↓ コレ
1960年代ヒット曲
↓ コレ
今回の1曲セレクトは、「銀色のグラス」ザ・ゴールデン・カップスです。
まずはデータ。
・タイトル: 銀色のグラス
・アーティスト ザ・ゴールデン・カップス
・作詞 橋本淳
・作曲 鈴木邦彦
・編曲 鈴木邦彦
・リリース日 1967年11月15日
・発売元 東芝音工
・オリコン最高位 100位
・売上げ枚数 0.2万枚
音楽配信で使用されている楽曲の著作権調査・処理と、某著作権管理団体への報告業務をやっているのね、生業で。
まあ、(音楽)業界っちゃ、業界内の仕事ではあるんだけども、かなり端っこの仕事だよね。ふつうあんまり顧みられることはない仕事だし。
で、1月は某著作権管理団体への使用楽曲報告月なのよ。 なので、年明けそうそう超繁忙期・・・っちゅうことで、ほとんど身動きが取れない状況でして。。。。
毎年のこととはいえ、ほんと、なぜに1月が著作権管理団体への報告月やねん。 って愚痴りたくなりますわ。
まあ、1月に報告せんと、3月の決算月までに使用楽曲の利用料分配ができない・・・ってことなんだろうけどさあ。。。。
せめて、1か月後ろにずれて、2月、5月、8月、11月が報告月になれば、ありがたいんだけどねぇ・・・なんていつも思ったりして。。。
ここんところ、1曲セレクトがなかなか書けないのは、ひとえに今月の超繁忙期のためですわ。。。。
・・とはいいつつ、音楽はちょぼちょぼ聴いてるんですけどね。
なんせ、1日中家にこもってのデスクワークなんで、ストレスが溜まるもんでさ。
この曲のように叫びたい・・・、あるいは弾けたいっていう衝動からなんでしょうかねぇ
それにしても、何度聴いても、この曲は衝撃的ですわ。
「歌謡曲完全攻略ガイド」に、「日本のロックは はっぴいえんど から」っていう人は耳をかっぽじって聴け」と書いてある。
この本購入したときは、この曲知らなかったんで、「ふーん」くらいにしか思わなかったけど、実際に聴いてる見ると確かに納得。
もっとも、正攻法なロックというよりは、ツイストっぽくもあり、R&Bっぽくもある。
この哀愁感あるツイストっぽいフレーズ、どっか聴いたことあるな・・と思っていたんだけども、銀蠅のラストシングルの「哀愁のワインディングロード」だよね。これは。
逆だ、銀蠅が「銀色のグラス」っぽいんだ。。。
同じ横浜、やはりリスペクトしてるんだな・・というのが分かるな。
↑ これのルイズルイス加部氏本人の回想録によると、作曲の鈴木邦彦氏のAメロがあまりにも「歌謡曲」なので、ムカっときて、鈴木氏の指示をガン無視してガシャーンと遊んだらこうなったという話だけど、いいね。
なにより、カップスの「不良性」が一番にじみ出ているシングルともいえるんじゃないのかなぁ。
だからこそ、カップスのファンからは人気があるんじゃないかと思いますね。
いや、正直、この不良性にあこがれるのよ、個人的には。 ワタシにはできなかったですからね。
ちなみに、この曲はオリコン最高100位。
オリコンランクインギリギリですわ。
オリコンが前年から始まっていれば、もっとランクは上だったろうに。。。。
最近、この手の黒っぽいファンキーなベース弾きといったらハマ・オカモトだけども、彼が弾く「銀色のグラス」のランニングベースもなかなかのもんなのよ。
ルイズルイス加部氏の後継なのは間違いないところだわな。
そういえば、この曲は、カップスファンだけぢゃなく、向こう人たちにも、この曲人気あったりするんだよね。
カップスの演奏テクニックは、国内では認められているところだけども、それだけ、向こうでも評価されているってことなんだよね。
最近はシティポップスということで、70年代の曲が無効で大人気になっているわけだけども、なにも70年代、80年代の曲だけじゃないんだよね、向こうで認められているのは。
このへんは、あんまり大きくは報じられていない事なんだけども。。。
今回の1曲セレクトは、「おかあさん」ザ・テンプターズです。
まずはデータです。
・タイトル おかあさん
・アーティスト ザ・テンプターズ
・作詞 松岡弘子
・補作詞 松崎由治
・作曲 松崎由治
・編曲 川口真
・リリース日 1968年9月25日
・発売元 ビクター
・オリコン最高位 4位
・売上げ枚数 28.0万枚
・ベストテンランクイン期間:1968年10月14日〜11月11日 11月25日付
少し時間が過ぎてしまいましたが、作・編曲家の川口真氏が亡くられてしまいましたね。
享年83才。
東京芸大出身だから、深町純氏や坂本教授、King Gnuの常田大希の先輩にあたるわけだけど、左記の各氏が、ポップス界とは言え前衛的な音楽が特徴であるのに対して、川口氏の音楽は、純粋に「歌謡」音楽だったんですよね。
もっとも「歌謡」音楽については、あくまでアルバイト感覚で活動していたようですが。。。 この点は業界に入りたての頃の坂本教授に近いのかなぁ。
個人的に、川口氏を意識したのは、河合奈保子さんの「愛してます」を聴いてからかなぁ。
そそそ、この曲の作曲が川口氏でしたね。
それまで、作詞、作曲者のクレジットなんて、まったく気にしてなかったけど、ちょうど、このころ月刊「明星」を買うようになって、付録の「歌本」みると、必ず作詞、作曲、編曲者がクレジットされているわけじゃん。 そこからですねぇ、ヒット曲の作家を意識するようになったのは。
歌本も何か月か見てれば、大体ヒット曲作家の面々って分かってくるじゃん。 80年代初頭だったんで、作曲家だったら筒美京平氏、馬飼野康二氏、 作詞家だったら、松本隆氏、なかにし礼氏、三浦徳子氏、編曲家だったら船山基紀氏あたりはすぐに覚えたなぁ。
川口氏は、その中の作曲家として覚えたんだけども、氏は編曲の方が多いんだよね。それを意識するようになったのは、もう少し後だったか・・・。
で、氏の曲を80年代から遡って聴くようになって、一番特徴的に思ったのは、ベースラインかなぁ。
一番特徴が出ているのは、由紀さおりさんの「手紙」だったりするんだけども、16ビート的に「動く」ベースラインがさあ刺さるんだよね。
↑の河合奈保子さんの「愛してます」もそうなんだけども。。。 (もっとも「愛してます」のアレンジは船山基紀氏ですが・・・)
それに気が付いてからは、川口氏が作・編曲した曲はベースラインに気を付けて聴くようになったりしてね。
おっととっと またもや「マクラ」が長くなっちまった。。。。
・・・ということで、今回の1曲セレクトは川口真氏が「関わった」曲を持ってきましたわ。
ザ・テンプターズ 「おかあさん」
ワタシさあ、これまで気にして来なかったんだけども、件の「エメラルドの伝説」以降のテンプターズの一連のヒット曲って、川口氏がアレンジしてたんだねぇ。
もっと前から気にしてても良かったものの、昔、少なくとも70年代以前のヒット曲って、例えば上記の明星の歌本みても、アレンジャーの記載ってなかったし、どうも薄い存在ではあったんだよね。
そんなこともありーの、ワタシとしても、少なくともG.S時代のヒットのアレンジャーには、あまり注意してなかったこともあるな。
まあ、だからこそ、逆に新鮮ではあるんだけどさ。。。。
で、「おかあさん」。
この曲は、テンプターズ最大のヒットである「エメラルドの伝説」の次シングルということで、1968年9月にリリースされている。
当時ワタシゃ、-1才。
はい、まだこの世に生まれておりませぬ。
なので、当然リアルタイムで聴いていないわけで、本当は知らないはずなんだけども・・・。
でも、なぜか知ってたんだよねぇ。。。。
個人的にG.Sを意識し始めた1986年。初めて買ったG.SのオムニバスCDにこの曲が収録されていたんだけども。。。
