かじやんのヒット曲&チャートレビュー

ヒット曲を聴き続けて40数年! かじやんがお送りする、「今」のヒット曲&ヒットチャートから、「あのころ」のヒット曲&ヒットチャートまで、ヒット曲について幅広くご紹介するブログ。 自主チャートサイト"THE HITCHART NOW AND THEN"の支店ページという位置づけにいたします。

2020年12月

OUR SONG / 原田真二

1978_12_our song_原田真二


今回の1曲セレクトは「OUR SONG」原田真二です。

まずはデータでする。

・タイトル    OUR SONG
・アーティスト  原田真二
・作詞      原田真二
・作曲      原田真二
・編曲      原田真二
・リリース日   1978年11月21日
・発売元     フォーライフ
・オリコン最高位 19位
・売上げ枚数   6.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 20位(1978年12月25日付)

大晦日ですね。1曲セレクトもおそらく、2020年内はこれが最後だと思います。
今年1年、アクセスしてくださった皆様には感謝を申し上げるとともに、来年ものらりくらりとだと思いますが、書いていきたいと思いますので、一つ御贔屓に宜しくお願い致します。

さて、始めますか。。

どうもに気になっている曲がある。
今回引っ張ってきた原田真二さんの「OUR SONG」と言う曲。
曲調が気になっているわけではない。このところよく書いている曲へのアングルなんだけども、この曲、最初はどこで聴いたんだろう? ってこと。

いや、厳密に言えば、この曲自体ではなくて、個人的に原田真二さんってどこで知ったんだろう? っていう疑問なんだよね。

ワタシずっと、「ザ・ベストテン」だとばっかり思っていたんだだよなぁ。

ただ、「ザ・ベストテン」で・・・と言っても、ベストテン内にランクインした、「キャンディ」「シャドーボクサー」「タイムトラベル」「サウザンドナイツ」ではない。

以前もここで書いたように、個人的に「ザ・ベストテン」を見始めたのは、今でも忘れない1978年11月2日放送分からだ。

それ以前は、番組の存在すら知らなかったんで、それは間違いない。

・・ということは、ワタシがベストテンを見始めた以後にリリースれされた「OUR SONG」だったに違いない・・・なんて思ってたんだよね。

この曲、「ザ・ベストテン」でのベストテン入りは逃し最高12位だったはず。。 でも、番組で見た記憶があるんで、「スポットライト」で見たんだ・・・。

・・・ってずっと思ってたんだよね、ワタシ。

だから、以前「1曲セレクト」で「タイムトラベル」を書いた時も、原田真二を知ったのは「OUR SONG」をベストテンの「スポットライト」で見てから・・・って書いたんだけども。

でも、その後ベストテンに関する資料を調べていたら、どうも、この曲「スポットライト」で歌ってなかったみたいですね。。。。

そもそも自分のサイトのコンテンツ「ザ・ベストテン館」の「スポットライト編」登場アーティスト変遷にこの曲の記載がない。

灯台下暗し。自分のコンテンツに書いたなかったものを・・・ でもさ、これかなり昔に作ったリストなんで、以前の1曲セレクトで書いた時は「記載漏れ」があったものと思ってたんだよね。
なんせ「誤記述」はワタシの専売特許なんで。。  (爆)

でもこの曲については、どうも誤りではなかったようだ。

ぢゃ、どこで原田真二さんを知ったんだろう?  謎なんだよなぁ。。。。

うん、ワタシがヒット曲の世界に足を踏み入れた、1978年当時であることは間違いない。
兎も角、あのチリチリアフロヘアにピアノの弾き語りというスタイルはビジュアル的に強烈なインパクトがあった。
しかも、チリチリアフロなのに甘いマスクだったりして。

まあ、たしかにずっと後になって、スキマスイッチの常田氏も、全く同じスタイルだったわけだけど。
違うのは甘いマスクじゃなかったことか。。。

いずれにしてもビジュアル的にめっちゃインパクトがあった記憶はあるんだよね。

しかも、ビジュアル的にインパクトがあっただけではなく、楽曲がめっちゃいい。
この「OUR SONG」なんて、当時のヒット曲傾向から言っても、ほとんど洋楽だもんね。 よく筒美京平氏のメロディは洋楽「的」といわれるけど、「的」ではなく、もろ「洋楽」なのよ。

