とその批准という政治的な時代の空気の変化というのが、大きく影響していたんだろう。

ただ、そんな政治的な時代の変化に追随するかのように、「流行音楽」の世界も年代の分かれ目を境に変化してきたようにも思える。

ここでは、以前からよく使う言葉だけど、「歌は世につれ、世は歌につれ」とっていうのは、このことからも全く当てはまる言葉なんじゃないかなぁ・・と実感するわけです。

ただ、1979年→1980年への変化。 この年代の境については政治的な変化よりも、音楽的な時代の変化というほうが大きかったんじゃないか。そう思えるんだよね。

1979年→1980年の時代の境、この時個人的には、すでにヒット曲の世界に両足を突っ込んでいたわけで、リアルタイムでそんな時代の変化の空気を感じたから、余計にそう思うんだろうな。



今回は、そんな時代の境目、1980年の今頃のヒットを引っ張ってきましたわ。

甲斐バンド「ビューティフルエネルギー」

この曲は、カネボウ化粧品「80年夏のキャンペーンソング」として、41年前の今頃は大量スポットが打たれ、頻繁にCMで流れていましたね。

↓ コレ



80年と言えば化粧品会社のキャンペーン戦争が激化したころですわ。 
この直前の「春のキャンペーン」では、カネボウが渡辺真知子さんの「唇よ熱く君を語れ」、資生堂が竹内まりやさんの「不思議なピーチパイ」、これに加えてポーラ化粧品が庄野真代さんの「Hey Lady〜優しくなれるかい〜」と、ヒットチャート上でも史上まれる見る三つ巴の激戦を演じたわけで。

当時、テレビの歌番組には「出ない」甲斐バンドのこの曲を、個人的に知ったのもCMからだったと思う。
そういえば、やはり少し前、80年明けの一発目のCMとして話題になった、財津和夫氏の「Wake Up」を知ったのも、「SEIKO」のテレビCMからだった。
逆にこのすぐ後、山下達郎氏の「RIDE ON TIME」も、マクセルカセットテープのCMから知った。

テレビの歌番組には出ないアーティストたちの曲をテレビのCMで知る。そういう意味では当時のCMは、良質な情報源だったんだよね。

もっとも、ワタシがもう2〜3年早く生まれていたら、これらの曲はラジオから知ったんだろうけど、1980年、10〜11才だったワタシは、まだラジオは聴いてなかったわけで。。。

そんなカネボウのキャンペーンCMで耳にしたこの曲、「え? これが甲斐バンド?」というのが、最初の印象だったのを覚えてるなぁ。

個人的に甲斐バンドと言ったら、前年の「HERO〜ヒーローになる時それは今」であり「安奈」と言うイメージだったんだよね。

口悪く言えば、泥臭い土着的なロック。
それが甲斐バンドと言う人たちの個性だとも思えたんだけど。。。

当時ロックBIG3と言われた、ゴダイゴ、ツイスト、サザンという、ロックの中でも、よく言えばソフィケートされた、悪く言えば大衆的なロックとは対極的な位置にあったような。

でも、この曲はそんな「土着的」なイメージが一層され、むしろ爽快なポップチューンのように感じた。 要するにイメージの変化に驚いた・・・いや、戸惑ったといった方がいいのかなぁ。

いずれにしても大分、イメージが変わったなと言う印象が強かったんだよね。

まあ、この曲については、ボーカルが通常の甲斐よしひろ氏ではなく、ドラムの松藤英男氏という、変化もあったわけで。 土着的な泥臭いイメージは、甲斐よしひろ氏のボーカルによるところも多分にあったわけで、松藤氏にボーカルが代わったことでの、イメージの変化も大きかったんだろう。


田家秀樹氏の「読むJ-POP」によると

1979年暮れの甲斐バンド武道館公演。 甲斐よしひろ氏は「79年のドラマはすべて終わりました。俺たちは80年代に行きます」と発言。

70年代の終わり 80年代をどう迎えるか。新しい時代の予感がしていた。

とある。

そんな時代の変化に対する、イメージの変化の答えの一つが、この曲だったのかもしれない。
今思えば、そんな風にも思えたりもするんだよね。

もっともオリジナルメンバーだった、ベースの長岡和弘氏が抜け、3人体制になった甲斐バンドの最初のシングルということもあり、新たな甲斐バンドを模索していたというところから、この曲に繋がったとも思えるんだけど。

ちなみに、この時抜けた長岡和弘氏は、キャニオンレコードのディレクターとなり、この後、斉藤由貴さんをはじめとした数々のアイドルをプロデュースすることになる。





ところで、↑に引き合いに出した、財津和夫氏「Wake Up」、山下達郎氏「RIDE ON TIME」、いずれもオリコンでは、ベスト3入りしていたにもかかわらず、「ザ・ベストテン」ではいずれも11位止まり。 確かにベストテンの特定配分はレコード売り上げの配分比率が低めで、逆にハガキリクエストが高かったことを考えれば、こういう結果だったこともやむを得なかったのかもしれない。

・・けど、いずれもレコード売り上げと併せてラジオチャートでもベスト10内に入っていたこれらの曲でもあったわけで、少し腑に落ちないところもあることはあるんだけど。。。
両者ともランクインしても、出てくれないだろうし・・・なんて、最初からあきらめていたんじゃないか・・とか。。個人的に少し疑問も感じたりするんですけどね。

・・なんて、あんまり深入りすると、この辺りを深く研究している方たちから突っ込みが入りそうなんで、この辺にしますが。。 
恐らく最も比率が高かったハガキリクエストが全く振るわなかったため、こういう結果だった・・ということで。

かくいう、甲斐バンドの方たちも、ベストテン入りしても出ない人たちの一つでしたね。
もっとも、「HERO〜ヒーローになる時それは今」の時に一度出演しましたが。。。



これを見ると、当時の歌番組側の考えと、甲斐よしひろ氏の考え、さらには視聴者の間にかなりの齟齬があったようですね。 いや、甲斐よしひろ氏だけではなく、多くのニューミュージック系アーティーストが感じていたのは、そこなんですよね。

でも、後年、甲斐よしひろ氏から、本当は「安奈」の時は出演しても良かった、出演オファーを待っていたけど、オファーが来なかったとジョークまじりの発言もあったりしてね。
まあ、どこまで本気で、どこまでが冗談かはよくわからないけど。 

でも、もし、本当だとしたら「安奈」もベストテンで聴きたかったなというのは、個人的には本音で思いますね。

・・・と最後は「ビューティフルエネルギー」とは関係ない話になってしまいましたわ・・・メンゴ。




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