かじやんのヒット曲&チャートレビュー

ヒット曲を聴き続けて40数年! かじやんがお送りする、「今」のヒット曲&ヒットチャートから、「あのころ」のヒット曲&ヒットチャートまで、ヒット曲について幅広くご紹介するブログ。 自主チャートサイト"THE HITCHART NOW AND THEN"の支店ページという位置づけにいたします。

1980年

いなせなロコモーション / サザンオールスターズ

1980_06_いなせなロコモーション_サザンオールスターズ



今回の1曲セレクトは、「いなせなロコモーション」サザンオールスターズです。

まずはデータなのだ〜。

・タイトル    いなせなロコモーション
・アーティスト  サザンオールスターズ
・作詞      桑田佳祐
・作曲      桑田佳祐
・編曲      サザンオールスターズ
・リリース日   1980年5月21日
・発売元     ビクター
・オリコン最高位 16位
・売上げ枚数   11.3万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 13位
・タイアップ アサヒ飲料「三ツ矢サイダー」CM曲

キターッ !!!

サザンオールスターズ、「茅ヶ崎ライブ」4日間開催決定!!





1978年6月25日「勝手にシンドバッド」でデビューから45周年となる今日。 ・・・・の直前。

昨夜23時からの東京FMの「桑田佳祐のやさしい夜遊び」内で、ついに発表されましたね。

いやー、待った。

今年がデビュー45周年というのは、昨年からずっと周知されていたことであり、、絶対に、今年は「サザン」としてなんかやってくるはず・・・・と思いーの、今まで全く音沙汰もなかったんで。。。

考えてみれば、デビュー40周年だった、2018年も結局ツアーはやらずに、「ROCK IN JAPAN」にサプライズ出演しただけだったし。。。
まあ、最終的には翌2019年に全国ツアーをやりましたけどね。

今回もそのパターンか・・・と思いーの、今年の「ROCK IN JAPAN」の出演者にその名前もなかったんで。。。

いったいどうしたんや、今回はなんもやんないんですかね? 

・・と思っていた矢先、デビュー記念日直前まで引っ張ってくるとは。。。。

いずれにしても、↑で書いたように「サザン」としては、個人的に2019年以来4年ぶりのライブとなるわけなんで、もちろんチケット狙いに行きますわ。

たださあ、本当に昨夜発表された「茅ヶ崎ライブ」だけなんですかねぇ。。。

茅ケ崎球場のキャパは2万人。4日間開催なんで8万人。

これまでの全国ドームツアーでのチケットでも、「ファンクラブ」会員の私でさえ、2回に1回は「落選」なのに、どう考えても「超プラチナ」なんですけど。。。
下手すると「月の石」くらいのプレミアチケットになりまっせ。

でもまあ、冷静に考えると、昨日のラジオで「『今年』はサザンオールスターズとして全力で活動してまいります」と言ってたわけだしさ。
茅ケ崎ライブの時期と、昨年の桑田氏のソロツアーの日程を踏まえると、その後、年末に向けてツアーをやる・・・ともとれるんだよね。

まあ、発表されたわけではないんで、現状では、あくまで「考えられる」というだけだけど。。。。

なので、個人的には、もちろん茅ヶ崎ライブのチケットを応募しようと思いますが、あくまで「運試し」という感じで行ってみようか・・と。

当たれば、超ラッキー。 当たんなかったら、その後の全国ツアー開催に期待をかけて・・・っていうスタンスで行きますわ。



・・・・と、いつものごとく、前置きが長い。。。。

「いなせなロコモーション」ですね〜。


この曲は1980年5月。 8作目のシングルとしてリリースされたわけですわね。

少し前の「涙のアベニュー」でも書いたけども、 デビュー以来、テレビの歌番組はもちろん、バラエティーにも出る、ツアーもやる、・・といった肉弾戦的な活動を続けたサザンだけども、こんな活動にほとほと疲れて、1980年前半、半年間の充電期間に入ってしまったわけで。。。

その間に、毎月、5か月連続でシングルリリースを続けたわけだよね。

いわいる「FIVE ROCKSHOW」と銘打ったリリースで。

その「FIVE ROCKSHOW」で3枚目にリリースされた曲が、この「いなせなロコモーション」ですわな。

5枚のシングルの中でも、もっとも、アッパーなポップロックナンバーがこの曲。

・・・・ということもあってか、5枚の中では一番売り上げが高かったこの曲ですわ。

とはいうものの、オリコンでは、「涙のアベニュー」と同じく、最高位16位。 売上枚数は11万枚強。

何度も書くようだけども、今のサザンを基準に考えると、この1980〜1981年のサザンって、めっちゃ信じられないくらい低迷ぶりでしたからねぇ。

まあ、これも、何度も書いてきたことだけども、当時は、テレビに出てなんぼの時代。

テレビには出ないことで、売れなくなったマイナス面は計り知れなかったわけで。。。

そんな天秤にかけても、テレビの活動を切ったということは、あの時代、バンドとしてそれだけ疲労がたまっていたわけなんだよね。

ただ、個人的には、あの当時の「音楽の情報源」のすべてがテレビだったわけでさ、そのテレビに出ないってことは、曲どころか「消息」も全く知らないってことになるんだよね。

うん、いきなりベストテンから消えたからさ、サザンも終わっちゃったか・・・って思っていましたよ。「チャコの海岸物語」が出てくるまでは。。。

だから、もちろん、この「いなせなロコモーション」も、ずっと耳にしないままになっていた。

まあ、オリコンのランクからして、「ザ・ベストテン」でも、11〜20位には入っていたはずなんだけどね。 1980年の今頃って、一時的に「11〜20位」をやらないことがあったのよ。

この時期 永ちゃんの「THIS IS A SONG FOR COCA-COLA」が11‐20位にいたんで、「キリン」提供のベストテンでは流せないから・・とか言われたりするけども。。。

もっとも、あの時期「11〜20位」やってたとしても、耳にはしてなかっただろうけど。。。

うん、この曲をはっきりと耳にしたのは、件のTBS系ドラマ「ふぞろいの林檎たち」(1983年)ですわね。

そそそ、主題歌が「いとしのエリー」だったのは有名なところだけども、劇中歌はすべて「サザン」の曲だったし、この「いなせなロコモーション」もだいぶ使われてましたからね。

もっとも、「ふぞろいの林檎たち」は、本放送ではなく、再放送から見たんで、1984年くらいでしたかね。この曲の存在をはっきりと知ったのは。

だから、この曲を聴くと1984年ごろの匂いを感じてもいいと思うんだけども、なぜか、1980年の匂いなんだよね。
↑のように1980年には聴いてなかったはずなのに。。。それが不思議。


1980年、小学5年生の夏休み。

学校からは、子供だけでは学区内から出ていけません・・・って言われていたのに、そんなこと眼中になかった、ワタシは、チャリンコで最寄りの常磐線・泉駅に走らせた。

あの頃・・・いや、今でもだけども・・・・「時刻表」鉄でさ。 時刻表片手に、泉駅の一番端っこの空き地で、電車を見てるのが好きだった。

特に、上野⇔青森間を走っていた583系の特急「みちのく」が好きでさ。  ・・・っつうか、クリーム色と深い青色の583系の車両が好きでさ。お目当てはこれだったんだけども。。。

上りの上野行きの「みちのく」は、11時30分に泉を通過するの、時刻表から知ってたからさ。
それに間に合うように、休みの日はよく泉まで、片道40分くらいかけてチャリンコ走らせていたな。

1980年の夏の光景というと、決まって、そんな泉駅からの帰り、藤原川の堤防の砂利道をチャリンコで飛ばしていた風景ですわ。

どこまでも続く青い空にぽっかりと浮かんだ白い雲。昼下がりの白い光。むわっとした空気。土手の両脇に生える背の高いススキの群れ。個人的に感じる夏の匂いがそこにあったして。
自由だった、あの夏の風景ですわ

この「いなせなロコモーション」を聴くと、決まって、1980年夏のあの風景が浮かんでくる。
1984年の風景ではないんだよね

あの夏、どこかでこの曲聴いてたのかなぁ・・と思っちゃうほど。。。

そういえば、以前書いた、同じく「FIVE ROCK SHOW」のラスト曲である「わすれじのレイド・バック」も、きちんと聴いたのは1985年のはずなのに、浮かんでくる風景は1980年の夏だ。。

なんでなんだろう?・・・いまだに理由がよく良からないままになっていたりするな。




これ、テレビ神奈川「ファイティング80's」だそうだ。
↑で書いたように、この時期ほとんどテレビには出ていなかったサザンなんで、この「いなせなロコモーション」なんて、この当時、ほとんどテレビで歌った映像はないはずですわ。

