かじやんのヒット曲&チャートレビュー

ヒット曲を聴き続けて40数年! かじやんがお送りする、「今」のヒット曲&ヒットチャートから、「あのころ」のヒット曲&ヒットチャートまで、ヒット曲について幅広くご紹介するブログ。 自主チャートサイト"THE HITCHART NOW AND THEN"の支店ページという位置づけにいたします。

あの頃のヒット1曲セレクト!

KID / 田原俊彦

1987_02_KID_田原俊彦


今回の1曲セレクトは、「KID」田原俊彦です。

まずはデータでする。

・タイトル    KID
・アーティスト  田原俊彦
・作詞      阿久悠
・作曲      井上ヨシマサ
・編曲      清水信之
・リリース日   1987年1月21日
・発売元     キャニオン
・オリコン最高位 3位
・売上げ枚数   6.5万枚
・THEHITCHART HOT30最高位 7位
・ベストテンランクイン期間:1987年2月2日〜2月16日付

昨夜、NHKBSプレミアムで放送された「田原俊彦“還暦前夜!”スぺシャルワンマンライブ」、なかなか良かった。
90分にわたって、久しぶりにデビュー曲「哀愁でいと」からの数々のヒット曲を聴けたし。 なにより、今日2月28日で、トシも60才になったんですねぇ。
デビュー当時から「赤」が似合っていたトシではあるけど、まさか、「赤いちゃんちゃんこ」を着る年齢になってしまうとは・・・。
デビュー当時のトシから思うと、全く想像がつかなかったよなぁ。
BUT、昨日のライブでは、そんな年齢−還暦−には、全く思えないような「踊り」を披露。
「哀愁でいと」のサビ前の♪I SAY〜!♪の足上げポーズや、「原宿キッス」の、♪一度お願いしたい〜♪の開脚もみごとでしたね。
ま、確かに本人自ら指摘していたように、ターンのスピードとか、踊りの「切れ」は、20代のピーク時に比べると少し落ちていたように思えたけど。。。でも60才でここまで踊れるのは、素直にスゴイと思いましたわ。

・・・ということで、トシちゃん還暦〜60才〜を記念して、今回の1曲セレクトはトシちゃんの曲を持ってきたい。。。

・・・と意気込んだものの、さっすがに、トシの曲・・・特に今頃の時期にヒットしていた曲は、すでに大体、書いちゃったんだよな・・・・

・・・と言い訳しようかと思っていたら、1曲ありましたわ、まだ書いてない曲が。。。

「KID」 

1987年1月にリリースされ、今の時期にかけてヒットしていたこの曲、覚えてられる方、どのくらいいらっしゃるでしょうねぇ。

ま、当時、トシちゃんファンであった方には、常識的な曲ではあると思いますが、トシちゃんファン
以外の方は、すでに死角に入られている方も多いかもなぁ。

前年から4作続けて、阿久悠氏作詞、プロデュースのもと、アイドルから脱皮、大人のアーティストへのアプローチを試みたプロジェクトの最後の曲、それがこの曲になるわけですね。

デビュー7年目を迎え、アイドルから大人のアーティストへの脱皮と言うこの試みは、今となっては理解できるけど、当時は、今一つピンとこなかったな。

理解しようと思う前に、ヒット規模が以前にもまして縮小していたし、なにより、86年当時のおニャン子旋風の前に、今一つ時代との折り合いがついていないようにも映っていたんだよね。

もしかすると、このままトシちゃんはフェイドアウトしていくのかもしれない。。。なんて感じてたなぁ。

そんな中でのこの「KID」のリリース。

通常だったら、このまま引っかからなかった今間通り過ぎていたのかもしれないけど、どういうわけか、この曲にはひっかかった。

なんでなんだろう?・・・ってところなんだけど、 やっぱりジャニーズでの盟友、まっち先生と久々にヒット時期が重なったっていうのも大きかったんだろうね。

そそそ、まっち先生の「愚か者」のリリースが1987年1月1日。しかも、まっち先生にとっても久々の大ヒットだったからさ。これは、トシも一つ、久々に大ヒットで、まっち先生とのヒットチャート上の共演を・・と言う気分になった様に思いますね。

まあ、それ以前に、この曲の音の分厚さ、音圧のすごさ、ただ疾走感あふれる曲調だけに、重すぎない独特な重量感についつい耳が行っちゃったんだよな。

トシの曲って、ここまで音が厚くて音圧が凄い曲、それまでのシングルではあんまり感じたことなかったからさあ。 
イントロ最初のファンクベースに続いて、ブラス隊の分厚い音の運び。 これにやらちゃったところもあるな。
ま、当時、個人的にもブラスをやっていたこともあってブラスには耳が行っちゃってたところはあるけど、ここまでの分厚いブラスは、少なくともアイドルソングではあんまりないしね。

あ、ダークなラテン風なイントロの流れにも引っかかったと思う。
作曲の井上ヨシマサ氏による、ダークで小悪魔的、かつ音圧の高いイントロ、サウンドというと、個人的には、どうしても、91年のミポリンの「Rose」を思い浮かべてしまうんだけども、そこに至るまでの最初の曲と位置付けてもいいんじゃないのかなぁ・・なんても思ったり。


確かに82年の「原宿キッス」のイントロでの分厚いファンクベースなど局所的には音圧を感じた曲がそれまでもあったことはあった。

けど、ここまで曲全般にわたって音が厚い曲って、それまで無かった・・に少なくとも当時の時点では感じたんだよね。


兎も角、この頃になると、おニャン子のお気楽な曲調に個人的には辟易していて、もっと刺激のある曲を聴きたい・・そういう気分になっていたんだよね。
そこに持ってきて、この曲のような刺激のある分厚い曲が来たわけでさ。 引っかかったのも当然だったかもしれないな。





ちなみに、この曲って、作曲者 井上ヨシマサ氏による、曲、アレンジ同じ、歌詞違いの別曲が存在するんだよね。

↓ コレ 「赤と金のツイスト」



リリースは、この「赤と金のツイスト」の方が1か月後だけど、楽曲作成はこちらの方が早かったため、「赤と金のツイスト」の方がオリジナルだそうですわ

なんてかいてるワタシも、今回、初めてこの曲の存在を知ったんだけども。。。。

ちなみに、著作権上は「赤と金のツイスト」と「KID」は別曲扱いIになってる
(「赤と金の〜」作詞者の川村真澄女史、「KID」作詞者の阿久悠氏いずれもJASRAC会員なんで著作権使用料分配のために別曲扱いになっているんじゃないかな)けど、楽曲管理はいずれもジャニーズ事務所になってたりして。。。ちょっと変わったパターンの曲ですな。

それにしても、井上ヨシマサ氏も長いですね。 未だにAKBグループなどに曲を書かれているし。。。



ところでさ、1986年あれだけ全盛を誇っていた、おニャン子関係も、年が明けて1987年になると、やや求心力が落ちて来てたんだよね。

まあ、今考えると、時代の流れなんだけどさ。
そんなタイミングで、今回のトシちゃんの「KID」をはじめ、まっち先生の「愚か者」とか、明菜さんの「TANGO NOIR」、キョンキョンの「水のルージュ」とか、マイナー系ではあるけど音圧が高い、おニャン子とは毛色が違う、対極的な曲が相次いでリリースされて来てたじゃん。 

今考えると、おニャン子の他の陣営も仕掛けて来ていたんだな・・というのがよくわかるんだけども、当時は、そこまでは見えてなかったんだよね。

まあ確かに1987年っていう年はレコード売り上げは底だったんだけど、これはあくまでシングルCD化が遅れた代償であってさ、今になってみると、次のステップへの「種」は確実に蒔かれていたんだな・・っていうのが分かりますね。

そういう意味もこめて、1987年の曲については、今一度見直してみようかなぁ・・なんて思っているんですよね、個人的には。


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ぶりっ子Rock'n Roll /紅麗威甦

1982_02_ぶりっ子ロックンロール_紅麗威甦


今回の1曲セレクトは、「ぶりっ子Rock'n Roll」紅麗威甦です。

まずはデータでするぅ〜。

・タイトル   ぶりっ子Rock'n Roll
・アーティスト    紅麗威甦
・作詞     翔
・作曲     翔
・編曲     T.C.R.横浜銀蠅.R.S      若草恵
・リリース日  1982年1月20日
・発売元    コロムビア
・オリコン最高位 6位
・売上げ枚数  16.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 9位
・ベストテンランクイン期間:1982年2月22日〜3月1日付

Adoの「うっせぇわ」。ワタシのランクでも1位を取っちゃったりして、ヒット曲と言う意味ではホントにホンモノになっちゃったなあ。
この曲は、表向きの顔と、ウラの顔と二面性について歌われているわけじゃん。 よく言えば「ホンネ」と「タテマエ」というかさ。
まあ、だれでも持ち合わせてるといえば、そうなんだろうね。だから、これだけ広く共感を持たれて刺さった方が多いんだろうなぁ。

でもさ、今からしてみれば80年代に見られた「ぶりっ子」っていうのも、もしかすると、そんなホンネとタテマエとしての表現の一つだったんだろうね・・・とトートツに書いちゃったりして。。。

