1978_12_our song_原田真二


今回の1曲セレクトは「OUR SONG」原田真二です。

まずはデータでする。

・タイトル    OUR SONG
・アーティスト  原田真二
・作詞      原田真二
・作曲      原田真二
・編曲      原田真二
・リリース日   1978年11月21日
・発売元     フォーライフ
・オリコン最高位 19位
・売上げ枚数   6.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 20位(1978年12月25日付)

大晦日ですね。1曲セレクトもおそらく、2020年内はこれが最後だと思います。
今年1年、アクセスしてくださった皆様には感謝を申し上げるとともに、来年ものらりくらりとだと思いますが、書いていきたいと思いますので、一つ御贔屓に宜しくお願い致します。

さて、始めますか。。

どうもに気になっている曲がある。
今回引っ張ってきた原田真二さんの「OUR SONG」と言う曲。
曲調が気になっているわけではない。このところよく書いている曲へのアングルなんだけども、この曲、最初はどこで聴いたんだろう? ってこと。

いや、厳密に言えば、この曲自体ではなくて、個人的に原田真二さんってどこで知ったんだろう? っていう疑問なんだよね。

ワタシずっと、「ザ・ベストテン」だとばっかり思っていたんだだよなぁ。

ただ、「ザ・ベストテン」で・・・と言っても、ベストテン内にランクインした、「キャンディ」「シャドーボクサー」「タイムトラベル」「サウザンドナイツ」ではない。

以前もここで書いたように、個人的に「ザ・ベストテン」を見始めたのは、今でも忘れない1978年11月2日放送分からだ。

それ以前は、番組の存在すら知らなかったんで、それは間違いない。

・・ということは、ワタシがベストテンを見始めた以後にリリースれされた「OUR SONG」だったに違いない・・・なんて思ってたんだよね。

この曲、「ザ・ベストテン」でのベストテン入りは逃し最高12位だったはず。。 でも、番組で見た記憶があるんで、「スポットライト」で見たんだ・・・。

・・・ってずっと思ってたんだよね、ワタシ。

だから、以前「1曲セレクト」で「タイムトラベル」を書いた時も、原田真二を知ったのは「OUR SONG」をベストテンの「スポットライト」で見てから・・・って書いたんだけども。

でも、その後ベストテンに関する資料を調べていたら、どうも、この曲「スポットライト」で歌ってなかったみたいですね。。。。

そもそも自分のサイトのコンテンツ「ザ・ベストテン館」の「スポットライト編」登場アーティスト変遷にこの曲の記載がない。

灯台下暗し。自分のコンテンツに書いたなかったものを・・・ でもさ、これかなり昔に作ったリストなんで、以前の1曲セレクトで書いた時は「記載漏れ」があったものと思ってたんだよね。
なんせ「誤記述」はワタシの専売特許なんで。。  (爆)

でもこの曲については、どうも誤りではなかったようだ。

ぢゃ、どこで原田真二さんを知ったんだろう?  謎なんだよなぁ。。。。

うん、ワタシがヒット曲の世界に足を踏み入れた、1978年当時であることは間違いない。
兎も角、あのチリチリアフロヘアにピアノの弾き語りというスタイルはビジュアル的に強烈なインパクトがあった。
しかも、チリチリアフロなのに甘いマスクだったりして。

まあ、たしかにずっと後になって、スキマスイッチの常田氏も、全く同じスタイルだったわけだけど。
違うのは甘いマスクじゃなかったことか。。。

いずれにしてもビジュアル的にめっちゃインパクトがあった記憶はあるんだよね。

しかも、ビジュアル的にインパクトがあっただけではなく、楽曲がめっちゃいい。
この「OUR SONG」なんて、当時のヒット曲傾向から言っても、ほとんど洋楽だもんね。 よく筒美京平氏のメロディは洋楽「的」といわれるけど、「的」ではなく、もろ「洋楽」なのよ。

曲調ほとんどエルトン・ジョンだもんね。 そもそも「OUR SONG」っていうタイトルからしてもろじゃん。

洋楽に日本語が乗っている・・・しかも50年代、60年代のカバーポップスの時代のような無理やり感がなく、メロディに自然に日本語が乗っている。 

今考えると、日本のロック・ポップスもここまで来たんだ・・と思わせるような1曲ですね。

これも以前から書いてることなんだけど、ワタシ、いわいる「商業音楽」の入り口は、邦楽じゃなくて実は洋楽だったりするんですね。 起源はポール・モーリアなんですが、そこから派生して70年代HITPOPSが商業音楽を聴き始めた起源だったりするのね。
ROCK系も聴いてたりしたけど、より刺さったのはポップス系なんですよね。特にエレピを多用した曲。
だからね、和製エルトン・ジョンだとか、ビリー・ジョエルと言われた当時の原田真二の曲にも刺さったんだろうなぁ。