もっとも1995年にNHKで放送されたサザン特番でこの曲歌ったからその映像はあるはずだけども。。。

これだから、テレビ神奈川って、今となっては映像の宝庫なんだよね。

ワタシも ついつい、見入っちゃいましたわ。。。
貴重だから、消されないでほしいなぁ。。。。

でもまあ、昨日の「やさしい夜遊び」でも、桑田氏が「昔の映像見るの嫌いなんだよね」とののたもうていたんで、消されちゃう可能性が高いけども。。。。

それにしても、あの頃、この曲ほど、歌詞何言ってんだか、よくわかんない曲はなかったなぁ。
コニー・フランシス、ドリス・デイ、シュープリームス・・・に、お父っつぁんと、まあ、つまりは、50〜60年代オールディーズ時代、父母の頃の色恋物語って感じの曲だよね。

もっとも、そんなこと言われても、80年当時は、個人的によくわかんないしさ。 英語っぽい発音で、何歌っているのかわかんないのは、あの頃の桑田氏のいつもことだったけども、この曲は特にわけわかんない発音で歌っていたから、一層歌詞の意味が分かんなかったりしてね。
でも、いいんだよな、この曲のグルーヴ感。 理屈じゃないんだよね・・っていうのが、もしかしたら一番わかる曲かもしれないな。




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涙のアベニュー / サザンオールスターズ

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今回の1曲セレクトは、「涙のアベニュー」サザンオールスターズです。

まずはデータです。

・タイトル   涙のアベニュー
・アーティスト サザンオールスターズ
・作詞     桑田佳祐
・作曲     桑田佳祐
・編曲     サザンオールスターズ 八木正生
・リリース日  1980年2月21日
・発売元    ビクター
・オリコン最高位 16位
・売上げ枚数  10.1万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 19位

久しぶりの「1曲セレクト」。
え? ちょっと前に、松居直美の「微妙なとこネ」とか書いてるんじゃん。・・とか思われちゃうかもしれないけど、あれと、その前に出した、島田歌穂の「ステップ・バイ・ステップ」は、mixiで大昔に書いたやつを、引っ張ってきて、再編集しただけのトピックスなんで。。。。

これまで、まだ書いてない、まっさらな状態で書く1曲セレクトは、久々ですわ。

・・・ということで、サザンの「涙のアベニュー」

サザンファンを公言しているワタシとしては、「まだ書いてなかったんかい・・・」って曲だけども。。。

サザンの曲ってさあ、ちょっと前までYou tubeに出てなかったんでね。
これまでも 1曲セレクトに出したいと思ってもYou tubeに曲がなかったりして、曲リンクを張れなかったんで、書くの断念してきた曲が多いんだよね。

まだ完全とは言えないけど、ここにきてやってYoutubeでもサザンの曲がみられるようになりつつあったりしてきたんで、遅まきながら、書き始めて居たりするのよ。



もっとも、この「涙のアベニュー」は、ファン以外の方にとっては、完全に死角に入っちゃっている曲だとは思うんだけども。

そそそ、前年の79年「いとしのエリー」を頂点として時代を席巻し、「紅白」にも出演しなんて、ビッグバンドに急成長したサザンだけども、この曲から長期休養に入ってしまう。
そのため、当時テレビの歌番組ではほとんど歌われてなかったと思う。その分、一般的には知られてない曲ですわな。

まあ、休養といっても完全休養という訳ではなく、レコーティングは行う。ただしテレビを中心としたメディアへの出演は抑える・・っていう休養ですけどね。


桑田氏の「ロックの子」を読むと、とにかく、煮詰まっていたようですね、当時。

それまで、一学生バンドだったサザンも、「勝手にシンドバッド」〜「いとしのエリー」にかけて、半年余りで、いきなり時代の頂点まで昇華しちゃったでしょ。

テレビだ、ラジオだ、雑誌取材だ・・・と時間に追われ、その合間にレコーティングを行うといった状態。レコーティングにも十分に時間が取れない。

そん状況下での、あの頃の3か月ローテーションでのシングルリリース。

しかも週刊誌には、言われもないことも書かれる。

「出る杭は打たれる」 とは言ったもので、華やかな活躍の裏で、サザンも例にもれず、そういったマスコミのターゲットになっていたわけですわ。

そんな1979年の一連の活動で、肉体的にも、精神的にも、ヘトヘトだったようだ。

「いとしのエリー」の頃、「ベストテン」で「ノイローゼ ノイローゼ」と叫んでいた桑田氏って有名だけども、あれ、おちゃらけではなく、本当だったようですね。

それでも、まだ「ベストテン」で叫んでたころは、またよかったものの、サザンのメンバー間の意思疎通も取れなくなり、年末までには、マジで追い込まれてたようですね。

このままでは壊れる・・という中での、長期休養宣言。

確かに前曲「C調言葉にご用心」あたりから、「ベストテン」にもあんまりでなくなってたんだよね。
「コンサートのため」「レコーティングのため」・・というベストテンのお決まりの理由での出演辞退だったと思う。それがいつしか、「長期休養」に変わったのを覚えてるなぁ。


連続ヒットを出すよりも、一度、下火になった人気から、再ブレイクする方が難しい。

アーティストにとっては、ここが怖くて、人気絶頂の時に、長期休養を取ることはほとんどない。

あの頃は、そんなところが今よりも強かったですから。 アミューズも思い切った決断をしたと思う。
人気の流動が早いヒット曲の世界。ましてやテレビ・ラジオの世界はなおさらだし。
半年休んで、再度、ブレイクできるのか? 大きな賭けなんだよね。

もし、これが大手事務所所属だったら、まず間違いなく、こんなことはしなかったと思う。
サザン自体が潰れても、それまでの路線を続けさせただろうな。
当時はまだ、新興プロダクションだった、アミューズだったからこそできた決断だよね。

無理を続けて潰れていくアーティストを数多く見てきた、元・ナベプロだった、当時アミューズ社長の大里氏だったからこそ。

むろん、当時10歳だったわたしにゃ、全く理解できなかったけどね。

またすぐに「ベストテン」に戻ってくるだろう・・くらいの軽い気分だったと思うのよ。
まさか、この「涙のアベニュー」から2年にわたる、サザン低迷期が来るとはね。

あ、あくまで、テレビにおけるサザン低迷期ね。 

シングルは売れなかったけども、アルバムは80年の「タイニィ・バブルス」、81年「ステレオ太陽族」と、シングル低迷の間も、いずれもオリコン1位と、アルバムは売れてましたからね。

でも、当時「ベストテン」というテレビからの情報がすべてだった私は、ここから2年の間サザンの曲は耳にしないままになる。



今回引っ張ってきた「涙のアベニュー」、初めて聴いたのは、たしか、1985年ごろに「バラッド77-82」のカセットを買ってからだと思うのよ。

だから・・・なんだけども、この「涙のアベニュー」って曲を聴くと、いまだに1985年の匂いを感じるワタシだったりするんだけども。。。。

初聴から、「なるほど、これは売れないな」と感じましたね。
いや、決して駄曲ではないんですよ。ただ、インパクトが弱い。シングルのA面というよりもB面。
あるいはアルバムの中の1曲って感じなんだよね。

まあ、実際、この曲の翌月にリリースされたアルバム「タイニィ・バブルス」からの先行シングルという形になっているけど、少なくとも、この曲で、前曲「C調言葉にご用心」ほどの大ヒットを狙うには、かなり無理が行ったと思う。

もちろん、「長期休養」を考えれば、これは意図的だったことは間違いないんだけども。

ミディアムバラードのソフトロック路線・・・っちゅうのかな。
カラッとしたロックではなく、湿り気がある手触りのサウンド。その辺、UKっぽい匂いがする。
曲想的には、ファースト・アルバムに収録されている「別れ話は最後に」に近いと思う。

もっとも、あの曲は「ボサノバ」っぽい手触りがあったけども、この「涙のアベニュー」は3連だし、「ボサノバ」ではない・・っちゅう違いがあるけど。。

以前「わずれじのレイド・バック」でも書いたんだけども、この曲から「ファイブ・ロック・ショー」って銘打って5か月連続でシングルリリースが始まるんだけどさ。
その割にはストレートなロックな曲が少ないってのが笑える。。。。

ただし、この「涙のアベニュー」から、より洋楽的な手触りになったのは確かですね。

「いとしのエリー」は別にして「勝手にシンドバッド」にしても、洋楽というよりは、洋楽と歌謡曲の融合だったんだよね。それまでのサザンの特徴って。
70年代の頃は、まだ洋楽一辺倒ではだめで、ウレセンには、適度な和製のエッセンスが必要。
こんな特徴がぴったりはまった「〜シンドバッド」。だから売れたといってもおかしくないんだけども。