曲調ほとんどエルトン・ジョンだもんね。 そもそも「OUR SONG」っていうタイトルからしてもろじゃん。

洋楽に日本語が乗っている・・・しかも50年代、60年代のカバーポップスの時代のような無理やり感がなく、メロディに自然に日本語が乗っている。 

今考えると、日本のロック・ポップスもここまで来たんだ・・と思わせるような1曲ですね。

これも以前から書いてることなんだけど、ワタシ、いわいる「商業音楽」の入り口は、邦楽じゃなくて実は洋楽だったりするんですね。 起源はポール・モーリアなんですが、そこから派生して70年代HITPOPSが商業音楽を聴き始めた起源だったりするのね。
ROCK系も聴いてたりしたけど、より刺さったのはポップス系なんですよね。特にエレピを多用した曲。
だからね、和製エルトン・ジョンだとか、ビリー・ジョエルと言われた当時の原田真二の曲にも刺さったんだろうなぁ。

まあ、原田真二氏だけでなく、同様に八神純子さんにも刺さっちゃったワタシなんだけど。 兎も角、あの手のエレピが前面に出たロック・ポップが大好きなんだよね。
加えて、ゴダイゴ、ツイスト、サザンという当時のロックBIG3と言われてた人たちも、もちろん大好きだったんだけども。

だからねぇ、あの頃を思うと、今、ヒゲダンに刺さっているのって必然だよなぁ。ヒゲダンだけじゃなく、緑黄色社会とかビッケブランカとか、エレピが前面に出ている人たちって好きなんだよなぁ。

結局、いいタイミングで「ザ・ベストテン」と言う番組に出会ったよな・・と今になっても思いますね。
もっとも、1978年というヒット曲の大変革期に番組が始まったこと自体大きかったんんだけども。
あれが、例えばもう少し前だったら、個人的に番組自体に嵌っていたかどうかは自信ない。

・・・というのも、1977年頃だったと思うけど、偶然見た歌番組に全然共感持てなかったのを覚えてるんだよなぁ。 いわいる「4・7抜き」を多用したメロディとブラスを前面に出したアレンジに、当時洋楽を聴いてたワタシにゃ「ちゃちさ」を感じたのよ。 

78年、ロック・ニューミュージックが主体になり、そんな「ちゃち」さが払しょくされたヒット曲界に個人的には共感が持てた・・・刺さったんだと思う。 「あ、これなら聴きたい」って思えたんだよね。当時9歳。生意気なクソガキだったと我ながら思う。


そんな、もろ「洋楽」だった壮大なこの曲だけど、売れませんでしたねぇ。
「ザ・ベストテン」では、この前の「サウザンドナイツ」まではベストテン入りしていたのにかかわらず、この曲はベストテンにも入れず。
そもそも、オリコンで19位までしか行きませんでしたからね。

2曲前の「タイムトラベル」でオリコン自己最高位を記録していたことを考えると、この急激な売上げ低下には頭をかしげたくなるばかりだけど・・・。

要因はいろいろある。

一つは、この曲から詞が、それまでの松本隆氏から自作詞に変わったこと。 これで作詞、作曲、編曲、すべて原田氏一人でのセルフプロデュースになったこと。
松本氏の分かりやすい詞の世界から、自分の内面を反映する内容に変わって、詞の世界が難解になったんだよなぁ。

特に、 

♪ ただ今は 唱えるは 明日は 必ず晴れさ〜 ♪とか 
♪だからもう 唱えよう 輝く明日を信じて〜♪ など、

一種宗教を彷彿させ、精神世界を匂わせるようなフレーズも出てきたりして、ちょっと第三者には理解しがたい詞の世界に変わったことは大きかったんだろうね。

♪ キャンディ アイラブユー 泣かないで〜 ♪というめっちゃ分かりやすい詞の世界とは偉く違ったわけでね。

確かにオーケストレーションアレンジを施した壮大なアレンジ、6分を超える長い曲調にアイドル然とした原田真二のファンだった人たちには戸惑いもあったんだろう。

後に、原田氏が某宗教に走った時に、この曲のこの歌詞のフレーズを持ち上げられて、「やっぱりそうだったんだ」と宗教に走ったことを当然のように言われたこともあった。
ただ、今wikipediaを読むと、高校受験の時に人間の潜在能力を引き出すためにプラス思考に動かす「考え方」セミナーを受けていたということで、そんな影響もあったのかもしれない。

でも、アミューズを脱退して独立したというのが何より、このヒトにとっては大きかったんだろうな。
もっとも、アイドルとしてテレビ中心にプロモーションをかけることに違和感を感じて独立したわけなんだけどね。
あくまでアーティストとして自分をさらけ出すという覚悟での独立だったんだろうしね。だから、ヒットチャート的にどうこうというのは、大きな事ではなかったんだろうけどね。



これ、何の番組だったんだろう? 服部克久氏がMCやってますね。
あ、でも、ワタシの中での原田真二氏って、このイメージなんだよね。 チリチリパーマヘアに、丸眼鏡でピアノを弾くってゆう図柄。
まさか、この番組で初めて、原田氏を見たわけじゃないよなぁ。

