1991_09_どんなときも_槇原敬之



今回の1曲セレクトは、「どんなときも。」槇原敬之です。

 まずはデータです。

・タイトル     どんなときも。
・アーティスト   槇原敬之
・作詞       槇原敬之
・作曲       槇原敬之
・編曲       槇原敬之
・リリース日    1991年6月10日
・発売元      ワーナー
・オリコン最高位  1位
・売上げ枚数    170.0万枚
・THE HITCHART HOT30最高位 2位
・ベストテンランクイン期間:1991年7月21日〜11月4日付
・タイアップ:映画「就職戦線異状なし」主題歌

 ここ暫く90年代の曲を書く頻度が少なくなっているかなぁ。 まあ、個人的に思い入れのある曲が80年代に多いんで、必然的に80年の曲が多くなっちゃっているってのは拭えないんだけど、ここいらで90年代のビッグヒットを持ってきましょうかね。

 どんなときも。  /槇原敬之

 このヒトの出現は、ほんと突然でしたね。何の前触れもなく、いつの間にか現れ、いつの間にか、この曲「どんなときも。」が大ヒットしてた・・・っていう印象が強い。

 もちろん、音楽業界内では、早くから槇原の才能を認め、ブレイクを予期してたヒトはたくさんいたんだけど、当時、完全な、ユーザー側でしかなかったワタシたちにとっては、ほんとに、いつの間にか現れた才能って感じでしたね。

 個人的にも、最初聴いた時から、これは「すごい」と思ったのを覚えてるなぁ。
 あのさ、「売れる」って確信に近い予感・・・勘・・・みたいなもんかなぁ。

 同じ感覚は、あみん「待つわ」の時もそうだったし、後年、宇多田ヒカルの「Automatic」の時もそうだった。

 言葉ではなんて表したらいいのかよくわかんないんだけど、一瞬、頭の中を走る電流のようなゾクゾク感っていうのかな・・・うん、悪い意味でなくて、いい意味でのゾクゾク感。

 それが、この「どんなときも。」を初めて聴いた時の感想だなぁ。

 大衆心をくすぐるような完璧なメロディライン。一見シロートっぽいんだけど独特の甘い声。

 いったいどんなヒトなんだろう? ・・・っていうのが当時、まず考えたことだったな。

 兎に角、作詞、作曲、アレンジ うた・・・全て自分ひとりでやってしまう上に、こんなメロディアスな曲を書いてしまう、トライアスロン的にヒット曲を生み出す才能は、大したものだよね。正直、槇原と同い年のワタシは、昭和44年生まれとしてリスペクトを感じたりするんだよな。

 蛇足だけど、槇原と同じ大阪出身で、同じ昭和44年生まれなのが、橋下徹氏なんだけど、彼にも、違う意味でリスペクトを感じるんだけどさ。。。


 当時、槇原のCDジャケットは、この曲のようにイラストが使われていて、このヒトの顔を出してない。

 だから、初めて、このヒトの顔をTVで拝んだときは、正直、ビックリした。
 まあ、多くのヒトはそうだったろうけど、あの甘い声からは想像してなかった、「普通」のにいちゃんだったから・・・。

 天は二物を与える

って言葉があるけど、なかなか、そうそうはうまく行かないものだよな

・・・・ってその時思ったねぇ。

 まあ、それは、出してのワーナー側も重々承知だったんだろうね。だから、ワザワザ、ジャケットにイラストを使ってたわけだ。

 それと、槇原が幸運だったのは、この1991年は、「応援ソング」が一つのヒットパターンになってたこと。

 なにせ、KANの「愛は勝つ」という、応援ソングで年が明け、大事MANブラザーズバンドの「それが大事」という、究極の応援ソングでくれていった1991年という時代だったから・・・。