ただ、この「涙のアベニュー」からのシングルって、より洋楽的な手触りが強くなったと思う。
「ファイブ・ロック・ショー」って銘打ったのは、そういうところだったのかもしれないな。
まあ、あの連続リリースは、休養期間中だし、売れることというよりも、実験的なことをやるって意味合いが強かったんだと思うけど。
ただ、後々、バラエティに富んだサザンの曲調、曲想は、この期間中の実験が大きかったような気がしますね。

いずれにしても、最近のサザンには見られない曲想であることは間違いないわけで、サザンの名バラードの1曲に数えられているのも頷けるな。





曲を聴くと、よりわかるんだけども、この頃のサザンって、ダイレクトに洋楽寄りだったんだよね、サウンドにしても、メロディラインにしても。
もちろん、アルバム曲なんかには歌謡曲よりの曲もあったけどさ。

アルバム「ステレオ太陽族」「NUDE MAN」の頃は特にそうだったな。

個人的には、そんな洋楽してるサザンが好きだった。

最近のサザンって、どこか歌謡曲より・・というか、和製の匂いの強いメロディラインが多いでしょ。
それがちょっと残念でね。

また、この「涙のアベニュー」の頃ような洋楽的でみずみずしい感覚のサザンの新曲が聴きたい・・なんて思ったりするんだけどね。

まあ、桑田氏をはじめ、メンバーの年齢を考えると、なかなか難しいことだと思うんですけどね。。。


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ビューティフルエネルギー / 甲斐バンド

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今回の1曲セレクトは、「ビューティフルエネルギー」甲斐バンドです。

まずはデータです。

・タイトル    ビューティフルエネルギー
・アーティスト  甲斐バンド
・作詞      甲斐よしひろ
・作曲      松藤英男
・編曲      甲斐バンド 椎名和夫
・リリース日   1980年3月20日
・発売元     東芝EMI
・オリコン最高位 9位
・売上げ枚数   25.3万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 9位
・ベストテンランクイン期間:1980年5月19日付
・タイアップ:カネボウ化粧品 '80夏のキャンペーンソング

年代の分かれ目を境に時代の空気が変わるというのは昔からよくある話。

1959年→1960年
1969年→1970年
1979年→1980年

単なる数字上の話にも見えるけど、これらを境に時代の空気はガラッと変わったという印象が強い。
もっとも、1959年→1960年には、ワタシゃまだ生まれていないんで、あくまでも「現代史」的教科書上で知っている範囲内の事でしかないけども。。。

1959年、1969年については、「安保闘争」とその批准という政治的な時代の空気の変化というのが、大きく影響していたんだろう。

ただ、そんな政治的な時代の変化に追随するかのように、「流行音楽」の世界も年代の分かれ目を境に変化してきたようにも思える。

ここでは、以前からよく使う言葉だけど、「歌は世につれ、世は歌につれ」とっていうのは、このことからも全く当てはまる言葉なんじゃないかなぁ・・と実感するわけです。

ただ、1979年→1980年への変化。 この年代の境については政治的な変化よりも、音楽的な時代の変化というほうが大きかったんじゃないか。そう思えるんだよね。

1979年→1980年の時代の境、この時個人的には、すでにヒット曲の世界に両足を突っ込んでいたわけで、リアルタイムでそんな時代の変化の空気を感じたから、余計にそう思うんだろうな。



今回は、そんな時代の境目、1980年の今頃のヒットを引っ張ってきましたわ。

甲斐バンド「ビューティフルエネルギー」

この曲は、カネボウ化粧品「80年夏のキャンペーンソング」として、41年前の今頃は大量スポットが打たれ、頻繁にCMで流れていましたね。

↓ コレ



80年と言えば化粧品会社のキャンペーン戦争が激化したころですわ。 
この直前の「春のキャンペーン」では、カネボウが渡辺真知子さんの「唇よ熱く君を語れ」、資生堂が竹内まりやさんの「不思議なピーチパイ」、これに加えてポーラ化粧品が庄野真代さんの「Hey Lady〜優しくなれるかい〜」と、ヒットチャート上でも史上まれる見る三つ巴の激戦を演じたわけで。

当時、テレビの歌番組には「出ない」甲斐バンドのこの曲を、個人的に知ったのもCMからだったと思う。
そういえば、やはり少し前、80年明けの一発目のCMとして話題になった、財津和夫氏の「Wake Up」を知ったのも、「SEIKO」のテレビCMからだった。
逆にこのすぐ後、山下達郎氏の「RIDE ON TIME」も、マクセルカセットテープのCMから知った。

テレビの歌番組には出ないアーティストたちの曲をテレビのCMで知る。そういう意味では当時のCMは、良質な情報源だったんだよね。

もっとも、ワタシがもう2〜3年早く生まれていたら、これらの曲はラジオから知ったんだろうけど、1980年、10〜11才だったワタシは、まだラジオは聴いてなかったわけで。。。

そんなカネボウのキャンペーンCMで耳にしたこの曲、「え? これが甲斐バンド?」というのが、最初の印象だったのを覚えてるなぁ。

個人的に甲斐バンドと言ったら、前年の「HERO〜ヒーローになる時それは今」であり「安奈」と言うイメージだったんだよね。

口悪く言えば、泥臭い土着的なロック。
それが甲斐バンドと言う人たちの個性だとも思えたんだけど。。。

当時ロックBIG3と言われた、ゴダイゴ、ツイスト、サザンという、ロックの中でも、よく言えばソフィケートされた、悪く言えば大衆的なロックとは対極的な位置にあったような。

でも、この曲はそんな「土着的」なイメージが一層され、むしろ爽快なポップチューンのように感じた。 要するにイメージの変化に驚いた・・・いや、戸惑ったといった方がいいのかなぁ。

いずれにしても大分、イメージが変わったなと言う印象が強かったんだよね。

まあ、この曲については、ボーカルが通常の甲斐よしひろ氏ではなく、ドラムの松藤英男氏という、変化もあったわけで。 土着的な泥臭いイメージは、甲斐よしひろ氏のボーカルによるところも多分にあったわけで、松藤氏にボーカルが代わったことでの、イメージの変化も大きかったんだろう。


田家秀樹氏の「読むJ-POP」によると

1979年暮れの甲斐バンド武道館公演。 甲斐よしひろ氏は「79年のドラマはすべて終わりました。俺たちは80年代に行きます」と発言。

70年代の終わり 80年代をどう迎えるか。新しい時代の予感がしていた。

とある。

そんな時代の変化に対する、イメージの変化の答えの一つが、この曲だったのかもしれない。
今思えば、そんな風にも思えたりもするんだよね。

もっともオリジナルメンバーだった、ベースの長岡和弘氏が抜け、3人体制になった甲斐バンドの最初のシングルということもあり、新たな甲斐バンドを模索していたというところから、この曲に繋がったとも思えるんだけど。

ちなみに、この時抜けた長岡和弘氏は、キャニオンレコードのディレクターとなり、この後、斉藤由貴さんをはじめとした数々のアイドルをプロデュースすることになる。





ところで、↑に引き合いに出した、財津和夫氏「Wake Up」、山下達郎氏「RIDE ON TIME」、いずれもオリコンでは、ベスト3入りしていたにもかかわらず、「ザ・ベストテン」ではいずれも11位止まり。 確かにベストテンの特定配分はレコード売り上げの配分比率が低めで、逆にハガキリクエストが高かったことを考えれば、こういう結果だったこともやむを得なかったのかもしれない。

・・けど、いずれもレコード売り上げと併せてラジオチャートでもベスト10内に入っていたこれらの曲でもあったわけで、少し腑に落ちないところもあることはあるんだけど。。。
両者ともランクインしても、出てくれないだろうし・・・なんて、最初からあきらめていたんじゃないか・・とか。。個人的に少し疑問も感じたりするんですけどね。

・・なんて、あんまり深入りすると、この辺りを深く研究している方たちから突っ込みが入りそうなんで、この辺にしますが。。 
恐らく最も比率が高かったハガキリクエストが全く振るわなかったため、こういう結果だった・・ということで。

かくいう、甲斐バンドの方たちも、ベストテン入りしても出ない人たちの一つでしたね。
もっとも、「HERO〜ヒーローになる時それは今」の時に一度出演しましたが。。。



これを見ると、当時の歌番組側の考えと、甲斐よしひろ氏の考え、さらには視聴者の間にかなりの齟齬があったようですね。 いや、甲斐よしひろ氏だけではなく、多くのニューミュージック系アーティーストが感じていたのは、そこなんですよね。

でも、後年、甲斐よしひろ氏から、本当は「安奈」の時は出演しても良かった、出演オファーを待っていたけど、オファーが来なかったとジョークまじりの発言もあったりしてね。
まあ、どこまで本気で、どこまでが冗談かはよくわからないけど。 