しかし、女の子の黄色い歓声が凄いですね。いかに当時、原田氏がアイドル的人気だったのかが分かますねぇ。
それに反して、生意気そうなコメント。
↑で急に売れなくなったのは、アーティストとして活動していくためのアミューズからの脱退が大きかったって書いたけど、もう一説は、生意気な発言から第一線から干されたというのもあったようですからね。
アミューズという後ろ盾があれば、あるいは、ここまで急激に人気が急降下しなかったのかもしれないけど。。。


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メリクリ / BoA

2004_12_メリクリ_BoA_


今回の1曲セレクトは、「メリクリ」BoAです。

まずはデータです。

・タイトル     メリクリ
・アーティスト   BoA
・作詞       康珍化
・作曲       原一博
・編曲       原一博
・発売元      エイベックストラックス
・リリース日    2004年12月1日
・オリコン最高位  5位
・売上げ枚数   13.7万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 4位
・ベストテンランクイン期間:2004年12月16日〜2005年1月13日付
・タイアップ 東芝「au CDMA 1X WIN W21T」CM曲

のっけから、BoAの「メリクリ」。
さっき近くのセブンに車で買い出しに行ったら、偶然にもFMから流れてて、思わず「いいじゃん」・・なんて、年甲斐もなく感動しちゃいまして。思わず引っ張ってきましたわ。

まあ、なんてイージー。。。

2000年代の「クリスマスソング」としては、定番曲と言ってもいいくらいの曲であるわけで、リリース以来のクリスマスとなると、よくかかるこの曲ではあるけど、これまでそれ程引っかかったことはなかった。

クリスマスソングの王道を行くようなソフィケートされたこのメロディに、思わず心がキュンとしてしまう方も多い事だろうね。

でも、なぜか、個人的にはそれほど引っかかってこなかったんだよなぁ。 なんでなんだろうねぇ。

ここ数年、クリスマスシーズンでも以前ほどは耳にしなくなったこの曲なんで、記憶から消えかけていたんだけども、この曲2004年のクリスマスシーズンのヒットなんだよな。

なるほどそうだったよな。 この曲に引っかから無かった理由が何となく、よみがえってきた。

うん、aちゃんには当時、不信感を持っていたワタシだけど、BoAっていうコは決して嫌っていたわけじゃないんですよ。
現にこの曲の前の「QUINCY」って曲までは音源そろえていたし。 でも、この曲から突然音源を持たなくなった。 うん、今も持っていないんだけどね。

かなり前に、この曲のほん僅か前にヒットした上戸彩の「ウソツキ」って曲を書いたときに、少し匂わせたんだけども、この当時、生業に行き詰っててさ。うん、精神的にですね、行き詰っていたのは。 どうにも気持ちの整理がつかなくなってたのよ、この時期。
今思えば、一種の「うつ病」だったんだろうな。

某D社の、あの頃はまだ子会社の「C社」だったのかなぁ。。兎も角、ここではたまに書いてる某「着メロ」サイトのプロデューサーだったんだけども、この頃どうも上手くいかなくてね。
2004年の後半ともなると着メロも一時期のブームが過ぎ、下火になり始めていたころだ。
代わって着うたが流行り始めて来てた頃ですね。
でも、あの頃は、個人的に着うたってモノになじめなくてねぇ。CD音源をそのまま切り取ったコンテンツにはクリエイティビティを感じなかった。

そもそもCD音源をそのまま使っているので、配信するにはレコード会社から著作隣接権の許諾を取らなきゃいけない。 着メロのように自由に作れないし、自由に編成を組んで配信ができない。自由にアレンジも出来ない。ここに苛立っていたんだよな。

この仕事もそろそろ潮時かな。。。なんて思い始めてた頃ですね。

そう思ったら、急に当時のヒット曲が色あせたように感じてきた。 うん、それは覚えている。

その中に、今回引っ張ってきたBoAの「メリクリ」も含まれていたんだよなぁ。

BoAなんで当然エイベックスからリリースされた曲だけど、aちゃんは当初から着うた配信には積極的で、この曲もCDリリース当初から着うた配信もOKだった・・と言う記憶がある。
なので、当然、関わっていた着メロサイトでも、「この曲」を始まったばかりの着うたで配信開始していたような記憶があるな。

当時着うたが好きになれなかったワタシは、これはワタシがディレクションする領域じゃない。。 当時、この曲を聴くとそう思えたんだよね。
本来クリスマスのイルミネーションのような煌びやかなイメージの曲であるはずなのに、急激にモノクロのくすんだ曲に思えて来たように思えて来てたんだよね。

