かじやんのヒット曲&チャートレビュー

ヒット曲を聴き続けて40数年! かじやんがお送りする、「今」のヒット曲&ヒットチャートから、「あのころ」のヒット曲&ヒットチャートまで、ヒット曲について幅広くご紹介するブログ。 自主チャートサイト"THE HITCHART NOW AND THEN"の支店ページという位置づけにいたします。

康珍化

神様ヘルプ! / チェッカーズ

1985_11_神様ヘルプ!_チェッカーズ






今回の1曲セレクトは、「神様ヘルプ!」チェッカーズです。

 まずはデータです。

・タイトル     神様ヘルプ!
・アーティスト   チェッカーズ
・作詞       康珍化
・作曲       芹澤廣明
・編曲       芹澤廣明
・リリース日    1985年11月1日
・発売元      キャニオン
・オリコン最高位  1位
・売上げ枚数    35.2万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 2位
・ベストテンランクイン期間:1985年11月11日〜12月23日付

 音楽ってさ、そもそも「音を楽しむ」ものなんだよね。なんて、わけのわからない出だしで始めちゃったんだけどさ、音楽って、音を楽しむと同時に、その時その時の感情を写し出す、鏡でもあるんだよね。

 うん、これが不思議なもんで、気持ちが心から楽しいときは、音も「楽しげ」になり、逆に、気持ちが荒んだ時は、音も「荒んで」しまう。

 プロのアーティストは、ライヴやステージでは大概は、ニコニコ、爽やかにしてるもんでしょ。

 これは、「ブスッ」としてると、音まで「ブスッ」としてしまうのが、アーティストは生理的に分っているからなんだよね。

 音が荒むと、それは聴いてる人・・・特にファンにはダイレクトに伝わり、やがてファンは離れていってしまう。
 ってことになるんだよね。誰も荒んだ音楽なんて聴きたいと思う人は居ないだろうから。
 どんなに大音響な音でも、心地いいからそのヒトの音楽を聴くわけでしょ? プロの評論家とかライターでもない限りは。


 あ、いや、これは、プロに限らないんですよ。アマチュアだって、同じことが言えるんだよね。音の「表情」にはプロもアマも関係ないんですよ。

 昔さ、中学校で、ブラスバンドを始めた時の顧問の先生、千葉では有名な先生だったんだけど、そのかわり、練習は厳しい人でさ。
 特に生活態度まで、厳しく言われたよ。
 「惰性で生きるな」って。惰性な生活してると、音楽も「惰性になるから」ってさ。最初は、意味がわかんなかったんだけど、2年もやってると自然と意味がわかってくるもんなんだよね。
 要は、中学生らしい「みずみずしい音」を出したかったら、普段の生活態度から、みずみずしくなきゃダメってことなんですよね。




 さてさて、今回ひっぱってきた、チェッカーズの「神様ヘルプ!」っていう曲。

 後日のチェッカーズのフミヤの談では、このころは、一番グループが荒んでたっていう時期だったらしいね。

 ゲーノー界全体、音楽に対しても、反抗してた時期だって。


・・・あ、やっぱそうなんだ!・・・・

って、すぐ思ったな。 だってさ、このころのチェッカーズの音って、荒んでるもの。荒い、っていうか、雑っていうかさ。
 フミヤのボーカルにしても怒ってるよね。それまでのグループとしての田舎育ち特有の明るさとか朗らかさ、・・・って言うのが、消えかかってたんじやないかな・・・って、すぐ感じましたよ。この曲聴いた時。

 いや、この曲の前の「俺たちのロカビリーナイト」あたりから、そういう兆しは見えたかな。

 うん、グループとしても、一時的に「ヤバイ」時期だったらしい。

 その辺は、ベースボーカルだった高杢氏の「チェッカーズ」っていう著書に詳しくでてるから、興味がある方は読んでみてくだされ。

 まあ、全然性格が違う、人格が違う大の大人、7人集まるわけだからねぇ、初めの1年、2年は楽しくやれても、3年、4年と続くと、だんだんと、メンバー間に溝が出来てくる、派閥も出来てくる・・・っていうことは自然なことなんだろうけどね。

 グループが長期間続かないって言うのは、まず、これが原因なのは、致し方ない所だろうし、必然なんだろうけどね。


 なんかさ、この曲の

♪ 神様ヘルプ! ヘルプ! ヘルプ! ヘルプ! ヘルプ! ヘルプ! ヘルプ! ♪

って叫んでる様は、歌詞の男の子の叫び・・・というよりも、彼ら自身の叫びに聴こえてきちったりするんだよね。

 もし、あのころ、明星ヤンソンの近田氏の新曲激評コーナーが続いてたら、どんな評になってただろう?

 きっと、「辞めたいんでしょ? じゃ辞めれば・・・」ってなってたような気がするなぁ。

 なんとなく、そこまでグループとして行っちゃってた気がする。特に高杢氏の「チェッカーズ」っていう著書を読んで、改めて曲を聴くとさ。

 その辺の心情は、チェッカーズの師匠である、作曲家の芹澤廣明氏にも重々伝わってたんだろうしね。
 だから、この時期に、まさに「神様ヘルプ!」なんて曲を書いたんだろうけど・・・。

結局さ、藤井兄弟が、芹澤氏に対抗するようになっていたらしいんだよね。このころから。

 つまりは、自作で曲を作りたくなってきてたってこと。

 もちろん、アルバムでは、それまでも、自作の曲を収録されていたけど、シングルのA面になった曲はない。

 全て、芹澤氏プロデュースの曲なわけで・・・。それに反感を覚えてきてた時期らしいんだよね、このころ。

結局さ、この1年後に、藤井兄弟の意見で、一方的に芹澤氏との縁を切って、自作の「NANA」って曲を出すことになるんだけどさ。

 でも、「NANA」を境に、一気に売上げが下がったのも、また事実。

 その辺の不満、焦り、奢り・・・・etc etcもあり、最終的には収集が着かないところまでになって、今に至る・・・ってことらしいね。

 もちろん、ドラムのクロベェ氏の若くしての夭折・・・っていうこともあり、オリジナルメンバーでの再結成は永遠に不可能になってしまったわけなんだけど、あまりにもメンバー間の亀裂が大きいだけに、これは、今後ともありえないだろうね。