・・・なんて今回引っ張ってきた曲の「前フリ」だったりして。。。

はい、今回引っ張ってきた曲は、紅麗威甦「ぶりっ子Rock'n Roll」。

紅麗威甦としてのデビュー曲ですね。

その前に紅麗威甦  だれじゃい、一体・・・。

なんて方は、ここ読みに来てる方には、・・・居ないですかね〜。

1980年代前半 時代を味方に一世を風靡した「横浜銀蝿」の弟分としてデビューした「バンド」ですね。
今や、性格俳優としてNHKの大河ドラマにまで出演してしまうような大物になった、杉本哲太氏がボーカル、ギターだったあのバンドですわね。

横浜銀蝿の弟分ということで、当たり前のように「ツッパリリーゼント」に黒の革ジャンという、いでたち。しかも全員、当時高校生・・・だったのかな? 杉本氏の最終学歴は中退になっているけど、この当時は・・・。

同じく横浜銀蝿の弟分として、このすぐ後に、嶋大輔氏がソロデビューをすることになるわけだけど、同期のような存在でしたよね。

あの頃、リーゼントに、ドカンに、短ラン、長ランの、トッポそうな、見た目にツッパリの方ですよね・・・と分かるお兄さん、お姉さん、いっぱいいたよなぁ。

いや、正確には、この曲がリリースされた頃は、個人的には、まだ福島にいたんで、身近にはこのような「いでたち」の方たちは居なかった。 なんせ、中学生は男子は強制的に全員「坊主」だったんで、リーゼントなんて考えられなかったから。。

でもさ、すぐ後に千葉に引っ越して来たら、強制「坊主」ではなかったんで、居ましたねぇ、うちらの中学校にもツッパリファッションの方々が。。
特に、うちらの中学校と、俳優・石丸幹二氏が卒業した隣の中学校は、共にマンモス校で荒れてましたからねぇ。 まるで金八先生第2シリーズの「荒屋二中」みたいな感じで、しょっちゅうガラスが割られたり、トイレの個室に仕切りが無かったり、警察が介入してきたり・・・という感じで。。。

いずれにしても、そういう中学校だったんで、見た目この「紅麗威甦」のようなチリチリリーゼントのお兄さんや、長ーいスカートひきずったお姉さんがいっぱいいたわけよ。

ワタシゃ、平和だった福島からそういう環境にいきなり放り込まれたんで、ある意味カルチャーショックだったよなぁ。。。


あー、話がすれてきた。

そんな「紅麗威甦」のメンバーのなかでも、個人的には杉本哲太氏って怖かったんだよなぁ。
このヒト、当時は目が笑ってなかったからさ。
例えば嶋大輔氏なんかは、確かに喧嘩させたら強そうだよなぁとは感じたけど、意外と優しい目をしてたりするんだよ。

ツッパリのファンシイ化。 「歌謡界 一発屋伝説」で著者の宝泉薫氏は、当時のツッパリのフッション化をそう例えているけど、嶋大輔氏なんかは、まさにそんな感じだったんだよね。

でもさ、杉本哲太氏はちょっと違ったような印象があったんだよなぁ。このヒト、怒らせたらマジでヤバイ様な雰囲気があったのよ。
下手するとマッポ(警察)の「お世話」になってもおかしくなかったような。。。

だから、40年後の今、「相棒」シリーズで警察官僚役をやってる杉本氏を見てると、隔世を感じるよなぁ。

でもまあ、中学校の時ことを振り返ると、そんなツッパリファッションのお兄さん、お姉さんたちって、実際接してみると、見た目に反していいやつが多かったんだよ。
まあ、ワタシの周りでは偶然にもそうだったのかもしれないけど、でも、当時、めっちゃ強面でヤンチャしてた方で、今やいいオッちゃんやオバチャンになってる人って、結構多いじゃん。

それを考えると、杉本哲太氏も、同じなのかもなぁ。。。 若気の至りってやつでさ。



だけんどさあ、この曲にしたって若気の至り感、満載だよなぁ。
なんすか ♪ブリブリ ブリッ子ROCK'N ROLL〜 ♪っていう出だしは・・・
今となっては、ほとんどギャグでしかないような曲だったりもするんだけども。。。 

いやいや、個人的には当時からして、ほとんどギャグにしか思えなかったんだけども。。。

・・というか、少し前の銀蠅の「ツッパリHigh School Rock'n Roll(試験編)からして、ギャグだったりしたからなぁ。 この曲はその延長のように感じたし。

それ以上に「歌謡曲」だよね、この曲は。たしかに表面的な形式はロックンロールではあるけども。

若草恵氏という歌謡ポップスの王道のアレンジャーが絡んできていたわけで、そうなるのも必然なんだろうけどね。

若草恵と銀蠅というと、前年、西城秀樹氏に贈った「セクシーガール」のアレンジが若草氏だった関係もあり、そこからの流れなんだろうけど、なぜこの曲で若草氏だったのかと言うのは、ちょっと理解が難しいんだよな。

銀蠅ってストレートな3コードのロックンロールがバイクでぶっ飛ばしているような疾走感があってサイコーっていうところから、族の連中を中心に、ツッパリの方々とかに受けて出てきた人たちじゃん。

それから見ると81年の「羯徒毘薫'狼琉」なんてのは、サイコーな1曲だと思うんだけどさ。

でも、そういうストレートな3コードのロックンロール一本やりでは、この後きつくなるのはわかり切っていたわけでさ。
それとツッパリお兄さん、お姉さんたちだけではなく、一般のお客さんを取り込むには、ある程度の歌謡曲化もやむなしと考えていたのかもしれないけど。。。。

ただ、杉本氏なんて、当時はこの曲どう思って歌ってんだろ?  ・・・・なんて、思えてしょうがないんだよな。
「やってらんねぇよ」とは思わなかったのかねぇ・・とかさ。 まあ、それ以上に銀蠅の嵐さんや、事務所社長の大坂氏がおっかない存在だったんだろうけどね。

それにしても、それまで、ツッパリって硬派だと思ってたところがあるのよ、個人的には。
族って組織的なタテ社会なところから硬派っていうイメージが強かったし。でも、「ツッパリHigh School Rock'n Roll(試験編)」につづく、この曲をみると、どうしてもナンパなイメージしか出て来なかったんだよな。
まあ、この曲あたりの時点では、まだ銀蠅一家のツッパリイメージに嘘臭さまでは感じてなかったけどさ。
でも、この年1982年の年末ごろになってくると、だんだん嘘臭さを感じたりしてね。 それとともに銀蠅一家の人気も急激に衰えていくんだけど。。。


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Good-bye My Loneliness / ZARD

1991_02_Good-bye-My Loneliness_ZARD



今回の1曲セレクトは、「Good-bye My Loneliness」ZARDです。

まずはデータです。

・タイトル   Good-bye My Loneliness
・アーティスト ZARD
・作詞     坂井泉水
・作曲     織田哲郎
・編曲     明石昌夫
・リリース日  1991年2月10日
・発売元    ポリドール
・オリコン最高位 9位
・売上げ枚数  21.0万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 11位
・タイアップ:フジテレビ系ドラマ「結婚の理想と現実」主題歌
       クラリオンレーザーカラオケCM曲

先ほどラジオを聴いてたら「今日はZARDデビュー30周年」なんて出て来て、思わず不意を打たれた。
1991年2月10日デビュー
そうだぁ、そうだったぁ。そんなことは全く意識の外だったぁ。 

たしかにね、1981年から40年、2001年から20年ということは意識してたんだよね。 この「1曲セレクト」のネタになりそうな予感がしてたんで。。。

でも、1991年から30年というのは、ほとんど意識の外だった。

いや、実は1991年の今の時期にヒットしてた別の曲を2曲ほど頭の隅にはおいていたんだけども、この曲は、全く意識の外だった。 いやいや不覚だったなぁ。。


なんて、今は亡き坂井泉水さんへのお詫びのしるし・・・・ということで、今回の1曲セレクトは、このZARDのデビュー曲を持ってきましょうか。


Good-bye My Loneliness

1991年の今頃だったか、もう少し後だったか、この曲はよく耳にしてたんですよ。

いや、CDを聴いてたわけじゃない。 テレビのCMでよく耳にしてたんだよね。

↑のタイアップには、第1にフジテレビのドラマ「結婚の理想と現実」主題歌と書いたんだけども、個人的にはこのドラマは見てなかった・・・ような気がする。

それよりもクラリオンのCMでこの曲、よく耳にしてたんですよ。

あの当時、まあ、よく流れてましたよね、CM。

実際に比較したわけではないけど、夜中のカメリアダイヤモンドと、このクラリオンのカラオケのCMは双璧・・・って思えるほどよく聴いた記憶があるなぁ。

でさ、あの頃は、まだZARDって何者なのかよくわかってなかったんですよ。 そもそもテレビには出なかったし。

私ねぇ、クラリオンのCMで、マイクもってこの曲を歌ってた(? 口パクだったよな・・・)、大河内志保さんをZARDだとばっかり思ってたの

そう思ってたの、ワタシくらいか・・と思ってたんだけども、ネット調べてみると同じように思ってた方、他にも結構いらっしゃるようですね 

ただね、曲としては妙に引っかかったな。

・・というか、どうも、この頃の「ガールズポップ」な曲って、一時的に区別がつかなくなってきてたんだよね。

個人的にはこの曲と、同時期にスマッシュヒットしてた平松愛理さんの「素敵なルネッサンス」とかね。

いや、たしかに全然違うんですよ曲調は。 違うんだけど、なぜかごっちゃになってたんだよな。

うーん、イメージなのかなぁ。  

このころは今ほど、音源聴き込んでなかったですからねぇ。 

そうそう、この頃音源手に入れるの苦労してたんだ。 
このころ、近くのレンタルビデオ兼CD屋からCDを借りてカセットに落としてたんだけども、シングルCDの入荷が悪くてさあ。めぼしいシングルは、いつも貸し出し中になってたんですよ。だから気になる曲をなかなか借りることが出来なくてさ。。。