まあ、今思うと、真面目に考えすぎていたキライはあるなぁ。物事まっすぐにしか見えなかったんだよ。若かった。 今だったら、一歩下がって考えることもできるけど、あの頃はそれも出来なかった。 ピュアだったんですよ。

まあ、ピュアだったからサイトプロデューサーなんて出来たのかもしれない。 いろいろ裏事情とか分かってくるとしり込みしてしまうことも多くなりますからね。

いずれにしても、以来、この「メリクリ」って曲は、開かない扉の中にこの曲自体閉じ込めていたようなところがあるように思えるんだよね。

あれから16年。 

これだけ時間が過ぎれば、あの頃の感情は記憶の奥底に消え去っているわけで。
不意に・・・と言うところはあるんだけども、さっき久々にこの曲を聴いたとき、新鮮に聴けたんだよね。

クリスマスイルミネーションのような煌びやかさ。この曲が本来持つイメージを素直に感じ取れたからこそ、さっきは引っかかったのかもしれないなぁ。




この曲、その後のクリスマスの定番曲のようなイメージが強いんだけども、↑のデータを見ていただいても分かるように、実際的にはそれほど爆発的にCDセールスがあったわけじゃないんだよね。
それは、CDリリース当初から着うたでも配信が始まっていたという影響もあったかもしれない。
まあ、あの当時はまだ、オリコンで着うたランキングとか始まっていなかったんで、実際的にリアルタイムではどの程度の影響があったのかは不明だけどさ。

今でこそ、CDと配信のハイブリッドリリースは当たり前。逆に配信のみと言う曲も多くなったこのご時世だけど、今から考えると、CDが下火になっていくその先駆的な曲でもあるんだよね。
 まあ当時は、まだネットスピードも遅かったしさ、現在のようなネット配信が主流の世の中になるとは考えてなかったけど。。。

ちなみに音楽著作権について、腰を据えて勉強するようになったのもこの頃ですね。着うたでは著作隣接権の許諾が必要になってきたからさ。。これはこの先著作権の知識が必要になってくるなって思えて来たんだよね。 うん、いかに「ちょんぼ」して音楽配信に関わって行くには、これからは著作権の知識は必要だって思えたのよ。なんて書くと怒られちゃうだろうけど。。。。
でもまあ、それで今も食い継げて行けてるんで、あながち間違いではなかったよな。



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traveling/ 宇多田ヒカル

2001_traveling_宇多田ヒカル


今回の1曲セレクトは、「traveling」宇多田ヒカルです。

まずはデータでする。

・タイトル    traveling
・アーティスト  宇多田ヒカル
・作詞      宇多田ヒカル
・作曲      宇多田ヒカル
・編曲      河野圭 宇多田ヒカル
・リリース日   2001年11月28日
・発売元     東芝EMI
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   85.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位  1位
・ベストテンランクイン期間:2001年12月13日〜2002年2月7日付
・タイアップ:NTT docomo「FOMA」CM曲

さっきラジオを聴いてたら、今日12月9日は宇多田のデビュー日だったんだな。
1998年12月9日に「Automatic」でデビューしてから22年。
22年かぁ。。。。早いもんだよなぁ。 初めて「Automatic」を聴いたときの「衝撃」は、以前書いた「Automatic」に委ねるとして。。。。
今考えると、あの当時、個人的には宇多田のシングル曲と共に過ぎていたように感じるなぁ。
当時のシングルを聴くと、その時々に感じていた「絵」や精神状態がフラッシュバックするんだよね。すでに30過ぎたおっさんだったけど、それだけ身近にあったのかもしれない。

かといって、それほどヘビーローテーションで聴いてたわけでもないんだけどね。
それだけ、当時の宇多田の曲には、強烈な色彩、個性、インパクトがあったんだろうな。

今回引っ張ってきた「traveling」。
2001年初冬にリリースされた、宇多田の9枚目のシングルだ。

当時、ワタシは某D社の子会社C社にて、D社運営の公式着メロサイトの主に楽曲配信運用のディレクター兼プロデューサーだった。 
着メロサイトがローンチされてから半年、順調に会員数を伸ばした2001年12月、新たに「ボイスサイト」をローンチすることになった。

この時が大変だったんだ。

実際にサイトのページhtmlやコンテンツが納品されてきたのがローンチギリギリだったと思う。
で、早速テストサイトに上げてみたところ・・・・。 html、コンテンツ共にバグだらけで話にならない。 しかもローンチは目前。。。。
兎に角、ローンチまでには間に合わせなければならない・・ということで徹夜でバグつぶし。
でも「1徹」ぢゃ終わらなくてねぇ・・・。 結局私は「3徹」。 いや実際は「3徹」でも終わらなかったんだけども、当時、一番年長だった私は「3徹」で免除してもらったんだよね
若手は、もう「1徹」し〜の、「4徹」して、何とか公開できるようになったんだよな。
ただ結局、本来のローンチ日までに間に合わなかったんだよね。