 あるとしたら、まずは、高杢氏と藤井兄弟との「和解」からだろうけど、今となっては、それも不可能だろうな。

 そんな、不協和音が聴こえ始めてきたのが、今回ひっぱってきた、「神様ヘルプ!」ってわけですわ。




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剣の舞 / 光GENJI

1988_11_剣の舞_光GENJI






今回の1曲セレクトは「剣の舞」光GENJIです。

まずはデータだっぺ

・タイトル    剣の舞
・アーティスト  光GENJI
・作詞      康珍化
・作曲      馬飼野康二
・編曲      椎名和夫
・リリース日   1988年10月10日
・発売元     キャニオン
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   60.8万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 1位
・ベストテンランクイン期間:1988年10月24日〜1989年1月23日付

 久々に光GENJIです。
 どうもね、長年、この「剣の舞」って言う曲が気になっていたのね。
 うん、クラシックのあの「剣の舞」と同タイトルっていうのもあるけど、この曲、CD、レコードの類で聴いた事がずっと無かったんですよ。

 まえにも書いたけど、この88年って、ワタシ浪人してたからさぁ、CDとかレコードとか、ほっとんど聴いて無かったし、テレビのウタバングミも「ベストテン」しか見てなかったから。

 うん、この当時の情報源は唯一「ベストテン」だけだったわけね。

 だから、何気にずっと素通りしちゃってたんだけどさ。

 で、先日、ラジオ聴いてたら、たまたまこの曲がかかったんだよね。

 最初は、「おー、剣の舞か なっつかしいね〜」とか、思いながら聴いてたんだけど、聴いてるうちに、ちと違和感が・・・・。

「ん、なんか違うぞ・・・・・・・」


・・・と・・・・。そう、この曲、テレビバージョンと、レコードでは、まるで曲構成が違うんだよね。

 で、ワタシは、レコードバージョンをそれまで聴いてなかったわけで、テレビで歌ってた曲の構成がそのままオリジナルだと思ってたから、違和感じたんですよ。

 でね、率直な感想。 

 レコードのバージョンは曲構成がつまんない。


 なんか、流れていっちゃう・・というか、盛り上がりに欠けるんだよなぁ。

 この曲は、やっぱテレビの曲構成あってこそだと思うんだよね。


 でもさ、冷静に考えてみると、これ、ジャニーズの戦略じゃねーかな。

 要するに、光GENJIってテレビあってこそ、テレビで歌ってこそだったんじゃないかってことですよ。
 だから、テレビで歌う事を前提に曲が構成されていたんぢゃないかってことですね。

 レコードはさ、添え物なんですよ。 うーん、一アイテムって感じですか。
 そそ、うちわとかステッカーと同じ類なんじゃないですかね、このヒトたちにとっては・・というか、ジャニーズサイドの見かたとしては。

 なんか、そんな感じを受けたなぁ。 そういえば、次の「地球をさがして」もレコードバージョンとテレビバージョンでは、曲構成が違うけど、やっぱり、レコードバージョンの曲構成はツマンナイだよね、これが。
 それを考えると確信犯的にそんな感じにしたんぢゃないかなぁ。

 テレビで歌う事を前提に・・・っていう証拠にさ、89年〜90年にかけて、この時代の代表的な歌番組って相次いで消えていったじゃん。
ベストテンしかり、夜ヒットしかり、トップテンしかり・・・・。
 それにしたがって、光GENJIって急激に失速してったもんね。パワーが。
 ようは、テレビで歌うことが前提なのに、その「場」がなくなっちゃったんじゃ、これはどうしようもないわな。


で、その「テレビ」が前提っていうのは、この曲が一番示しているんじゃないかなというわけですね。


 あの時代は、そういうことは考えなかったんだけどね。個人的には。いつまで続くんだ? この人気は・・としか考えなかったなぁ。
 
 この曲もかなり粘ってたしね、上位で。 考えてみれば、年末にかけて、テレでの露出が多かったからだろうなぁ。
 そういうところからも、光GENJIってテレビっていうメディアの「最後にして一番親和性があった」申し子だったんだよね。きっと。


えー、動画・・・。サイトに直リンクじゃないとはじかれちゃうんで、直リンク

https://www.youtube.com/watch?v=u040Hy_3HUs


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マラソン恋女 / 山下久美子

1982_10_マラソン恋女_山下久美子






今回の1曲セレクトは、「マラソン恋女」山下久美子です。

 まずはデータです。

・タイトル     マラソン恋女
・アーティスト   山下久美子
・作詞       康珍化
・作曲       大村憲二
・編曲       大村憲二
・リリース日    1982年10月1日
・発売元      コロムビア
・オリコン最高位  26位
・売上げ枚数    5.9万枚

 ここのところ、困った時の「1982年」頼みって感じで、1982年の曲を立て続けに書いてきている気がするんだけど・・・あせあせ
 今回の1曲セレクトは、スンマセン、完全に個人の好みです。