そんなこともあって、この当時の曲っていまだに、あんまり聴き込んでないんだよね、実をいうと。

さすがに、今はこの「Good-bye My Loneliness」と平松愛理さんの「素敵なルネッサンス」の区別は付きますけど。。。

でも、「Good-bye My Loneliness」や「素敵なルネッサンス」もそうだったけど、丁度この頃はガールズポップが元気になり始めてた頃ですねぇ。

他にも永井真理子さん、辛島美登里さんなどが元気でしたしね。 
革新的に新しい音楽ではなかったんだけども、明らかに80年代とは違う香りがするポップスという印象を受けましたね。

個人的には、あ、時代が動いてきたな、90年代に入ったんだな・・という感覚はあったな。

もっとも、1991年といえば、ちょうど今頃は、「東京ラブストーリー」主題歌の小田和正氏「ラブ・ストーリーは突然に」が超バカ売れしてたし、 夏には「101回目のプロポーズ」主題歌のチャゲアス「SAY YES」と、フジの月9主題歌の超ド級ヒットに湧いた年だった。 そんなブームの陰に隠れてしまっている感があるけど、ガールズポップと言うムーブメントも確実に流れ出していた年でもあるんだよね。

ただそういうムーブメントが流れ出していたものの、まだ確実に「実」をつけていたわけではないんだけどね。

たしかにこの「Good-bye My Loneliness」ではオリコン最高9位とデビュー曲としては申し分ないヒットと言えなくもないけど、その後の大ブレイクからみると、まだまだ物足りなさを感じるわけでさ。

ZARDが「眠れない夜を抱いて」で、平松愛理さんが「部屋とYシャツと私」で共に大ブレイクするまでは、この時点から、まだ1年余り待たなくてはいけないわけで。。。。





うわっ、今聴くと、なんか新鮮。
・・というのも、じつは、ワタシ、この曲の音源未だに持ってないんですわ

↑で書いたように、ヒット当時、なかなかCD借りられないでいて、ずっとそのままになっちゃっているんだよな、30年も。。

たとえば、今だったらサブスクリプションでいつでも聴けるようになったわけなんだけども、どうも、いつでも聴ける、音源が手に入るようになると、逆に、いつでもいいや・・・っていう気になっちゃったりしてね。 ・・・で、30年が過ぎた・・と。

今、改めて聴くと、イントロがポリスの「見つめていたい(Every Breath You Take)」だな・・・・とか、新たな発見があったりしてね。
・・・というか、ネット調べると、タイアップドラマのプロデューサーであった亀山千広氏の要望でこうなったという確信犯だったようですね。


坂井さんのボーカルも、まだまだ初々しい。
坂井さんのボーカルは、その後もずっと変わらない・・・っていう認識でいたけど、それでも、後年の堂が入ったボーカルとは明らかに違うな。
ただ、コーラスで参加していたという、大黒摩季、姐さんは、よくわかんなかったですね。

なにより1993年頃には辟易していたビーイング系のサウンドも、この頃はまだ新鮮でしたねぇ。

2007年に40歳という若さで亡くなった坂井泉水さん。もし今も生きていれば、つい先日54歳になったばかりだったはず。。。。。



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カメレオン・アーミー / ピンク・レディー

1979_01_カメレオンアーミー_ピンク・レディー


今回の1曲セレクトは、「カメレオン・アーミー」ピンク・レディーです。

まずはデータです。

・タイトル    カメレオン・アーミー
・アーティスト    ピンク・レディー 
・作詞     阿久悠
・作曲     都倉俊一
・編曲     都倉俊一
・リリース日  1978年12月5日
・発売元    ビクター
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数  70.8万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 1位
・ベストテンランクイン期間:1978年12月18日〜1979年2月19日付

昨日、このブログのタイトル表記修正を行いまして。。
現在の表記は、例えばこの「1曲セレクト」の場合、タイトル表記は「作品タイトル / アーティスト名」で統一しているんですね。
これまでのアクセス解析をすると、どうも検索いただく方々もこの方が検索しやすいような動きが見えたので。
でも、初期の頃は「作品タイトル」のみだったんですよ、表記が。

ちょっと乱暴な表記だったのね。・・というのも、同名異曲っていうのがあるわけでさ。
例えば「卒業」なんてタイトルはいっぱいあるわけじゃないですか。 なので、まあ、書いた当時はだれの「卒業」なのかという事を覚えていても、時間が経っちゃうと、書いた本人でさえわかんなくなっちゃったりしてね

それは、そのまま、検索していただく方も感じる事と思いまして、現在の表記に統一すべく、タイトル表記を統一しました。

おかげで、昨日から今日にかけて、これまであんまり検索されてこなかった曲まで検索されてきているようで成功でした。  
これならもっと早くやっておくんだったな。。。


ただね、逆に、すでに書いていても全然おかしくない曲をまだ書いてない・・・なんてのも判明しちゃったりして。。。。

その中の1曲が、幸か不幸か、ちょうど、「今頃」のヒットだったもんで、引っ張ってきちゃいました

ピンク・レディー「カメレオン・アーミー」

じゃじ〜ん

60年代以降のヒット曲、これまで1600曲ほど書いたっちゅうのに、ピンク・レディーなんて、スーパースターの大ヒット曲をまだ書いてなかったとは。。。。。ぷぷぷぷ


この曲のリリースは、1978年12月。
ワタシが、ヒット曲の世界に足を踏み入れたのが1978年11月なんで、ヒット曲の世界に足を踏み入れた直後、まともに接した、最初のピンクレディーの曲がこの曲になる。

ま、もっともそれ以前の曲も、もちろん知ってましたよ。

さすがにピンク・レディーくらいのモンスター級スーパーアイドルともなると、いくら当時小学3年生でも、曲知らない方が「もぐり」だったわけじゃないですか。

ただ、知ってたとはいえ、学校でクラスの仲間外れにされないくらいに知っていただけで、きちんと聴いてたわけじゃない。

いつかもここで書いたように、ワタシゃ、ピンク・レディー派ではなく、キャンディーズ派だったんでさぁ。

あの当時、みーんなピンク・レディー踊ってたじゃないですか。 でも、ワタシは、興味無いから、外で見てた類なんだよね。 まあ、それ以前に運動音痴だったワタシにゃ、ピンク・レディーは踊れなかったんだけども。。。

あ、だから、キャンディーズ派だったっていうのが、もしかすると正解だったかもしれない

ま、いずれにしろ、ヒット曲としてキチンと聴いた、ピンク・レディーの最初の曲が、ワタシにとってはこの曲だったわけです。


イントロが「およげたいやきくん」のパクリだとか、いろいろいわれたこの曲ですが、ピンクレディーとして、まさか最後のオリコン1位獲得曲になるとはねぇ。。。
「ザ・ベストテン」でこの曲を聴いてた頃は、全くそんなことも考えては居なかったわけで。。。

ただ、いま、ヒット曲マニアとしてオリコンの売り上げ枚数を見るようになると人気下降は予想される動きではあったんだよね。
この曲の累積セールスは70.8万枚。 それでも当時のアイドルからすると高水準な売上げ枚数ではある。

でも、2曲前の「モンスター」が110万枚、3曲前の「サウスポー」が146万枚、4曲前の「UFO」が155万枚。。。

・・と当時の売り上げ枚数からするとそれこそモンスター級売り上げを立て続けに出していたところから見ると、この曲では急激に売り上げが下がってきていたわけでさ。

丁度1年前にリリースされた「UFO」から見ると半分以下ですからね。

まあ、今から考えると、ピンク・レディーのブームって、一種のバブルだったんでしょうね。
でなきゃ、あんな、気違いじみたブームはなかなか起こりませんよ。
そんなバブルが破裂する瞬間の曲・・・。それがこの「カメレオン・アーミー」だったんじゃないかな。
 
なにせ、この次の「ジパング」の売り上げが70万から27万枚に急落。オリコン1位獲得も途絶えるといった、バブル崩壊が起こったわけなんでね。

まあ、他にも、例えば、1978年の「レコード大賞」を受賞したことで、ピンク・レディーは昇華したとか、紅白に出演拒否したことで干されたとか、いろいろ言われたりしましたけどね。

でも、一番の要因は、曲の題材だったんじゃなかいんですかねぇ。 
いわいるネタ切れってやつですわ。

「カメレオンアーミー」ね〜。。。随分苦しんでんなぁ・・と。
今では、そんな風に感じたりするんだよね。
兎も角、
曲の題材としてはちょっと頭をひねりたくなる内容だったんだよなぁ。直感的にわかんないんですよ。そもそも、当時9歳の私には「アーミー」っていう意味が分かんなかったし。。。