あの時、ワタシの頭の中でグルグルと「ヘビーローテーション」で流れていたのが、この「traveling」だ。 突発的だったのかもしれないけど、あのとき「着メロ」のダウンロードNo.1だったのが、この「traveling」だったこともあり、ワタシの中でこの曲が大きく占めていたのもあったのかもしれない。

兎も角、以来というものの、この曲が聴こえてくると、真っ先にフラッシュバックするのが、あの時の「3徹」の時の情景だ。 情景ばかりではなく部屋の温度感も思い出すんだよね。 12月の寒い日でさ、室内のエアコン暖房をガンガンに付けていた湿気がある温度感。 それも思い出させるな。
「3徹」から解放された帰りの京葉線で死んだように爆睡したのは言うまでもない。

フラッシュバックというよりも、もはや半ばトラウマって感じですね。

ちなみに、この曲の後の「SAKURAドロップス」の時も大変だったんだよな。 
ちょうどdocomoの「504i」リリース対応の時で。この時も 徹夜だった。この時は「2徹」で済んだけど。。。

あ、でもこの時も帰りの京葉線で、つり革掴みながら死んだように爆睡したっけ。。。

で、やっぱり、今「SAKURAドロップス」を聴くと、あの時の情景がフラッシュバックするんだよな。

こんな感じで、当時は宇多田の曲がリリースされるごとに、何かしらの印象に残る出来事が起きていたような気がする。仕事の事であったり、生活の事であったり、個人的な病気であったり・・・。

だから、個人的にはあの頃は宇多田の曲と共に過ぎたように感じるんだろうなぁ。

特に今回引っ張ってきた「traveling」の時の「3徹仕事」は、ホント未だに強烈に印象に残っていますね。

たださ、だからと言ってあの時の仕事って決して嫌いだったわけじゃないんだよね。
「ブラック」「社畜」と思えるような拘束時間だったけど、今思えばそんな徹夜仕事も楽しかったのよ。なにより、2次著作物ではあったけども、モノをクリエイトしてるっていう充実感があった。
まあ、30代前半で若かったから出来たんだけども。 今「3徹」したら確実に死ぬだろうな。。。。





↑で書いたように、この曲を聴くと「トラウマ」のようにあの日がよみがえってくるんで、未だにこの曲、落ち着いて聴けなかったりするんだよな。
でも決してキライではないんだけどね。 単に落ち着いて聴けないという事で。。
むしろ、それまでの宇多田の曲の中では好きな部類だなぁ。

個人的には宇多田の曲は、スローな曲よりも、この曲のようなBPMが速い、アップチューンの方が好きだった。
セカンドシングルの「Movin'on without You」とか2000年4月の「Wait&See〜リスク〜」がお気に入りだったしね。 

もう一つ、この曲が良かったのは、それまでのR&Bの香りが大分消えてストレートに、よりポップになったことですね。
もっとも完全に消えたわけではなく底辺には、まだR&B臭が残っていたわけだけど、ポップになった分、聴きやすくなったし。

ただ、ポップになった分それまでのくどい様なインパクトは少なくなったかもしれない。 この曲がミリオンに届かなかったのはその辺りが大きかったかもな。


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$10 / SMAP

1993_12_10$_SMAP


今回の1曲セレクトは「$10」SMAPです。

まずはデータです。

・タイトル   $10
・アーティスト SMAP
・作詞                 林田健司 森浩美
・作曲       林田健司
・編曲      CHOKKAKU
・リリース日   1993年11月11日
・発売元     ビクター
・オリコン最高位 5位
・売上げ枚数  31.7万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 11位
・タイアップ フジテレビ系「夢がMORI MORI」オープニングテーマ

今でこそ超一流と言われるアーティストでも、デビュー当時は「超一流」ではなかった人たちは多い。
例えば、ミスチルだって、オリコンでベストテン入りを果たしたのは、デビュー4枚目シングルの「CROSS ROAD」からだったし。AKBだってオリコン1位に到達するまでデビューから3年8か月かかっていたりする。
後々「国民的」と言われるアーティスト人たちでも最初は苦戦してた人は多いんだよね。
むしろ、デビューの最初の最初から超売れっ子だった人たちの方が少ないだろうね。