あの時点で、テンプターズの曲では、この曲の2曲前の「神様お願い」は、Kuwata Bandがカバーしてたんで知ってた。 うん、あくまで「カバー」してたからと言う意味で。
1曲前の「エメラルドの伝説」は、タイトルは知ってたものの、実際の曲は知らなかったんだよなぁ。。。このCDを聴いて・・「あ、初めて聴いた」っていう感覚だったから。。
で、件の「おかあさん」。 CDを聴いて、「あ、この曲か〜」っていう感覚になったんだよなぁ。
もっともフルで知っていたわけではなく、イントロ冒頭の ♪ オー ママ ママー ♪っていうフレーズとか、切れ切れの記憶ではあったけど。。
どうなんだろうなぁ・・。個人的に、まだ物心が付かない頃、意識していないところでどっかで聴いてたのかもしれないなぁ。。。
この曲の ♪ オー ママ ママー ♪ と言うフレーズと、ホット・トップスの「マミーブルー」だっけ ♪ Oh Mammy Mammy〜 ♪ っていう曲。
あれとごっちゃになって覚えてた感覚があるなぁ。 「マミーブルー」は1971年のヒットで、ワタシが2才の頃なんで、もしかすると、その頃、ごっちゃに聴いてたのかもしれない。。
この曲のボーカルは、ショーケンではなく、リーダーで、この曲を作曲した松崎由治氏。
デビュー曲の「忘れえぬ君」も氏のボーカルだけども、ショーケンと声質が似てるんで、ちょっと聴き、ごっちゃになってしまうんだけども・・・。
でも、この「おかあさん」での泣きのボーカルは、松崎氏ならではと言うところなんだろろうなぁ。
ちなみに、「忘れえぬ君」でもそうだけど、この「おかあさん」でも、ショーケンはバッキングのブルースハープを披露していたりする。
この曲の前の「エメラルドの伝説」もそうだったけど、ばっと聴き、「なんでぇ・・・歌謡曲じゃねえか」と思えてしまうんだけども、 ショーケンのこのブルーハープが効いてるんだよね、やっぱり。
大げさに言えばサザンロック的な匂いを感じてしまう。 そこがヨーロッパの貴公子のイメージだった、ライバル「タイガース」との最大の違いなんだろうな。 アウトローという匂いを感じさせる点で。
個人的にも、少なくとも今となっては、「タイガース」よりは「テンプターズ」なんだよね。
たしかに、ややもすれば「タイガース」のほうが知名度はあるし、曲も取っつきやすいんで、G.Sの超入門としては入りやすい。
それに比べると、テンプターズは、やや匂いがありますからねぇ。貴公子のタイガースに対して不良の匂い。
「エメラルドの伝説」なんかは、歌謡曲的でとっつきやすい。だから最大のヒットにもなったんだろうけどね。
でも、この「おかあさん」っていうタイトルは、やっぱ気恥ずさが立っちゃうよなぁ。
アウトローなテンプターズが「おかあさん」っていうタイトルはどうなのよ? ・・って印象も個人的には受けるんだけども。
実際、大人のミュージックカレンダーというコラムでの、ドラムの大口広司氏の証言によると、この曲のリリースにあたっては、メンバー間でも「埼玉のストーンズと呼ばれたテンプターズが、この曲は無いだろう」と「言い争い」になったようだ。
特に、ボーカルをとった松崎氏とショーケンの間に溝が出てきたことは間違いなかったらしい。
この曲の歌詞は、当時週刊「平凡」で、一般読者に呼び掛けて行った、テンプターズの曲の歌詞募集キャンペーンで選ばれたものが原型なんだよね。
まあ、月刊「明星」でのタイガースの曲の歌詞募集キャンペーンの末リリースされたのが、件の「花の首飾り」だったことに対抗してのキャンペーンだったことは、明白なんだけどさ。
テンプターズは、どこまでもタイガースのライバルだったのか。。。
本人たちから見れば、本心だったのかは分からないけども、少なくとも、「明星」VS「平凡」っていうのは、ガチガチのライバル誌だったわけだから、こういう後追いキャンペーンの図式になったんだろうけどね。
まあ、そんなキャンペーンが、メンバー間の溝に発展するということは、「平凡」側としても予測してなかったんだろうけど、なんとなくやるせない気分になってしまいますね。
前曲「エメラルドの伝説」では、オリコン1位の大ヒットになったのに比べると、オリコン最高4位、30万枚弱の、いわいるスマッシュヒットで止まってしまったのは、多分にこの曲のイメージが災いしてしまったんだろうなぁ。
↑の大人のミュージックカレンダーのコラムにもあるように、不良性が売りだったテンプターズの一般的なイメージとの乖離。加えて、メンバー同士での軋轢の発生。
さいしょは些細な溝だったのもかもしれないけど、その修復が出来ないまま、人気も下がって行ってしまったわけで。
タイガースが、すぎやまこういち氏を中心としたブレーンの作詞、作曲だったのに対して、松崎氏を中心としたオリジナルも出来たテンプターズは、より音楽性も高かったし、人気も高かった。
それゆえに「エメラルドの伝説」ただ1曲のオリコン1位獲得で終わってしまうようなグループではなかった思うんだけどもね、それだけに残念だし、1曲ではあるけど、その1曲がグループ内の軋轢の原因になりうるという点では、、リリースする楽曲の意味合いも考えされられますね。
後年の「チェッカーズ」がメンバーで曲を作るようになって以降、 もし、1曲のオリコン1位獲得で終わってしまったら、同じような印象になったのかもしれないな。
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今回の1曲セレクトは、「君に会いたい」ザ・ジャガーズです。
まずはデータなのだ。
・タイトル 君に会いたい
・アーティスト ザ・ジャガーズ
・作詞 清川正一
・作曲 清川正一
・リリース日 1967年6月1日
・発売元 フィリップス
・オリコン最高位 - 位
・売上げ枚数 - 万枚
今回はマクラなしで、のっけから本題。
久々にG.Sなど持ってきましょうか。
ジャガーズの「君に会いたい」
この曲、ずっと持ってこようと考えていたんだけども、今一つきっかけを思いつかなかったんで、ずっとストックしてた曲なんだけども、前回の、吉田拓郎氏の「イメージの詩」を書くにあたって、いろいろネットみてたら、なぜか、この曲にあたったんだよね。
この曲がリリースされたのは1967年6月。 まだ、オリコンは始まっていないんで、実際のヒット時期というのが分からないんだけども、あの頃は少なくとも「初動のみ」のヒットということは、ないだろうからさ。
・・ということは、1967年夏にかけてヒットしていただろうという「推定」で引っ張ってきたんだけどね。
もっとも、黒沢進氏著「日本の60年代ロックのすべて」によると、
爆発的なヒットではなかったが、67年夏から秋にかけてヒットした
・・とあるので、もしかすると、実際のヒット時期は、もう少し後だったかもしれないけど。。。
うん、1967年(昭和42年)といえば、ワタシゃ、−2才。 まだ生まれておりません。。。
なので、リアルタイムでは聴いてないし、実際にヒットしていた時期も体験していないので、、資料がない限りは推定で考えなきゃいけないんだけども。。。。
・・・ということで、この曲がヒット当時してた頃は、まだ生まれていなかったわたしが、初めてこの曲を知ったのは、実は1981年だったりするんだよね。
なぜ?
覚えてないですかねぇ、1981年夏、アサヒミニ樽のCMでこの曲が使われていたのを
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そういえば、真行寺君枝さんっていましたねぇ。いまはどうなさっているんだろう?