でも、もし、本当だとしたら「安奈」もベストテンで聴きたかったなというのは、個人的には本音で思いますね。

・・・と最後は「ビューティフルエネルギー」とは関係ない話になってしまいましたわ・・・メンゴ。




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「ザ・ベストテン」再放送第1回は1980年12月25日分

https://www.toonippo.co.jp/articles/-/361475?fbclid=IwAR0WNr9NRAL1cCUY6fdGlS4jGGmMDl57WEZbaHzleSSFBes1jb2mEaLGUFs

既に何人も書いてるけど、CS TBSでの「ザ・ベストテン」再放送、第1回(?)は1980年12月25日放送分に決定したそうだ。

じつは、個人的にはこの回のビデオ持ってたりするんだよね。で、今、この回のビデオを見ながらちょっと気が付いたことが。。。。

なんで、今回この回が再放送なのか。


第1に 1980年っていったら、ちょうど40年前ですよ、あーた。
CS TBSで謳っている「あの頃へタイムトリップ!!」っていうコピーに丁度いいじゃないですか。キリがよくて。


第2に この回は1980年年間ベストテンを発表した週ですわ。1980年という時代を俯瞰するにはぴったんこ。

第3に 年間ベストテンを発表する前にこの週のウイークリーベストテンを発表するんだけど、この間「マツコの知らない世界」で取り上げられた、3大アレンジャー 船山基紀氏、 大村雅朗氏、 萩田光雄氏、3人共にアレンジされた曲がベストテンにランクしてるんですねぇ。

船山氏⇒ 「恋人よ」「ハッとして!Good」
大村氏⇒「Mr.ブルー〜私の地球〜」
萩田氏⇒「ひとり上手」「若さのカタルシス」


これは、第1回再放送としては、この週しかないよね・・・・。ってことなんだろうなぁきっと。

・・・と共に、この間の「マツコ〜」の番組ともつながりがあったのね、何気に。「なんでぇ、ベストテンの再放送と全然関係ねぇじゃん」とか思ってんだけど。。。

ちなみに、この回は個人的にも思い出が深くて、「年間ベストテン」を初めて50位から記録したのがこの回だったな。 次の日メモったランクを画用紙に「清書」して自分の部屋の壁に貼ってたっけ。 
で、ランクを記録するって面白さに目覚めちゃいまして、次の放送回の1981年1月8日から、毎週毎週ランク記録が始まるんですよ。 結局最終回まで、雨が降ろうが雪が降ろうが、たとえ、じいちゃんのお通夜であろうが、修学旅行であろうがお構いなしにランクを記録し続けたんだよね。
そういう意味では、今の私に繋がる放送回でもあるんだよな、この週は。

わすれじのレイド・バック / サザンオールスターズ

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今回の1曲セレクトは、「わすれじのレイド・バック」サザンオールスターズです。

まずはデータなのら。。

・タイトル     わすれじのレイド・バック
・アーティスト   サザンオールスターズ
・作詞       桑田佳祐
・作曲       桑田佳祐
・編曲        サザンオールスターズ
・リリース日    1980年7月21日
・発売元       ビクター
・オリコン最高位   28位
・売上げ枚数   4.9万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 46位

どんばんわ。。 久々に「平日」の1曲セレクトです。。。
最近は平日仕事から帰ってきてPCに向かうのが億劫でねぇ、風呂入ってそのまま寝ちゃうのがデフォルトなもんで、どうしても土日に書く事になっちゃってるんだけど。。。
だからねぇ、今回もまた週末書けばいいか・・とは思ってはいたものの、今週末はROCK IN JAPANだかんね〜。こりは書けんわい・・・・と疲れた体に鞭打ってPCに向かっておりまする。

個人的に今年のROCK IN JAPANの一番の目的は、大トリのサザンだからねぇ。 その前に1曲書いておきたい・・・っていうのもあったんだよね。 もちろんサザンを。

で・・・書くからにゃ、「ナッツ〜」の曲だよな・・・と思いーの、何曲か考えてたんだけど、最近、セレクト曲がちょっとマイナーヒット傾向にあるんで、ここんところは、どっかんどっかん花火を打とうか・・・と93年の「エロティカセブン」。。。。

いやまてよ・・・・という思いが頭をもたげ・・・ 実際に引っ張って来たのが・・・

「わすれじのレイド・バック」

うーむ、これだから最近の1曲セレクトは、アクセス数が伸びないんだよな・・・ なんて、自分でも分かってながら引っ張ってきたりして。。。

この曲、ご存じの方どのくらいいらっしゃるのかなぁ・・・。

サザンファン・・・特に初期からの古いサザンファンの間では人気が高い1曲なんだけど・・・。

なんせ、売れませんでしたからねぇ・・・。 オリコン最高28位・・と、かろうじて30位の壁は上回ったものの、売り上げ枚数は4.9万枚。。。

この売り上げ枚数、ここまでのサザン歴代のシングルの中でも「ブービー」なのよ。 そそそ、ワースト2位。
一番売れなかったのが81年の「Big Star Blues」の4.6万枚だけど、これは実質、アルバム「ステレオ太陽族」からのシングルカットと言ってもいいんでさ。だから、当初からシングルとしてリリースされた中では、一番売れなかったと言ってもいいかもしれない。

ぢゃ、なんで、この曲なの・・・といわれたら、ま、率直に行って個人的に好きな曲だから・・・なんだよね。
難しい理由は無く。。。。

もちろん、リリースされた1980年当時は、この曲はまだ知らなかった訳でさ。 そりゃそうだよなぁ、80年頃は、まだ、ラジオも聴いて無かったし、ヒット曲と言ったら、「ベストテン」が全てだったからさあ、いくらサザンの曲と言ってもこれだけマイナーな曲となると知らなかったですよ。

兎に角、当時、サザンは低迷期だったからねぇ。 ま、実際はこの年初めの「涙のアベニュー」をリリース後、暫く半ば活動休止状態だったサザンだったわけで。

そんな中、FIVE ROCK SHOWと銘打って5か月連続でシングルリリース。 まあ、実質はこれが唯一の活動と言ったら活動だったんだけどさ、この5カ月連続シングルリリースの最後のリリースとなったのが、この「わすれじのレイド・バック 」ですね。

ちなみに、FIVE ROCK SHOWと銘打った割に、今思うと「ロック」っぽい曲が1曲も無いんだけどさ 

ただ、どの曲も売れなかった訳でさ。 唯一10万枚を突破したのが、5月リリースの「いなせなロコモーション」ぐらい・・・・、あ、「涙のアベニュー」もギリで10万を超えてたか。。。
 いずれにしても今の押しも押されぬ「国民的」な大御所バンドからすると想像もつかないけど、長い活動期間の中で一番低迷してた頃。 前年「いとしのエリー」の大ヒットがあったのが嘘のようで・・・。

アルバムは売れてたけどね、シングルは出しても売れない。泣かず飛ばずな状況でしたね。

当時はシングルヒットっていうのは、人気のバロメーターとしては必須条件だったからさ。 だから、ワタシも、さしものサザンも消えちゃったか・・・って思ってた頃だなぁ。

奇しくも1980年って、前年79年ロックBIG3と呼ばれ、トップ争いをしていたゴダイゴ、ツイスト、サザン・・・どのバンドも低迷した年なんだよね。 これも時代の流れか・・・なんてガキのくせして思ってたもんよ。


で、実際にこの「わすれじのレイド・バック」を聴いたのは、「バラッド'77〜'82」っていう、後にCDで超ロングヒットになったベストアルバムですね。
そそそ、まだ「カセット」しかなかった頃の奴・・・。っていうか、「バラッド」って初めは82年リリースだったんだけど、最初はカセットのみリリースの企画盤だったんだよね。 

これをいつだったかなぁ、84年ぐらいに購入したんだと思う。カセット。
で、大分聴いたよなぁ。 ま、今でもCDは持ってますけどね。

その中で、なーんか気になったのが、この「わすれじのレイド・バック 」だったんですよ。

タイトル通り、めっちゃくちゃ、のどかなカントリー調の曲で。。。
サザンでカントリータッチの曲って珍しいからさ。 これ以来も今に至るまであんまりないような気がするな。

そうそう、タイトルの「レイド・バック」っていうのは、「のどかな、リラックスした」って言う意味ね。

そんなリラックスした、ミディアムスローな曲なのに、 ♪ 指でさぐることなど 辛い IN YOUR SOCKET〜 ♪ と来たもんだ。いつものエロな桑田節が炸裂してるんだよね。

そのギャップさが良いんだよなぁ。

まあ、中学生〜高校生だったから、この歌詞の意味も分かったんだけどさ。  もし、ヒット当時聴いても、意味はわかんなかっただろうしね。(1980年と言ったら、小学5年生)

この曲の一番最後は全員で「シング・アウト」部分で終わるんだけど、これはやっぱ青学時代「フォークソング同好会」に在籍してた頃の名残でしょうかねぇ。
桑田氏著の「ロックの子」を読むと、「フォークソング同好会」の頃、全員でシング・アウトさせられたって言うくだりがあったりするしさ。