今回引っ張ってきたSMAPも、最後は国民的アーティストと言われるようになったものの、最初は思ったように売れなかったアーティストですわ。

でも、最終的に「国民的」アーティストと言われるようになったからには、どこかにターニングポイントがあったわけなんだけど、今回は、そんなSMAPの最初のターニングポイントとなった曲を一つ。

「$10」

まあ、ここ読んでくださってくれている多くの方には説明不要の曲ですよね。
SMAPのデビューから10枚目のシングルですわ。

正直ね、個人的にはこの曲が出るまでは、SMAPっていう人たちはほとんど眼中になかったんだよね。

SMAPのデビューは1991年9月。 

ヒット曲界は、チャゲアスの「SAY YES」のモンスターヒットに湧きかえり、 槇原が「どんなときも。」で大ブレイクを果たしていたころだ。

ま、簡単に言えば、J-ROCKとシンガーソングライターの時代。 

対してアイドルはと言えば、80年代型アイドルはオタク化の進行が止まらず地盤沈下。「アイドル冬の時代」と呼ばれてた頃ですわ。

そんな時代の中デビューしてきたSMAPだったわけで、関心が行かなかったのも当然だったかもしれない。 そもそもデビュー曲の「Can't Stop」を聴いたときから、「あ、これはダメだ」と思ったんだよね。 80年代のジャニーズ・・・ま、具体的に言えば、光GENJIの後追いのような印象が強かったから。

時代の潮流に取り残されている。

そんな印象が強かったんだよな、デビュー当時のSMAPって。

ま、そんな印象は現実的なものとなり、デビュー曲の「Can't Stop」こそ、オリコン2位まで行ったものの、次第にジリ貧になっていく。4枚目の「負けるなBaby」に至っては、売り上げが10万枚に届かないという事態になったりして。

ただ救いだったのは、この人たち、それまでのアイドルの概念を打ち破って「バラエティ」に進出していたじゃん。しかも結構サマになってたりして。 
この人たちは音楽で売れなくても、バラエティでやっていけるよな。当時は、そんな風に思えたな。 ま、そのくらい、当時、楽曲の方は「アナクロ」だったんだよね。

そんな風に思えていた折リリースされた「$10」

最初に聴いたのは、やっぱり「夢はMORI MORI」だったと思う。

一発で、「あ、これは売れるかも」と感じたなぁ。

それまでのアナクロな楽曲から打って変わって、ブラコンの強烈なビート。 単純にかっこよかったんだよね。
光GENJIの亡霊・・とまでは言わないけど、それまでの曲ってどこか光GENJIを意識したような匂いを感じたんだよね。そんな光GENJIの後追いからの脱却感をまずもって感じましたね。

光GENJI以降のジャニーズの曲って、一つのフォーマットのようなものが出来上がっていたような気がするんだよな。そんなフォーマットをぶち破った1曲。
これぞ、90年代の新たな音楽という前向きな印象が強かった1曲。

この曲がリリースされたのは1993年11月。

ただね、ちょっと疑問なのは、このタイミングで、そんなジャニーズフォーマットをぶち破って、なんでこの曲を持ってきたんだろうっていうこと。

この時点で、光GENJIはまだ健在であり、光GENJIフォロワー的な位置にいたSMAPとしては、後追いを続てもおかしくなかったとも思うんだけどね。

ま、確かに、この「$10」を作曲した林田健司氏が、この曲はSMAPにあっているんじゃないかということで、SMAPに提供したタイミングってのも、もちろんあったんだろう。

でも、もし時代の変化のタイミングを捉えてのことだとしたら、SMAPはしたたかだったと思うな。

つまりさ、デビュー曲からそれまでの9曲は、究極的に言えば「おとり」だったということ。 
結局さ↑で書いたようにこの頃は、アイドル冬の時代であり、如何にジャニーズとはいえ盛大に売れることは難しい。
で、あれば、時代の変化が見えるまで、光GENJIフォロワーとして後追い的な曲でそこそこ売れればいいんじゃないかと言う読み。

なんて考えれば、80年代は1位獲得必須というジャニーズ、うんにゃジャニー喜多川氏が、オリコンベストテン下位が続いても我慢し続けていた理由が分かる。

でさ、1993年、時代の変化の兆しが見えてきたんだよね。

trfの台頭とダンスミュージック復権の兆し。

これを好機を見て、新たな流れをジャニーズに呼び込もうと、それまでのジャニーズにはなかったようなファンキーな「$10 」をシングルに起用したならば、SMAP陣営は、かなりしたたかに時代の流れを見ていたことになると思う。

まあ、あくまで想像ですけどね。

でもはっきりしているのは、この曲で初の売り上げ30万枚越えを記録したことですね。
そして、この曲を契機に売り上げは急上昇していく。 時代の流れをうまくつかんだわけですわ。