まあ、原田真二氏だけでなく、同様に八神純子さんにも刺さっちゃったワタシなんだけど。 兎も角、あの手のエレピが前面に出たロック・ポップが大好きなんだよね。
加えて、ゴダイゴ、ツイスト、サザンという当時のロックBIG3と言われてた人たちも、もちろん大好きだったんだけども。

だからねぇ、あの頃を思うと、今、ヒゲダンに刺さっているのって必然だよなぁ。ヒゲダンだけじゃなく、緑黄色社会とかビッケブランカとか、エレピが前面に出ている人たちって好きなんだよなぁ。

結局、いいタイミングで「ザ・ベストテン」と言う番組に出会ったよな・・と今になっても思いますね。
もっとも、1978年というヒット曲の大変革期に番組が始まったこと自体大きかったんんだけども。
あれが、例えばもう少し前だったら、個人的に番組自体に嵌っていたかどうかは自信ない。

・・・というのも、1977年頃だったと思うけど、偶然見た歌番組に全然共感持てなかったのを覚えてるんだよなぁ。 いわいる「4・7抜き」を多用したメロディとブラスを前面に出したアレンジに、当時洋楽を聴いてたワタシにゃ「ちゃちさ」を感じたのよ。 

78年、ロック・ニューミュージックが主体になり、そんな「ちゃち」さが払しょくされたヒット曲界に個人的には共感が持てた・・・刺さったんだと思う。 「あ、これなら聴きたい」って思えたんだよね。当時9歳。生意気なクソガキだったと我ながら思う。


そんな、もろ「洋楽」だった壮大なこの曲だけど、売れませんでしたねぇ。
「ザ・ベストテン」では、この前の「サウザンドナイツ」まではベストテン入りしていたのにかかわらず、この曲はベストテンにも入れず。
そもそも、オリコンで19位までしか行きませんでしたからね。

2曲前の「タイムトラベル」でオリコン自己最高位を記録していたことを考えると、この急激な売上げ低下には頭をかしげたくなるばかりだけど・・・。

要因はいろいろある。

一つは、この曲から詞が、それまでの松本隆氏から自作詞に変わったこと。 これで作詞、作曲、編曲、すべて原田氏一人でのセルフプロデュースになったこと。
松本氏の分かりやすい詞の世界から、自分の内面を反映する内容に変わって、詞の世界が難解になったんだよなぁ。

特に、 

♪ ただ今は 唱えるは 明日は 必ず晴れさ〜 ♪とか 
♪だからもう 唱えよう 輝く明日を信じて〜♪ など、

一種宗教を彷彿させ、精神世界を匂わせるようなフレーズも出てきたりして、ちょっと第三者には理解しがたい詞の世界に変わったことは大きかったんだろうね。

♪ キャンディ アイラブユー 泣かないで〜 ♪というめっちゃ分かりやすい詞の世界とは偉く違ったわけでね。

確かにオーケストレーションアレンジを施した壮大なアレンジ、6分を超える長い曲調にアイドル然とした原田真二のファンだった人たちには戸惑いもあったんだろう。

後に、原田氏が某宗教に走った時に、この曲のこの歌詞のフレーズを持ち上げられて、「やっぱりそうだったんだ」と宗教に走ったことを当然のように言われたこともあった。
ただ、今wikipediaを読むと、高校受験の時に人間の潜在能力を引き出すためにプラス思考に動かす「考え方」セミナーを受けていたということで、そんな影響もあったのかもしれない。

でも、アミューズを脱退して独立したというのが何より、このヒトにとっては大きかったんだろうな。
もっとも、アイドルとしてテレビ中心にプロモーションをかけることに違和感を感じて独立したわけなんだけどね。
あくまでアーティストとして自分をさらけ出すという覚悟での独立だったんだろうしね。だから、ヒットチャート的にどうこうというのは、大きな事ではなかったんだろうけどね。



これ、何の番組だったんだろう? 服部克久氏がMCやってますね。
あ、でも、ワタシの中での原田真二氏って、このイメージなんだよね。 チリチリパーマヘアに、丸眼鏡でピアノを弾くってゆう図柄。
まさか、この番組で初めて、原田氏を見たわけじゃないよなぁ。

しかし、女の子の黄色い歓声が凄いですね。いかに当時、原田氏がアイドル的人気だったのかが分かますねぇ。
それに反して、生意気そうなコメント。
↑で急に売れなくなったのは、アーティストとして活動していくためのアミューズからの脱退が大きかったって書いたけど、もう一説は、生意気な発言から第一線から干されたというのもあったようですからね。
アミューズという後ろ盾があれば、あるいは、ここまで急激に人気が急降下しなかったのかもしれないけど。。。


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