 たしかに、ピンクレディーの場合、作詞者の阿久悠氏曰く、近くにありそうで、じつは「影」になっている言葉や風景を題材に、とにかく走れるところまで走ろう・・と言うところから始まったプロジェクトだったわけだけど、さすがに「カメレオン」っていうのはどうなの? って感じだったしなぁ。 それまでの「UFO」とか「サウスポー」に比べるとインパクトに欠けるというか。。
まあ、1曲前の「透明人間」なんてのは、いい題材だったと思うけどね。直感的にわかったじゃん。

それと、あまりにも子供相手という風になってしまったのも、どうなんだろう? ってところがあったしね。。
当初は、あの当時の他のアイドル同様、高校生や大学生をターゲットにしていたわけじゃん、ピンク・レディーも。 だから、適度なお色気があった。

でも想定外に「コドモ」に受けてしまったというのがピンク・レディーだったわけで・・・。
それとともに、急激に子供相手のようなプロモーションになっていくんだよね。
例えば、「ザ・ベストテン」とかでも、「モンスター」とか、この「カメレオン・アーミー」では、後ろで着ぐるみが踊ってたりさ。

当時は、まさにピンク・レディーの世代真っ只中の「おこちゃま」だったワタシは、あの着ぐるみを見て、かわいいなんて思ったことなくて、逆に「あ、ナメられてる」なんて思ったもんですよ。もっと大人扱いしてくれよ・・・と。

大人になると忘れちゃうけど、子供の感性って、大人以上に鋭いものなんだよね。
それとともに興味が移るのが速い。
79年になると、コドモの興味はピンク・レディーから、「銀河鉄道999」に急激にシフトしていく。

ピンク・レディーのパブル崩壊→失速の一番の要因はこれらにあったんじゃないのかなぁ・・・なんて今になって思うわけですわ。

ちなみに、ベストテンでは、この「カメレオン・アーミー」は最高4位止まり。 ピンク・レディー、ベストテンでは全然ダメだったんですよね。

調べてみると有線とハガキリクエストが弱わかったのね。

まあ、有線が弱いというは、アイドル特有の現象でそれほど珍しい事ではなかったけど、ハガキが弱い、そんなバカな。あんなに人気あったじゃん・・・って感じですよね。
でも、これは、ベストテンの当時の視聴者層を完全に物語っているんだよね。

 当時は高校、大学生がベストテン視聴者の中心だったんですよね。なんせ木曜21時〜っていう時間設定は、当時の小学生にはちょっと遅い時間帯だったわけです。
当時、小学3年、9歳だったワタシも、木曜以外は21時なんて言ったら寝る時間だったしね。
そそそ、ベストテンは親にねだりこんで特別に見させてもらっていたんだよね。
それが、普通だった当時としては、小学生、中学生のアイドルだったピンクレディーは、ベストテンでは全くだったわけですわ。

ベストテンでのチャートアクションと、実際のレコード売り上げの乖離。これがピンク・レディーの本来の姿であり、実はネックだったんだよね。
出し手側は、そこをちゃんと見るべきだったんですよ、本来は。

まあ、今となっては何とでもいえることだけど。。。






しっかし、「激務」がたたって、2人ともこのころが一番「ヤセテ」たらしいですよー。
 たしかに、たまーにVTRをみると、このころ、2人とも骨と皮だけって感じで、今見るとイタイタしいっす。。。
 それとは逆に、踊りの方は、この曲がもしかしたら、一番動いてたんではないかと思うほど、かなり激しかったですよね。

サビの部分 ♪見えつ隠れつ変幻自在 スパンコールのカメレオンアミー ♪ の部分とかさ。。

蛇足だけど、この曲と言うと、90年代に活動していた「オリコンチャート研究会」と言う自主サークルのリーダーだった松永さんを思い出す。
超ピンク・レディーフリークだった彼は、ピンク・レディーの他の曲はいつも完璧に踊っていたのに、この曲だけやりたがらなかったんだよね。
曰く「あんまり覚えてないから」と言ってたけど、本音は、この曲の踊りがきつくてあまり踊りたくなかったみたいだったなぁ。

ちなみに、この曲の踊りという部分では ↓の動画の方がよくわかるかな。
最近の動画だけど。。。






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誰もいない海 / トワ・エ・モア

1970_12_誰もいない海_トワ・エ・モア


今回の1曲セレクトは、「誰もいない海」トワ・エ・モアです。

まずはデータです。

・タイトル    誰もいない海
・アーティスト  トワ・エ・モア
・作詞      山口洋子
・作曲      内藤法美
・編曲      森岡賢一郎
・リリース日   1970年11月5日
・発売元     東芝EMI
・オリコン最高位 16位(1970年12月28日付)
・売上げ枚数   14.8万枚

2021年明けましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いします。
昨年末に原田真二さんの「OUR SONG」を書いた時に「マクラ」で「来年ものらりくらりと行かせていただきます」云々と書いたのですが、そのとおり今年ものらりくらりと行かせていただこうと思います。一つよろしくお願いします。

さて、新年一発目はどうしようかなぁ・・と思ったんですが、歌詞内容と実際にヒットしたした時期がちょっとずれてる曲を持ってきましょうか。

まあ、そんな曲は探せばだいぶ出てくるとは思うんですが、個人的に真っ先思う浮かぶ曲はこの曲ですねぇ。

トワ・エ・モア 「誰もいない海」。

ウーム、我々世代だと、「音楽」の教科書で御馴染みって方も多いのかなぁ。 

今聴くと、まっすぐな歌詞、曲調のフォークソングの1曲ですね。
まっすぐな歌詞、音楽の教科書に載ってる曲ということで、ちょっと敬遠がちの方も、もしかするといらっしゃるかなぁ。
それでもヒットチャート系の立派な商用音楽の1曲である事には間違いないんだよね。 

♪ 今は もう秋 だれもいない海〜 ♪

・・・と言う出だしから、思い浮かぶ情景は晩夏〜秋ごろの、人気のない静かな海・・なんですよねぇ。
夏、あれだけ賑わっていた海岸も、秋に訪れてみると、人気も少なく静かな海。 そんな情景から、ワタシもかなり長い間、ヒットは「秋」だとばっかり思っていたんですよね。

でも、実際のヒットのピークは、1970年の年末から、明けて1971年の今頃だったりするんだよね。

うわっ、なんかイメージと違うなぁ・・・。

たしかに、今、海に行ったら、それこそ「誰もいない海」ですよ。寒くて・・・・

この曲の温度感は、夏の終わりから秋の初め頃ですよ〜。 ブルブル震えながらの「誰もいない海」ではないはず。。。

だからね、ワタシ、ずっとこの曲のヒット時期間違ってたんですよ。 絶対に夏の終わりから秋ごろのヒットだとばっかり思ってたから。

 一時期、音楽の教科書に載ってた曲を1曲セレクトに引っ張ってきてたことがあるけど、今まで残っていたのは、ヒット時期を間違って覚えてたからだよなぁ。

そもそも、リリースが11月5日なんて、秋も深まってからのリリースだとも思っても見なかったし。。。

↑で書いたように音楽の教科書にも載ってたし、いろいろな人にカバーもされたりして、大衆認知度は高いはずのこの曲が、15万枚弱の売り上げ枚数、しかもベストテン入りもしていなかったのは、一重にリリースタイミングと、ヒット時期のせいだぁ〜・・・・なんて勝手に思ってたりするんだけどね。

この曲、個人的には初めてどこで聴いたんだろう? 

1970年のリリースということは、ワタシは1歳。当然、リアルタイムではない。
まあ、音楽の教科書に出ていたくらいだから、きっと音楽の授業でなんだろう・・・と思われるのは普通だと思うんだけど、実は、この曲ははっきり覚えてるんだよな。

1976年初夏。 家族でピクニックに行った時の親父の車のカーラジオだ、初めて聴いたのは。
そんな45年前のディテール、よく覚えてるな・・と思われるかもしれないけど、この時のことは今でもよく覚えてる。
ウチは親父がドライブ好きで、しょっちゅう家族でドライブに出てたんだけどもいつもは街道のソバ屋かレストランで昼食だった。
でも、あんときは珍しく、オフクロが🍙とおかずを作ってピクニック気分で出かけんだよね。 
福島県の富岡から川内村に抜ける県道ぞいの広い牧草地にゴザをひいて、真っ青な空の下おにぎりを食べた情景、今でも覚えてますよ。
その道中のカーラジオから、流れていたこの曲、45年たった今でも忘れないなぁ。

恐らく、初めて聴いたのが音楽の授業だったら、ここまで覚えてなかっただろうけど、やっぱり家族との思い出はいつまでたっても色あせないですね。

そんな家族の思い出の地も、10年前の東日本大震災のでの、件の東電原子力発電所爆発差事故で、近年まで立ち入り禁止区域になっていましたね。
ワタシの中では色あせない思い出であっても、現実には遠い記憶になってしまったわけです。




この曲は、もともと「木島則夫モーニングショー」の「今週の歌」のために1967年に書かれた曲で、1968年 大木康子さんと言う方がシングルリリースしたけど、その時は全く売れなかったとのこと。

だから、トワ・エ・モアバージョンはカバーということになりますね。
ただ、作曲の内藤法美さんは、越路吹雪さんのダンナであったことから、トワ・エ・モアさんと同日に越路吹雪さんもカバーリリースしていたんだよね。
こちらはオリコン最高91位。