 山下久美子「マラソン恋女」

 「マラソンこいおんな」ぢゃないですぞ。これで「マラソンウーマン」って読ませるの。当時としてはオシャレ。

 この曲は、あの大ヒット曲「赤道小町ドキッ!」の次の曲になるんだけど、なぜか、初めて聴いた時から気に入っちゃったんだよね。

 むしろ、「赤道小町ドキッ!」より、最初聴いた時のインパクトは、こっちの方が強かったな。

 どちらも、はじめて聴いた時は、ラジオで聴いたんだけど・・・。

 今も覚えてるけど、「赤道小町ドキッ!」は、TBSラジオの「ザ・ヒットパレード毎日がベストテン」の「ザ・ベストテン」でいえば「スポットライト」みたいなコーナー。上昇注目曲なコーナーだったかな。

 正直言って、最初、「へんな曲」って思ったの「赤道小町」は。山下久美子っていうヒトもそれまで知らなかったし・・・。あのころだと、「アラジン」みたいな類のヒトか? ・・・って感じで・・・。

 でも、聴いてるウチに、なるほどね・・・って理解できた曲って感じ。


 それに対して、この「マラソン恋女」は、お馴染みの「全日本歌謡選抜」ですね。最初に聴いたのは。。うーん、奇しくもどっちもパーソナリティは、小川哲哉氏だ。

 いや、正直言って、この曲も率直な感想は、「へんな曲」だったの。
でも、「赤道小町」に比べたら、最初の嫌悪感はなかったんだよね。むしろ、「あ、また、聴きたいな」っていう感じだったかなぁ。

 なんつうんだろ? 爽快感? スピード感? 「マラソン」っていう具合だから、スピード感があるんだよね。

 時代を先取りしてたっていうか・・・。1982年当時。まだ、女子マラソンは、今ほどメジャーなスポーツぢゃなかったんだよね。
 オリンピックで初めて、女子マラソンがスタートしたのは、1984年のロスアンゼルスオリンピックからだ。

 そんな、当時、まだマイナーな競技だった、女子マラソン的な題材の曲だったっていうのも、新鮮だったし、それとやっぱし、曲だよね。メロディラインが不思議なんだよね。 こまぎれで・・・。これって、マラソンの息遣いを意識して?

 よく、マラソンの時の息遣いは「スースー ハーハー」にするとか言われませんでした? 学生時代のマラソン大会のとき。

 うん、いまは、この呼吸法は、「否定」されてるんだけどさ、あのとうじは、それがフツウとみなされてたんだよね。

 うん、メロディラインとリズム感が、「スースー ハーハー」っぽいんだよね。この曲

出だしの部分
♪と・ま・らないーよ は・しり・だしーた・恋は〜 ♪ の感じがさ。

 それと、サビでいきなり

♪いちにっ! マラソンウーマン ピカピーカさ! さんしっ! はじけるホディ 天まで はしれ! ♪

なんて、応援歌っぽくなったりもしてさ。

その辺の全体的な流れが面白かったな。

 まあ、ただ、一口でいって、「ウレセン」か? ・・・っていえば、必ずしも「ウレセン」な曲ではなかったことは確かだよね。

 でも、実験的な曲としては、充分、実験的だったと思うし。オリコン最高29位でも充分な結果だったんぢゃないかな。

 ちなみに、この曲の間奏のギターのリフ、とっても布袋っぽいんだけど、布袋氏が弾いてたのかなぁ。このころは既に布袋氏と付き合っていたよね? (85年結婚。のち95年離婚)

 いや、その辺のギターのリフも当時としては、斬新だったの。今から考えると、後の「BOOWY」を思い起こさせるような輪郭のサウンドだったもん。



 それよか、この曲のジャケ写、こんな感じだったの・・っていうの今日、初めてしったあせあせ

 ウチにも、もちろん音源あるんだけど、この曲は、むかーし、通販で買ったニューミュージックのオムニバスアルバムに収録されてたもんで、シングルのジャケ写までは知らなかったんだよね。


 バニーガールちゃんな山下久美子 当時23歳。もし、当時、同じくらいの年だったら、このジャケットだけで買ってたわウッシッシ、このレコードふらふら

 当時の学園祭の女王、「総立ち久美子」って言われてた山下久美子も、やっぱ、だてぢゃなかったんだね〜。




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天国にいちばん近い島 / 原田知世

1984_10_天国にいちばん近い島_原田知世






今回の1曲セレクトは、「天国にいちばん近い島」原田知世です。

まずはデータでーす。

・タイトル     天国にいちばん近い島
・アーティスト   原田知世
・作詞       康珍化
・作曲       林哲司
・編曲       萩田光雄
・リリース日    1984年10月10日
・発売元      CBSソニー
・オリコン最高位  1位
・売上げ枚数    27.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 5位
・ベストテンランクイン期間:1984年10月29日〜11月26日付
・タイアップ:映画「天国にいちばん近い島」主題歌

どうも、季節の変わり目っていうのが苦手なんだよね。いつも季節の変わり目になると決まって体調が悪くなるんだよな。
 やっと抜けてきたけど、先週はずっと風邪気味でノドがいがらっぽかったし、週末は腹壊したりしてね。

特に「秋」は、わたしにとってはどうも「鬼門」でして、どうも、情緒不安定になりがちなんですよねぇ。
 まあ、ワタシの場合は年がら年中、情緒不安定なのですが。。。(水爆)
 秋って言う季節は特にそうなんですよねぇ。
 
いつからなんだろ? ガキのころは、そんなことなかったんだけどね。

 考えてみれば、中学3年の頃からだと思うなぁ。矢鱈と将来の事を考え出した頃からだ。将来を考えるとトタンに不安になる。 それは、今でも変わりませんねぇ。
 まあ中3の秋ということで、目前に迫ってきた高校受験で尻に火が付いてきた頃でもありましたけどね。

 この「天国にいちばん近い島」がリリースされたころって、そんな兆候のいちばんハシリの頃でさ、どうも、この曲を聴くと、憂鬱なダルーイ気分になるんだよねぇ。
どうしても、31年前のあの感情が呼び起こされるからなんだろうねぇ。