それよりも、風間杜夫、平田満の「蒲田行進曲」コンビでこのCMに出てたのは、知らなかったわ。
ちなみに映画「蒲田行進曲」が公開され、一大ブームを巻き起こすのは、この次の1982年になる。
まあ、いずれにしろ、なんか知らないけど、81年当時、このCMら引っかかっちゃったんだよな。
CMだけでなく、BGMの「君に会いたい」にも引っかかった。
なんで、当時、この曲に引っかかっただろうねぇ・・とも思ったりしたんだけども、考えてみれば、時代はG.S回帰だったんだよね。 1981年って。
G.Sの一大ブームを作った、いわいる「A級」のG.Sグループが相次いで解散、ブームの終焉を迎えたのが1971年。
それから丁度10年・・ということで、G.S回帰の動きを見せたのが1981年だったわけなんだよね。
ワイルドワンズが、夏限定で再結成したのが1981年だったし。 そもそも、ジュリーが「G.S I LOVE YOU」というアルバムをリリースし、これを契機にタイガース再結成に向けて動き出したのも1981年だったし。
ま、初めは1981年の1月に、数々のG.Sグループが出演した、「ウエスタンカーニバル」の舞台となった有楽町の「日劇」(日本劇場)が閉館したのが1981年1月。と同時に「さよならウエスタンカーニバル」という特別公演が1981年1月にあり、それを受けて、夏にかけて一時的ではあるけど、G.Sが盛り上がったわけなんだよね。
実際のヒット曲の傾向としても、ジュリーの「おまえがパラダイス」をはじめとした、50's〜60'sのオールディーズっぽい曲とか、それこそG.Sの頃のガレージっぽい曲とか、今考えると、結構多いんだよね、1981年って。
それを考えるとさ、この年1981年の「顔」である、「ルビーの指環」をはじめとした一連の寺尾聰ブームっていうのも、あながち偶然ではなかったような気がするんだよね。
うん、寺尾氏も、もともとは「サベージ」っていうG.Sのベーシストだったわけだしさ。G.Sとは切っても切れない訳じゃん。
そんな傾向にあったからさ、G.Sをリアルタイムには経験していなかったワタシは、このテのガレージっぽい音が、逆に新鮮、 先端の曲のように思えたんだよね。
だから、↑のサントリービア樽のCMで使われていたこの「君に会いたい」って曲が、まさか、
あの時点で10数年前の曲とは知らなかったからさ。新曲だと思ってたの。
いつリリースされるんだろうな。。。とか。。。
まあ、その前に、あの当時曲名すら知らなかったんだけども。
今、昭和歌謡が若いコたちの間で流行っているけど、、恐らくは、1981年頃、ガレージっぽいG.Sの曲を聴いて新鮮に思えるのと、同じような感覚なんだろうな。
まあ、1981年の時のG.S熱は、実際に「タイガース」が再結成したことで一旦終焉したんだけども、その後1986〜1987年にかけて、ネオG.Sという形で、再度、ガレージブームが来たじゃん。
あのとき、ワタシも本格的にG.Sに嵌って、CD集めてたら、この曲が収録されててさ。
そのとき、「あの曲だ」と思うとともに、初めて、曲名、アーティスト名、いつのリリースだとか、もろもろ知ったわけなんだけどもね。
いまでも、G.Sのガレージっぽい音って好きなんだよなぁ。
なんでなのか、よくわかんないけど、血が騒わぐというかさぁ。
考えてみれば、死んだオヤジが、「ベンチャーズ」か好きでさあ、車のカーステでよく聴いてたからなぁ。 その影響なのかしらん!?
なにより無国籍な音楽っぽいところがいい。 洋楽と言えば洋楽だし、 歌謡曲と言えば歌謡曲だし、ロックといえばロックだし。。。
どう解釈しても、あながち間違いではないというがいい。 節操がないんだよね。
それが、実に日本っぽいじゃん。
このジャガーズの「君に会いたい」って曲にしても、ぱっと聴きは、歌謡曲っぽいけど、100%歌謡曲とも言えない。かといってロックでもない。
バックのギターのリフはアラビア風だったり、口笛の旋律が怪しげだったり、一見よくわかんない世界なんだよね。それでいてメロディが刺さってきたりしてさ。
そんな一見バラバラな世界観が混ざり合うと、あーら、不思議。 いいじゃないの? って曲になる。
これこそがG.Sの真骨頂だったりするんだろうな。
ジャガーズとしては、デビュー曲のこの曲は違うけど、3枚目シングル「マドモアゼル・ブルース」からは主に筒美京平氏が作曲を担当するようになる。
それによって、ややガレージ感が薄れてきたように感じるのは、私だけでしょうかねぇ。。。。
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今回の1曲セレクトは、「愛する君に」ザ・ゴールデン・カップスです。
まずはデータです。
・タイトル 愛する君に
・アーティスト ザ・ゴールデン・カップス
・作詞 なかにし礼
・作曲 鈴木邦彦
・編曲 村井邦彦
・リリース日 1968年9月1日
・発売元 東芝EMI
・オリコン最高位 13位
・売上げ枚数 14.8万枚
先週のことになりますが、元ザ・ゴールデン・カップスのマモル・マヌー氏が亡くなってしまいましたね。
このライブで、カップスの生演奏に触れることができたのが、個人的には唯一の救いかなぁ。
そういうことで、今回の1曲セレクトは、カップスのこの曲をチョイス。
「愛する君に」
この曲は、「長い髪の少女」の次のシングル。
↑で書いたように「長い髪の少女」は、もろ歌謡曲色の強い1曲。
でも、もともとカップスは、日本のバンドでありながら唯一外国のバンドであると言われたくらい、洋楽オンリー。しかもテクニックも他の日本のバンドに抜きんでていたという程の本格R&Bバンド。
それいえに、本来のこの人たちの持ち味との乖離はデカかったわけで。
確かに歌謡曲寄りにしたことで、認知は全国区となり一般的なファンは急増した。
ただ、それまでのカップスを支持していた、R&B志向が強いコアなファンからは懐疑的な意見が続出したんですよね。
そんな一般的なファンと、コアなファンとのギャップを埋めるべく、リリースされた曲が、この「愛する君に」だったんじゃないのかと思う。
・・・・「思う」って信憑性が低いな・・なんて思われてしまうかもしれないけど、如何せん、ワタシ、この曲がリリースされた時点では、まだ生まれていないんで、実際的なところがよくわからないもので。。。
ただ、これを書くにあたって、先ほど家にある映画「ゴールデンカップス・ワン・モア・タイム」を見直したんだけど、内田裕也氏、忌野清志郎氏、鈴木ヒロミツ氏・・などカップスを愛し、尊敬する名だたるロック・ミュージシャンの方たちも、この「愛する君に」は許せると証言している。
ネットを見ていても、先日のマモル・マヌー氏の死去の書き込みをされている方が数多く居られましたが、「長い髪の少女」よりも「愛する君に」を推している方の方が多いんですよね。
このことからも、1968年のヒット当時も、この「愛する君に」によって、「長い髪の少女」で生まれたギャップっていうのは、解消したんじゃないかとは思えてくるんですよね。
実際この「愛する君に」は、「長い髪の少女」と打って変わって、洋楽的な匂いが強い。
ま、確かに、本来カップスが演ってきていた向こうのR&Bには、まだまだ遠くはあるけど、1968年という時代を考えると、この程度が先端だったんじゃないかと思えますね。
個人的には、洋楽的というよりも、どことなくマカロニウエスタン的に聴こえちゃったりもするんだけど。。。
イントロとか、チャールズ・ブロンソンが出演してたマンダムCMの「男の世界」っぽく聴こえちゃったり、ヒデとロザンナっぽく聴こえり。。。。
でも、ヒデとロザンナは別にして、「男の世界」は洋楽か。。。。そうなるとやっぱり向こうの曲っぽいと言えるんだよな。
この曲も、「長い髪の少女」に続いて鈴木邦彦氏の作曲ではあるんだけど、アレンジが村井邦彦氏に代わっているんですよね。
村井邦彦氏。 この後アルファミュージックを設立し、ユーミンや赤い鳥などのアーティストを発掘する、作曲家、音楽プロデューサーですわ。
洋画の映画音楽をベースに、洋楽的センスに長けていた村井氏がアレンジしたことによって、歌謡曲的なメロディラインを残しつつも、より洋楽的なサウンドに仕上がったんでしょうね。
いずれにしても「歌謡曲なんて歌えねぇ」と「長い髪の少女」ではメインボーカルを突っぱねて歌わなかったデイブ平尾氏、この曲ではボーカルに復帰しているところから見ても、洋楽的な妥協点をクリアしていたんだろうな。
ちなみに、オリコン最高位は、「長い髪の少女」が14位だったのに対して、この曲は13位。 売り上げ枚数は届かなかったけど、グループのシングル最高位を記録したのはこの曲だったりするんだよね。
東京12チャンネルで当時放送されていた「ジャポップス・トップ10」(日曜19時30分〜20時)という番組のVTRらしいです。
よく保存していた方がいらっしゃったな・・と感心するばかりですが。。。