ところで、この曲がリリースされた頃、個人的には、当時オリコンウイークリー誌上で毎週開催されていた「チャートバトル」にのめりこんでいたころですね。
毎週毎週、「2週間先」のシングルベストテンを予想し、予想コメントを添えて、ハガキで応募する。で、ランキング5曲以上当たると、当たった人全員に1000円分の音楽ギフト券がもらえるっていう企画。
次の週ではなくて2週間先のランキングっていうところがミソで、これがなかなか当たらない。
なんせ、まだインターネットも普及していない時代だったしね。
毎週せっせと、オリコン提携店のCDショップに通って売上げチェックしてランク予想してたなぁ。
この企画には1回目から100回目まで2年間1度も休まずハガキ送ってましたねぇ。1993年の今頃、実は私が送ったハガキがチャートバトルに掲載されたりして、最高潮の頃ですね。

ちなみに、この「$10」がリリースされた週は、他に藤井フミヤの「TRUE LOVE」、X JAPANの「Tears」が同時にリリースされた週で、ランキング予想しやすかったのを覚えてるわ。
たしか、この週は音楽ギフト券、せしめたような記憶がある。
あ、そういえばミスチルの「CROSS ROAD」も同じ週リリースで、初登場9位の初めてオリコンベストテン入りを記録した週でもあるんだよな。 
そそそ、ミスチルの「CROSS ROAD」はチャートバトルで外したんだ。 まさかベストテン入りまでしてくるとは思わなかったんだよな。

でも、このチャートバトルの経験が、後に某着メロサイトで配信楽曲の選曲を担当することになって、直近の売れ行き予想をしつつ選曲するというところで役に立つことになるんだよな。何でも経験ですね。 


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旅愁 / 西崎みどり

1974_12_旅愁_西崎みどり


今回の1曲セレクトは、「旅愁」西崎みどりです。

まずはデータです。

・タイトル    旅愁
・アーティスト  西崎みどり
・作詞      片桐和子
・作曲      平尾昌晃
・編曲      竜崎孝路
・リリース日   1974年8月1日
・発売元     徳間音工
・オリコン最高位 2位
・売上げ枚数   58.1万枚
・ベストテンランクイン期間:1974年11月18日〜1975年2月10日付
・タイアップ:朝日放送「暗闇仕留人」エンディングテーマ

前回の五輪真弓「リバイバル」もそうだったけど、ここのところ、初めて聴いたのはいつ、どこで出会ったのか、全く覚えていない曲が続いている。今回の曲もそうだなぁ。

西崎みどりさんの「旅愁」。

この曲、はっきり覚えているのは、1991年〜1992年のナイターオフシーズンに、ニッポン放送で半年放送されていた、「オリコンベストヒット500」で流れた時ですね。

この番組、いつかも書いたけど、1991年夏に当時コンシューマー向けに毎週発行されていた「オリコンウイークリー」の創刊600号を記念してオリコンウイークリー誌上に掲載された、当時のオリコンシングル歴代TOP500と連動した企画のラジオ番組で、半年かけてオリコンシングル売上げTOP500をカウントダウンする「壮大」なランキング番組だったんだけどね。
この曲の売り上げ58.1万枚は、1991年夏の段階でたしか301位〜400位台だったと思う。
(あいまいでメンゴ。あの時のオリコンが手元にあればよかったんだけど、30年分の膨大なオリコンウイークリーの山に埋もれてしまってマス。。。
だから、当然この番組でも放送圏内だったし、そのとき意識して初めて聴いたわけだ。

でもね・・・。

この間の五輪真弓「リバイバル」と同じなんですよね。 初めて聴いたはずなのに、メロディを聴いたとたん、「あ、これ」とめちゃくちゃ懐かしい気分になった。

初めて聴いたはずなのに、どこかで聴いたことがある。でも、どこで聴いたのかはっきり思い出せないのがもどかしい感覚。

あれから30年近くたっているんだけど、この時の感覚はいまでもはっきり覚えているな。

これは、いまでも変わらないんだけども、この曲を聴いてフラッシュバックしてくるのは、まだ、福島・いわきにいた頃の映像だ。
当時5歳だったころの私が感じていたような画像・色彩。