音楽って本当に不思議だよね。曲を聴くだけで、あの時代にタイムトリップしてしまうっていうかさあ。
この曲を聴くと、そうだ、ストーブを焚き始めた頃だ・・・って、あの頃部屋に置いていた、石油ファンヒーターの燃える匂いが脳裏をかすめたり。。。 

 なんて、曲とはほとんど関係ない話をダラダラしてしまいましたが・・・


 実際の曲といえば、正直、それほど強烈なインパクトがあったわけじゃない。かといって、全くの駄作と言う訳でもない。
まあ、いつもの原田知世といえば、いつもの原田知世なんですが、そのまえの「愛情物語」とも「時をかける少女」ともちがうダルさなんですよねぇ。

 単純に、東芝EMIからCBDソニーに移ったって言うところの音色の差なのかなぁ・・?
 
 ダルイといっても、なんの「しん」も感じない、ダラーッしたダルサなんですよね。この感じ。

 それはそうと、この曲が原田知世、唯一のオリコン1位を獲得した曲なのですよね。

 え? 原田知世って1位取ってるの? って言われそうだけど、ちゃんと取っているだよね。
 ただ、すでにアーティストパワーしては、すでに峠を過ぎている頃で、これ以後は取っていない。

 まだ、「角川映画」華やかし頃の話ではあるけどね。

ちなみに、映画の方の監督は、あの大林宣彦氏。でも、大林氏のなかでは、それほど高い評価を得てる映画でもないですけどね。 このすぐ後に公開された尾道三部作の「さびしんぼう」のほうが全然良かったし。。。
原田知世と大林宣彦氏といえば、やっぱ「時をかける少女」なんだよなぁ。。。。




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もう逢えないかもしれない / 菊池桃子

1985_10_もう逢えないかもしれない_菊池桃子






今回の1曲セレクトは、「もう逢えないかもしれない」菊池桃子です。

まずはデータです。

・タイトル    もう逢えないかもしれない
・アーティスト  菊池桃子
・作詞      康珍化
・作曲      林哲司
・編曲      林哲司
・リリース日   1985年9月26日
・発売元     バップ
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   25.4万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 2位
・ベストテンランクイン期間:1985年10月7日〜11月11日付
・タイアップ:グリコ「ポッキー」CM曲

 かなり前に買った本の中に「音楽誌が書かないJポップ批評50」っていうムック本があるんだけど、その中にZARDは、90年代の菊池桃子 っていう内容のコラムが載ってて、思わず頷いてしまった。

 ウムウム・・・なるほど、言われて見ればその通りかもしれないな。

・・・なんて、気安く書くと、「どこが似てんだよ」なんて、ツッコミが入りそうだけどね。

菊池桃子は、アイドルじゃん。 ぢゃ〜、ZARDもアイドル?

っていう感じのツッコミがさ。

 
 いや、実は、むしろ菊池桃子がアイドル「らしく」ないんですよ。

どこが? どう見てもアイドルじゃん。。。


 うん、あくまでマネージメントコンセプトの面でですね。

 菊池桃子がレコードを出すにあたってのコンセプトって言うのが、「だれも彼女だとは気付かない」っていう前提があったのを、意外とだれも知らないだろうな。
(この辺は、林哲司著「歌謡曲」っていう本に詳しく出てるので、キニナル方が居りましたら、読んでみてください)

 もともと、菊池桃子は、トライアングルっていう事務所所属な訳で、つまりは、杉山清貴&オメガトライブなどの、音楽屋集団で、あくまでアイドルを扱う、いわいるゲーノー系プロダクションとは一線を隠すプロダクション所属だったわけだ。

 まあ、そういう関係で、デビュー曲から林哲司氏が曲を書いていたわけだけど、そのコンセプトもあくまで音楽的にシッカリしていること、「いかにもアイドル系」という、きゃぴきゃぴした曲は書かない(というよりも、林氏自身が、そういう曲は拒否してた)。

っていうシッカリとしたコンセプトがあったんだよね。

で、「だれも彼女とは気付かない」・・・っていうのは・・・。

 菊池桃子の1stアルバムのジャケットを覚えてるかな?

 ↓ アルバム「オーシャンサイド」

フォト 


このジャケ写みて、だれも菊池桃子だとは気付かないよね。

 実は、菊池桃子の本音のコンセプトは、このアルバムのジャケットに集約されているんだよね。

 ターゲットを中高生だけに縛らない。大学生が小脇に抱えてても恥ずかしくないアルバム。
 普通にカーステレオで聴けるサウンド作り。。。

っていうのが、実際のコンセプトにはあったんだよね。

 ちなみに、このアルバム、最高位1位 売上げ枚数21.4万枚(LPのみ)なんていう、アイドルのファーストアルバムとしては、異例のハイレベルの売上げを見せる。(ついでに書くと、このリリース時点のシングルよりも売れた)

 つまりぃ、これは、メインターゲットの中高生以外のユーザーも購入した・・・ってことで、作り手の狙いと、ドンピシャリだったわけね。



 実は、これと同じ時期、ZARDをプロデュースすることになる、ビーイング総裁、長戸大幸氏も全く同じコンセプトを考えていたんだよね。

 いわいるアイドルソングぢゃなくて、本格的なサウンドを一流のミュージシャンを揃えて歌うアイドル

・・・つまりは、旧来の「アイドル」っていうフォーマットをぶっこわす。。。っていうアイデア。

 ただ、時期が悪かった。これは、80年初頭に三原順子で実験をしたけど、あまり成功したとはいえなかった。

 まだ、アイドルっていうフォーマットが成熟してなかったからだろうね。

 そういう時期に、似たコンセプトを持った菊池桃子が出てきた。

 長戸氏は手が出せなかった訳ですよ。同じコンセプトのアイドルを出しても、それはコピーとしか見られない訳で。

 だから、待ったわけだよね。時期を・・・。

 ・・・で、満を持したのがZARDだったって訳ですわ。 ただ、ちがうのは、あくまでZARDは、アイドルではないこと。それと、詞を自分で書くことだよね。いわいるソングライターだってこと。