ちなみに、この曲の作詞者の山口洋子さんは、後に五木ひろし氏に数々のヒット曲を書くことになる、山口洋子さんとは同姓同名の別人だそうです。
作詞家ではなく、詩人だそうですね。

・・・っか、これ書くまで、ワタシも知らなかった。てっきり、あの山口洋子さんだとさっきまで思ってました。。。。

五木ひろし氏の一連のヒット曲を書いた山口洋子さんは7年前に亡くなってしまいましたが、この曲の作詞者である山口洋子さんは、御年87才。今でもご健在だそうです。

だけど、↑の動画のコメントを読むと、やっぱり、この曲は9〜10月の曲と言う印象がある方が多いようですね。
まさか、ヒット時期が年末〜年明けにかけて・・とは今となっては、ほとんどの方は覚えていないよなぁ。
1970〜1971年頃なんて、まだヒットチャートというものも一般的ではなかったですからね。



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OUR SONG / 原田真二

1978_12_our song_原田真二


今回の1曲セレクトは「OUR SONG」原田真二です。

まずはデータでする。

・タイトル    OUR SONG
・アーティスト  原田真二
・作詞      原田真二
・作曲      原田真二
・編曲      原田真二
・リリース日   1978年11月21日
・発売元     フォーライフ
・オリコン最高位 19位
・売上げ枚数   6.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 20位(1978年12月25日付)

大晦日ですね。1曲セレクトもおそらく、2020年内はこれが最後だと思います。
今年1年、アクセスしてくださった皆様には感謝を申し上げるとともに、来年ものらりくらりとだと思いますが、書いていきたいと思いますので、一つ御贔屓に宜しくお願い致します。

さて、始めますか。。

どうもに気になっている曲がある。
今回引っ張ってきた原田真二さんの「OUR SONG」と言う曲。
曲調が気になっているわけではない。このところよく書いている曲へのアングルなんだけども、この曲、最初はどこで聴いたんだろう? ってこと。

いや、厳密に言えば、この曲自体ではなくて、個人的に原田真二さんってどこで知ったんだろう? っていう疑問なんだよね。

ワタシずっと、「ザ・ベストテン」だとばっかり思っていたんだだよなぁ。

ただ、「ザ・ベストテン」で・・・と言っても、ベストテン内にランクインした、「キャンディ」「シャドーボクサー」「タイムトラベル」「サウザンドナイツ」ではない。

以前もここで書いたように、個人的に「ザ・ベストテン」を見始めたのは、今でも忘れない1978年11月2日放送分からだ。

それ以前は、番組の存在すら知らなかったんで、それは間違いない。

・・ということは、ワタシがベストテンを見始めた以後にリリースれされた「OUR SONG」だったに違いない・・・なんて思ってたんだよね。

この曲、「ザ・ベストテン」でのベストテン入りは逃し最高12位だったはず。。 でも、番組で見た記憶があるんで、「スポットライト」で見たんだ・・・。

・・・ってずっと思ってたんだよね、ワタシ。

だから、以前「1曲セレクト」で「タイムトラベル」を書いた時も、原田真二を知ったのは「OUR SONG」をベストテンの「スポットライト」で見てから・・・って書いたんだけども。

でも、その後ベストテンに関する資料を調べていたら、どうも、この曲「スポットライト」で歌ってなかったみたいですね。。。。

そもそも自分のサイトのコンテンツ「ザ・ベストテン館」の「スポットライト編」登場アーティスト変遷にこの曲の記載がない。

灯台下暗し。自分のコンテンツに書いたなかったものを・・・ でもさ、これかなり昔に作ったリストなんで、以前の1曲セレクトで書いた時は「記載漏れ」があったものと思ってたんだよね。
なんせ「誤記述」はワタシの専売特許なんで。。  (爆)

でもこの曲については、どうも誤りではなかったようだ。

ぢゃ、どこで原田真二さんを知ったんだろう?  謎なんだよなぁ。。。。

うん、ワタシがヒット曲の世界に足を踏み入れた、1978年当時であることは間違いない。
兎も角、あのチリチリアフロヘアにピアノの弾き語りというスタイルはビジュアル的に強烈なインパクトがあった。
しかも、チリチリアフロなのに甘いマスクだったりして。

まあ、たしかにずっと後になって、スキマスイッチの常田氏も、全く同じスタイルだったわけだけど。
違うのは甘いマスクじゃなかったことか。。。

いずれにしてもビジュアル的にめっちゃインパクトがあった記憶はあるんだよね。

しかも、ビジュアル的にインパクトがあっただけではなく、楽曲がめっちゃいい。
この「OUR SONG」なんて、当時のヒット曲傾向から言っても、ほとんど洋楽だもんね。 よく筒美京平氏のメロディは洋楽「的」といわれるけど、「的」ではなく、もろ「洋楽」なのよ。

曲調ほとんどエルトン・ジョンだもんね。 そもそも「OUR SONG」っていうタイトルからしてもろじゃん。

洋楽に日本語が乗っている・・・しかも50年代、60年代のカバーポップスの時代のような無理やり感がなく、メロディに自然に日本語が乗っている。 

今考えると、日本のロック・ポップスもここまで来たんだ・・と思わせるような1曲ですね。

これも以前から書いてることなんだけど、ワタシ、いわいる「商業音楽」の入り口は、邦楽じゃなくて実は洋楽だったりするんですね。 起源はポール・モーリアなんですが、そこから派生して70年代HITPOPSが商業音楽を聴き始めた起源だったりするのね。
ROCK系も聴いてたりしたけど、より刺さったのはポップス系なんですよね。特にエレピを多用した曲。
だからね、和製エルトン・ジョンだとか、ビリー・ジョエルと言われた当時の原田真二の曲にも刺さったんだろうなぁ。

まあ、原田真二氏だけでなく、同様に八神純子さんにも刺さっちゃったワタシなんだけど。 兎も角、あの手のエレピが前面に出たロック・ポップが大好きなんだよね。
加えて、ゴダイゴ、ツイスト、サザンという当時のロックBIG3と言われてた人たちも、もちろん大好きだったんだけども。

だからねぇ、あの頃を思うと、今、ヒゲダンに刺さっているのって必然だよなぁ。ヒゲダンだけじゃなく、緑黄色社会とかビッケブランカとか、エレピが前面に出ている人たちって好きなんだよなぁ。

結局、いいタイミングで「ザ・ベストテン」と言う番組に出会ったよな・・と今になっても思いますね。
もっとも、1978年というヒット曲の大変革期に番組が始まったこと自体大きかったんんだけども。
あれが、例えばもう少し前だったら、個人的に番組自体に嵌っていたかどうかは自信ない。

・・・というのも、1977年頃だったと思うけど、偶然見た歌番組に全然共感持てなかったのを覚えてるんだよなぁ。 いわいる「4・7抜き」を多用したメロディとブラスを前面に出したアレンジに、当時洋楽を聴いてたワタシにゃ「ちゃちさ」を感じたのよ。 

78年、ロック・ニューミュージックが主体になり、そんな「ちゃち」さが払しょくされたヒット曲界に個人的には共感が持てた・・・刺さったんだと思う。 「あ、これなら聴きたい」って思えたんだよね。当時9歳。生意気なクソガキだったと我ながら思う。


そんな、もろ「洋楽」だった壮大なこの曲だけど、売れませんでしたねぇ。
「ザ・ベストテン」では、この前の「サウザンドナイツ」まではベストテン入りしていたのにかかわらず、この曲はベストテンにも入れず。
そもそも、オリコンで19位までしか行きませんでしたからね。

2曲前の「タイムトラベル」でオリコン自己最高位を記録していたことを考えると、この急激な売上げ低下には頭をかしげたくなるばかりだけど・・・。

要因はいろいろある。

一つは、この曲から詞が、それまでの松本隆氏から自作詞に変わったこと。 これで作詞、作曲、編曲、すべて原田氏一人でのセルフプロデュースになったこと。
松本氏の分かりやすい詞の世界から、自分の内面を反映する内容に変わって、詞の世界が難解になったんだよなぁ。

特に、 

♪ ただ今は 唱えるは 明日は 必ず晴れさ〜 ♪とか 
♪だからもう 唱えよう 輝く明日を信じて〜♪ など、

一種宗教を彷彿させ、精神世界を匂わせるようなフレーズも出てきたりして、ちょっと第三者には理解しがたい詞の世界に変わったことは大きかったんだろうね。

♪ キャンディ アイラブユー 泣かないで〜 ♪というめっちゃ分かりやすい詞の世界とは偉く違ったわけでね。

確かにオーケストレーションアレンジを施した壮大なアレンジ、6分を超える長い曲調にアイドル然とした原田真二のファンだった人たちには戸惑いもあったんだろう。

後に、原田氏が某宗教に走った時に、この曲のこの歌詞のフレーズを持ち上げられて、「やっぱりそうだったんだ」と宗教に走ったことを当然のように言われたこともあった。
ただ、今wikipediaを読むと、高校受験の時に人間の潜在能力を引き出すためにプラス思考に動かす「考え方」セミナーを受けていたということで、そんな影響もあったのかもしれない。

でも、アミューズを脱退して独立したというのが何より、このヒトにとっては大きかったんだろうな。
もっとも、アイドルとしてテレビ中心にプロモーションをかけることに違和感を感じて独立したわけなんだけどね。
あくまでアーティストとして自分をさらけ出すという覚悟での独立だったんだろうしね。だから、ヒットチャート的にどうこうというのは、大きな事ではなかったんだろうけどね。