でも、なぜか、この「シング・アウト」がグッと来るんだよなぁ。 この曲のハイライトと言ってもいいかもしれない。

ただ、83年のアルバム「綺麗」のラストの「旅姿六人衆」も最後はシンク・アウトで終わる。 これもグッと来るんだよなぁ。 
大学の頃はみんなでシンク・アウトするのがキライだったっていう桑田氏だけど、本当はどうなんだろ? 本音は結構好きなんじゃないかなぁ・・・・なんて勘ぐったりして。。。。


本家サザンもライブでやってくれないかなぁ、この曲。
今となっては、超死角に入ったこの曲。 サザンファン歴が比較的浅いヒトは知らないヒトもいるだろうしなぁ。 達郎氏の「マニアックライブ」に匹敵するようなライブでもないと、もうやんないだろうな。

(追伸)
↑のように、「(ライブでは)もうやんだろうなぁ・・・」と書いたのが2018年だったけど、2019年の全国ツアー「キミは見てくれが悪いんだから、アホ丸出しでマイクを握ってろ!!”だと!? ふざけるな!!」で演ってくれましたねぇ〜。 まさか、演ってくれるとは思ってもいなかったので。。。
しかも、↑で書いた「旅姿六人衆」とセット演ってくれたり。若干マニアックではあったけど、ツボにはまったツアーでしたね。
あー、また、サザンのライブ参戦したいっす

併せて、この曲の動画あるわけないよなぁ・・・と、これ書いた当時は、サザンの動画は悉く消されてたのを憂いたんだけど、最近はこの動きも緩和されつつあるんでね。
一応動画があったんで、リンク。このまま消されないでほしいなぁ。





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酒場でDABADA / 沢田研二

1980_11_酒場でDABADA_沢田研二

今回の1曲セレクトは、「酒場でDABADA」沢田研二です。

まずはデータです。

・タイトル     酒場でDABADA
・アーティスト   沢田研二
・作詞       阿久悠
・作曲       鈴木キサブロー
・編曲       沢健一
・リリース日    1980年9月21日
・発売元      ポリドール
・オリコン最高位 14位
・売上げ枚数   14.4万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 10位
・ベストテンランクイン期間:1980年11月3日付

一気に寒くなりましたね。
寒くなって来ると、「あー、年末も近くなってきたよなぁ」・・・なんてシミジミと感じてしまうワタシだったりしますが。。。
 でもねぇ、ここ何年も、この時期なると「音楽祭」だよなぁ・・・っていう感覚はすっかり無くなりましたねぇ。
昔はさあ、11月ともなると、各局こぞって「音楽祭」を開催してたじゃん。大晦日の「レコード大賞」を筆頭に、「歌謡大賞」だぁ、「FNS音楽祭」だぁ、「有線放送大賞」だぁ、なんだぁ、かんだぁ・・・とさ、各テレビ局とタイアップして。
だからさ、この時期ともなると、毎週、どこかしらの局で「音楽祭」の特番をやってしましたよね。

かく言う、ワタシも一時は、毎週毎週、ほとんど全部の音楽祭を見てた事があるなぁ。
で、そんな「熱」が上がっていたのが、1980年前後じゃ無かったかな・・・振り返ると、そう思うな。 

今思うと「アホらし・・・」とか思ったりもするんだけど、当時は、それだけ「エネルギー」があったんだよな、ワタシも。

ま、実際、1980年はいわいる「五・八戦争」とか言われて、各音楽祭で五木ひろしと八代亜紀との熾烈な大賞争いを繰り広げてたしな。加えて松田聖子、田原俊彦を筆頭に新人も勢いがあったんで、歌謡祭としての賞レースも見てて面白かったんだよね。

今回は、そんな1980年の各賞レースで歌ってた、ジュリーのこの曲をセレクト!

「酒場でDABADA」

・・・っつかさ、正直言ってこの年のジュリーの賞レースは、この曲だったのか・・・っていうのは、今思うと不思議だったんだよなぁ。
どう考えても、この年のジュリーっていったら、「TOKIO」の筈だったんだけど・・・。

まあ、この時点で最新曲だったから・・・って事なんだろうけど。。 

ただね、音楽祭向きの曲だったか・・・っちゅうと、ちょっと頭をひねりたくなるんだよな。

悪い曲ではないんだけど、ちょっと難しい・・というかひねり過ぎているっていうか・・・。 まあ、簡単に言えば、ソングフェスティバル向けの、誰が聴いても分かりやすい曲・・・では無いって感じだったんだよな。

当時、小学5年生で、何でもかんでも手当たりしだいに聴いて、聴いたそばから吸収して行ってたワタシも、この曲は、正直分かりにくかった。

ジュリーっていうと、キザ、モテ男、奇想天外(なファッション)・・・っていうところが真っ先に頭に来てた訳でさ。

この年にしても、件の「TOKIO」では、例の「電飾衣装」に落下傘背負って来てたり、この曲の前の「恋のバッド・チューニング」では、色が変わるカラーコンタクトしてきてたり、70年代にもまして奇想天外というかね奇抜なフッションを前面に、表に出て来てましたよね。

この曲では、そう言った、奇想天外なところも、エンターテイメント的なモテ男っていうのも見られなかった。

楽曲的にも、「勝手しやがれ」や「サムライ」、「LOVE(抱きしめたい)」で大ヒットを飛ばしていた頃に比べても、スケール感を感じ無くなって来ていたし・・・。

そう言うところから、なんで、この曲をわざわざ「音楽祭」に持ってきたんだろ・・・って言う疑問は、まだ11才のクソガキだったワタシも感じてたんだよね。


でもやっぱその辺りは、一般的にも感じられていたのかなぁ、オリコンではベストテン入り出来なかったし、売り上げも14万そこそこ。奇しくもこの曲のちょうど1年前にリリースされた「ロンリーウルフ」と同じように「低迷」しちゃったんだよなぁ。

ま、「ロンリ―ウルフ」とちがったのは、この曲では「ザ・ベストテン」ではベストテン入りしたし、上記のように各音楽祭で毎週のように流れていたんで、「ロンリーウルフ」よりは一般的な認知があったことだったろうね。

個人的にも「分かりにくい曲」だなぁ・・・と思いながらも、毎週のように聴いてたら流石に覚えちゃったし、80年秋のジュリーといったら、この曲って言うイメージはしっかり付いちゃったしね。




上で書いたように、前曲まで見られていた奇想天外なエンターテイメント性が無かったこの曲だったから、ついにそろそろ「ネタ」切れだったのかなぁ・・・なんても思えたりもしたんだよね。
いや、当時は、圧倒的にそう感じてた。

まあ、阿久悠氏の詞は別にしても、そもそも作曲者に鈴木キサブロー氏を持ってきたっていうのもちょっと意味が分かんなかったし。。。
ましてや、アレンジャーの沢健一氏ってダレ? って感じだったりもしたし・・・。

でね、今、これを書くに当たって、ちょっと調べてみた。 

沢健一氏、当時バックバンドの「Always」でリードギターをやられていた方だ。 そそそ、この「酒場でDABDA」のイントロでもラフで派手目なギターを披露していた方だ。 
でね、さらに辿って行くと、その昔、「4・9・1(フォーナインエース)」という「GS」のリードボーカルだったとのこと。

まあ、「4・9・1」といっても、これと言ったヒット曲も無いし、いわいるB級、C級のGSだったようだけど、沢氏の前は、ジョー山中氏がボーカルをやっていたと言う事だから、ヒットは無かったものの、いわいるクロウト受けするようなグループだったんじゃないかとは思う。

でも、それを知って、思わずなるほどぁ〜・・・なんて思えたなぁ。

 考えてみたら、この曲の後に、ジュリーも「G.S I LOVE YOU」なんてアルバムをリリースし、その先行として「おまえがパラダイス」なんて、もろ50'Sを意識した3連ロッカバラードをこの曲の次にシングルリリースしたりさ。

つねに「一等賞」狙いだったジュリーだったけど、ヒットどがえしでも、いわいる原点回帰って言う兆しがあったんだよね、この頃ジュリーには。 
まあ、これは次の年の年頭に閉鎖が決まってた、日劇での最後の「ウエスタンカーニバル」出演という布石でもあったんだけどさ。

そこに持って行くための「橋渡し」だったんじゃないのかなぁ、この曲は・・・なんて思えてきたりして。。。



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来夢来人 / 小柳ルミ子

  1980_03_来夢来人_小柳ルミ子


今回の1曲セレクトは、「来夢来人」小柳ルミ子です。

まずはデータです。

・タイトル    来夢来人
・アーティスト  小柳ルミ子
・作詞      岡田冨美子
・作曲      筒美京平
・編曲      萩田光雄
・リリース日   1980年1月25日
・発売元     SMS
・オリコン最高位 22位
・売上げ枚数 13.0万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 23位