 どちらかというと、菊池桃子が後々、行ったプロジェクト、「ラ・ムー」の延長がZARDって言った方が近いかもしれない。


 でも、いずれにしても、菊池桃子のコンセプトを下敷きにしたことは間違いない。


 でぇ〜、やっと、今回引っ張ってきた「もう逢えないかもしれない」だけど・・・・

 正直、当時、この曲、あんまり好きじゃなかったんだ。 なんか、地味な感じしません? たしかに「ポッキー」のCMで、当時、随分流れてたけどさ。

 84年当時は新鮮な感じがした、ヤマハDX7サウンドも、85年後半になると、ちょっと時代と違くね? っていう感じがしてきたんですよね。

 それを象徴するかのように、この曲のすぐ後、杉山清貴&オメガトライブは、シングル「ガラスのPARM TREE」をリリースして、解散してしまったわけで。。。。

 つまりは、サウンドプロデューサーだった林哲司氏のサウンドが時代と折り合わなくなってきたような感じがしてきたんだよね。

 時代は、本格サウンド志向ではなく、ヒニクにも、ますます「アイドルアイドル」した曲、プロよりもシロートっぽさを求められてきちゃったわけでさ。

 しかも、その仕掛け人が、菊池桃子のプロデューサーの一人でもあった、秋元康氏によって・・・っていのうは、ほんとにヒニクだよなぁ。

 たださ、当時、地味っぽい曲だったよなぁ・・・って感じてたのを、菊池桃子とZARDの関係を知った上で、改めて聴くと、なるほどなぁ・・・なんて、新鮮に聴こえたりして。。。。




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泣いてみりゃいいじゃん / 近藤真彦

1987_09_泣いてみりゃいいじゃん_近藤真彦







今回の1曲セレクトは、「泣いてみりゃいいじゃん」近藤真彦です。

 まずはデータです。

・タイトル   泣いてみりゃいいじゃん
・アーティスト 近藤真彦
・作詞     康珍化
・作曲     筒美京平
・編曲     馬飼野康二
・リリース日  1987年9月18日
・発売元    CBSソニー
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数  14.6万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 3位
・ベストテンランクイン期間:1987年10月5日〜11月2日付

 人生楽ありゃ苦もあるさ〜♪ という歌もあるとおり、人生のドツボの時期にさしかかっている筆者、かじやんです。。。。
 振り返ってみれば、いままでもなんども人生のドツボな時期があったけど、おそらく、これまで生きてきた中で一番の「ドツボ」な時期だと思いますわ。。。。 
 考えてみれば、今年、元日に成田山に初詣に行ったとき、境内の裏の道で派手に転んだんだよな。。。どうもあれがケチの付け始めだったような気がする。
 
あー、こんなことを書いててもラチがあきませんよね。

・・・ということで、近藤真彦の「泣いてみりゃいいじゃん」ですが、振り返ってみれば、このころもキツかったな、精神的に。。
 ちょうど、大学受験の受験生だったからさ。勉強は全くしてなかったんで、きっと浪人だろうなと思いつつも、いっちょ前に胃が痛んでた時期だ。

 まあ、今のキツさに比べれば、このときのキツさなんて、ヘの河童だけどさ。うん、大学受験に1年や2年失敗したからって死にやしないですよ。現に、2回失敗したワタシが今も生きてるんだから。。。


 でもね、この曲がヒットしてたころは、マジで暗くなってたな。
この曲って、なんか、そんな緊張を煽るような感じじゃん。
まあ、横浜と神戸っていう2大港町を舞台にした作品で、イメージからすれば、とってもそれにあっているとも思う。うん、きちんとそれなりに絵が浮かんでくるしね。赤レンガ倉庫とか本牧埠頭あたりの景色がさ。

 それにしてもた、やっぱ全体的にみると重いんだよね、曲調が。それが余計、聴いてて気分を重くする・・というか。。

 考えてみれば、この時期ってさ、この曲にしろ、中森明菜の「難破船」にしろ、重い曲調が多かったんだよ。だから、全体的に暗ーくて重ーいイメージがあるのよ。

 こんなに重い筒美京平氏の曲も珍しいような気もするけどさ。Aメロの16分音符で、まくし立てるようなメロディは、ジュディオングの「魅せられて」あたりから「セルフ引用」してきましたかねぇ。

 ま、いずれにしてもマッチとしては、ちょっと珍しい曲調だったよな。全体的には古臭い印象がありながらも、それが逆に新鮮にも感じたりしたんだけど。。。

そそそ、少し前に書いたけど、この曲、オリコンで1位取ってたんだけど、その割にはCD化されるのが遅くてさ、
ずっとアナログ音源しかない曲として有名だったんだよね。
ま、今はCD化されているようだけど。。。だから、ワタシのところにある音源もシングルレコードから録音したものだもんねぇ。




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桃色吐息 / 高橋真梨子

1984_09_桃色吐息_高橋真梨子






今回の1曲セレクトは、「桃色吐息」高橋真梨子です。

 まずはデータです。

・タイトル    桃色吐息
・アーティスト  高橋真梨子
・作詞      康珍化
・作曲      佐藤隆
・編曲      奥慶一
・リリース日   1984年5月21日
・発売元     ビクター
・オリコン最高位 4位
・売上げ枚数   36.8万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 5位
・ベストテンランクイン期間:1984年8月13日〜9月24日付
・タイアップ:三貴「カメリアダイアモンド」CM曲