ちなみに、映画「ゴールデンカップス・ワン・モア・タイム」でも、このVTRが使用されています。
マモル・マヌー氏が亡くなって、この動画へのコメントもすごいことになっていますね。。。
この時のメンバーは、Vo デイブ平尾、G エディ潘、B ルイズルイス加部、Dr マモル・マヌー、Key ミッキー吉野。
オリジナルメンバーの、ケネス伊東氏は抜けていましたが、代わりにキーボードにミッキー吉野氏が加入していたころですね。
ミッキー吉野氏は、いわずとしれた後年のゴダイゴのキーボーディストですわ(なんてわざわざ書かなくても分かるか)
Aメロでのデイブ平尾氏のボーカルに加えて、サビからドラムのマモル・マヌー氏のボーカルにチェンジ、ここにエディ潘氏のサイドボーカルが絡んでくるという強力なボーカル体制でしたね。
画面を見ても変わるように当時のマモル・マヌー氏、イケメンなんですよね。 デイブ平尾氏曰く、68年当時最強のイケメンだったということで横浜、湘南地区では知らない人がいなかったとか。
でも、ミッキー吉野氏曰く、めちゃくちゃ「不良」。あんなに悪さしてたやつはいないというほど、かなりのやんちゃ者だったようです。
そもそも、カップスのメンバー全員、当時の本牧地区では曰く付きのやんちゃ者が集まったグループでしたからね。
当時の本牧地区は、まだ大半が米兵居住地区であり、金網を一つ隔てれば「アメリカ」という環境。
それいえに常にトラブルや喧嘩が絶えない場所だったわけですわ。 そんなところで曰く付きの不良だったってわけで、半端なワルじゃなかったんですよね。
そういう不良なことは私には絶対できないけど、どこか憧れはあるんですよね。
そもそも、ワタシの死んだ父親も母親も、若い頃はそこそこのヤンチャしてたようで、ワタシがまだ幼稚園とか小学校に入るか入らないかの頃、夜な夜なスナックによく連れてかれていたんだよね。
酒の匂いとそれとコーヒーの香りとタバコの煙が充満しているような・・・。
あの独特な不良な匂いと、煮えたぎったような熱気、そんな光景がいまだに脳裏残ってるし。
だから、G.Sの中でもそういう匂いの特に強いカップスにはついつい惹かれちゃうんところがあるんだよね。
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今回の1曲セレクトは、「海は恋してる」ザ・リガニーズです。
まずはデータです。
・タイトル 海は恋してる
・アーティスト ザ・リガニーズ
・作詞 垣見源一郎
・作曲 新田和長
・編曲 ありたあきら
・リリース日 1968年7月1日
・発売元 東芝音工
・オリコン最高位 37位
・売上げ枚数 5.7万枚
昨日、車を飛ばしつついつものように、FM東京「山下達郎・サンデーソングブック」を聴いてたら、The Amarriesの「From A Distance 」がかかった。
「From A Distance 」、邦題では、「孤独の世界」。 P.Fスローンが歌って、日本でもヒットした曲ですね。
でも、何? 「The Amarries」って。。。 またまた、ヤマタツお得意の、超マニアックバンドですか?
なんて思われがちだけど・・・。実は日本人なんだよね。
「ジ・アマリーズ」。 68年当時、早稲田の学生だった3ピースフォークグループ。彼らがP.Fスローンの「孤独の世界を」日本語でカバーしてた曲だ。
・・・ってサンソンで邦楽がかかるのもあまりないんで、思わず聴き入ってしまったんだけども、正直「ジ・アマリーズ」なんてグループ知らなかったぞ。
調べたら、早稲田から出てきた「ザ・リガニーズ」の弟分のグループだったんですね。
ああ、「ザ・リガニーズ」なら知ってるぞ・・
・・・っちゅうことで、今回はザ・リガニーズのこの曲を持って来ましたわ。
「海は恋してる」
いや、ザ・リガニーズっつったらこの曲でしょ。。っちゅう、代表曲ですね。
まあ、今から51年も前の曲なんでねぇ、タイトルだけ見たら、「え? 知らなーい」って思う方もいらっしゃるかと思うけど、
♪ 君はきれいな 海の恋人 やさしく抱かれて 夢をごらんよ〜 ♪
って言うお馴染みのサビのフレーズ。
曲を聴いたら、「あー、この曲ね」って思うんじゃないかな。
リリースは1968年 昭和43年7月。
当然、ワタシゃ、まだ、この世に居ない。「-1才」 だったからねぇ。。
そんなワタシなんだけど、この曲は、結構早くから知ってたんだよな。 恐らく小学生の頃から知ってたと思う。
たしか、何かのコマーシャルのCMで使われてたのかなぁ。 何のコマーシャルだったのかは忘れたけど。。
当時、まだ福島のいわきに住んでたんで、もしかしたら福島のローカルCMだったかもしれない。
あ゛、でも、完全に覚えてるのは、小学6年の夏ですね。
1981年夏、かつてのG.Sでの人気グループ、ワイルド・ワンズとザ・ジャガーズが相次いで再活動を始めてたんですよね。
ジャガーズの「君に会いたい」は、たしか「サントリー・生ビール」のCMに使われたんじゃなかったっけな。
それぞれのグループとも、60年代〜70年代初頭のG.Sブームの終息から丁度10年ってことで、再活動の動きが活発になったんだけどさ。
ま、この時の再活動開始は、それほど大きな「波」にはならなかったんだけども、でも、これが呼び水となって、この年の年末の「ザ・タイガース」の再結成に繋がったのは、間違いないところだよね。
で、そんなG.Sグループ再結成の動きに併せて、この「海は恋してる」も再発されたんだよね。
いや正確に言えば、再発ではなく、当時人気俳優だった、広岡瞬が、この曲のカバーをリリースしたんだよね。
個人的には、その印象が色濃いんだよなぁ。
オリジナルの「ザ・リガニーズ」の音源を手に入れたのは、確か高校生の頃だった。
まあ、それでも年齢的に早かったかな・・とは思うけど、高校の頃、時代を遡ってヒット曲を追いかけてたんでね、このころ60年代、70年代の音源も大分取得してたんだよね。
それで、音源を整理する上で、ヒット順に曲に整理番号(ID)を振って並びかえるって言う現在に続く音源整理を始めたんだけど、ヒット順に曲を聴いて来ると、この「海は恋してる」って言う曲は、G.Sとはちょっと違うな・・って思えるようになったんだよね。
逆に言えば、それまでは当時のグループの曲って、全部G.Sなんだろうって言う認識でいたんだけども。
ちょっと毛色が違う。 そもそも、サイケ、ガレージ感が無いし、健全なイメージ。 少なくとも夜に向かった音楽ではない。
そそそ。当時は、慶応、早稲田、青学、成城・・・と大学のサークルから出てきたグループが多かったんだけども、それら大学から出てきたグループのうち、東芝からリリースしたグループは「カレッジフォーク」と呼ばれるようになった訳なのよ。
これは、当時の東芝音工の名物ディレクターだった、高嶋弘之氏(高嶋ちさ子のお父さん、故・高島忠夫の実弟)が名付けた・・というかシリーズの呼称なんですよね。
まあ、当時の大学生は知的エリートだし、そもそも音楽なんぞやってるのは、そのなかでもいいとこのおぼっちゃまだった訳で、いわいるG.Sのサウンドとは違ったんだよねぇ
やっぱり、育ちが音が出る・・・っていうかねぇ、 上で書いたようなガレージ感、というか不良性が無い訳よ。
だから、サウンド的にG.Sとは異なるんだよね。 その辺を高嶋氏は見抜き、G.Sとは一線画した「カレッジフォーク」というシリーズを立ち上げんだろう。
でも、それは正解だったんじゃないかなぁ。
後年、ニューミュージックと呼ばれるようになった音楽は、70年代初頭に突然出てきたかのように、ものの本には書かれる事があるけど、実際は、このカレッジフォーク路線が基盤になって発展した音楽なんだよね。
はっぴいえんどだって、ティンパンアレイだって、それ以前に、ユーミンを発掘した村井邦彦氏だって、早稲田・慶応閥な訳じゃないですか。 結局はカレッジフォークからの流れなんですよね。
それを考えると、今のJ-POP、特に今をときめく、米津玄師や、あいみよん、髭ダンなどのシンガーソングライター系アーティストの流れを辿って行くと、源流の一つはココにたどり着くと思う。そういう意味ではJ-POPの「祖」と言うべき音楽だったんじゃないかなぁ。
もちろん、G.Sからの流れも、亜流となってではあるけど、今のJ-POPに繋がっているんだけどね。
この曲のキモは、サビのメロディラインもさることながら、Interludeでのセリフだよね。
「海も失恋するのかな? 涙をいっぱいためるかな? でも、溢れだしたら困っちゃうな
だって俺 泳げないんだもん 」
なんて、間抜けなセリフなんでしょ 。今だったら、バカヤロッ って思わず張倒したくなっちゃうような
でも、結局こういうところがG.Sとは異なるんだよな。いいとこのおぼっちゃまって言う感じじゃん。
ちなみに、件の「ザ・リガニーズ」、メンバーは
・新田和長(VO. G)
・武藤敏史(G)