東京地方も桜の開花宣言がでましたねぇ。とは言うモノの、ここ数日肌寒い日が続いていたりして桜が咲いたなんて実感は無いんですけどね。
実際、ソメイヨシノが咲いてるの、今年はまだ見てないし。。。 ま、ソメイヨシノよりも早く咲く、河津桜とか彼岸桜は、咲いてましたけどねぇ。

ところで、桜の季節になると、卒業とか、そのまま「桜」の唄が、巷には流れだしますな。

いやいや、最近は桜=卒業ってイメージなんだな。 昔・・・っちゅうか、ワタシがガキの頃は、桜っつったら、「入学式」のイメージでしたけどねぇ。
まあ、これに関しては先日、新聞にもここ50年で、桜の開花時期がこれだけ早まった・・・っちゅう特集をやってましたけどね。

だけんど、最近の「桜」の唄って、どうして、同じようなイメージなんでしょうかねぇ。しっとりとしたバラードで・・っていう「相場」がほとんど決まっちゃってるじゃん。

これってどうなのよ? ・・・なんて思ったりしてるわたしなんですが・・・。

昔は、もっとワクワクした曲が多かったような気がするけどなぁ、春って言うキーワードの曲はさあ。


今回は、そんな昔の「桜ソング」をひとつ。

小柳ルミ子 「来夢来人」

え? なんでこの曲が「桜ソング」なのよ? ・・・なんてクレームの一つも来そうな気もしないでもないけど。。。

でも、サビの部分で ♪ 桜の 吹雪を浴びて 汽車ははしる〜 ♪

ってあるじゃん。  桜ソングなのよ、この曲。

ま、リリースからして、1月25日と、これから春に向けて・・・っていう「春」を意識した曲でもあるしね。

しかしねぇ、この曲、オリコンでは22位までしか行かなかった曲なんだけどねぇ。 今から37年も前で、しかもオリコン最高22位の曲なんて、覚えてるヒト少ないよな・・・ なんて、タカをくくっていたりしたんだけども、ネット上みると、結構、この曲レビュってるヒト多いんだなぁ。

いや、誰も書いてないと思ったんで、持ってきちゃったりしたんだけどさ。  

これだけ、レビュってるヒトがいるんだったら、ワタシが書くまでも無いか・・・とかも思ったりもするけど・・・でも、まあいいか。

この曲がリリースされた頃、ワタシゃ10才。小学4年生でしたねぇ。
小学4年生にしては、マセた曲を聴いてたな・・・なんて自分でも思ったりするんだけど。。。

でもね、この曲なぜか、よく記憶に残ってるんだよな。
クイズ「ドレミファドン」でよく聴いたような気がするんだよな。それから、「ドリフ大爆笑」とか。。

ま、ともかく当時の「ナベプロ」制作番組にはよく出てたよね、この曲の頃。

とは言うモノの、いくらマセガキだったとは言っても、やっぱ引っかからなかった曲も多かったのも事実だしね、ひっかかったって言う事は、やっぱ、引っかかった要素があったんだろうな。

まずはイントロからして、よかったもんね。 この曲のアレンジャーは、萩田氏ですが、久保田早紀「異邦人」のすぐ後がこの曲だったりもして、やっぱ脂が乗り切ってる頃だったんだろうな。

ま、それ以上に、この曲、作曲が筒美京平氏なんだよな。 それまでの小柳ルミ子さんといったら、平尾昌晃氏の専売特許的なところがあった訳で、だから、筒美京平氏は、シングルタイトル曲としては、この曲が初めてなんだけど、さすがに筒美氏。
たしかに、ベースは歌謡曲らしく、少し「和」を感じるけど、それだけじゃないんだよな。
いや、小柳ルミ子さんって、デビュー曲の「わたしの城下町」から「和」を感じる「歌手」だったわけじゃん。でも、この曲は、単に「和」を感じるだけじゃないんだよな。
「和」を感じながら、どこかに「洋」を感じるって言うのかなぁ。 
例えば「どら焼き」みたいなさ。あんこが入ってんで和菓子なんだけど、小麦粉の皮で焼いてるのは洋菓子風なわけじゃん。 そんなイメージなんだよな、この曲。

メロディの流れとしては、筒美氏お得意の「Cメロ」入りの展開。 そそそ、曲の最後の方で、それまで出てこなかったメロディ展開

♪ しっかりしているつもりだけれど〜 ♪ っていうところですね。

そんな少し複雑なメロディ展開なんだけれど、そこが逆に印象に残ったりしてね。

いや、でも、これが筒美氏の持ち味なんだよね。 複雑なメロディ展開と言っても、同時期にリリースされた西城秀樹「悲しき友情」の一筆書き的なメロディ展開に比べたら、まだまだましだしね。

それと筒美氏といったら、それまでは「アイドル」中心って言うイメージが強かった訳だけど、この曲、当たり・・・79年〜80年初頭にかけては、この曲のような「アダルト」なヒトへの曲提供にシフトしていた感が強いんだよね。

ま、前年、レコード大賞をとった、ジュディ・オングの「魅せられて」もそうだろうし、この曲の少し前には、梓みちよさんの「よろしかったら」って曲もスマュッシュヒットになってたりする。
 そそそ、梓みちよさんの「よろしかったら」も、この曲同様、和テイストに洋のイメージをミックスしたような新たなイメージの曲に仕上がっていたよなぁ。

それだけ、ヒット曲の主体はアイドルから「自作自演」のニューミュージックへって言う時代だったわけで、職業作家のヒトたちにとっては受難の期間だったのかもしれないけど。。。

それでも、楽曲のクオリティを落とすことなく、きっちりと印象的な曲を残しているって言うのはさすがなんですよね。
それが功を奏した訳で、当時、小柳ルミ子さんってヒット曲がでなくて四苦八苦してたんだけど、約3年ぶりの10万枚オーバーっていスマッシュヒット。
これもやっぱ筒美京平って言う天才的メロディーメーカーの功績なんじゃないのかなぁ・・・なんて思ったりもするんだよね。


・・・などとウダウダ書きましたけど、個人的に一番印象的だったのは、実は「来夢来人」って言うタイトルかなぁ。

サビの ♪ 来る夢 来る人と書いて来夢来人(らいむらいと)〜 ♪ って言う歌詞は、なんとなくわざとらしい気もするんだけど、 「らいむらいと」っていう響きが新鮮だったんだよなぁ。

本来、最初に書いたように「春の唄」ってことで、桜のイメージの曲なんだろうけど、それ以前に「来夢来人(らいむらいと)」っていう響きが印象に残っちゃってねぇ。

らいむらいと って響きから、個人的には「ライム」色って言うかねぇ、淡い黄色のイメージがあったりしてね。

そそそ、丁度同時期に、RCサクセションの「雨上がりの夜空に」で、 ♪ジンライムのように流れる お月さま〜♪ってあったじゃん。 そんな色感のイメージが、この曲にも感じるんだよなぁ。

だから・・・と言う訳でもないんだけど、「春唄」として、桜のイメージをもったのは、極々最近なんだよな、個人的に。ずーっと、長い間、「ライム色」っていうイメージだったんだよね。



恐らく「ドリフ大爆笑」からだと思うんだけど、まだ八重歯がある頃のルミ子さんですな。
うーむ、このころは既に八重歯は無いと思ってたんだけど、意外な発見だったなぁ。
ちなみに、この時、ルミ子さん27歳。

当時の印象からして、めちゃくちゃ「大人」の女に感じたけど、まだ20代だったんだよなぁ。
まあ、今、VTR見ると、「あ、若い」って思うけどさ。 
でも、ウタは、めちゃくちゃしっかりしてますよね。


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赤と黒 / 岩崎良美

1980_02_赤と黒_岩崎良美


今回の1曲セレクトは、「赤と黒」岩崎良美です。

まずはデータです。

・タイトル     赤と黒
・アーティスト   岩崎良美
・作詞       なかにし礼
・作曲       芳野藤丸
・編曲       大谷和夫
・リリース日    1980年2月21日
・発売元      キャニオン
・オリコン最高位 19位
・売上げ枚数   11.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 23位

昨日のネットニュースでトシちゃんが11年ぶりに「メジャーレーベル」に復帰というのが出てましたな。
奇しくもデビュー日にあたる6月21日に「ユニバーサル」から新曲リリースとの事。

デビューから37年。未だに第一線で活躍されている様には恐れ入りますわ。 
ここまで長続きしてきた要因、いろいろあると思うけど、トシちゃんの場合は、バラエティに富んだ楽曲性だろうね。1曲ごとに曲調が全く変わる。ここが飽きられない秘訣だと思うんだよね。