 今回はマクラなしで、いきなり本題に入っちゃいますかね。

 高橋真梨子の「桃色吐息」。

 大人の曲だったよね。 ヒットは、1984年の今ごろ。1984年っ言ったら、チェッカーズと中森明菜の全盛期よ。まあ、つまりは、「アイドル」が主流だったわけよ。

 まあ、今ごろ書かんでも、よくお分かりの方が多いと思いますが・・ふらふら

 そこに来て、いきなり「オトナ」の曲が上位に来たもんなぁ。

 うん、あの当時は、まだ「曲の力」でヒットする曲もあったんだよね。だから、こういうオトナの曲が、ヒット街道に上って来るチャンスもあった。

 84年って、アイドル主流といっても、やや流動的で、新たな勢力が出てきたりしたりした、安定期というよりは、まだまだ時代が動いてた時期だったからさ、だから、曲が良くて、多くの人たちに支持されれば、ヒットするっていう地盤があったのよ。
 まだ、かろうじてウタバングミを家族で見る習慣も残ってたってのもあるし、だから、コドモでも、こういう大人の曲も普通に聴いてたってところもあるしなぁ。

 個人的には・・・うーん、どうだったんだろう? うーん、普通に聴いてたってのは確かにある。
 ただ、すすんでは聴いてなかったかなぁ。。。ベストテンに入ってたから聴いてた・・・って感じだったかなぁ。

 あのね、正直いうと、まだ、このテのオトナの曲にピンと来てなかったって言うのもある。

 もちろん、今では、等身大よ。 高橋真梨子、当時35歳よ。

 ・・となると、やっぱ、今の自分の年齢的にも等身大・・・・というか、いつの間にか随分年下の年齢なんだよね。

 いやね、今も、こーいう、等身大の「オトナ」のポップスが、出てこないかな・・・と期待してるんだけどねぇ。。なかなかねぇ。・・というか年々難しくなってきているよな。

 当時、ピンと来なかったのも、この曲、難しいんだよね。曲自体が・・。だから、なかなか咀嚼できなかった・・っていうのもあるんだろうな。

 作曲は、佐藤隆氏。当時、自分の曲もヒットさせてたソングライターですわ。
 このヒトが、また、やたらと、難解な曲が得意だったからなぁ。

 まあ、基本のところは、スパニッシュ系なんだろうな。メロディライン的には。 この曲もそんな匂いがするし。

 まず、そこからして、ちょっとコドモでは解釈できないのよ。

 夜の匂い、お酒の匂い、タバコの匂いが・・・漂ってくるでしょ、艶めかしい大人の匂いが。

 そういうシチュエーションを知らないコドモには、なかなか理解しろっていっても、難しいよなぁ。


 ただ、今、改めて聴くと、サウンドし、いかにも84年って感じだよね。ギターの音色にしても、安全地帯っぽくて、あの時代以外は考えにくいような感じですよ。
 そういう意味では、どんぴしゃのタイミングだったんだろうな。
 いや、逆に考えると、そういう作りをしたのかも知れないけど・・。

 ところで、この曲は、「カメリアダイアモンド」のCM曲だったんだってねぇ・・。
 うーむ、覚えてないなぁ・・・。

 「カメリアダイヤモンド」のCM曲って、80年代の終盤から90年代の前半にかけては、やたらと流れてたけどね。特に深夜番組帯では。
 基本、深夜までテレビみてた、大学生の頃は、まあ、耳にタコが出来るくらい見たけどねぇ。。

 でも、まだ、このころは深夜番組も見てなかったしなぁ・・、だから、CMで流れてた頃とは、全然覚えてない。

 曲自体、「ベストテン入り」してきてから、初めて聴いた・・・のかなぁ?
 うーん、多分、「全日本歌謡選抜」が最初だったとは思うけど・・。




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サマーサスピション / 杉山清貴&オメガトライブ

1983_09_サマーサスピション_杉山清貴&オメガトライブ






今回の1曲セレクトは、「サマーサスピション」杉山清貴&オメガトライブです。

まずはデータでーす。

・タイトル    サマーサスピション
・アーティスト  杉山清貴&オメガトライブ
・作詞      康珍化
・作曲      林哲司
・編曲      林哲司
・リリース日   1983年4月21日
・発売元     バップ
・オリコン最高位 9位
・THE HITCHART HOT30最高位 11位

 サウンドの変化が目に見えて分かる時ってあるよね。まあ、それが時代の境目⇒変化っていうもんなんだと思うんだけど、個人的には1983年って、そんな変化の時代だったんぢゃないかなぁって思いますね。
 今、あの時代の曲を順を追って聴いていくと、明らかに1982年と1983年のサウンドには変化があることに気がつくんですよね。
 ま、それは、ヒット曲での変化っていうことで、もしかすると、水面下ではすでに進んでいたのかもしれないけど・・・。

 1982年のサウンドに比べると、1983年のサウンドは格段に垢抜けている気がするんだよね。

 杉山清貴&オメガトライブ っていうグループは、まさにそんな中デビューしたんだけど、明らかにそれ以前のグループとは違っていたよなぁ。
 何が違うかといえば、そのサウンドですよね。音がダサくない。
 ホントに垢抜けたっていうか、洋楽風というか、まるでクリスタルガラスでてきているかのような透明感溢れるサウンドは個人的には最初から好きだったなぁ。