・内山修(B)
・吉田光夫(G)
・常富喜雄(G)
・・・すげぇメンバーだって思う方は、「業界」通ですね。
そそそ、新田和長氏は、グループ解散後、東芝EMIに入社し、チューリップ、甲斐バンド、長渕剛、稲垣潤一らを育てた名ディレクターとして活躍後、ファンハウス社長
武藤敏史氏も東芝EMIに入社後、オフコースを育て上げ、寺尾聰の件の「Refrections」をプロデュースした名ディレクター。
いや、「ザ・リガニーズ」に限らず、この当時のカレッジフォーク、G.Sには、後にレコード会社の名ディレクターになられた方が実に多い。
カレッジフォークからは、その他に、「ザ・ランチャーズ」の渡辺有三氏(元キャニオン名ディレクター)が有名ですよね。
結局さ、そういう流れから見ても、この頃のカレッジフォークから、今のJ-POPに繋がってる部分って言うのも大きいんだよね。
ちなみに、ベースの内山氏とギターの常富氏、最初に書いた「ジ・アマリーズ」の田口氏は、後に「猫」と言うグループを結成し、「雪」「地下鉄にのって」「各駅停車」などのヒットをとばしましたよね。
ついでに、後にワイドショーのリポーターになった所太郎氏もグループに在籍。でも、本人はあまり語らなかった見たいですが。。。
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今回の1曲セレクトは、「人形の家」弘田三枝子です。
まずはデータです。
・タイトル 人形の家
・アーティスト 弘田三枝子
・作詞 なかにし礼
・作曲 川口真
・編曲 川口真
・リリース日 1969年7月1日
・発売元 コロムビア
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数 57.1万枚
・ベストテンランクイン期間:1969年9月22日〜12月8日付
ここのところ、ラジオを聴くてると、ふと古い曲がかかってきたりして、ついつい耳が行っちゃっうことが何回かあったりしてね。
昨日もFM東京のChayの番組で、はしだのりひことクライマックスの「花嫁」がかかったりして、仕事してた手が止まっちゃったり。。。
もちろん、個人的に音源は持ってるし、未だに頻繁に聴いてはいるんだけど、メディアで流れるとなんか新鮮。
やっぱ音質なのかなぁ。 例えば、今はRadikoとかAMでもFMでステレオで聴けたりするけど、AMのあのちゃっちいモノラルで聴くヒット曲っていうのは、なんか独特の「味」があるんですよね。 哀愁感というか・・・少なくともステレオの高音質で聴くのと、また、ちがった趣があるんですよ。
特に70年代以前のヒット曲は、場合によってはステレオで聴くよりも「いい」と思える曲もあるんだよね。
今回は、そんな曲を一つ。
弘田三枝子「人形の家」。
この曲も、昨日のChayの番組で流れていた「花嫁」同様、ついこの間、ニッポン放送の「オールナイトニッポンMUSIC10」で流れてたんだよね。
帰宅の時、最寄りの駅に止めてある車のエンジンをかけたら、丁度この曲が流れて来てさ・・・。
夜聴く、この曲ってなんで、こんなにも切ないんだろ? ・・・って思えてきちゃいまして。。。ホントは今回の1曲セレクトは、違う曲を予定してたんだけど、急遽変更しちゃいました。
都合がいいのかどうか分からないけど、丁度、10月の今頃がヒットのピークだったっていうのも大きかったんだけども。。。そう、今から49年前、1969年、昭和44年の今頃、まさにヒットのピークだったんだよね。
恐らく、業界でもまだ知ってるヒトの方が少なかったであろう、 創刊2年目のオリコン、1969年10月20日〜11月3日付ランキングで、3週連続の1位を獲得している。
そんな風に書くと新鮮かなぁ。 ワタシは初めこの事を知ったときには新鮮だったなぁ。そうか、自分が生まれた頃、丁度、この曲がオリコンで1位だったんだ・・なんて思ったら不思議な感覚だったりしてね。
そう、ワタシがちょうど、この世に生まれた頃のヒットなのです、この曲は。
リリースは1969年7月。 ワタシは8月生まれなんでね。
なので、当然、リアルタイムで聴いてはいない。 オリコンで1位とったころは、まだ生後2カ月とかだったりなんで・・・
だから、本当は知らない筈なんだけど・・・、でも、妙に懐かしい感覚だったなぁ、初めて聴いた時。
もちろんメロディは知らないわけだけども、雰囲気だよね、空気感。 生後2カ月といえども肌でじかに感じた空気感っていうのは、無意識のうちに脳の深層に記憶されているんでしょうかね。
50年代からのジャパニーズポップスファンの方なら当然の事だけど、弘田三枝子さんといえば、1961年11月ヘレン・シャピロの「子供じゃないの」っていうカバー曲でデビュー。 当時14歳のローティーン。ニックネームはミコ。
以後、持ち味のパンチの効いたダイナマイトボイスで、60年代ポップスを次々にカバーしてはヒットさせたカバークリーン。今でいえばトップアイドルの一人。
ただ60年代後半、東芝からコロムビアに移籍してからは人気に陰りが見え、暫くお茶の間の前から消えた後に、久々にリリースしたのが、この「人形の家」ですわね。
ベタに言えば、もろ歌謡ポップスな曲。 ただ最近、指す歌謡ポップスとはちょっと趣が異なるかなぁ。 最近の歌謡ポップスは、どちらかと言えば演歌方向に向いた「和物」の匂いが強いポップス。でも、この曲は洋楽の方向を向いてるよね。
そもそもイントロ〜Aメロにかけては、フレンチや北欧系ポップスの匂いが強いヨーロッパ系。いや、その後のサビの盛り上がり方にしても、そんなイメージだよね。
その辺りは、さすがシャンソンの訳詞家あがりの、なかにし礼氏であるし、作曲の川口真氏。それぞれの氏の特徴が出てるんじゃないかな。
でもさ、純粋なヨーロッパ系ポップスとかいえば、そうじゃない。 そもそもロッカバラードっぽい3連のヨーロッパ系、特にフレンチポップスってあんまり記憶にない。
その辺は、日本人に合った曲調に・・・。 いや、どうも、そこはムード歌謡っぽいんだよな。
サビの部分
♪ 埃に〜まみれーたー (ワワワ〜) 人形〜見たい〜 (ワワワ〜) ♪
なんて、クールファイブ調に(ワワワ〜) なんていれるとピッタリ嵌まっちゃったするしさ
そう、この曲は、ヨーロッパ系とムード歌謡の「ミクスチャー」なんですよね。
90年代後半以降、特に2000年代に入って、「ミクスチャー」ってコトバがメジャーになったりするけど、これって最近はじまった流行りではなく、50〜60年代から既にある音楽の概念なんですよ。
いや、歌謡曲っていうのはもともとがミクスチャー音楽なんだよね。 よく向こうの音楽のキャッチーな所、官能的なところをサンプリングし、凝縮した音楽が歌謡曲・・・って言われるけど、 それだけじゃ一般的な日本人受けは難しいんで、そこに少々、醤油のような日本人独特のテイスト(感性)をブレンドした音楽、これが歌謡曲、そそそ歌謡ポップスなんだよね。
この「人形の家」って曲は、そんなミクスチャー歌謡の最たる曲なんじゃないかなぁ。
ただね、この曲はそれ以上に「絶望感、倦怠感」っていう、当時の時代性も感じるんだよなぁ。
時は1969年。世界的に若者による反体制運動がぼっ発していた時代ですわ。 アメリカではベトナム反戦、フランスではパリ5月革命、日本では新左翼による70年安保改定反対の学生運動。そんな反体制的な空気が支配していた1969年って言う時代。
ただ、日本では1969年夏に、最後まで新左翼による大学占拠をしていた広島大の時計台占拠も陥落し、それまで燃えあがっていた学生運動の波にも、絶望感を感じられて来た時代の波。
そんな世の中の空気の中ヒットしていたのが、この曲と言う訳なんだよね。
この曲では、そんな時代の空気をも感じるんだよね。
そんなところが、今のヒット曲と当時のヒット曲と決定的に違うところなんだろうな。 それだけ、ヒット曲と時代との世相が密に繋がっていた時代、それが60年代だったんじゃないのかなぁ。 それは、70年代の前半ごろまでは続くわけだけど、70年代後半あたりから時代性はだんだんと薄まって行くんだよね。
・・・なんて、リアルタイムで世相を体験してきた訳じゃ無いのに、恰も見てきたように書くのも、直にこの時代を体験されてきた方には、僭越なんだけど。。
個人的には当時の世相、学生による新左翼運動には興味あったりする。 あと10年早く生まれて、もっと1969年って言う空気を直に感じたかったって思ったり。
1969年の紅白より。
司会の伊東ゆかりさんの膝上何センチ? ってぐらいのミニスカート、凄いっすねぇ。時代を感じるなぁ。
ミコさん、この時22才。 ちょっと驚いたのは22才にして、この時既に6回目の紅白だったんですね。
これには、ちょっとビックリ。 初出場は1962年の「ヴァケーション」。この時15才っていうんだから驚きだぁ。
それと、マイクの持ち方が独特だよなぁ。 これ、どう持ってるんだろ?