これ、何の番組だったんだろう? 服部克久氏がMCやってますね。
あ、でも、ワタシの中での原田真二氏って、このイメージなんだよね。 チリチリパーマヘアに、丸眼鏡でピアノを弾くってゆう図柄。
まさか、この番組で初めて、原田氏を見たわけじゃないよなぁ。

しかし、女の子の黄色い歓声が凄いですね。いかに当時、原田氏がアイドル的人気だったのかが分かますねぇ。
それに反して、生意気そうなコメント。
↑で急に売れなくなったのは、アーティストとして活動していくためのアミューズからの脱退が大きかったって書いたけど、もう一説は、生意気な発言から第一線から干されたというのもあったようですからね。
アミューズという後ろ盾があれば、あるいは、ここまで急激に人気が急降下しなかったのかもしれないけど。。。


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メリクリ / BoA

2004_12_メリクリ_BoA_


今回の1曲セレクトは、「メリクリ」BoAです。

まずはデータです。

・タイトル     メリクリ
・アーティスト   BoA
・作詞       康珍化
・作曲       原一博
・編曲       原一博
・発売元      エイベックストラックス
・リリース日    2004年12月1日
・オリコン最高位  5位
・売上げ枚数   13.7万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 4位
・ベストテンランクイン期間:2004年12月16日〜2005年1月13日付
・タイアップ 東芝「au CDMA 1X WIN W21T」CM曲

のっけから、BoAの「メリクリ」。
さっき近くのセブンに車で買い出しに行ったら、偶然にもFMから流れてて、思わず「いいじゃん」・・なんて、年甲斐もなく感動しちゃいまして。思わず引っ張ってきましたわ。

まあ、なんてイージー。。。

2000年代の「クリスマスソング」としては、定番曲と言ってもいいくらいの曲であるわけで、リリース以来のクリスマスとなると、よくかかるこの曲ではあるけど、これまでそれ程引っかかったことはなかった。

クリスマスソングの王道を行くようなソフィケートされたこのメロディに、思わず心がキュンとしてしまう方も多い事だろうね。

でも、なぜか、個人的にはそれほど引っかかってこなかったんだよなぁ。 なんでなんだろうねぇ。

ここ数年、クリスマスシーズンでも以前ほどは耳にしなくなったこの曲なんで、記憶から消えかけていたんだけども、この曲2004年のクリスマスシーズンのヒットなんだよな。

なるほどそうだったよな。 この曲に引っかから無かった理由が何となく、よみがえってきた。

うん、aちゃんには当時、不信感を持っていたワタシだけど、BoAっていうコは決して嫌っていたわけじゃないんですよ。
現にこの曲の前の「QUINCY」って曲までは音源そろえていたし。 でも、この曲から突然音源を持たなくなった。 うん、今も持っていないんだけどね。

かなり前に、この曲のほん僅か前にヒットした上戸彩の「ウソツキ」って曲を書いたときに、少し匂わせたんだけども、この当時、生業に行き詰っててさ。うん、精神的にですね、行き詰っていたのは。 どうにも気持ちの整理がつかなくなってたのよ、この時期。
今思えば、一種の「うつ病」だったんだろうな。

某D社の、あの頃はまだ子会社の「C社」だったのかなぁ。。兎も角、ここではたまに書いてる某「着メロ」サイトのプロデューサーだったんだけども、この頃どうも上手くいかなくてね。
2004年の後半ともなると着メロも一時期のブームが過ぎ、下火になり始めていたころだ。
代わって着うたが流行り始めて来てた頃ですね。
でも、あの頃は、個人的に着うたってモノになじめなくてねぇ。CD音源をそのまま切り取ったコンテンツにはクリエイティビティを感じなかった。

そもそもCD音源をそのまま使っているので、配信するにはレコード会社から著作隣接権の許諾を取らなきゃいけない。 着メロのように自由に作れないし、自由に編成を組んで配信ができない。自由にアレンジも出来ない。ここに苛立っていたんだよな。

この仕事もそろそろ潮時かな。。。なんて思い始めてた頃ですね。

そう思ったら、急に当時のヒット曲が色あせたように感じてきた。 うん、それは覚えている。

その中に、今回引っ張ってきたBoAの「メリクリ」も含まれていたんだよなぁ。

BoAなんで当然エイベックスからリリースされた曲だけど、aちゃんは当初から着うた配信には積極的で、この曲もCDリリース当初から着うた配信もOKだった・・と言う記憶がある。
なので、当然、関わっていた着メロサイトでも、「この曲」を始まったばかりの着うたで配信開始していたような記憶があるな。

当時着うたが好きになれなかったワタシは、これはワタシがディレクションする領域じゃない。。 当時、この曲を聴くとそう思えたんだよね。
本来クリスマスのイルミネーションのような煌びやかなイメージの曲であるはずなのに、急激にモノクロのくすんだ曲に思えて来たように思えて来てたんだよね。

まあ、今思うと、真面目に考えすぎていたキライはあるなぁ。物事まっすぐにしか見えなかったんだよ。若かった。 今だったら、一歩下がって考えることもできるけど、あの頃はそれも出来なかった。 ピュアだったんですよ。

まあ、ピュアだったからサイトプロデューサーなんて出来たのかもしれない。 いろいろ裏事情とか分かってくるとしり込みしてしまうことも多くなりますからね。

いずれにしても、以来、この「メリクリ」って曲は、開かない扉の中にこの曲自体閉じ込めていたようなところがあるように思えるんだよね。

あれから16年。 

これだけ時間が過ぎれば、あの頃の感情は記憶の奥底に消え去っているわけで。
不意に・・・と言うところはあるんだけども、さっき久々にこの曲を聴いたとき、新鮮に聴けたんだよね。

クリスマスイルミネーションのような煌びやかさ。この曲が本来持つイメージを素直に感じ取れたからこそ、さっきは引っかかったのかもしれないなぁ。




この曲、その後のクリスマスの定番曲のようなイメージが強いんだけども、↑のデータを見ていただいても分かるように、実際的にはそれほど爆発的にCDセールスがあったわけじゃないんだよね。
それは、CDリリース当初から着うたでも配信が始まっていたという影響もあったかもしれない。
まあ、あの当時はまだ、オリコンで着うたランキングとか始まっていなかったんで、実際的にリアルタイムではどの程度の影響があったのかは不明だけどさ。

今でこそ、CDと配信のハイブリッドリリースは当たり前。逆に配信のみと言う曲も多くなったこのご時世だけど、今から考えると、CDが下火になっていくその先駆的な曲でもあるんだよね。
 まあ当時は、まだネットスピードも遅かったしさ、現在のようなネット配信が主流の世の中になるとは考えてなかったけど。。。

ちなみに音楽著作権について、腰を据えて勉強するようになったのもこの頃ですね。着うたでは著作隣接権の許諾が必要になってきたからさ。。これはこの先著作権の知識が必要になってくるなって思えて来たんだよね。 うん、いかに「ちょんぼ」して音楽配信に関わって行くには、これからは著作権の知識は必要だって思えたのよ。なんて書くと怒られちゃうだろうけど。。。。
でもまあ、それで今も食い継げて行けてるんで、あながち間違いではなかったよな。



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traveling/ 宇多田ヒカル

2001_traveling_宇多田ヒカル


今回の1曲セレクトは、「traveling」宇多田ヒカルです。

まずはデータでする。

・タイトル    traveling
・アーティスト  宇多田ヒカル
・作詞      宇多田ヒカル
・作曲      宇多田ヒカル
・編曲      河野圭 宇多田ヒカル
・リリース日   2001年11月28日
・発売元     東芝EMI
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   85.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位  1位
・ベストテンランクイン期間:2001年12月13日〜2002年2月7日付
・タイアップ:NTT docomo「FOMA」CM曲

さっきラジオを聴いてたら、今日12月9日は宇多田のデビュー日だったんだな。
1998年12月9日に「Automatic」でデビューしてから22年。
22年かぁ。。。。早いもんだよなぁ。 初めて「Automatic」を聴いたときの「衝撃」は、以前書いた「Automatic」に委ねるとして。。。。
今考えると、あの当時、個人的には宇多田のシングル曲と共に過ぎていたように感じるなぁ。
当時のシングルを聴くと、その時々に感じていた「絵」や精神状態がフラッシュバックするんだよね。すでに30過ぎたおっさんだったけど、それだけ身近にあったのかもしれない。

かといって、それほどヘビーローテーションで聴いてたわけでもないんだけどね。
それだけ、当時の宇多田の曲には、強烈な色彩、個性、インパクトがあったんだろうな。

今回引っ張ってきた「traveling」。
2001年初冬にリリースされた、宇多田の9枚目のシングルだ。

当時、ワタシは某D社の子会社C社にて、D社運営の公式着メロサイトの主に楽曲配信運用のディレクター兼プロデューサーだった。 
着メロサイトがローンチされてから半年、順調に会員数を伸ばした2001年12月、新たに「ボイスサイト」をローンチすることになった。