 多分、リリース直後の「アップルシティ500」(TBS系)で聴いたんだと思う。
 あ、新しい人たちが出てきた・・っていう感じがとっても新鮮だったんだよねぇ。

 よくさニューミュージックに対抗して、シティポップスっていう言い方をされたけど、このヒト達はその旗手って言う感じでしたもんね。
  それまでのニューミュージックは、たしかに当初は、同じように都会的な輝きと匂いを漂わせていたけど、80年代に入るとどちらかといえば、ダサイ音楽になりつつあったりしてね。
 それを打ち破ったのが、このヒトたちぢゃないかなぁ。
80年代中盤に向けて、新たなジャンルを確立したっていうことはすごいことだと思いますよ。

ちなみに、データにこの曲のリリース日は、1983年4月21日と書いといて、なんで、今頃書くねん? ・・・と思いの方もいらっしゃるかもしれないけど、この曲、めちゃくちゃ、ゆっくりとランクアップしてきたんですよね。

オリコンチャートを参考にチャートアクションを追いかけていくと、リリースからベスト100にランクインするまで、約2カ月、 1983年5月23日付 100位初登場。 初登場100位で、その後、ベストテンまで地道にランクアップしてきた曲って、意外と少ないんだけどね。
 その後、ジワジワジワジワ、ランクアップを繰り返し、初登場から13週後の1983年8月22日付でベストテン入り10位にたどり着いている。

 いや、でもね、1983年って意外と、同じようにジワジワジワ、ランクアップ型の曲って多かったんですよ。
それも、ミューミュージック系に。
 例えば、H2Oの「想い出がいっぱい」は、リリース日が1983年3月25日。 4月18日付に100位初登場。
(奇しくも、この曲もベスト100初登場時は、100位ギリギリだったんだよね)。そこから17週かかって、1983年8月15日付で、やっとベストテンまでたどり着いている。
 
 上田正樹の「悲しい色やね」なんては、リリース日が1982年10月21日。そこからベスト100にランクインするまで半年。1983年4月4日付 99位初登場。そこから12週後の1983年6月27日付にベストテンまでたどり着いてたりする。

 こんな感じで、ジワリ苦労した末、ベストテン入りさせた曲が多いのも、1983年の特徴なんだよね。

ただ、逆に言えば、それだけ「新しい」サムシングがあったからなんだろうね。人間、基本は保守的だからさあ、新しい物を認めるまでっていうのは、時間がかかるからなぁ。
 でも、最初にも書いたように、その結果、前年の1982年と比べて、新しいサウンドが広まったっていうのは明らかですから。



 
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君だけに / 少年隊

1987_08_君だけに_少年隊






今回の1曲セレクトは、「君だけに」少年隊です。

 まずはデータです。

・タイトル    君だけに
・アーティスト  少年隊
・作詞      康珍化
・作曲      筒美京平
・編曲      馬飼野康二
・リリース日   1987年6月24日
・発売元     ワーナーパイオニア
・オリコン最高位 1位
・売上げ枚数   28.8万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 1位
・ベストテンランクイン期間:1987年7月6日〜9月21日付

 もう終わってからだいぶ経っちゃっさたけど、NHK-BS2で月1で放送されていた「昭和日めくりタイムトラベル」っていう番組が結構気に入ってるのね。
 3時間で昭和のある年を日めくりカレンダーのように振り返るっていう番組なんだけど。
 さっき、たまたま録画してた昭和62年を見てたんだよな。昭和62年っていったら、ワタシャ18歳。高校3年生。

 さすがにこのころだと、懐かしい! っていう感じではないデスネェ。

 でもさ考えてみたら、もうあれから2.5倍も人生生きてきちゃったんだけどねぇ。。。

 ・・・・で、最後にその年にヒットした曲ベストテンを振り返るんだけど、なぜか、少年隊の「君だけに」がやけに引っかかっちゃいまして・・・・。

 今回の1曲セレクトに引っ張ってきて見ました。

 どうも、この曲の印象って、夏の終わりの・・・っていうイメージが強いんだよね。

 だから、ヒットしてたのも夏の終わりだったろう・・・っていうイメージがずっとあったんだけど、実際、リリースは、この年の6月24日だったわけで、いまの時期はすでにヒット街道のど真ん中にいたんだよね。

 でも、この曲はロングヒットだったからねぇ。結局2ヶ月以上ベストテン内にロングラン。
比較的ベストテン内キープが長かった少年隊の中でも、この曲はロングヒットだったよなぁ。

 だから、未だに印象として「夏の終わりの・・・」っていう印象が強いだろうなぁ。

 まあ、曲調からして少年隊初のバラードだったりして、真夏の太陽の下で・・・っていうよりは、ちょっと涼風立ち込める晩夏の夕陽の下で・・・っていうイメージな曲だったからなぁ。

 うーん、まあ、今考えてみれば、初夏にリリースしたのは作戦だったのかもしれないけどね。
 この手の曲は、アップテンポなダンサブルな曲よりもロングヒットする確率が高いからね。
 初夏にリリースして、夏の終わりにもう一度盛り上げれば、ロングヒットするっていう計算の下で・・・・って考えるのは、うーん、ちょっと考えすぎですかねぇ。

 でも、実際カッコよかったしね。  前年の「バラードのように眠れ」から始まった、ユートビート&ブラコン路線をいったん離れてのバラード。
 少年隊得意のブラコンのビートナンバーによる踊りもカッコいいけど、こういう意表をつくようなバラードもカッコよかったんだよね。

 下敷きとなった曲は、昨日の「LOVE LOVE LOVE」でも書いたけど、ビージーズの「若葉の頃」あたりっていうのが、通例ですな。

 ただ、ちょっとこの曲のイメージが付きすぎたのか、この先ちょっと苦労してたけどな、少年隊って。


 ・・・そうだ、思い出した、この曲は、高校最後の吹奏楽コンクールのお疲れさん会の最後に、人気のいなくなった夕陽の(内房)岩井海岸で、みんなで(流木の)丸太の上で歌ったんだ・・・たしか。
1987年8月19日。ワタシの18歳の誕生日の日だ。 楽しかったけど、将来を考えると不安でいっぱいでもあった18歳の誕生日。