こんな不安定なマイクの持ち方で、この圧倒的な歌唱力。 これは凄いわ。
歌っている曲調自体は、大分変わったけど、この歌唱力は、ローティーンの頃のダイナマイトボイス健在ですね。
というか、この歌詞力、煎じられるもんなら煎じで、いまのアイドルの子たちに飲ませてやりたいですねぇ。
これが、「お金を取れるウタ」ってもんなのよね。 プロの歌い手ってもんですよ。
それにしても、大人っぽいよね。 どう見ても22才にゃ見えないっしょ。
・・・っては、昔から思ってたんだけど、最近は、ハーフのコなんかは若くして大人っぽい子も多くなってきたんで、最近はそんなに違和感は感じ無くなりましたね。
それよりも、「整形」疑惑はどうなんでしょ? というか、当時から今に至るまでゲ―ノー界と整形ってつきものだからなぁ。それを言ったら、「あゆ」なんてどうなのよ・・・って事になっちゃうし。
でも、この特に目の周りパッチリは「あゆ」もビックリですけどね。 ローティーンのころの「やぶにらみ」のミコちやんはどこに行った・・・って感じだし。。。。
あ、でも、このつけまつげは、ウチの母親もやってたなぁ70年代初めの頃まで。
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今回の1曲セレクトは「小さなスナック」パープルシャドウズです。
まずはデータです。
・タイトル 小さなスナック
・アーティスト パープルシャドウズ
・作詞 牧ミエコ
・作曲 今井久
・編曲 林一
・リリース日 1968年3月25日
・発売元 ビクター
・オリコン最高位 2位
・売上げ枚数 47.0万枚
・ベストテンランクイン期間:1968年6月24日〜9月9日付
いやー、今日は最高に暑い。 昼間の家のダイニングの室温計は35℃を指しておりましたわ。。。。
チケケチ生活のワタシは、クーラーは自分の部屋しか入れてないんで、自分の部屋以外、他の部屋は熱帯なのよ。そんな訳で、今日は1日部屋でダラダラ。。。。 外になんか全く行く気無しですわ。。。
まあ、考える事はみんな同じなのか、日中、外を歩いてるヒトもほとんど居なかったし。。。静かな日曜でしたわ。
それはそうといつまで続くんですかね〜、この暑さ。 来週末はもう9月なんですけど。。。。
「夏の終わり」の兆しが見えないですねぇ。
本当はね、そろそろ夏の終わりを想定して1曲セレクトを書きたかったんだけど、そんな雰囲気じゃねーよなー。
・・・っつうことで、曲を変更。
で、引っ張ってきた曲がこの曲。
パープルシャドウズ「小さなスナック」。
しかし、なんで、この曲が「夏の終わりの兆しが見えない」曲なんやねん ってところなんたけど・・・。
先週、ビリーバンバンの「さよならをするために」の時に、ヒットまで時間がかかった曲って言うお題で書いたんだけど、この曲もそうなんだよね。
リリースは1968年3月25日。 ・・・っちゅうことはちょうど50年前ですわ。 半世紀前になるんですねぇ。
ワタシもまだ生まれてない。。。。
だけど、ヒットのピークは、50年前の丁度今頃、8月だったんですねぇ。 リリースから約5カ月かけてのヒットと言う訳ですわ。
まあ、今のヒットチャートからすれば、ちょっと考えられないようなロングヒットなチャートアクションではあるけど、当時は、こういったヒットまで時間を要した曲なんてザラにあった訳で、この曲が特段珍しいヒットの仕方と言う訳ではないんだけどさ。
結局さ、50年前は、日本の隅々まで曲が認知されるまで、それだけ時間を要したって事でもあるんだよね。
まだ、インターネットがある訳じゃないし。。。日本全国即時に情報が広まる・・・って言う時代じゃ無かったんだよね。
ちなみに当時のテレビの普及率は、白黒テレビが96%に対し、カラーテレビは5.4%っていう数字が残ってたりする。
そんな時代なんですよね50年前は。
ところで、この「小さなスナック」は、いわいるG.Sに分類されている訳だけどさ。。うむ、パープルシャドウズ自体、ギター2本、ベース、ドラムっていう、今でいえば4ピースバンドだったわけで、立派にグループサウンズだった訳なんだけども。
ただ、立ち位置としては、他のG.Sと比較してもかなり特殊だったんだよね。
・・・というのも、G.Sではあっても、やってる音楽は、もろ「歌謡曲」だったから・・・なんだけど。
G.Sは、現在に続くロックの源流・・っていうのが、一般的な見方だろう。 そりゃそうだ、G.S⇒グループサウンズ、いわば「バンド」であり、エレキを掻きならすような音楽であった訳だから。
でも・・・ですよ。実際は、その裾野はめっちゃ広いんだよね。 その名の通り、もろ・ロック系統のグループもいれば、アイドルバンドなグループもいる。 その中でも歌謡曲系の最右翼だったのが、このパープルシャドウズだったんじゃないか。
だったんじゃないか・・・って、ワタシ、まだ生まれる前の話なんでさあ、、実際に体験した訳じゃないんで、はっきりとは言えないんだけどモノの本からすれば、そんなイメージですよね。
ちなみに、G.Sを体系的にまとめた、黒沢進著「日本の60年代ロックのすべて」によると、ロック的な観点から見ると、G.S史上、最も「駄作」だった曲がこの「小さなスナック」・・・と言われていたようだ。
70年代初頭のころが一番顕著だった事なんだけど、ロック側の人間からすると、「歌謡曲」は最もダサい音楽だった訳ですよ。 いわいる「体制側」(⇒あっち側)の音楽ってことで。 ロックの精神は自由だ・・・これこそがナウイ音楽だ・・見たいなところがあったんだよね。
たださ、歌謡曲っぽかったからこそ、売れたともいえるんだよな。
↑のデータによると、この曲の売り上げ枚数は47万枚となっている。 この売り上げ枚数って、1968年当時のG.S全体の売り上げ枚数でも、トップクラスなんだよね。 この曲を上回っているのはタイガースくらいなんですよ。
さしもの、テンプターズの「エメラルドの伝説」でさえ、これより下回っていた訳で。
1968年っていうのは、G.Sブームが最高潮の年だった訳なんだけども、とは言っても、やっぱり歌謡曲の時代なんだよね一般的な傾向は。
そもそも個人的に言っても、G.Sと言われる曲で一番最初に覚えたのは、この曲だったと思う。
いや、まだG.Sとかなんとか、そう言うしがらみが全然分かんなかった頃。 恐らくまだ物心がつくかつかないかの頃から知ってましたねぇ。
どこで覚えたのか、最初はどこで聴いたのかは全然覚えてないけど、いつの間にか知ってたもんなぁ。
「スナック」っていうタイトルが如何にも昭和40年代を彷彿させるんだよね。
いつかも書いたんだけど、当時(昭和40年代)、ワタシの幼馴染で家族ぐるみで付き合ってたオヤジさんが、(常磐線)湯本駅前で「スナック」をやってて、夜な夜な、ウチのオヤジ、オフクロがここに入り浸ってたんだよね。
とうぜん、ワタシもよく連れてかれてた。 で有線から流れていたのが、当時の歌謡曲でさあ。 恐らくこの曲もそこで初めて聴いたんだと思う。