ということは、やっぱりあの頃(5歳当時)どっかでこの曲を耳にしていたのかもしれない。

この曲は、朝日放送のドラマ「暗闇仕留人」という、「必殺」シリーズ第4弾のエンディングテーマではあったけど、さすがに「必殺」シリーズを見ていたわけではないよなぁ。
「テレビドラマデータベース」というサイトで調べてみると、このドラマは毎週土曜日の22時〜22時50分放送とある。
さすがに5歳で22時過ぎまでは起きてなかったしなぁ。 
当時で覚えているのは、21時前のニュース。福島ではFTV(福島テレビ)ニュースだったけど、これ「うすい百貨店」の1社提供でさ。
ニュースの前に「うすいデパート」のテーマ曲が流れるの。♪デートもうすい 夢のデパート〜♪って曲、当時福島県民だった方、覚えてないかなぁ。 
あの曲が流れると、「寝る時間」っていう頭があったんだよね。そそそ21時には寝てたわけよ。
・・というか、今もあのテーマ曲流れるんでしょうかね  
福島から千葉に越して来て38年。あのテーマ曲は、未だにしっかり覚えてるんだけどね。

あー、話がずれた。。。。

この「旅愁」、いずれにしても、1974年と言う時代を彷彿させるような曲調ではありますよね。
簡単に言えばモロ「歌謡曲」。

ただ、1960年頃までの演歌調の歌謡曲ではない。 濡れているんだよね。
ストリングスをふんだんに使ったアレンジ。 特に間奏部のストリングスによる迫りくるようなトレモロは、もろクラシックを彷彿とさせる。 しかもハープまではさんだりして、至極豪華なアンサンブル。
・・・なんて書くと、いかにもヨーロッパ系のサウンドを思い起こしてしまいそうになるけど、そうじゃない。この曲は、あくまで「ジャパニーズ」スタイルなんだ。

なぜか・・。

やっぱりメロディラインが日本的なんだよね。 あからさまな4、7抜きの演歌調ではないんだけども、和のテイストを感じさせるメロディ。 日本語がメロディに乗るというのは、こういう事なんだろうという見本のような。

先日逝去された、筒美京平氏は、よく洋楽的なサウンドと言われたりするけど、70年代前半頃までは、メロディラインは日本的なものも多かった。 例えば、いしだあゆみさんの「ブルーライトヨコハマ」とかさ、洋楽的なサウンドに小唄調のメロディなんて言われるわけじゃない

そういう和洋折衷、 洋楽的なオシャレなサウンドに醤油をかけたようなメロディ⇒70年代前半の歌謡曲の本流 だと思うのね。

それを考えると、この曲はその本流な曲なんじゃないのかなぁ。

ただ平尾昌晃氏っていうのは筒美京平氏よりも、この「和風テイスト」具合がより強いんだよね。
筒美氏のサウンドはバタ臭いという表現で言われるけども、より醤油風味の強い平尾氏の曲はそんな風には言われない。
だから、今聴くとどうしても「演歌」テイストに聴こえてしまう。 というか、今だったら完全に「演歌」というジャンルに入れられてしまうだろう。
でも、あの時代は、バター風味の強い曲よりも、より醤油風味の強い曲の方が支持された。 そういう時代だったんだよね。

いずれにしても今考えると1974年と言う時代は、そんな和風テイストな「歌謡曲」が最も支持された、いわば歌謡曲全盛の年ともいえるんじゃないのかなぁ。 そもそもオリコン年間ミリオンセラーシングルが4枚も出たのもこの年が初めてだったし、
この「旅愁」が58万枚も売れたのも、歌謡曲系を中心にレコード売れ行きが好調だった、この年ならではの流れだったんじゃないかとも思えたりするんだよね。

ただ、身の丈以上に売れた後は、その反動が来るわけで、翌1975年は一転してレコード売り上げは下がる。
もっとも、この間に「歌謡曲」から「ニューミュージック」へという時代の転換も起きたわけでさ。
身の丈以上の売れ方、つまり一つのジャンルの成熟は、次のムーブメントの始まりでもあるんだよね。
歌謡曲においても、和テイストの歌謡曲よりも、よりバター風味の強い「歌謡ポップス」への転換が進んだ時代。
1974年から1975年でのヒット曲傾向の変化は、こんな転換期をよく表わした現象でもあるんじゃないかなぁ。

この「旅愁」っていう曲は、その転換期端境期の曲であり、つまりは70年台前半の和テイスト「歌謡曲」全盛期の最晩期の曲も言えるんだよね。



西崎みどりさん、この時14歳。中学2年生だって。
・・・ということは、今、まだ60才、還暦を迎えたばかりですよ。
この曲、今から46年前のヒットでもあり、今、すでに70過ぎですか・・なんていう印象もあったりするんだけど。。。。
それにしても、落ち着いていますよね。 落ち着いているというよりも大人っぽいといった方がいいのかなぁ。実家が日舞の宗家で、小さいころから芸能の道に入ったっていうこともあるからかでしょうかね。
そういえば芦田愛菜も、どことなく似たような印象があるなぁ。


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