 そのちょうど中間期にあたるのが、この「どんなときも。」だったわけだ。


 それと、もう一つ幸運だったのは、ヒット曲のメロディ、リズムパターンがナチュラルだったこと。

 これは、よく、当時の世相から、カラオケブームで、カラオケで歌いやすいように作られていたから・・・という意味も含まれているけど、90年代の中では、唯一「空白」の時代だったということも言えるんだよね、1991年って。

 1989年ごろから始まったバンドブームは、1990年「イカ天」の終了とともに、まるで潮が引くようにさーっと廃れていった。

でも、1992年から攻勢が始まるビーイング系はまだ、大人しかった(B・Bクイーンズ、MI-KEを使ってしきりに実験はしていたが)

・・・という時代の空白域。それが1991年。

 個人的にはそんな印象もあるんだよね。

 時代がナチュラルだったからこそ、KANの素朴な応援ソングがヒットし、CHAGE&ASKAの「SAY YES」やASKAの「はじまりはいつも雨」のようなメロディアスな曲が流行ったんじゃないかな。

 しかも、流行がいろいろと平行していなかった・・・・。

 上記のようにイカ天寄りのロックバンドは弱体化し、アイドルは完全に、ニッチな世界の「オタク」の物になった。

 つまり、大衆はナチュラルだけを追いかけていたんだよね。
だから、そういう傾向の曲は大ヒットをし、プラス、巨大な浮動票はロングヒットを多く生んだ・・・。

 1991年2月、バブル突然の崩壊。。

 そんな世相が、応援ソングを支持し、目を覚ました多くのヒトたちが、それまでのバカ騒ぎを反省し、より自然体を求め始めた時代だったからかもしれない。

 歌は世につれ、世は歌につれ

って言葉があるけど、それが当てはまった最後の年。。それが1991年だったのかもな。

 そういう、時代に、まさにグッドタイミングで現れたのが槙原敬之だったんだろう。


 ただ、世の中はバブルが弾けたけど、この年のメガヒット続出のおかげで、逆に音楽界は、空前のバブルが始まった。
遅れて始まったバブル。それが音楽界だったんだよね。

 その影響で、1991年の暮れから、新たなムーブメントが現れ始め、多様化の時代の芽が出始める。
その芽が大きくなってくるのが翌年1992年だね。

 
ところで、チャートマニア的にみると、この曲は、兎に角「粘り」な曲だったよねぇ
オリコンチャートでは、1週、1位を獲得した後、7週連続2位。 1週おいてまたまた、3週連続2位。
計10週も2位を獲得なんて、凄いチャートアクション。
 これだけ2位が続いたんで、最高位は2位だろ・・・なんて錯覚しちゃったりするんだけど、上記のように1週だけ1位取ってたりするんで、りっぱな1位獲得曲ではあるんだよね。
 ちなみに7週連続2位の時の1位は、ずっとチャゲアスの「SAY YES」なんだけどさ。。。 なにせ、この曲13週連続1位なんて記録を作っちまったからな。
 つまり「どんなときも。」がずっと2位だった間7週連続で、チャート上、1位 2位はずっと不動だったと・・・今じゃ、逆立ちしても絶対にあり得ないチャートアクションだったよな。 これこそがザ・ヒットチャート。 だれが、この一角を崩すかってところが見物だったわけよ。

ちなみにちなみに、もしかして、これって連続2位のオリコン記録? と、お思いの御仁。上には上が居るんだよね。
 ちあきなおみ「喝采」が1972年11月20日〜1973年2月5日付まで11週連続2位。 いや、1973年1月8日付は2週合算集計なので、正確には12週連続2位・・・なんていうとんでもない記録を打ち立ててたりする。
 まあ、この時の1位が、件のぴんからトリオ「女のみち」で、これが16週連続1位なんてとんでもない記録を立てちゃってたからなぁ。
 
ヒットチャートの世界は奥深いわけなんだよね。 また、そういう記録が出るような時代になってほしいもんだけどねぇ。





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