まあ、デビュー当時は、「ウタヘタ」ってことで大分揶揄された訳だけども、今から考えれば、それが返って良かったのかもな。 
ウタヘタだったから、曲調にこだわらなくても良かったっていうのもあるだろうし、最初から歌唱力は期待されなかった事でさ、色々な曲にチャレンジ出来た訳なんだよね。

ちなみに、トシちゃんは「花」の1980年デビュー組のエース。

・・ということで、今回は同じ1980年デビュー組のこのヒトの曲を持って来ましょうか。

岩崎良美「赤と黒」

そそそ、岩崎良美さんの「デビュー」曲ですね。 リリースは1980年2月21日。

80年代アイドルゴールデンエイジの幕開けを切った、1980年デビュー組の中でも早いんだよね。 実質トップバッターと言う形だったんだよね。

まあ、それがこのヒトにとっては良かったのか悪かったのか・・・と言う事になる訳だけど、結果的には、あんまり良かったとは言えなかったのかもなぁ。

理由は簡単、このデビュー曲からして「80年代アイドル」らしさを感じられない・・・からなんだよねぇ。

いや、曲自体は決して悪い訳じゃない。歌唱力も、さすがに岩崎宏美の実妹だけあって完璧だし。。。

でも、そこが返ってマイナスだったんだよな。 そんな完璧なアーティスト性から返ってフレッシュをあまり感じられなかったし。。。。

なにより「時代は動いている」・・・と言うところを捉えきれなかった曲調だった所は大きいよね。

作曲は 芳野藤丸氏、アレンジは大谷和夫氏という「SHOGUN」コンビの作品。 ま、初期の3曲まではこのコンビの作品が続くんだけども、そう言うところもあって、完全に「ニューミュージック」にコミットしたような曲調なのよ。 当時、まだ18才にしては大人っぽい曲だったし。
でもさ、ニューミュージックがヒットの中心で、本来の「アイドル」という形は低迷だった、前年79年の状況が続いていれば、それでも良かった。。
・・・・というか、それが正解だったんだよね。 歌える、大人っぽいと言うところに於いてさ。

例えば、79年の新人王であった桑江知子さんにしても、同じような路線だったし。なにせ、あの竹内まりやさんでさえ、79年は「アイドル」でしたからねぇ。

まあ、そう言うところもあって前年からの流れを受け継いだようなこの曲をデビューとして持ってきたんだろうけど。。

ただ、今この曲を聴くと、ちょっと古臭いんだよね。80年代というよりも、完全に70年代の流れをくんだ曲と言う感じで。
 まあ、80年代突入して、2カ月で70年代から80年代へ、突然変異のように転換しろ・・・というのも酷な話ではあるけど。。。

どうなんだろう? もしかすると、この曲がリリースされる時点では、「アイドル」と言うモノ自体、商売にならないと感じていたんでしょうかね?  

売り上げは11万枚と、それでも70年代終盤以降のアイドルのデビュー曲としては上々の滑り出しではあった。いや、ミュージック全盛の当時、アイドルは売れて、ぜいぜいこの位・・・ってことで満足しちゃってたんではないか・・・そんな感じを受けるんだよな。


でもね、その一方で、時代は確実に動いていたんだね。 

1980年4月1日。 この日は、松田聖子さんのデビュー日だけど、正直言って、この日を境に、ヒットチャートの「色合い」がガラッと変わったような印象が強いんだよね。
 長年ヒットチャートを見てくると、「時代の転換点」と感じる時期があるんだけども、その一つは、1980年4月1日を境にした前後の違い。 これは大きく立ちはだかっていると思うなぁ。

結局何が言いたいか・・・というと、岩崎良美さんは、この「時代の転換点」に対応できなかった・・・いや、対応されなかった一人なんじゃないか・・・なんて思うんだよね。

例えば、デビュー日が2月21日という、早めのデビューではなく、4月1日以降、もっと遅いデビューだったらどうだったんだろうとかさ、やっぱり考える事はあるんだよな。
もうちょっとポップ気味な軽い曲を初めから歌ってたんじゃないか・・・とかね。 

まあ、それでも持ち前の歌唱力もあって、最初からポップ系というよりは歌唱力系な曲だったかもしれないけど。。。
やっぱり、このヒトが一番不運だったのは、お姉さんのように歌唱力を持ちながら、ディスコという歌唱系とは相反する組み合わせで、イメージを根本から変えた筒美京平氏のようなかたが居なかったからかもしれないなぁ。

そう、このヒトのイメージを根本から変えるようなブレーンが居なかった事。 そこに尽きるのかもしれない。






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なみだ涙のカフェテラス /ジューシィ・フルーツ

1980_12_なみだ涙のカフェテラス_ジューシィ・フルーツ


今回の1曲セレクトは、「なみだ涙のカフェテラス」ジューシィ・フルーツです。

まずはデータどぇす

・タイトル     なみだ涙のカフェテラス
・アーティスト   ジューシィ・フルーツ
・作詞       近田春夫
・作曲       柴矢俊彦
・編曲       ジューシィ・フルーツ
・リリース日    1980年10月1日
・発売元      コロムビア
・オリコン最高位 13位
・売上げ枚数   15.8万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 13位

昨夜はFolder5の「Believe」なんぞ書いちゃったんだけども、本来は、今回引っ張ってきた、この曲を書くつもりだったんだよね。
でも、どーしても書きだしが出来なくてさ。ウダウダしてたら、いつの間にか0時よ。
あー、だめだぁ・・・なんて思ってたら、たまたま昨日のFolder5が浮かんできちゃいましてね。。。

だけど、どーにもスッキリしないんだよな。 なんで、本来昨日つもりだったこの曲を改めて持って来ましたわ。

ジューシィ・フルーツ「なみだ涙のカフェテラス」。

この曲はジューシィ・フルーツの大ブレイク曲となった、あの「ジェニーはご機嫌ななめ」の次のシングル。
だけど、リリースは、ちょうど「ジェニーはご機嫌ななめ」が、丁度ヒットのピークだった1980年10月だったんだよね。
だから、チャート的に言えば、後追いと言う形で、「ジェニー〜」がランクダウンして来たのと入れ違いでチャートが上昇してきたんだよな。
だから、印象としては「ジェニー〜」が落ちたばっかりなのにもう新曲? って言う感じだったんだよなぁ。

まあ、出し手としては、良いタイミングでチャートに乗っかってきた感じだったんだろうけどね。

ただ、やっぱり「ジェニー〜」よりはインパクトと言う面では劣っていたよな。うむ、「ジェニー〜」の時の、ボーカル・イリアのあの「素っ頓狂」なファルセット(ウラ声)はねぇ、良い意味でも悪い意味でも、インパクトに富んでいたからなぁ。
 そこから見ると、この曲は、イリアのボーカルは「普通」に戻っちゃったからな。 あ、イントロの ♪ ヤンヤンヤーヤ〜 ♪ っていうコーラス部分ではウラ声使ってたけど・・・。

その前に・・・・ジューシィ・フルーツと言っても、もしかすると、既に知らない方も多いかもしれない。

・ボーカル・リードギター  イリア(奥野敦子)
・リズムギター  柴矢俊彦
・ベース      沖山優一
・ドラム       高木利夫

の4人ユニット。
うむ、ギターの柴矢氏は、後にナンノちゃんの「吐息でネット」を作曲したり、2002年の「おさかな天国」を作曲した方でも有名なっちゃいましたな。
ジューシィ・フルーツの前身は、いまや大学教授におなりあそばした、近田春夫氏中心のユニット「BEEF」。だから、そんな流れで、ジューシィのプロデュースも近田氏が行っていた訳なんだよね。

デビュー曲は、この曲の前の「ジェニーはご機嫌ななめ」というわけで、BEEF時代は考えないで、単純に「ジューシィ・フルーツ」と言う面で見れば、デビュー曲がいきなり大ヒットとなった訳ですわ。

この「なみだ涙のカフェテラス」、当時テレビで初めて聴いたのは、「クイズ・ドレミファドン」ぢゃなかったかなぁ・・・。 うん、「ジェニー〜」を初めて聴いたのは「ドレミファドン」だったことはよく覚えてるんだけどね。 当時11才のクソガキだったワタシでさえ、「なんじゃこれ」って思ったもの。 まあ、それがインパクトだったんだけどさ。

 この曲もそんな「ジェニーは〜」の「続編」を期待してたところがあったんだと思う。でも、ウラ声ぢゃなくて、普通の声だったからさ。。。。
期待外れというか、面白さは感じなかったのも事実だよな。

だから、「ジェニー〜」が37万枚売ったのに対して、この曲が15万枚で止まったのも当たり前と言えば当たり前だったんだよね。
いや、逆に言えば「ジェニー〜」の大ヒットがあったからこそ、15万枚も売れたと言ってよかった訳でさ。