兎も角、この曲のタイトルもそうだけど、曲自体を聴くと、あの「スナック」の匂いが鼻腔に漂ってくるんだよな。
お酒とコーヒーが入り混じったような独特の匂い。ジントニックを始め、いろいろな種類のお酒の瓶。 緑色のソーダー水と浮かんでる真っ赤なチェリー。
ワタシの物心つくかつかないかの頃の「昭和の原風景」がこれなんだよな。
いまリアル仕事で働いているのが神田神保町。 今はだいぶ少なくなっちゃったけど、ごく僅かに、こんな昭和40年代の原風景そのままの一角があるんだよね。
それこそ、この曲のタイトルちゃないけど、小さなスナックが数件並んでいる一角。 昭和40年代にタイムスリップしたようでね、個人的にこの一角が大好きなんだよな。
そこを通るたびにどこからとなく浮かんでくるのが、この「小さなスナック」だったりもするんですよね。
リードギターで、この曲の作曲者の今井氏は、もともとハワイアン・バンド出身なんで、
この曲のイントロのギターソロは、如何にもハワイアンっぽいですよね。
G.Sっていうと、イコール、ガレージロックって言う印象が強い。
この曲も、まあ、サウンド的にはガレージ的なんだけど、そんなガレージなサウンドとハワイアン的なギターソロのマッチングが結構新鮮だったりするんだよね。
この曲に引っかかるのは、その辺なのかもしれないな。
・・・というか、後年、G.S的な・・・っていうとこのイメージだったりするんだよね。
80年代中盤、ネオG.Sブームってことで一時ワタシもこの手の音に嵌まった事があったし、その頃、堀ちえみのシングルで「夏咲き娘」って、もろガレージな曲があったんだけども、結局はこんな感じだったもんね
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今回の1曲セレクトは、「天使の誘惑」黛ジュンです。
まずはデータです。
・タイトル 天使の誘惑
・アーティスト 黛ジュン
・作詞 なかにし礼
・作曲 鈴木邦彦
・編曲 鈴木邦彦
・リリース日 1968年5月1日
・発売元 東芝音工
・オリコン最高位 3位
・売上げ枚数 46.8万枚
・ベストテンランクイン期間:1968年5月27日〜8月12日付
えー、只今部屋の室温計は32.0℃を指しておりまする。。。うヴぇ〜暑ちぃよー。 これでまだ梅雨明け前だって言うんだから。。。。梅雨が明けたらどうなってしまうんでしょ・・・。って連休を過ごして居たりして。。。。
今年は「老体」にムチうって 2年ぶりに「ROCK IN JAPAN」と、超地元の「氣志團万博」 2つの夏フェスに参戦する予定なんで、今から「暑さ」に慣れておきたい・・・と、出来るだけクーラーを使わないで2日過ごしてたんだけどね。。。
ちなみに、件の痛風の痛みは今日になって、大分引けまして・・・おかげ様で通常の生活に戻れましたわ。
あとは、ぶり返さないように留意しないと・・・。高い金を払った夏フェス参戦が・・・・。。。
で、流石にこの暑さの中では「1曲セレクト」書けないよ〜・・・とクーラーを入れて書いてまする。
さて、今回の1曲セレクトは、どうするベか・・・。 ここんところヒット当時、「好きぢゃなかった」80年代アイドルの曲が続いたからなぁ。。。
今回は時代を一気に飛び越えて「60年代アイドル」の「夏」の曲と行きますか。。。
黛ジュン「天使の誘惑」なぞどうだ!
なんか勢い誤って「60年代アイドル」なぞと表現してしまいましたが・・・。 うむ、60年代には、まだ「アイドル」などと言う表現のコトバは、少なくとも「音楽界」では使われていなかった訳で・・・。
いや、idol⇒偶像という単語は昔からある訳で、厳密に言えば使わけていたかもしれないけど、現在の音楽ジャンルとしての「アイドル」と言うカテゴリーは、まだ無かったって事なんですけどね、60年代には。
でも60年代にも10代の「歌手」は居た訳でね、弘田三枝子さんにしろ、伊東ゆかりさんにしろ、そうそう忘れてはいけない、吉永小百合さんにしろ・・・みんな最初は、今でいえばアイドルだったわけじゃん。
まあ、今のように「アイドル」と言うカテゴリーが当時あったならの話なんだけど・・・。
で、黛ジュンさんは今回セレクトしてきた「天使の誘惑」の前年1967年にデビュー・・・。
・・・・なんて書くとクレームが来るよな、きっと。。。 そそそ、実は16才だった64年に一度本名の「渡辺順子」でデビューしてるんだよな。でも、その時は全く売れず・・・、19年になった前年67年に再デビュー・・・という経歴を持ったアーティストなんだよね。
ちなみに、亡くなった作曲家の三木たかし氏は実兄・・・ってことは有名? うむ、でもそうなんだよね。
どーでもいいことだけど、この曲、作詞がなかにし礼氏で、作曲が鈴木邦彦氏だけど、ワタシが通ってた千葉の某私立S高校の校歌も、作詞、なかにし礼氏、作曲 鈴木邦彦氏・・・ そそそこの曲の組み合わせと全く同じなんだよなぁ。。だれがいつ依頼したのか分かんないけどさあ。
だからという訳じゃないけど、この曲を聴くと、どうも高校の校歌を思いだしちゃったりして・・・因果なもんだわぁ・・・。
あ、曲想は全く違うけど。。。。
で、この「天使の誘惑」は、この年1968年のレコード大賞、大賞受賞曲。
・・・ということはデビュー2年目、若干20歳の時に、既にレコード大賞を受賞してるんですねぇ。
そう、60年代も終盤に差し掛かった当時は押しも押されぬ「トップアイドル」だったわけですわ。
当時、ライバルとされていた「アイドル」には、伊東ゆかりさん、弘田三枝子さん、いしだあゆみさん、奥村チヨさん・・・等々のトップアイドルがひしめいていた中でも、特にレコード売り上げに於いてはトップクラスだったんだよね。・・というか安定していたと言うかね。
やっぱ曲調なのかなぁ。特に今回セレクトしてきた「天使の誘惑」って曲。今聴いても「ポップ」でしたからねぇ。
当時の曲といえば、どこかジャズの影を引きずっていたり、歌謡曲のを引きずっていたり・・・って兎角「夜に向かった」と言う匂い・・・つまりはティーンエイジャーが歌っても「大人」向けの曲が圧倒的に多い中、この曲は、あくまで「昼間の」・・・って言うイメージなんでね。そこに安心感があるって言うのかなぁ。
アイドルと言うジャンルが確立された70年代以降、アイドルソングといえば、夜の匂いから、遅くとも「門限」は夕方までと言われるように「昼」に向かった曲が基本、つまりさ「健全さ」がアイドルソングの基本・・・ということであれば、この曲なんてのは、その「元」と言ってもいいんじゃないかな。
まあ、その辺が、その後、70年代、80年代、90年代、それ以後も、この曲が多くの「アイドル」たちによってカバーされているところなんだろうね。
ちなみに個人的には、やっぱ、牧瀬理穂がCMで歌ってた、あのバージョンかなぁ
↓ コレ (後半の30秒のバージョンのやつ)
そそそ、タケダの「HI-C」のCMね。 最後に自らスカート、 ばひょーんとめくるやつ。
とは言うものの、これより前にオリジナルの黛ジュンさんバージョンの方を知ってたんだけどね。
これ、1968年当時の画像ですよね?