 あの時の情景が未だに、この曲にはこびり付いてるんだよなぁ。。。だから、夏の終わりの・・・っていうイメージなんだよ、私の中では。。。


 指パッチン・・・はできなかったなぁ。練習したんだけどね。。。。




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悲しい色やね / 上田正樹

1983_06_悲しい色やね_上田正樹






今回の1曲セレクトは、「悲しい色やね」上田正樹です。

 まずはデータでっす。

・タイトル     悲しい色やね
・アーティスト   上田正樹
・作詞       康珍化
・作曲       林哲司
・編曲       星勝
・リリース日    1982年10月25日
・発売元      CBSソニー
・オリコン最高位  5位
・売上げ枚数    34.8万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 5位
・ベストテンランクイン期間:1983年6月27日〜8月15日付

 少し前に、村下孝蔵の「初恋」を紹介した時、1983年は、作ったヒトとは裏腹に、ヒットしたが為に、あとあと苦しむことになったヒトがまだいるんだよね・・・って感じで書いたんだけど、実はこの曲なんだよね。

 まあ、その辺の事情、分かるヒトには分かるんだけど、中にはヒット曲云々とは別の次元でアーティストを続けているヒトもいっぱいいるってわけでね。

 この曲の場合は、歌い手の上田正樹もそうだけど、作り手の林哲司氏にとっても、実際の想いとはかなり違うところでヒットしてしまった・・・というところもあり、二重の「うらはら」な思いの上に「ヒットしてしまった」曲なんですよ。

 そもそも歌い手の上田正樹は、ブルースシンガー。かなり土臭い、クセのある曲を、上田「らしさ」で歌い続けてきたシンガーなわけで・・・。

 それは自他共に認めていたわけだけど、作り手の林氏としては、それを一度崩して、ソフィケートされた壮大なバラードを上田に歌わせてみようという心積もりで、この曲を作ったようなんだよね。
 そう、まったく、「土臭いブルース」を作るつもりはなく、しかもアルバムの中の1曲に収録されれば・・という軽い気持ちでこの曲を作ったというんですよ。

 で、いざ、出来上がってきた作品を聴いて、ガクゼン。。
♪泣いたらアカン 泣いたら〜。。。♪ などなど、わけの分からない「大阪弁」の詞が乗っかってる。
 しかも、自分の気持ちとは裏腹に、バラードではなく、完全なブルースになってしまってる。。。。

 どうやら、これは、レコーディングディレクターの案でそうなったようなんだけど、聴いたとたん、「この曲は捨てた」という気持ちになったらしいね。

なにせ、自分で描いてた世界とは全然違う世界・・・いや、絶対これだけはやりたくないっていう世界だったからという思いが強かったからなんですよね。

 その後、アルバムの1曲に収まれば・・という思いで作ったこの曲が「シングル」に「格上げ」され、1982年10月25日リリース。

 BUT、最初は全く反応がなかったんですよ。これは、ワタシもはっきり覚えてるけど、当時、まだ、リリースされたばかりの頃、ラジオでかかってたのを覚えてる。
 
 あー、売れないだろうな〜〜。とは、当時13歳のワタシも正直思いましたもんね。
 まずもって、なんか「へんなうた」っていう印象になかったんですよね〜。

だから、林氏は「それ見たことか」・・・と腹のそこでは思っていたらしい。

 で、ワタシも暫く、この曲、すっかり忘れてたんだけど、年が明けた1983年の初夏のある日、、突然、風向きが変わったんだよね〜。この曲に対しての。

 大阪を中心に有線で爆発的な支持が集まりだしたんですよ。まあ、♪ホーミタイト 大阪ベイブルース〜 ♪ってあるように、内容はもろ「大阪」だからね。
 ご当地ソングではないけど大阪の唄には間違いないですからね。 それと、ま、いまでもそうなんだけど、昔から大阪の有線から火がついた曲はヒットするっていうジンクスがあるからねぇ、この曲なんかはもろそのパターンに当てはまるんですわ。

 その結果、リリースから8ヵ月後の1983年6月にベストテン入り。 なんとも息が長い曲になっもんだわ。

 しかし、その瞬間に、リリース時の林氏の「それみたことか」という神話は崩れたわけですわね。

 まあ、メジャーの世界ではこういうことはおおにしてあるって事かなぁ。
 作曲家にとって、まず、自分のイメージと全く同じでリリースされる曲ってどのくらいあるんだろうねぇ。

 でも、まあ、林氏の場合は、自分のイメージとは違うといっても、結果的には売れたんだから、結果オーライというところだけど、逆に苦しんだのは、上田正樹の方だったようだね。

 このヒトも村下孝蔵と同様に、別にヒットというものに特段興味があったわけではない。現に、アーティストとしてのキャリアは、この時点で10年以上あったにもかかわらず、オリコンにランクされたのは、この曲が初めてなんですよ。
 それが全てを物語っているところもあるんだけど、この曲が売れたことで、その後、「悲しい色やね」の上田正樹 という「レッテル」を張られるのがいやでたまらなかったらしい。

 兎に角、ひとつのカラーで見られるのがいやなんだよね

 アーティストにとって、ヒットを出すことが幸せなのか、不幸なのかっていうのは、ほんとに難しいところなんだよね。

 本気でヒットを狙っているヒトもいれば、ほどほどでいいと思っているヒトもいるわけで・・・・。

 まあ、その辺はレコード会社側としては難しいところだとは思うんだけどさ。
 少なくとも、みんなおんなじ考えでウタ歌いをしているんではないってことなんだよね。





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