この時が大変だったんだ。

実際にサイトのページhtmlやコンテンツが納品されてきたのがローンチギリギリだったと思う。
で、早速テストサイトに上げてみたところ・・・・。 html、コンテンツ共にバグだらけで話にならない。 しかもローンチは目前。。。。
兎に角、ローンチまでには間に合わせなければならない・・ということで徹夜でバグつぶし。
でも「1徹」ぢゃ終わらなくてねぇ・・・。 結局私は「3徹」。 いや実際は「3徹」でも終わらなかったんだけども、当時、一番年長だった私は「3徹」で免除してもらったんだよね
若手は、もう「1徹」し〜の、「4徹」して、何とか公開できるようになったんだよな。
ただ結局、本来のローンチ日までに間に合わなかったんだよね。

あの時、ワタシの頭の中でグルグルと「ヘビーローテーション」で流れていたのが、この「traveling」だ。 突発的だったのかもしれないけど、あのとき「着メロ」のダウンロードNo.1だったのが、この「traveling」だったこともあり、ワタシの中でこの曲が大きく占めていたのもあったのかもしれない。

兎も角、以来というものの、この曲が聴こえてくると、真っ先にフラッシュバックするのが、あの時の「3徹」の時の情景だ。 情景ばかりではなく部屋の温度感も思い出すんだよね。 12月の寒い日でさ、室内のエアコン暖房をガンガンに付けていた湿気がある温度感。 それも思い出させるな。
「3徹」から解放された帰りの京葉線で死んだように爆睡したのは言うまでもない。

フラッシュバックというよりも、もはや半ばトラウマって感じですね。

ちなみに、この曲の後の「SAKURAドロップス」の時も大変だったんだよな。 
ちょうどdocomoの「504i」リリース対応の時で。この時も 徹夜だった。この時は「2徹」で済んだけど。。。

あ、でもこの時も帰りの京葉線で、つり革掴みながら死んだように爆睡したっけ。。。

で、やっぱり、今「SAKURAドロップス」を聴くと、あの時の情景がフラッシュバックするんだよな。

こんな感じで、当時は宇多田の曲がリリースされるごとに、何かしらの印象に残る出来事が起きていたような気がする。仕事の事であったり、生活の事であったり、個人的な病気であったり・・・。

だから、個人的にはあの頃は宇多田の曲と共に過ぎたように感じるんだろうなぁ。

特に今回引っ張ってきた「traveling」の時の「3徹仕事」は、ホント未だに強烈に印象に残っていますね。

たださ、だからと言ってあの時の仕事って決して嫌いだったわけじゃないんだよね。
「ブラック」「社畜」と思えるような拘束時間だったけど、今思えばそんな徹夜仕事も楽しかったのよ。なにより、2次著作物ではあったけども、モノをクリエイトしてるっていう充実感があった。
まあ、30代前半で若かったから出来たんだけども。 今「3徹」したら確実に死ぬだろうな。。。。





↑で書いたように、この曲を聴くと「トラウマ」のようにあの日がよみがえってくるんで、未だにこの曲、落ち着いて聴けなかったりするんだよな。
でも決してキライではないんだけどね。 単に落ち着いて聴けないという事で。。
むしろ、それまでの宇多田の曲の中では好きな部類だなぁ。

個人的には宇多田の曲は、スローな曲よりも、この曲のようなBPMが速い、アップチューンの方が好きだった。
セカンドシングルの「Movin'on without You」とか2000年4月の「Wait&See〜リスク〜」がお気に入りだったしね。 

もう一つ、この曲が良かったのは、それまでのR&Bの香りが大分消えてストレートに、よりポップになったことですね。
もっとも完全に消えたわけではなく底辺には、まだR&B臭が残っていたわけだけど、ポップになった分、聴きやすくなったし。

ただ、ポップになった分それまでのくどい様なインパクトは少なくなったかもしれない。 この曲がミリオンに届かなかったのはその辺りが大きかったかもな。


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$10 / SMAP

1993_12_10$_SMAP


今回の1曲セレクトは「$10」SMAPです。

まずはデータです。

・タイトル   $10
・アーティスト SMAP
・作詞                 林田健司 森浩美
・作曲       林田健司
・編曲      CHOKKAKU
・リリース日   1993年11月11日
・発売元     ビクター
・オリコン最高位 5位
・売上げ枚数  31.7万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 11位
・タイアップ フジテレビ系「夢がMORI MORI」オープニングテーマ

今でこそ超一流と言われるアーティストでも、デビュー当時は「超一流」ではなかった人たちは多い。
例えば、ミスチルだって、オリコンでベストテン入りを果たしたのは、デビュー4枚目シングルの「CROSS ROAD」からだったし。AKBだってオリコン1位に到達するまでデビューから3年8か月かかっていたりする。
後々「国民的」と言われるアーティスト人たちでも最初は苦戦してた人は多いんだよね。
むしろ、デビューの最初の最初から超売れっ子だった人たちの方が少ないだろうね。

今回引っ張ってきたSMAPも、最後は国民的アーティストと言われるようになったものの、最初は思ったように売れなかったアーティストですわ。

でも、最終的に「国民的」アーティストと言われるようになったからには、どこかにターニングポイントがあったわけなんだけど、今回は、そんなSMAPの最初のターニングポイントとなった曲を一つ。

「$10」

まあ、ここ読んでくださってくれている多くの方には説明不要の曲ですよね。
SMAPのデビューから10枚目のシングルですわ。

正直ね、個人的にはこの曲が出るまでは、SMAPっていう人たちはほとんど眼中になかったんだよね。

SMAPのデビューは1991年9月。 

ヒット曲界は、チャゲアスの「SAY YES」のモンスターヒットに湧きかえり、 槇原が「どんなときも。」で大ブレイクを果たしていたころだ。

ま、簡単に言えば、J-ROCKとシンガーソングライターの時代。 

対してアイドルはと言えば、80年代型アイドルはオタク化の進行が止まらず地盤沈下。「アイドル冬の時代」と呼ばれてた頃ですわ。

そんな時代の中デビューしてきたSMAPだったわけで、関心が行かなかったのも当然だったかもしれない。 そもそもデビュー曲の「Can't Stop」を聴いたときから、「あ、これはダメだ」と思ったんだよね。 80年代のジャニーズ・・・ま、具体的に言えば、光GENJIの後追いのような印象が強かったから。

時代の潮流に取り残されている。

そんな印象が強かったんだよな、デビュー当時のSMAPって。

ま、そんな印象は現実的なものとなり、デビュー曲の「Can't Stop」こそ、オリコン2位まで行ったものの、次第にジリ貧になっていく。4枚目の「負けるなBaby」に至っては、売り上げが10万枚に届かないという事態になったりして。

ただ救いだったのは、この人たち、それまでのアイドルの概念を打ち破って「バラエティ」に進出していたじゃん。しかも結構サマになってたりして。 
この人たちは音楽で売れなくても、バラエティでやっていけるよな。当時は、そんな風に思えたな。 ま、そのくらい、当時、楽曲の方は「アナクロ」だったんだよね。

そんな風に思えていた折リリースされた「$10」

最初に聴いたのは、やっぱり「夢はMORI MORI」だったと思う。

一発で、「あ、これは売れるかも」と感じたなぁ。

それまでのアナクロな楽曲から打って変わって、ブラコンの強烈なビート。 単純にかっこよかったんだよね。
光GENJIの亡霊・・とまでは言わないけど、それまでの曲ってどこか光GENJIを意識したような匂いを感じたんだよね。そんな光GENJIの後追いからの脱却感をまずもって感じましたね。

光GENJI以降のジャニーズの曲って、一つのフォーマットのようなものが出来上がっていたような気がするんだよな。そんなフォーマットをぶち破った1曲。
これぞ、90年代の新たな音楽という前向きな印象が強かった1曲。

この曲がリリースされたのは1993年11月。

ただね、ちょっと疑問なのは、このタイミングで、そんなジャニーズフォーマットをぶち破って、なんでこの曲を持ってきたんだろうっていうこと。

この時点で、光GENJIはまだ健在であり、光GENJIフォロワー的な位置にいたSMAPとしては、後追いを続てもおかしくなかったとも思うんだけどね。

ま、確かに、この「$10」を作曲した林田健司氏が、この曲はSMAPにあっているんじゃないかということで、SMAPに提供したタイミングってのも、もちろんあったんだろう。

でも、もし時代の変化のタイミングを捉えてのことだとしたら、SMAPはしたたかだったと思うな。

つまりさ、デビュー曲からそれまでの9曲は、究極的に言えば「おとり」だったということ。 
結局さ↑で書いたようにこの頃は、アイドル冬の時代であり、如何にジャニーズとはいえ盛大に売れることは難しい。
で、あれば、時代の変化が見えるまで、光GENJIフォロワーとして後追い的な曲でそこそこ売れればいいんじゃないかと言う読み。

なんて考えれば、80年代は1位獲得必須というジャニーズ、うんにゃジャニー喜多川氏が、オリコンベストテン下位が続いても我慢し続けていた理由が分かる。

でさ、1993年、時代の変化の兆しが見えてきたんだよね。

trfの台頭とダンスミュージック復権の兆し。

これを好機を見て、新たな流れをジャニーズに呼び込もうと、それまでのジャニーズにはなかったようなファンキーな「$10 」をシングルに起用したならば、SMAP陣営は、かなりしたたかに時代の流れを見ていたことになると思う。