結局さ、立ち位置として「イロモノ」だったんだよね。このヒトたち。

・・・・っていう認識が出来ちゃってたよなぁ、完全に。

実際、当時の印象として、演奏力もそれほど感じなかったし。。。言ってみればヘタウマって感じだったんだよね。
今で言ったら、チャットモンチーとか赤い公園とか、そんな印象だったんだよな。 まあ、ボーカルが女の子でギターと言う事を考慮するとだけど。。。

ただ、あとあとちゃんと聴いたら、とんでもなかったんだけどさ。特に沖山氏の「機械」的無機質なベースはテクニックあったしな。
いや、その前に、リードギターのイリアが、当時の「女子」としては上手かったんだよ。そもそも、リードギター弾いて、ベストテンいりしてた女子なんていなかったんだけどさ。少なくとも日本に於いてのバンド形式では。
向こうでは居たけどね、「ザ・ランナウェイズ」とかさあ。

でも、当時の印象として、正統派のロックバンドというよりはイロモノ的っていうことで売れてきたのは残念だったけどな。
 いや、実力派よりもイロモノバンドって言うキーワードは、もしかすると、当時の「アミューズ」の特徴だったかもしれない。
そそそ、ジューシィ・フルーツって当時、アミューズだったんだよね。サザンだって、最初は「イロモノ」バンドって言う感じだったわけじゃん。
当時は、まだまだ新興の弱小プロダクションだった訳だからねぇアミューズも。バンドテクニックがどうこうと言う前に、まずは売りだすことが先決だったんだろうな。
今じゃ、ちょっと考えられないかもな、アミューズでこういう「突飛押しのない」ようなバンドっていうのも。



動画・・・こんなのしかなかった・・・。
画像と声があっってなかったりするし。。。。
いや、36年前のしかもベストテン入りしてなかった曲なわけで、動画落ちてただけ儲けもんか。。。

うん、この動画見ても、やっぱり「ヘタウマ」っていう印象でしょ。

でも、下の動画聴いてたら、印象変わった



これ、1981年のFM東京でOAされた、スタジオライブ番組らしいんだけど。。
音、めちゃくちゃいいんだよな。今から35年前のものとは全然思えない。
よくこんな音源いままで保管してあったよなぁ。当時、エアチェック流行ってたからなぁ。そう言う方が持ってたんでしょうね。

0秒から4分までが、この「なみだ涙のカフェテラス」なんだけども、↑のテレビでの演奏とは印象違うんだよな。
音がいいって言うところもあるんだろうけど、ヘタウマなポップロックという印象じゃないんだよね。これは完全に「ロック」ですよ。音がタイトだし適度な歪みがねツッパッてるもんな。
うーむ、当時、こういうライブ音源を聴いてたら、このヒト達のその後の印象、違ってただろうな。

ちなみに、この音源の3曲目が「なみだ涙の〜」のカップリング曲だった、「恋はベンチシート」だけど、このタイトルをもじったのが、ザ・ぼんちの「恋のぼんちシート」っていうのは、余りにも有名ですわな。

・・・つか、この音源でも「ネタ」にしてるけど。。。  うむ、プロデュースが同じ近田春夫氏ということで。。。

それにしても、当時は、こういうスタジオライブ番組、FM東京でもやってたんだなぁ。今じゃ、音楽というよりトーク中心の番組が多くて、AMとの区別が無くなって来ちゃったけどな。


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防人の詩 / さだまさし

1980_09_防人の詩_さだまさし


今回の1曲セレクトは、「防人の詩」さだまさしです。

まずはデータです。

・タイトル     防人の詩
・アーティスト   さだまさし
・作詞       さだまさし
・作曲       さだまさし
・編曲       渡辺俊幸
・リリース日   1980年7月10日
・発売元     フリーフライト
・オリコン最高位 2位
・売上げ枚数 56.3万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 3位
・ベストテンランクイン期間:1980年8月4日〜9月29日
・タイアップ:映画「二百三高地」主題歌

今日は全国的に台風で荒れた1日となりましたね。こちら関東でも、丁度、いま雨風が強くなってきてますね。
こういう夜は、一人しんみりと音楽を聴きたいものです。

・・・ということで、当初は今回は別の曲を書こうと思ってたんだけども、この曲に変更します。

さだまさし「防人の詩」

うーむ、シンミリとしてますねぇ。重いですねぇ。
この曲は、1980年夏に公開された、映画「二百三高地」の主題歌として映画同様、曲の方も大ヒットしましたね。

いつかも書いたかもしれないけど、当時、8月の終戦記念日前後になると、決まって「戦争」を題材とした映画が公開されたんだよな。
 この年1980年が「二百三高地」、次の年81年が「連合艦隊」(主題歌 谷村新司「群青」)、そのまた次の年82年が「大日本帝国」(主題歌 五木ひろし「契り」)・・・と、3年続けて戦争物が公開され、いずれもヒットしたんだよね。

その中で、主題歌として一番ヒットしたのが、この「防人の詩」でしたね。

・・というか、この曲だけが突出してヒットしたんだよな。たしかに何れの主題歌も、壮大な中に重厚さを感じる曲ではあったけど。。

その中で、この曲だけが50万枚以上の大ヒットした、っていうのは、やっぱり、この曲が多くのヒトの心に「グサリ」と刺さったものがあったんでしょうね。
 さだまさし氏も、この曲を歌う時は危機迫るような迫力があったもんなぁ。 同じ人が、前年の同じ「夏」に「関白宣言」でおちゃらけていたとは思えないもの。あの曲から比べたら180度違ったもんなぁ。

同時は、まだ「楽曲」の時代だったし、だから楽曲の力で多くの人を動かす時代だったんだよね。

今だったら「クサッ」と思える曲だけどさ、当時は、曲の形式よりも、如何に多くのヒトに刺さる曲であるかっていうのが重要だったんだよな。

そう言う上で、ヒットチャートっていうものも「重み」があったんだよね。

この間の大江千里「格好悪いふられ方」の時に、91年当時は日本のヒットチャート史上最強期って書いた。

確かに、超ロングヒットが多かったという意味では、91年当時のヒットチャートは最強だったかもしれない。

けど、ランクそのものの「重み」と言う意味では、「80年」っていう年は、本当に重みがあったんだよな。
なんて言うのかなぁ、ランクされた1曲1曲、そのものが本当の意味でのヒット曲って感じだったじゃん。
もちろん、曲そのものも良かった。
だから、そんな時代にオリコン2位まで行った、この曲は本当にヒットしたと思う。。。

・・・と大そうに書いてしまったけど、本当の所を言うと、個人的には、ここまで売れていたとは思わなかったんだよね。
 
うん、当時はまだ、オリコン買ってなかったしさ。だから、どの曲がどのくらい売れたか・・・っていうのは全くしらなかった。
まあ、「ベストテン」は見てたから、「ベストテン」の範囲内でのヒット感しか知らなかったんだよね。

その範囲でのは、この曲それほどヒットしていたとは感じなかったんだよなぁ。

まあ、当時、さだ氏は、それほどテレビに出なかったというのもあると思う。
この曲も「ベストテン」には出演した事があったけど、それほど回数出演してなかったしさ。

でも、その数少ない出演した時、しっかり録音してたんだよな、ワタシ。

で、この曲、当時何回も聴いたなぁ。 ・・というか、この頃の曲、個人的にも大好きでさあ。 まあ、テープが伸びるんじゃないか・・・と思うほど、毎日飽きずに聴いてたよなぁ。

だからね、この曲を含め、この頃の曲を聴くと、未だに鮮明に当時の風景が浮かんできますわ。
ワタシは小学5年生 11才だったな。

うん、正直言って、詞の内容は全く分かんなかったんだけども、曲がね、どうしても染みるんだよね、心に。

ちなみに、当時ベストテンからとったテープはこの曲の次が、ジューシィ・フルーツの「ジェニーはご機嫌ななめ」だったして。。。  かなり落差があったんだよな。。。



なつかしいなぁ、そう、こんな感じでしたよ。
レコードでは、オーケストラ編成だったけど、テレビでは、アコギ1本の弾き語りだったんですよ、この曲。
この動画はベストテンではないけど、ベストテンも、これとほぼ同じアレンジだったんだよな。
だからね、個人的にはレコードアレンジよりも、このアレンジがしっくり来るんだよな。
レコードアレンジよりも、さだから訴えかけがダイレクトに感じるし。

ちなみに、この曲で、この年の「紅白歌合戦」に出演した、さだまさし氏ですが、この曲、テレビアレンジで歌っても5分以上あるんだよね。
通常、余程の大御所でない限りそんな尺は貰えない。せいぜい3分がいいところだったんだけど、それじゃ、この曲の意味が通らない・・・と5分のテレビバージョンまるまる歌ったんだよね。 それで当時、いろいろ批判を受けてましたよね。



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