それにしては、画質も音もめちゃくちゃ良いんですけど。。。 とても49年前・・・約半世紀前の画像とは思えないわぁ。
もちろん当時はステレオ放送もしてるはずが無く・・・。でも、ちゃんとハイファイになってるじゃないですか。。。
どうもBS-TBSで放送されたやつのようだけど・・・。
・・・・とおもったら、リンク弾かれちゃってる。 申し訳ないですが、みたい方はYou Tubeのサイトに飛んでくだされ。。。。
ちょっと調べてみたら、当時TBSは、他の局のように2インチのビデオテープを使って無かったんで、かさばらずに済み、その後も当時のビデオテープを上書きせずに保管出来たようですね。
でもって、最近TBSは、当時の画像のデジタルリマスターを行っていますから。。。
ベストテンもデジタルリマスターを行っているらしいですね。
なんで、こんなに画像も音もきれいに残っているようなんですよね。
しかしさあ、20歳にしては大人っぽいよね。10才位サバよんでんじゃね? なんて言われてもおかしくないような・・・。
でも、当時はみんな大人っぽかったんだよな、今から比べると・・・。いや、逆に言えば今がコドモっぽくなっちったんじゃないのかねぇ。
まあ、実際曲を限り、ジャケットにもクレジットがあるように、「ハワイアン・ロック」ですねぇ、この曲。
バックのバンドにスチールギターの人もいたりして。
ってか、ハワイアン・ロックってなんじゃらほい? ・・・って感じなんだけどワタシら世代からすると・・・。
根がハワイアンだけど、リズム体はロックってことでしょうか。 ま、ロックというよりも完全なポップスなんですけどね。今からすると。
当時としては、「エレキ」を使われるとロックってというイメージだったんだろうなぁ。
でもさ、パーカッションを多用しているところから、ハワイアンというよりはラテンだよね・・・なんても思ったりしてね、個人的には。
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今回の1曲セレクトは、「長崎は今日も雨だった」内山田洋とクールファイブです。
まずはデータです。
・タイトル 長崎は今日も雨だった
・アーティスト 内山田洋とクールファイブ
・作詞 永田貴子
・作曲 彩木雅夫
・編曲 森岡賢一郎
・リリース日 1969年2月1日
・発売元 ビクター
・オリコン最高位 2位
・売上げ枚数 72.8万枚
・ベストテンランクイン期間:1969年5月19日〜5月26日 6月9日〜9月8日付
なんか久々の1曲セレクトだなぁ・・・と思うのもその通りで、ゴールデンウィーク「初日」に書いて以来なんだよな。
本当は、先週の土日も書こうと思ってたんだけども、どうも疲れちゃってねぇ。。。このゴールデンウイークは年がいもなく、連日、長距離ドライブなんてしちゃったもんで。。。
おかげで今週1週間は仕事にも全く身が入らず。。。。 正直言って未だに疲れが残ってるんだけど、さっすがにねぇ、そろそろ1曲書かなきゃな。。。
・・・・と思いーの、これ書こう・・・って昨日から決めてた曲のヒット時期をさっき調べ直したら、今の時期はまだヒット前・・・というかリリース前だった。。。
うーむ、こういう時困るんだよな。。。
・・・と思いーの、、、数分。
外は雨ですよ。 うん、関東地方・・・っちゅうかワタシの自宅周辺では、結構なザンザンぶり。 さっきテレビで広島vs巨人戦みてたら、広島はいい天気のようでしたけどねぇ。。
これは、雨の曲でも書きますか。。。
・・・と思ったらいい曲がありましたわ。
内山田洋とクールファイブ「長崎は今日も雨だった」
ざざん 思いっきりのムード歌謡ですっ
いやいやっ、アイドルポップス、ロック・ニューミュージックだけじゃないですよん、「1曲セレクト」は。
こういう、モロ歌謡曲も書きますよん。
っつうか、以前、mixiに書いてた頃は書かなかったんだけどね
ワタシ周辺で、この手の曲に興味がある人が少なかったんで。
でも、今は「ワタシ周辺」と言う垣根をはずして書いてるんでね、この手の曲も個人的に書ける曲は書きたいのね。
まあ、どれだけ読んでいただけるかは分かんないけど。。。
この曲は、今も(一応)「現役」のクールファイブのレコードデビュー曲ですわ。
レコードデビューってことは、結成、活動開始はもっと古く、wikipediaによると67年に長崎のキャバレー「銀馬車」の専属バンドとして結成とありますね。
なんかさあ、キャバレーっていうと、めちゃくちゃ時代を感じる響きだけど、まあ、今でいえば「クラブ」だよね。
クラブで演奏するために結成するバンドなんて今でもいるし、それの先駆けと思ってもらっていいんじゃないかな。
リリースは2月だけども、それから3ヵ月過ぎた、丁度今頃ベストテン入り・・・ってわけだから、ヒットまでに結構時間がかかったよな・・・なんていう印象が強いんだけどさ、今の感覚で言えば。。。
ただ、リリースから、いわいるベストテン入りまで数カ月かかるのは、当時は「ザラ」だったわけでさ。 ましてや、それまでヒット実績もない新人の「デビュー」曲だからさ、この程度は当たり前だった訳ですわ。
それ以前に、デビュー曲にしてベストテン入りするっていうのが快挙な訳でさ。
まあ、それだけ当時は、「ムード歌謡」っていうのが、ヒット曲界では全盛期であり需要があったんだろうね。
「〜だろうね」っちゅうのは、完全に個人的には分からない世界なんでさ。 なんせ、この曲がベストテン入りしている最中の「69年8月」に生まれたもんでさ、ワタシゃ
観月ありさの「伝説の少女」の歌詞じゃないけど、♪ママの時代の〜♪ って曲なわけなんだよね、ワタシにとっちゃ。
でも、最初に書いたように「キャバレー」とか「ムード歌謡」っていう、如何にも昭和な「響き」は、ワタシにとっても音楽の原点の一つって感じなのは確かなんだよな。
この曲のイントロにも挟まっている、むせび泣くテナーサックスの響きとかさあ、あれが聴こえてくると「昔昔」の記憶が甦って来るのよ。
いつかも書いたかもしれないけど、オヤジ、オフクロの共通の友人が、当時スナックをやっててさ、まだワタシが物心着くかつかないかの頃、そこのスナックにしょっちゅう出入りしてたからさ。
この手の、むせび泣くテナーサックスを聴くと、当時、そのスナックの「有線」から流れてたムード歌謡と、コーヒーでいぶされたようなスナックの匂い、そして、隅っこで飲んでたソーダ水の「緑色」が鮮やかによみがえってたりしてね。
個人的に、そんな空間がキライじゃなかった・・・と思う。 だってさ、この手のムード曲を聴いて、いやな感情はしないし、第一、後年この世界・・・ヒット曲の世界・・・にのめりこんで行けたのは、そん時の記憶・・というか下地があったからだと思うしね。
たださ、この曲・・・というか、クールファイブはちょっと違うな・・・なんて子供の頃は思ってたなぁ。
正当なムード歌謡というよりは、ちょっと演歌よりに感じたんだよね。
まあ、後年の「東京砂漠」なんかは、完全に歌謡曲だけど。 うーん、なんだろうね、この曲の「ソリッド」さなのかなぁ。それとも、演歌特有の「4、7抜き」のメロディラインのせいなのか・・ちょっと違うな・・・なんて子供心に思ったのもかもしれない。 ま、メロディラインに古さがあったってもあるけどね。 件の「ママの時代の〜」ぢゃないけど、これは、完全にワタシが生まれる以前のメロディだよなぁ・・・っちゅうのが生理的に分かってたような気がするんだよね。
個人的にクールファイブの曲をきちんと注目したのは、以前書いた「そして神戸」だったんだよね。
たってさ、あれはファンキーな曲だもん。ソウルでありファンクですよ、日本の。
その上さ、サザンの桑田氏の音楽のルーツのひとつが「クールファイブ」だった・・・なんてカミングアウトを読んじゃうとさ、なんか急に親近感がわいてきたりしてさ。。。 現金なもんですよ。
しかも、曲にしてもムード歌謡にとどまらず、ジャパニーズ・ブルース、これぞ日本の「ブラックミュージック」みたいなさ、そんな感じを受けちゃったりね
でもさ、逆に言えば、後年、本場の向こうのブルースとかR&B、ゴスペルなんかのブラックミュージックを聴いて、なんか懐かしい気分になれて、すんなり受けいけられたのは、物心つくかつかないかの頃、この手の曲を聴いた記憶が、自分の奥底にあったからなんだろうな。
そう言う思いが、もしかしたらワタシよりちょっと年上のミュージシャン連中の多くにもあるのか、クールファイブの曲をカバーしてるヒトって意外と多いんだよね。それは、YOU TUBE見ても分かるんだけどさ。
その中でも一番ドギモ抜かれるのは、自らファンだったって公言してるサザンの桑田氏が歌ってるバージョンだろうねぇ
↓ コレ
これ86年のクリスマスに放送された「Merry X'mas Show」に放送された奴だけどさ。
ファンクというかビーチボーイズ風にアレンジされた「長崎は今日も雨だった」。 桑田氏がマジに前川清風に歌っているのが笑える
でも、それを抜いても、今に繋がるサザンの一部に受け継がれているよな、このメロディライン。
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かじやん