まあ、あくまで想像ですけどね。

でもはっきりしているのは、この曲で初の売り上げ30万枚越えを記録したことですね。
そして、この曲を契機に売り上げは急上昇していく。 時代の流れをうまくつかんだわけですわ。




ところで、この曲がリリースされた頃、個人的には、当時オリコンウイークリー誌上で毎週開催されていた「チャートバトル」にのめりこんでいたころですね。
毎週毎週、「2週間先」のシングルベストテンを予想し、予想コメントを添えて、ハガキで応募する。で、ランキング5曲以上当たると、当たった人全員に1000円分の音楽ギフト券がもらえるっていう企画。
次の週ではなくて2週間先のランキングっていうところがミソで、これがなかなか当たらない。
なんせ、まだインターネットも普及していない時代だったしね。
毎週せっせと、オリコン提携店のCDショップに通って売上げチェックしてランク予想してたなぁ。
この企画には1回目から100回目まで2年間1度も休まずハガキ送ってましたねぇ。1993年の今頃、実は私が送ったハガキがチャートバトルに掲載されたりして、最高潮の頃ですね。

ちなみに、この「$10」がリリースされた週は、他に藤井フミヤの「TRUE LOVE」、X JAPANの「Tears」が同時にリリースされた週で、ランキング予想しやすかったのを覚えてるわ。
たしか、この週は音楽ギフト券、せしめたような記憶がある。
あ、そういえばミスチルの「CROSS ROAD」も同じ週リリースで、初登場9位の初めてオリコンベストテン入りを記録した週でもあるんだよな。 
そそそ、ミスチルの「CROSS ROAD」はチャートバトルで外したんだ。 まさかベストテン入りまでしてくるとは思わなかったんだよな。

でも、このチャートバトルの経験が、後に某着メロサイトで配信楽曲の選曲を担当することになって、直近の売れ行き予想をしつつ選曲するというところで役に立つことになるんだよな。何でも経験ですね。 


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旅愁 / 西崎みどり

1974_12_旅愁_西崎みどり


今回の1曲セレクトは、「旅愁」西崎みどりです。

まずはデータです。

・タイトル    旅愁
・アーティスト  西崎みどり
・作詞      片桐和子
・作曲      平尾昌晃
・編曲      竜崎孝路
・リリース日   1974年8月1日
・発売元     徳間音工
・オリコン最高位 2位
・売上げ枚数   58.1万枚
・ベストテンランクイン期間:1974年11月18日〜1975年2月10日付
・タイアップ:朝日放送「暗闇仕留人」エンディングテーマ

前回の五輪真弓「リバイバル」もそうだったけど、ここのところ、初めて聴いたのはいつ、どこで出会ったのか、全く覚えていない曲が続いている。今回の曲もそうだなぁ。

西崎みどりさんの「旅愁」。

この曲、はっきり覚えているのは、1991年〜1992年のナイターオフシーズンに、ニッポン放送で半年放送されていた、「オリコンベストヒット500」で流れた時ですね。

この番組、いつかも書いたけど、1991年夏に当時コンシューマー向けに毎週発行されていた「オリコンウイークリー」の創刊600号を記念してオリコンウイークリー誌上に掲載された、当時のオリコンシングル歴代TOP500と連動した企画のラジオ番組で、半年かけてオリコンシングル売上げTOP500をカウントダウンする「壮大」なランキング番組だったんだけどね。
この曲の売り上げ58.1万枚は、1991年夏の段階でたしか301位〜400位台だったと思う。
(あいまいでメンゴ。あの時のオリコンが手元にあればよかったんだけど、30年分の膨大なオリコンウイークリーの山に埋もれてしまってマス。。。
だから、当然この番組でも放送圏内だったし、そのとき意識して初めて聴いたわけだ。

でもね・・・。

この間の五輪真弓「リバイバル」と同じなんですよね。 初めて聴いたはずなのに、メロディを聴いたとたん、「あ、これ」とめちゃくちゃ懐かしい気分になった。

初めて聴いたはずなのに、どこかで聴いたことがある。でも、どこで聴いたのかはっきり思い出せないのがもどかしい感覚。

あれから30年近くたっているんだけど、この時の感覚はいまでもはっきり覚えているな。

これは、いまでも変わらないんだけども、この曲を聴いてフラッシュバックしてくるのは、まだ、福島・いわきにいた頃の映像だ。
当時5歳だったころの私が感じていたような画像・色彩。

ということは、やっぱりあの頃(5歳当時)どっかでこの曲を耳にしていたのかもしれない。

この曲は、朝日放送のドラマ「暗闇仕留人」という、「必殺」シリーズ第4弾のエンディングテーマではあったけど、さすがに「必殺」シリーズを見ていたわけではないよなぁ。
「テレビドラマデータベース」というサイトで調べてみると、このドラマは毎週土曜日の22時〜22時50分放送とある。
さすがに5歳で22時過ぎまでは起きてなかったしなぁ。 
当時で覚えているのは、21時前のニュース。福島ではFTV(福島テレビ)ニュースだったけど、これ「うすい百貨店」の1社提供でさ。
ニュースの前に「うすいデパート」のテーマ曲が流れるの。♪デートもうすい 夢のデパート〜♪って曲、当時福島県民だった方、覚えてないかなぁ。 
あの曲が流れると、「寝る時間」っていう頭があったんだよね。そそそ21時には寝てたわけよ。
・・というか、今もあのテーマ曲流れるんでしょうかね  
福島から千葉に越して来て38年。あのテーマ曲は、未だにしっかり覚えてるんだけどね。

あー、話がずれた。。。。

この「旅愁」、いずれにしても、1974年と言う時代を彷彿させるような曲調ではありますよね。
簡単に言えばモロ「歌謡曲」。

ただ、1960年頃までの演歌調の歌謡曲ではない。 濡れているんだよね。
ストリングスをふんだんに使ったアレンジ。 特に間奏部のストリングスによる迫りくるようなトレモロは、もろクラシックを彷彿とさせる。 しかもハープまではさんだりして、至極豪華なアンサンブル。
・・・なんて書くと、いかにもヨーロッパ系のサウンドを思い起こしてしまいそうになるけど、そうじゃない。この曲は、あくまで「ジャパニーズ」スタイルなんだ。

なぜか・・。

やっぱりメロディラインが日本的なんだよね。 あからさまな4、7抜きの演歌調ではないんだけども、和のテイストを感じさせるメロディ。 日本語がメロディに乗るというのは、こういう事なんだろうという見本のような。

先日逝去された、筒美京平氏は、よく洋楽的なサウンドと言われたりするけど、70年代前半頃までは、メロディラインは日本的なものも多かった。 例えば、いしだあゆみさんの「ブルーライトヨコハマ」とかさ、洋楽的なサウンドに小唄調のメロディなんて言われるわけじゃない

そういう和洋折衷、 洋楽的なオシャレなサウンドに醤油をかけたようなメロディ⇒70年代前半の歌謡曲の本流 だと思うのね。

それを考えると、この曲はその本流な曲なんじゃないのかなぁ。

ただ平尾昌晃氏っていうのは筒美京平氏よりも、この「和風テイスト」具合がより強いんだよね。
筒美氏のサウンドはバタ臭いという表現で言われるけども、より醤油風味の強い平尾氏の曲はそんな風には言われない。
だから、今聴くとどうしても「演歌」テイストに聴こえてしまう。 というか、今だったら完全に「演歌」というジャンルに入れられてしまうだろう。
でも、あの時代は、バター風味の強い曲よりも、より醤油風味の強い曲の方が支持された。 そういう時代だったんだよね。

いずれにしても今考えると1974年と言う時代は、そんな和風テイストな「歌謡曲」が最も支持された、いわば歌謡曲全盛の年ともいえるんじゃないのかなぁ。 そもそもオリコン年間ミリオンセラーシングルが4枚も出たのもこの年が初めてだったし、
この「旅愁」が58万枚も売れたのも、歌謡曲系を中心にレコード売れ行きが好調だった、この年ならではの流れだったんじゃないかとも思えたりするんだよね。

ただ、身の丈以上に売れた後は、その反動が来るわけで、翌1975年は一転してレコード売り上げは下がる。
もっとも、この間に「歌謡曲」から「ニューミュージック」へという時代の転換も起きたわけでさ。
身の丈以上の売れ方、つまり一つのジャンルの成熟は、次のムーブメントの始まりでもあるんだよね。
歌謡曲においても、和テイストの歌謡曲よりも、よりバター風味の強い「歌謡ポップス」への転換が進んだ時代。
1974年から1975年でのヒット曲傾向の変化は、こんな転換期をよく表わした現象でもあるんじゃないかなぁ。

この「旅愁」っていう曲は、その転換期端境期の曲であり、つまりは70年台前半の和テイスト「歌謡曲」全盛期の最晩期の曲も言えるんだよね。



西崎みどりさん、この時14歳。中学2年生だって。
・・・ということは、今、まだ60才、還暦を迎えたばかりですよ。
この曲、今から46年前のヒットでもあり、今、すでに70過ぎですか・・なんていう印象もあったりするんだけど。。。。
それにしても、落ち着いていますよね。 落ち着いているというよりも大人っぽいといった方がいいのかなぁ。実家が日舞の宗家で、小さいころから芸能の道に入ったっていうこともあるからかでしょうかね。
そういえば芦田愛菜も、どことなく似たような印象があるなぁ。


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